2016年12月30日金曜日

死刑囚大森勝久さんのブログにご注目下さい!

死刑囚大森勝久さんのブログを御注目ください。次です。http://ameblo.jp/omorikatsuhisa/entry-12232421131.html


大森さんの死刑判決は、十分な証拠がないのに出されているように思えてなりません。真犯人が別にいるに違いないのです。

私は大森勝久さんの御意見に全て賛成するものではありませんが、左翼から日本国家を守る保守に転換された大森さんを尊敬しています。

私見では、大森さんの基本的な主張は法の支配を貫徹させるべきである、ということです。ロシアの危険性を大森さんは強く主張されています。

私は十数年前より、大森さんと私信をやりとりしています。主張は強烈ですが、穏やかな方です。皆様の御注目を訴えます。




2016年12月26日月曜日

政府は対北朝鮮ラジオ放送で金日成、金正日を批判するべきだ!産経新聞12月20日記事より思う。

「政府が、北朝鮮にいる日本人拉致被害者向けのラジオについて、新たに米国政府系放送「ボイス・オブ・アメリカ(VOA)」「自由アジア放送(RFA)」と連携して放送を始める方針であることが19日、分かった」(産経新聞12月20日記事より)


この記事が事実なら、一歩前進です。

本ブログでは繰り返し、日本政府が対北朝鮮ラジオ放送で金日成、金正日を批判するべきと主張してきました。

二年前の2月24日には「日本政府は対北ラジオ放送などで北朝鮮の国家安全保衛部と朝鮮人民軍兵士に思想攻撃を加えるべきだ」と訴えました。

非力ながら、私は何人かの国会議員の方や、政府の担当部署にも資料を添えてこれを訴えてきました。多少は何か考えて下さったのでしょうか。

産経新聞記事によれば、政府は今後、両放送局と放送内容や頻度などを協議し、来年度から本格的に放送を始めたい考えです。

改めて訴えます。

対北朝鮮政策の基本を「思想攻撃と圧力」に変更すべきだ


政府は対北朝鮮ラジオ放送を、北朝鮮に拉致されている日本人を救出するために実行すべきなのです。

北朝鮮に拉致されている日本人がラジオ放送を聞くことができればそれでよいはずがない。

日本政府の対北朝鮮政策の基本は「対話と圧力」ですが、普通の意味での「対話」などテロ国家北朝鮮には一切通じません。

対北朝鮮政策の基本を「思想攻撃と圧力」に変更すべきなのです。奇妙ですが、「思想攻撃」により北朝鮮との「対話」が可能になるのです。

共産主義者には、思想攻撃が対話の糸口になるのです。黄長ヨップ氏のような人物が、朝鮮労働党内部に存在しているはずです。

日本政府は北朝鮮の「最高尊厳」、金日成と金正日を批判するべきだ


被拉致日本人を救出するためには、北朝鮮の「最高尊厳」とやらである金日成、金正日を徹底批判するべきです。

金正恩による「唯一領導体系の確立」とやらを日本政府が妨害すれば、金正恩は激怒するでしょうが、内心では震え上がるでしょう。

私は次の二点を対北朝鮮ラジオ放送、海外衛星放送で暴露することを訴えたい。

(その1)金日成が中国共産党の一員として、山賊行為を行ったから日本軍に討伐され、ソ連に逃げてハバロフスク近郊で昭和20年8月15日を迎えたこと。

(その2)金正日の華麗な女性関係と奢侈生活を、「金正日の料理人」藤本健二氏の著作などに依拠して説明する。「苦難の行軍」期に金正日は「招待所」で贅沢三昧をしていた。

日本政府が金日成、金正日を直接批判し始めれば、北朝鮮当局は強烈に反応するでしょう。とんでもない脅迫を公の文献でも、裏の経路からもしてくるでしょう。

そのとき日本政府は、「金正恩よ、放送をやめてほしければ横田めぐみさん、有本恵子さん、増元るみ子さんらを直ちに返せ」と対北朝鮮ラジオ放送で良い。

金正恩、金正恩と放送で気軽に呼び捨てにすることも大事です。

勿論、日米軍事同盟の抜本的強化と北朝鮮を直接攻撃できる巡航ミサイルなどの大量保有も必要です。

対北朝鮮ラジオ放送開始時の音楽を韓国の人気歌手WAXに依頼するべきだ


対北朝鮮ラジオ放送開始時のテーマ音楽を、例えば韓国の実力派歌手WAXに依頼するべきです。北朝鮮の人々は、外部世界の情報、特に韓国の情報を何とかして入手しようとしています。

韓国の人気歌手の歌を対北朝鮮ラジオ放送で徹底的に流せば、北朝鮮国内で噂になり、徐々に知られていくはずです。

上述の内容の対北朝鮮ラジオ放送を、北朝鮮の人々が聴取していることが国家安全保衛部(近年は保衛省になったらしい)が知れば収容所送りかもしれません。

それでも北朝鮮の人々は情報を入手しようと努力するでしょう。

金日成、金正日を日本政府が批判し、「金正恩よ、拉致した日本人を直ちに返せ」と気軽に呼びかけ続けたら、「首領冒涜罪」を犯している人が北朝鮮社会に蔓延しかねない。

金正日の女性関係、子どもの数は北朝鮮社会ではタブーそのものなのです。

北朝鮮当局が出版している金正日の伝記には、金正日の女性関係や子供については一切記載されていません。

金日成も同様です。若い脱北者の場合、金日成の後妻金聖愛の存在を知らない方すらいます。

金日成の最晩年の子供を、金正日の命令で張成澤・金敬姫が育てたという情報もありますが、真偽はわかりません。

金正日の華麗な女性関係が北朝鮮国内で噂になれば、国家安全保衛部が責任を取らされる可能性が出てきます。

朝鮮人民軍兵士が気軽に金日成、金正日を批判し始めたら、いざというときに金正恩の命令をきくでしょうか。

朝鮮人民軍の刃が、金正恩に向くように思想攻撃をかけるべきなのです。

海外衛星放送で金正日と高英姫の愛情物語をドラマ放映すべきだ


朝鮮半島や中国東北部向けの海外衛星放送で、金正日と高英の愛情物語をドラマにして放映するべきです。

この御二人の愛情関係は、すぐに形成されたのではありません。金正日にはほかにも愛人がいましたから。

御二人の出逢いと愛情関係の進展、若くして亡くなった高英姫への金正日の想いと、次の愛人の存在をドラマ化して放映したら韓国でも人気が出るかもしれません。

ドラマにはもちろん、金正恩、金正哲、金予正も出てくるでしょう。これを海外衛星放送で放映すれば、中朝国境から中国朝鮮族がCDなどに保存して運びます。

「首領冒涜罪」そのものですから、この番組を観た方は大変なことになりそうです。海外に駐在している「外貨稼ぎ」担当者なら海外衛星放送を観るのは難しくない。

「首領冒涜罪」を、あらゆる手段で北朝鮮社会に蔓延させることが、金正恩を窮地に陥れることになるのです。

金正恩を本気で尊敬している朝鮮労働党幹部など、ただの一人もいない可能性を指摘しておきます。

金日成が中国共産党の一員として山賊行為を行ったことを暴露したら中国も激怒する


ところで、金日成が中国共産党の一員として、山賊行為をやったことを対北朝鮮ラジオ放送で暴露したら、中国共産党も激怒する可能性もあります。

中国共産党とは山賊のような集団だったという歴史観を、中国朝鮮族に広めることになりますから。

被拉致日本人救出のためには、日中関係の根源的悪化もありうることを覚悟せねばならない。中国共産党が、北朝鮮の最大の庇護者なのです。

最大の庇護者のところへ、いまだに一度も訪問していない金正恩を中国共産党大幹部は嫌悪しているはずです。

日本政府が歴史観で北朝鮮から中国を批判し始めれば、中国共産党大幹部は本気で金正恩後を考え始めるかもしれません。

日中関係の根源的悪化は避けられそうもない。

中国国内にいるビジネスマンがスパイ罪などで次から次へと逮捕されるかもしれません。

日本人は中国、北朝鮮と徹底対決できなければ、日本国家の存亡が危ういことを肝に銘ずべきなのです。








木下公勝「北の喜怒哀楽 45年間を北朝鮮で暮らして」(平成28年高木書店刊行)を読みました。

「『帰国者狩り』は、1960年代後半から1970年代初期に始まったと記憶している。金正日が党中央の要職に就き、党の唯一思想体系と指導体系の樹立を唱えはじめた時期だ。

総連幹部だった異国者も、スパイや異端者、国家反逆者という濡れ衣を着せられ、党や行政の要職から外された。北朝鮮の津々浦々から、『帰国者の〇〇が密かに保衛部に連行されていった』

『〇〇の夫が急に行方不明になった」という話が頻繁に届いた。『夫がいなくなった』といっていた女性とその家族が、一か月後にどこかへ連れ去られたという話もあった」(同書p89-90より)。


帰国者とは、昭和34年から実施された帰国事業により北朝鮮へ帰国した元在日朝鮮人のことです。約93000人の帰国者のうち、約6000人が日本国籍保持者でした。

「地上の楽園」に帰国できたはずの元在日朝鮮人が、その後次から次へと行方不明になっていきました。

北朝鮮当局による「帰国者狩り」です。

帰国者の中には、木下氏が語るように何かの「罪」を着せられ、山間へき地や政治犯収容所に連行され、日本の親族との連絡が途絶えてしまった方がいるのです。

北朝鮮では政治犯や重罪を犯した人に対して、日本人の基準で「裁判」といえるような制度はありません。

「政治犯」とその家族は鳥も鼠も知らないうちにいなくなる


国家安全保衛部の特別裁判を受けさせられた「反党反革命宗派分子」張成澤のようなケースは例外です。「特別裁判」とは何か、よくわかっていません。

南朝鮮労働党の大物、朴憲永にも同様の「裁判」はあったようです。大物に対しては、何らかの「裁判」をするようです。

警察側の主張のみを聴いて裁判長が「判決」を下してもそれを「裁判」と把握するべきではありません。形式だけの「弁護人」がいても、警察側に十分な反論ができるかどうか不明です。

「スパイ」を山間へき地に連行する国家安全保衛部らは、家族に「革命化のために学習に行った」と告げるだけで、他の情報は与えません。

国家安全保衛部が「政治犯」を家族もろとも収容所に連行するとき、深夜から早朝に来ることが多いそうです。「スパイ罪」に家族が連帯責任を取らされる場合もあるのです。

「鳥も鼠も知らないうちにいなくなる」という隠語を、私は脱北者から伺っています。

日本に残った在日朝鮮人は帰国者の行方不明を「山へ行った」と表現しています。在日本朝鮮人総連合会の活動を熱心にやっている方なら、これらの隠語を御存知のはずです。

北朝鮮の現状を考えるとき、当局が住民に対し「政治犯」「スパイ」というレッテルを貼り山間へき地や政治犯収容所に連行できるという事実を看過すべきではありません。

先日の産経新聞記事によれば、「金正日の料理人」として知られている藤本健二氏が「平壌でラーメン屋をやる」と行って出かけて行ったあと、連絡がとれなくなっています。

この類の事件が、北朝鮮では頻発しています。

著者の木下氏は、昭和35年夏に父母と兄弟三人で帰国し、北朝鮮北部のハムギョン道の炭鉱都市に配置されました。

木下氏は平成16年(2004年)頃脱北し、10年近く前に日本に入国したようです。

この本は十代半ばで北朝鮮に帰国した木下氏の北朝鮮での暮らしを、ありのままに記しています。

木下氏は帰国後一年にも満たない時期に公開処刑を見ました。以下はこの本のp40-41に依拠しています。

「人民公開裁判 殺人犯罪者、金元国を人民の名で公開処刑にすることを公示する 年齢32歳」と書かれた白い紙が駅前広場の掲示板に張り出されていた(同書p39)


執行日は木下氏が掲示板をみた三日後で、執行場所は川原でした。木下氏が当日の午前十時くらいにそこに行ってみると、500人ほどの住民が川原の中央に集まっていました。

死刑囚の両親、兄弟、親類は群衆の最前列に座らされていました。裁判官が死刑囚に向かって名前、職業、住所などを聞きました。

死刑囚がマイクを通して答えた後、検事が死刑囚の罪状を読みあげました。次に演壇にいる陪審員、判事、弁護士が罪人に向かって犯罪の動機や経緯を質問しました。

北朝鮮では、「判決」後すぐ現場で死刑が執行される


最後に裁判官が、「殺人犯金元国を人民の名において死刑に処する。刑は即時現場で執行する」と判決を言い渡しました。

直ちに安全員(北朝鮮の警察)が罪人を演壇の横に無理やり引きずっていきました。演壇の横には四角い白い布がカーテンのように垂れ下がっていました。

罪人はその中に引きずり込まれました。三分ほど経つと布が下ろされました。そこに丸い柱にロープで縛りつけられた死刑囚が立っていました。

安全部の上官が兵士三人に「死刑囚に向かって進め!」と号令を発しました。兵士三人は肩に自動小銃をかけ、足並みをそろえながら死刑囚の前に立ちました。

「気を付け!射撃準備!われわれ人民の敵、金元国に向けて射撃!」

上官が命令した瞬間、僅か5.6メートル先に立っていた死刑囚に一斉射撃が浴びせられました。死刑囚の胸部のロープは銃弾で吹き飛ばされました。

続いて頭部めがけて銃弾が三発連射されました。髪の毛が飛び散り、原形をとどめない頭部から豆腐のような白い脳みその塊が死刑囚の足元に落ちました。

続いて腰の部分にも銃弾が浴びせられました。

人間が目の前で銃殺される光景を見て、木下氏が背筋が凍るほど恐ろしい思いをしたと語っています。

死刑囚金元国は、「出身成分」のため結婚に反対され、相手の父親を殺した人物だったそうです。

公開処刑される人々の罪状や動機は年代によって異なっていた(同書p42)


木下氏によれば、大別すると60年代から70年代に公開処刑される人々は主に政治・思想犯でした。過去の親日・親米・親韓行為が問題視されました。

「出身成分」とは、「解放」前に自分や親、祖父母がどういう地位、職業についていたかによって全住民を区別する制度のことです。

「核心」「動揺」「敵対」の三階層が基本です。北朝鮮では「出身成分」により、居住地と居住条件、配給、進学、就職など生活のすべてが区別されています。

「出身成分」が悪ければ、生涯にわたって低水準の生活に甘んじなければならない可能性が高い。多額の賄賂を用意できればその限りではありませんが。

元在日朝鮮人の多くは、「動揺階層」に区分されたようです。

勿論金正日に認められれば、最高の消費生活を享受できます。金正恩の母、高英姫は元在日朝鮮人です。それでも、金正日は高英姫の存在を金日成に報告できなかったらしい。

元在日朝鮮人は、日本人と同様とみなされてしまうことが多いのです。

娘が、「出身成分」の悪い男性と結婚することに反対した父親の気持ちは「理解」できなくもありません。

木下氏によれば、1980年代以降は「生きるため」「食べるため」に罪を犯した人間が「成分」に関係なく公開処刑されました。

窃盗・密輸・人身売買犯などです。一度の公開処刑で殺される人の数が増えました。

北朝鮮では「判決」前に罪人の処刑が決定されている


この本によれば、木下氏は「公開処刑に処する」という白い紙の掲示を見て川原に行きました。河原での「裁判」より前に、罪人金元国の処刑はどこかで決定されていたのです。

どこでいつ、誰により罪人の処刑が決定されていたのかはわかりません。想像するしかないのです。

この場合は、社会安全部(北朝鮮の警察)が処刑を決定したのではないでしょうか。検察より、社会安全部が権限を持っている可能性があります。

処刑が決定され、準備まで完了している「裁判」で、「弁護人」が検察に反論したり、処刑に反対できるでしょうか。

そんなことをしたら、弁護人もその場で処刑されかねない。

北朝鮮に「裁判」という名前の制度があっても、日本人の基準でいう「裁判」が存在しているわけではないのです。

木下氏によれば、金正日が社会安全部と国家保衛部幹部の前で次の指示を出しました。

「法に反する行為をした者は、社会的職位、出身成分、過去の業績、功労を問わず、例外なく法に従って厳重に処罰せよ」

この指示により、「出身成分」の如何に関係なく処罰がなされるようになったと木下氏は語っています。

木下氏が金正日のこの指示をなぜ知りえたかはわかりませんが、北朝鮮社会で金正日の「お言葉」は法そのものです。「法」より上の規程ともいえる。

在日本朝鮮人総連合会は虚偽宣伝を謝罪し、脱北者の日本への定住支援をするべきだ


木下氏の御両親に、北朝鮮への帰国を勧めたのは在日本朝鮮人総連合会の皆さんです。

木下氏によれば、二人の幹部が北朝鮮の発展ぶりと「お宅のように親は高齢でも、金日成首相様が領導する北朝鮮では、子どもは学校に通えて幸せな生活ができます」と両親に語りました。

木下氏のお父さんは、「医療費無料」と「学費無料」という言葉に魅力を感じたそうです(同書p15)。

在日本朝鮮人総連合会の皆さんは、脱北者に虚偽宣伝を謝罪し、日本への定住支援をするべきです。

現実には、在日本朝鮮人総連合会がそんなことをやる可能性は極めて低い。

金日成民族の一員として、全社会の金日成・金正日主義化のために日々尽力されている方々ですから。

畑田重夫氏は北朝鮮の人権抑圧について見解を表明するべきだ


北朝鮮への帰国事業が盛んに行われていた昭和34,35年頃、日本の政党の中で北朝鮮を最も礼賛したのは日本共産党です。宮本顕治氏がその中心でした。

宮本顕治氏や不破哲三氏は、北朝鮮がテロを国策として行うテロ国家であることがわかってからも、帰国船の再開を主張しました。

一人でも多くの在日朝鮮人に「地獄への片道切符」を握らせようと尽力したのは、在日本朝鮮人総連合会と日本共産党だったのです。

畑田重夫氏は、北朝鮮への帰国運動を全力で推進した方です。畑田氏は全国紙を徹底的に読んでいるそうです。

北朝鮮の人権抑圧については、産経新聞だけでなく朝日新聞や毎日新聞、読売新聞にも何度も報道されていますから、畑田氏は御存知のはずです。

畑田重夫氏には、日本共産党の虚偽宣伝を信じて北朝鮮に渡った元在日朝鮮人のその後について、見解を表明していただきたいものです。

残念ですが、畑田重夫氏や不破哲三氏が北朝鮮の人権抑圧、元在日朝鮮人のその後について見解を表明する可能性は極めて低い。

共産主義者は、都合の悪い史実を隠ぺいします。

不破哲三氏、志位和夫氏はレーニンによる富農、聖職者弾圧指令について沈黙しています。

真の共産主義者とは、共産主義国による残虐行為を隠ぺいすることに生きがいを感じる人々なのです。


























2016年12月18日日曜日

レーニンの富農弾圧指令より思う(レーニン全集第44巻掲載の指令、大月書店刊行)-1918年(大正7年)にロシアで「富農」だった人々は死に値するのか

「1918年8月9日 同志フョードロフ!ニジニでは明らかに白衛軍の反乱が準備中だ。

全力をあげて、独裁官の三人委員会(君、マルキンその他)をつくり、即刻大衆的テロルをくわえ、兵士を泥酔させる何百という売春婦や、旧将校などを銃殺するか、町から追い出すべきである。

一刻も猶予してはならない」(レーニン全集第44巻、p124の「ゲ・エフ・フョードロフへ」より抜粋)


共産主義思想では売春婦や、旧将校という方々は銃殺されてしかるべき存在なのでしょうか。

売春婦とは、性産業で働く労働者です。兵士に酒を飲ませて春を売る店があったのでしょう。

性産業で仕事をしていることを理由に銃殺ないしは追放ではあまりにひどい。この指令は、レーニンの残虐性を示しています。

レーニンがフョードロフという共産党員に、どういう意図から売春婦と旧将校殺人指令を出したのか不明です。

指令を受け取ったフョードロフは実際に売春婦と旧将校殺人を断行するか、町から追放したのでしょうか。

この指令が当時のロシアで実際に実行されていたのなら、ボリシェヴィキのロシアは世界最悪の人権抑圧国家です。

1918年(大正7年)の日本にも性産業はありましたが、労働者の銃殺などありえない。

この指令の少し後のほうには次の記述もあります。

武器保有の罪は銃殺にすること。メンシェヴィキやいかがわしい奴はどしどし追放すること


「全力をあげて行動しおおがかりな家宅捜索をすること。武器保有の罪は銃殺にすること。メンシェヴィキやいかがわしい奴はどしどし追放すること。」

「家宅捜索」とは、「富農」の方々の家をくまなく捜索し、余剰穀物を取り上げろということでしょう。

武器を保有していたらその場で銃殺せよという指令がそのまま実行されていたのなら、ボリシェヴィキに親兄弟を銃殺された人は「反革命」「白衛軍」に参加するようになって当然です。

レーニン全集第44巻を読むと、1918年8月頃からのロシアでボリシェヴィキに「富農」とレッテルを貼られた農民は地獄に落とされたたとしか思えません。

金持ちを人質にとって彼らに余剰穀物の収集と収納の責任をとらせろ


「ア・デ・ツュルーパへ」と題した次の指令も注目すべきです(レーニン全集第44巻、p126-127)。

「(1)サラトフに穀物があるというのにわれわれがそれを運び出せないのは、はなはだしい醜態、とんでもない醜態だ。各接続駅に食糧活動家を一、二名ずつ派遣すべきではないだろうか?

それ以外何をすればいいだろうか?

(2)布告の原案―穀物の豊富な各郷で金持ちの人質を二五名ないし三〇名とり、彼らに全余剰穀物の収集と収納の責任を生命をかけてとらせること。」

この指令は1918年8月10日に執筆されています。

穀物の豊富なこの地域で金持ちだった方々は、余剰穀物の収集、収納にぬかりがあったら銃殺されてしまったのでしょうか。

「金持ち」であることは「搾取者」であるから、その存在自体が「罪」であり死に値する。これがレーニンの「思想」「理論」なのです。

「富農」の暴動を利用してさらに「穀物投機者」「大金持ち」をさらに弾圧


「ア・イェ・ミンキンへの電報」と題した指令は「富農」が暴動を起こしたことを示唆しています。

次です(レーニン全集第44巻、p130掲載)。

「ペンザ県執行委員会、ミンキンへ。富農の暴動の弾圧を知らせた君の電報を受け取った。

鉄は熱いうちに鍛えなければならないから、富農の弾圧を利用して、穀物の投機者どもを各所で弾圧し、大金持ちから穀物を没収し、貧農を大衆動員して彼らに穀物を分与する必要がある。

実行状況を打電すること。戦線地帯の貧農の権力を最終的に強化する必要がある。」

「穀物の投機者」とは、農民から穀物を仕入れ、都市の闇市で売る「担ぎ屋」のような人々を指すと考えられます。

「担ぎ屋」は国家による穀物専売制を破壊しますから、ボリシェヴィキは弾圧せねばなりません。

都市に穀物を運ぶ人を「弾圧」してしまえば、都市の飢餓がより深刻になってしまいます。

穀物を問答無用で徴発された「富農」は暴動を起こしてボリシェヴィキに必死の抵抗を試みたのでしょうが、簡単に弾圧されてしまったようです。

富農を容赦なく弾圧し、暴徒の穀物を全部没収することが全共産党員の任務


「ア・イェ・ミンキンへの電報」はもう一つあります(「全集」第44巻、p136-137)。

「もし、この命令が実行されなければ、私は責任者を法廷に引き渡す。ラトヴィア中隊は、チェンバルの制圧まで当分ペンザに止めておいてもらいたい。

富農を容赦なく弾圧し、暴徒の穀物を全部没収することが、執行委員全員と全共産党員の責務であることを、彼らに伝えてもらいたい。

私はあなたの無為無策と弱腰に憤慨している。私のすべての命令の実行状況、とくに弾圧と没収の措置について詳しい報告を要求する。」

ミンキンという人物が、レーニンのこの類の指令執行に弱腰で無為無策だったのなら、良心のかけらが残っていたのでしょう。

容赦なく弾圧、ですからその場で銃殺された「富農」はいくらでもいたのでしょう。財産を没収され追放された「富農」はその後どこへ行ったのでしょうか。

1918年8月頃のロシアで、鉄道がどの程度開通していたのでしょうか。栄養失調から病死した「富農」とその家族がいくらでもいたとしか私には思えない。

不破哲三氏の「レーニンと『資本論』」にはレーニンによる富農弾圧指令の話は全く出てきません。下部党員や「赤旗」読者にこれが知られたらまずい、という判断なのでしょう。

共産主義者にとって、歴史は宣伝材料なのです。不破哲三氏は真の共産主義者です。






2016年12月17日土曜日

レーニンの「食糧独裁についての布告の基本的命題」「『現在の』情勢についてのテーゼ」「食糧問題についてのテーゼ」「(レーニン全集第27,28巻掲載、大月書店刊行)より思う

「余剰穀物をもちながら、これを駅および集散地点へ搬出しない穀物所有者は、人民の敵として宣言され、10年以上の投獄、全財産の没収、彼の共同体からの永久的追放に処せられることを、はっきりと規定する」


「富農との仮借なき闘争のために団結するという勤労、無所有の、余剰をもたない農民の義務を追加する」(「食糧独裁についての布告の基本的命題」レーニン全集第27巻、p360より抜粋。大月書店刊行)


来年はロシア革命100周年の年です。ロシア革命をどう評価するべきか、世界各地で様々な議論がなされることでしょう。

その際、レーニンの「思想」「理論」をどう「理解」するかという問題は重要です。

レーニンが「富農」という人々を徹底的に敵視し、弾圧すべきと強調してきたことは、レーニン全集の27,28巻を多少読めば明らかです。

上記から明らかなように、「富農の撲滅」「『人民の敵』の永久追放」はスターリンが始めたことではありません。スターリンはレーニンの教えを忠実に実行しただけです。

「『現在の』情勢についてのテーゼ」(レーニン全集第27巻、p419-421掲載)でレーニンは13の項目から成る指令を出しています。

「テーゼ」という語から、レーニンがこの指令を重視していたことが推察できます。

レーニン「余剰穀物をおさえている富農を容赦なく弾圧することを義務とみとめよ」


(1)は次です。

「陸軍人民委員部を戦時食糧人民委員部に変えること。すなわち、6月から8月までの向こう三か月間、穀物獲得の戦いのために軍隊を改編しこの戦いを遂行することに、陸軍人民委員部の仕事の十分の九を集中すること」。

(2)は「この期間、全国に戦時戒厳状態を宣言すること」です。


(12)は「人民委員会議でも中央執行委員会でも、つぎのことを遂行すること」です。

(12)の(ニ)は次です。

「余剰穀物のある各郡、各郷で、ただちに、富裕な土地所有者(富農)、穀物商人、等々の名簿を作成したうえ、余剰穀物を全部収集する個人的責任を彼らに課すること」。

(12)の(ホ)は次です。

「各戦闘部隊に、たとえば、十人に一人の割合にせよ、ロシア共産党や社会革命党左派、または労働組合から推薦された人物を任命すること」。

(13)は次です。

「穀物の国家独占を実行するにあたっては、どんな財政的犠牲をもためらわずに、貧農援助措置や、富農からあつめた余剰穀物の一部を無料で貧農に分配する断固たる措置をとると同時に、余剰穀物をおさえている富農を容赦なく弾圧することを義務とみとめること」。

1918年にレーニンは繰り返し、「富農」から「余剰穀物」を徴発せよと述べています。抵抗する「富農」は容赦なく弾圧せよというのですから、富農に対し宣戦を布告しているのです。

「富農」とは誰か―「食糧問題についてのテーゼ」(レーニン全集第28巻、p35-38より)


それでは、「富農」とはどんな人々のことを指しているのでしょうか。

レーニンは1918年8月2日に「食糧問題についてのテーゼ」を、食糧、農業、最高国民経済会議、財務、商工業の各人民委員部へ提案されました。この「テーゼ」は13項目から成ります。

(8)は次です。

「富裕な農民にたいする現物税、穀物税を設定すること。ただし、手もちの穀物の量が(新しい収穫をふくめて)自家消費量(家族の食い扶持、家畜の飼料、播種を考慮に入れて)の二倍ないしは二倍以上のものを、富裕な農民とみなす。」

レーニンのこの指令だけで、当時のロシア全体で「富農」という語がこのように理解され、該当する農民が弾圧対象になっていたとは断言できません。

農村の実態については、別の史料からも確認されるべきです。

しかし、この指令が実際に農村で実行されれば、農民は可能な限り保有穀物を隠ぺいし「富農」とレッテル貼りされないようにしたと考えられます。

穀物の「自家消費量」など、どうにでも解釈できますから。穀物の収穫量は天候に強く依存します。来年度の天候がどうなるか、誰にもわかりません。

不作に備えて、可能な限り蓄えておきたいと誰でも思うでしょう。汗水流して収穫できた穀物を問答無用で徴発されたらたまったものではない。

「富農」とレッテルを貼られたらおしまいだ、とほとんどの農民は直感的に理解したはずです。以下のレーニンの「報告」に注目すべきです。

レーニンは余分の穀物はすべて、国家の手にとりあげなくてはならないと断言した


レーニンは当時のロシアが直面していた飢餓からの脱出策として、国家による穀物の専売制を提起していました。

「モスクワの労働組合と工場委員会との第四回協議会」(レーニン全集第27巻、p472-505〉でレーニンは次のように述べています。

「穀物の専売制を口にすることはやさしいが、それがどういう意味か考えてみなければならない。

それは、余剰穀物はすべて国家のものだということである。それは、農民の経営に必要でない、

その家族や家畜を養うのに必要でない、播種をおこなうのに必要でない穀物は一プードでも、、

余分の穀物はすべて、国家の手にとりあげらなくてはならないということを意味する。」(全集p482)

余分の穀物はすべて農民から取り上げよ、とレーニンは断言しています。これを文字通り実行したら、取り上げられた農民が次から次へと栄養失調になり、とんでもない伝染病が蔓延しかねない。

レーニンは徴発した穀物を都市の労働者に配分し、都市で餓死者が出ることを防ごうとしたのでしょうが、穀物取引を活発化させれば、一時的に穀物価格が上昇しても供給が増えれば下落していきます。

「穀物投機」を沢山の農民にやらせれば、穀物の供給がいずれ増えます。都市で闇市が増えれば、都市経済が徐々に活性化していきます。闇市の商売でぼろもうけする人もでますが。

供給増加により穀物価格が下落し、農民は「投機」ができなくなる。このくらいのことは、商業活動を少しでも見聞した経験のある人ならすぐにわかりそうなものです。

レーニンとボリシェヴイキが「戦時共産主義」などという愚かな「理論」に固執していたから、「富農」とレッテルを貼られた農民が穀物を徴発されてしまいました。

「余分の穀物」と「播種用、家畜用の穀物」を当時のロシア共産党員らが正確に区別できたとは極めて考えにくい。

来年の播種や家畜のためにどれだけ穀物が必要になるかも、今後の天候に依存しているのですから。

播種用の穀物までも取り上げられた農民は少なくなかったはずです。これにより農業生産がさらに落ち込むという悪循環にロシアが陥ってしまったのではないでしょうか。

レーニンによる富農弾圧指令、富農への「宣戦布告」を無視する不破哲三氏


不破哲三氏の「レーニンと資本論6 干渉戦争の時代」(新日本出版社刊行)はレーニンの「穀物の売買禁止論」について遠回しに言及していますが、弾圧指令については無視しています。

不破氏が、レーニン全集27,28巻を少しでも読めば出てくるレーニンの「富農弾圧論」を知らないはずがない。これが下部党員や「赤旗」読者に知られるとまずい、という判断なのでしょう。

不破氏はこの本のp214-216で、レーニンが「穀物の売買の自由」を「反革命派」あるいはブルジョアジーの経済綱領として厳しく断罪していたと述べています。

不破氏は、レーニンが採用した穀物の売買の自由を禁止する政策はソビエト政権と農民の間に大きな亀裂を作り出したと述べています(同書p216)。

「ソビエト政権と農民の間の亀裂」とは、いったい何なのでしょうか。不破氏はこの表現の具体的な中身については何も述べていません。

レーニンが出した穀物売買の自由禁止指令が、内戦激化とその後の不作、飢餓の重要な原因となったことは明らかです。

レーニンとボリシェヴィキは、コルチャックやデニキンら外国の支援をうけた「反革命勢力」だけでなく、「富農」とも徹底的に戦いました。

「富農」に「宣戦布告」したのはレーニンとボリシェヴィキです。

「人民の敵」とレッテルを貼られて殺害された「富農」、穀物を取り上げられて栄養失調から疾病に倒れて亡くなった「富農」の数はどれくらいだったのでしょうか。

レーニンは富農、金持ち、穀物投機者は200万そこそこと見積もっています(「労働者の同志諸君、最後の決戦に進もう!」レーニン全集第28巻、p47)。

勿論これだけで、レーニンとボリシェヴィキが「富農」を200万人殺害したと証明できませんが、富農弾圧指令はレーニンの「思想」「理論」から必然的に導かれた結論です。

次の論文も注目すべきです。

レーニンは「富農」との「最後の決戦」をよびかけた


レーニンが命名した「最後の決戦」とは、「富農にたいする戦闘」です。この論文でレーニンは次のように述べています(レーニン全集第28巻、p47)。

「どんな疑いもありえない。富農は、ソヴェト権力の仇敵である。富農がかずかぎりなく労働者を殺すか、でなければ労働者が、勤労者の権力にたいする、国民の中の少数の強盗的富農の暴動を、容赦なくふみつぶすかである。

そこには中間の道はありえない。和解はありえない。富農は、いがみあってきたばあいでさえ、地主、ツァーリ、坊主と和解することができる。しかもやすやすと和解できる。

だが労働者階級とはけっしてできない。われわれが富農にたいする戦闘を、最後の決戦と呼ぶのはこのためにほかならない」

「富農は、他国の歴史上、地主、皇帝、坊主、資本家の権力を一度ならず復活させた、もっとも凶悪な、もっとも野蛮な搾取者である。富農は、地主と資本家より多い。」

「労働者の同志諸君!最後の決戦にすすもう!」は1918年8月に執筆されました。平和に暮らしていた「富農」の方々にはとんでもない迷惑だったことでしょう。

自らが下した大量殺人指令に何の反省もしなかったレーニン


「帝国主義戦争を内乱に転化せよ」の「内乱」には、「富農との最後の決戦」も含まれていたのです。

内戦になれば沢山の犠牲者が出ます。大量殺人を正当化するレーニンの「思想」「理論」を、スターリン、毛沢東、金日成、金正日は立派に継承しました。

レーニンは1921年頃から農民に穀物の自由販売を認める「新経済政策」への転換を主導しますが、「最後の決戦」で犠牲となった「富農」の方々への謝罪や反省の言葉は一切残していません。

レーニンは最晩年になっても、自らが下した「富農」「人民の敵」の弾圧、殺戮指令の正当性に何の疑問ももたなかった。この点も、スターリン、毛沢東、金日成、金正日は継承しています。

宮本顕治氏が信奉していた「マルクス・レーニン・スターリン主義」とは、「人民の敵」殺人を正当化する「思想」「理論」なのです。

在日本朝鮮人総連合会の皆さんが信奉している「金日成・金正日主義」も、「反党反革命宗派分子」殺人を正当化する「思想」「理論」であることを付言しておきます。






























2016年12月10日土曜日

レーニンと共産主義インタナショナル第一回大会、1919年3月2-6日(レーニン全集第28巻p487-508、大月書店)より思う。

ブルジョア民主主義とプロレタリアートの独裁とについてのテーゼと報告...


「集会の自由」は、「純粋民主主義」の要求の見本とすることができる。自分の階級と絶縁していない、自覚した労働者ならだれでも、搾取者が転覆されまいとして反抗し、自分の特権をまもっている時期に、またそういう情勢のもとで、搾取者に集会の自由を約束することがばかげていることを、即座に理解するであろう。」(p493)


「勤労者のために、労働者と農民のために、真の平等と真の民主主義をたたかいとるためには、まず資本から、文筆家をやとい、出版所を買いとり、新聞を買収する可能性をうばわなければならない。だが、そのためには、資本のくびきをくつがえし、搾取者をたおし、彼らの反抗を弾圧することが必要である。」(p494)


レーニンは、共産主義インターナショナル第一回大会で「ブルジョア民主主義とプロレタリアート独裁とについてのテーゼ」を報告しました。

「テーゼ」という語から、世界の共産党が共通に追及すべき目標が提示されたことがわかります。これは、「搾取者」の「集会の自由」はく奪、言論抑圧です。

すなわち搾取者の反抗を弾圧することです。

搾取者とは、企業経営者や地主、貴族のことです。ロシア正教会の聖職者も、同様の扱いを受けました。

レーニンの「思想」「理論」の中に、一般国民の言論の自由、思想・信条の自由制限を正当化するものがあります。ソ連共産党を批判することは「反ソ行為」です。

政治犯収容所に送られかねない重罪です。精神病院に収容される場合もありました。

旧ソ連では、言論の自由、思想・信条の自由が徹底して制限されていました。

今の中国でも、一般国民が共産党を公の場で批判したらいろいろと厄介なことになるでしょう。

北朝鮮で一般国民が朝鮮労働党を公の場で批判したら、命がいくつあっても足りない。

各国の共産党、労働党はレーニンと後継者スターリンを師と仰ぎ、革命運動を行ってきました。

言論抑圧と選挙の形骸化は共産主義のイロハ


各国の共産党は革命後、上記のレーニンの「テーゼ」に従って、支配体制を構築していきました。

レーニン全集のすべての記述を一言一句もれなく実現することなど不可能ですが、「搾取者の弾圧」、言論抑圧だけはどこの共産党も欠かさず行いました。

共産党が権力を維持するためには一般国民の言論の自由、思想信条の自由の制限が必須です。

一般国民や下部の共産党員には、共産党の最高指導者が提示した選択肢以外の道は地獄への道だと思い込ませねばなりませんから。

一般国民が自由に共産党を批判でき、秘密投票の選挙で政治家を選出するようにしたら、共産党の候補者は落選してしまいます。政権を譲らねばなりません。

これは「反革命」の成就です。

そんなことをレーニン、スターリン、毛沢東、金日成や金正日が認めるはずがない。言論抑圧、選挙の形骸化は共産主義のイロハです。

旧ソ連、東欧では共産党が認めた人物以外、選挙には立候補できないようになっていました。中国と北朝鮮では今もそうなっています。

レーニンによれば、プロレタリアートの独裁は大地主と資本家の反抗を暴力的に弾圧することです(同論文p497)。

「プラハの春」と日本共産党


昭和43年(1968年)に「プラハの春」と呼ばれた事件がチェコスロバキアで起きました。プラハで知識人が言論の自由を求めて立ち上がったのです。

チェコスロバキア共産党は当初、「行動綱領」を作成し、この運動を擁護しました。

これはソ連軍の侵攻によりつぶされてしまいました。当時の日本共産党はソ連軍の侵攻を批判しましたが、チェコスロバキアの共産党が自力で知識人の運動を抑圧すべきと主張しました。

吉良よし子議員、池内さおり議員ら若い共産党員はこれを御存知ないかもしれません。

「チェコスロバキアへの五ヵ国侵入問題と科学的社会主義の原則擁護」という「赤旗」掲載論文があります。

この論文は「日本共産党重要論文集7」にも掲載されています。

この論文はチェコスロバキア共産党の「行動綱領」を、自由主義、分散主義、あるいは放任主義に道を開き、社会主義建設の事業にあらたな困難と混乱を持ち込むと批判しています(同書p240-241)。

日本共産党は、無制限の「表現の自由」「出版の自由」「集会や結社の自由」を宣言した「行動綱領」を、反社会主義勢力に活動の自由をあたえる重大な右翼的誤りと徹底批判しました。

チェコスロバキア共産党は、社会主義的民主主義の名で事実上ブルジョア民主主義を導入する「純粋民主主義」の誤りを犯していると、日本共産党はレーニンの上記論文に依拠して批判しました。

社会主義的企業が自由意思によって連合したり、連合から脱退したりできるようにした「行動綱領」の規定も「純粋民主主義」の経済版で社会主義的計画経済を弱化させる危険をもつと日本共産党は批判しています。

勤労者にとっては民主主義であると同時に、搾取者に対しては独裁であるプロレタリアートの独裁の正しい意味での強化が必要(上記「赤旗」掲載論文より)


この件について私は、「プラハの春と日本共産党」と題して本ブログで3年半くらい前に指摘しました。

少女時代をプラハで過ごした米原万里さんは、帰国後にソ連軍侵攻の知らせを聞き涙が止まらなかったそうです。

共産党の幹部は、下部党員の自由な言論活動を「反動勢力への屈服」などどみなし敵視します。レーニン主義の党ですから。

上記の「赤旗」論文は勤労者にとっては民主主義であると同時に、搾取者に対しては独裁であるプロレタリアート独裁の正しい意味での強化が必要であると述べています。

これはレーニンの「テーゼ」と一致しています。共産党を批判する人間や共産党幹部を批判する下部党員は「搾取者」と同様の人物とみなされうるのです。

米原万里さんはこれを実体験したようです。

吉良よし子議員、池内さおり議員ら若い共産党員は、「赤旗」掲載論文「チェコスロバキアへの五ヵ国侵入問題と科学的社会主義の原則擁護」を御存知なのでしょうか。

「日本共産党重要論文集」掲載論文を読んでいない方が、「とことん共産党」を自称するならば知的怠慢かつ傲慢ではないでしょうか。








2016年11月25日金曜日

レーニン「帝国主義戦争の内乱への転化というスローガンについて」(レーニン全集第41巻、大月書店昭和42年刊行、p421掲載)より思う

唯一の正しいプロレタリア的なスローガンは、現在の帝国主義戦争の内乱への転化ということである。...(途中略)このような戦術だけが、新しい歴史的時代の諸条件にふさわしい、労働者階級のほんとうに革命的な戦術となるであろう。」(前掲書より抜粋。この手稿は1914年9月以降に執筆、と出ている)


上記のようにレーニンは、「帝国主義戦争の内乱への転化」が「ほんとうに革命的な戦術」「唯一の正しいプロレタリア的なスローガン」と規定しました。

戦前の日本共産党が金科玉条としていた「32年テーゼ」は、レーニンのこの規定を継承しています。内乱を起こせ!というのですから、武装闘争、暴力革命です。

若い日本共産党員の皆さんは、日本共産党は戦前、戦後のどの時期でも、正規の方針として暴力革命の方針を採用したことはないと本気で信じているのでしょうか。

若い日本共産党員の皆さんは、レーニン全集を全く読まないのでしょうか。レーニンの革命理論や「32年テーゼ」について、何も知らないで日本革命ができると本気で考えているのでしょうか。

共産党員であることに気概と誇りを持っているなら、一昔前の日本共産党の文献を図書館などで探して読み、それらとレーニンの「革命理論」の関係について思考すべきではないでしょうか。

在日本朝鮮人総連合会の皆さんが、金日成の「すべての力を祖国の統一独立と共和国北半部における社会主義建設のために―わが革命の性格と課題に関するテーゼ」(1955年4月)を知らなかったら、自分が金日成民族の一員であるなどと言うべきではありません。

同様に、日本共産党員が「32年テーゼ」を一切知らず、関心もないなら革命家とは言えないでしょう。

小林栄三氏は「32年テーゼ」を「戦前の最後の綱領的到達点」「革命運動の進むべき道をしめす画期的な指針」と評価した


小林栄三監修「科学的社会主義下」は「32年テーゼ」を「戦前の最後の綱領的到達点」「わが国の革命運動の進むべき道をしめす画期的な指針」と高く評価しています。

この本によれば、「32年テーゼ」は1932年5月に片山潜、野坂参三、山本懸蔵らが参加しコミンテルン(世界共産党)で決定されました。

この本はなぜか、32年テーゼが明記している「帝国主義戦争を内乱に転化せよ」について沈黙しています。

日本共産党の最高幹部の一人だった小林栄三氏はレーニンの論文や手記についてはあまり関心がなかったのかもしれません。

クーシネンら当時の世界共産党幹部は、レーニンの教えに依拠して日本共産党が内乱を起こす方針を作成しました。

「32年テーゼ」を受け取った宮本顕治氏ら当時の日本共産党中央幹部はこれを活動の指針としました。

「革命的階級は、自国政府の敗北を願う」-「32年テーゼ」は日本共産党員の思考方式に影響を与えている


吉良よし子議員、朝岡晶子氏ら若い共産党員の皆さんには信じがたいことでしょうが、「32年テーゼ」には、次の記述があります。

「帝国主義戦争の内乱への転化を目標とする日本共産党は、戦争の性質に適応してそのスローガンを掲げ、反戦活動を行わねばならぬ。」

「革命的階級は、反革命的戦争の場合には、ただ自国政府の敗北を願うばかりである。」

コミンテルン(世界共産党)が当時の日本共産党に与えた任務は、「反戦活動」から内乱を起こし、日本政府が敗北するように仕向けることだったのです。

科学的社会主義の国家論によれば日本政府は「帝国主義政府」「階級的支配のための暴力装置」です。

日本が行う戦争は全て「反革命的戦争」「海外侵略」です。自衛隊は、「支配階級のために奉仕する暴力装置」です。

中国人民解放軍が尖閣諸島に本格侵攻するとき、海上保安庁の巡視船は沈没させられる


科学的社会主義の国家論から考えれば、中国人民解放軍が尖閣諸島に本格侵攻した場合、日本共産党員が自衛隊、海上保安庁の敗北を願ってもおかしくない。

海上保安庁の装備で中国人民解放軍に勝てるはずがない。潜水艦の魚雷で巡視船は沈没させられてしまいます。巡視船に乗っている海上保安庁職員は全員殉死してしまいます。

巡視船でどうやって潜水艦とたたかえというのでしょうか。物事を真面目に考える人なら、自衛隊が直ちに出動し中国の潜水艦と交戦するしかないことがわかるはずです。

海上保安庁の職員の生命と人権について、日本共産党員は一切思考できない。

日本共産党は自衛隊が中国人民解放軍と交戦するための装備充実を「軍拡の悪循環」と徹底批判しています。

自衛隊の装備が中国人民解放軍のそれを上回っているなら、交戦しても中国人民解放軍が負けます。それを事前に予測できないほど、中国共産党は愚かではない。

自衛隊が中国人民解放軍の戦艦や潜水艦、そして中国人民解放軍の出撃基地を徹底破壊できる装備を保持することにより、尖閣諸島侵攻を未然に阻止できるのです。

自衛隊が巡航ミサイルを大量保有し、さらに爆撃機を持てば抑止力の向上になります。日本共産党員が「憲法九条は宝だ」と呟いても、中国人民解放軍には何の影響もない。

中国共産党が行う戦争は「革命的戦争」であるという発想がどこかにあるのでしょう。日本共産党は中国人民解放軍の大軍拡については沈黙しています。

「32年テーゼ」は今でも、日本共産党員の思考方式に影響を与えています。

「とことん共産党」で「帝国主義戦争を内乱に転化せよ」の具体化について徹底討論を!


何度でも言います。内乱は暴力革命です。内乱は、「議会の多数を得ての革命」と無縁です。

議会で「内乱を起こしましょう」と日本共産党員が演説して、武装蜂起する議員が昔も今もいるでしょうか。

「内乱」を実際にどうやって、いつ起こすかについては「32年テーゼ」は何も述べていません。

「内乱」と称して、クーシネンらコミンテルン(世界共産党)幹部は何かの折に、日本共産党員に日本政府の要人を狙ったテロをやらせようと策していたかもしれない。

「とことん共産党」で「帝国主義戦争を内乱に転化せよ」のための具体策、その現実性について、小池晃書記局長、吉良よし子議員、朝岡晶子氏が徹底討論されたらいかがでしょうか。

市川正一氏の「日本共産党闘争小史」を吉良よし子議員はご存じなのか


市川正一氏の「日本共産党闘争小史」(昭和29年大月書店刊行、p182)によれば、労働者と農民は勝利を得るためには武装し暴力によって資本家権力とたたかわねばならぬことを知りました。

帝国主義戦争の悲惨からまぬがれるためには、日本共産党の指導のもとに大衆的な武装蜂起をもって公然と資本家・地主の国家権力と武力闘争をなし、労働者・農民の日本ソヴェト権力を樹立せねばならない、と市川正一氏は公判で訴えました。

獄中にいた市川正一氏が、「32年テーゼ」を知りえたかどうか私にはわかりません。

吉良よし子議員、朝岡晶子氏ら若い日本共産党員が、武力闘争が戦前の日本共産党の正規の方針だったことを否定するなら、市川正一氏の決死の訴えを「個人的見解」「個人を党の上においた」と一蹴すべきです。

2016年11月23日水曜日

レーニン「十月革命四周年によせて」(レーニン全集第33巻、大月書店昭和34年刊行)より思う。

「ブルジョアジーの召使や、エス・エルとかメンシェヴィキというブルジョアジーの太鼓もち、全世界の小ブルジョア的なえせ『社会主義的』民主主義派という太鼓もちどもは、『帝国主義戦争を内乱に転化せよ』というスローガンをばかにしていた。だが、このスローガンはただ一つの真理であることがわかった。」(レーニン全集第33巻、p42より抜粋)


レーニンは「帝国主義戦争を内乱に転化せよ」をただ一つの真理と断言しています。

「帝国主義戦争を内乱に転化せよ」は、昔の日本共産党が金科玉条としていた「32年テーゼ」の核心です。

「32年テーゼ」とは、世界共産党(コミンテルン)により1932年(昭和7年)当時の日本共産党に下された綱領です。クーシネンという世界共産党幹部が中心になってこれを作成しました。

宮本顕治氏ら当時の日本共産党員はこれを盲信し、内乱を起こすことを策していました。内乱ですから、武装闘争による暴力革命そのものです。

最近の日本共産党は、「わが党は正規の方針として暴力革命をとったことはない」などと主張しています(「赤旗」平成28年3月24日記事)。これは大嘘です。

「32年テーゼ」はその頃の日本共産党の綱領そのものでした。

吉良よし子議員、池内さおり議員ら若い共産党員の皆さんは、「32年テーゼ」を御存知なのでしょうか。

私見では若い日本共産党員は、日本共産党の一昔前の文書やレーニンの論文を読んで得た知識を自分なりに整理、解釈することができない。

若い日本共産党員には、日本共産党の一昔前の文書を読んで日本共産党の歴史を自分の頭で整理し解釈していくことができない


ましてや、レーニン全集を紐解いて「32年テーゼ」の核心「帝国主義戦争を内乱に転化せよ」が、レーニンの戦争に関する理論より導かれる結論であることが、若い共産党員にはわからない。

「十月革命四周年によせて」でレーニンは次のように述べています。

「帝国主義戦争の問題、現在全世界を制覇している金融資本の国際政治の問題―この国際政治が新しい帝国主義戦争を不可避的に生みだし、ひと握りの『先進』強国が立ち遅れた弱小民族に加える民族的抑圧、略奪、強奪、絞殺の前代未聞の激化を不可避的に生みだすのである。」

要は、戦争と弱小民族に対する抑圧や略奪は「金融資本」、大銀行や銀行と一体化した大会社の征服欲により生じるという話です。

レーニンのこの「理論」を、イギリスのSF作家H. G. ウェルズは次のように批判しました。

「戦争は国家主義的帝国主義から起きるのであって、資本主義的社会組織から起きるのではない」(「影の中のロシア」みすず書房昭和53年刊行、p104-105。原題はRussia in the Shadows)。

レーニンは、大銀行や大会社が、各国の戦争政策決定に具体的にどう参画していたというのでしょうか。

クリミア戦争、露土戦争、日露戦争、第一次大戦へのロシア参戦決定にどのようにロシアの大銀行や大会社が参画したとレーニンはいうのでしょうか。

SF作家ウェルズの方が現実的です。レーニンには、実際に企業で働いた経験がないことを付言しておきます。レーニンは企業の意思決定の仕組みを知らない。

レーニンの「理論」に従えば、欧米や日本の大銀行や大会社が「帝国主義戦争」を参画し行っていることになります。

従って共産党員たるもの、一刻も早く自国で内乱を起こし、自国政府を混乱させ自国が「帝国主義戦争」で敗北するように努力せねばなりません。

戦前の日本共産党大幹部市川正一は獄中から武装蜂起、武力闘争を主張していた


この類の「理論」に依拠して、「獄中闘争」をしていた日本共産党の大幹部市川正一氏は裁判の最終陳述で次のように述べました。

「帝国主義戦争の悲惨からまぬかれるためには、日本共産党の指導のもとに大衆的な武装蜂起をもって公然と資本家・地主の国家権力と武力闘争をなし、労働者・農民の日本ソヴェト権力を樹立しなければならぬ」(「日本共産党闘争小史」大月書店昭和29年刊行、p182より抜粋)

武装闘争、暴力革命が当時の日本共産党の正規の方針ではないなら、市川正一氏の公判での主張は市川氏の個人的見解だったことになります。

市川正一氏は個人の見解をあたかも日本共産党の見解のように広めてしまったのですから、除名処分をされるべきということになるでしょう。

これでは、獄中で亡くなった市川正一氏があまりにも惨めです。市川氏は決死の思いで獄中から労働者、農民に武装蜂起を呼び掛けたのですから。

当時の日本共産党員は大真面目に武装蜂起、武力闘争により日本でソヴェト権力とやらをつくろうとしていたのです。

故人が反論することはないから歴史を歪曲してしまえ、と志位和夫氏が判断し「赤旗」編集部は「日本共産党闘争小史」を無視することにしたのかもしれません。

「とことん共産党」出演者は「帝国主義戦争を内乱に転化せよ」「大衆的な武装蜂起をもって公然と資本家・地主の国家権力と武力闘争」を御存知なのか


最近、「とことん共産党」という番組が放映されています。小池晃書記局長や吉良よし子議員、朝岡晶子氏らがこの番組に出演されています。

「とことん共産党」出演者の皆さんは、「32年テーゼ」や市川正一「日本共産党闘争小史」に明記されている暴力革命方針を御存知なのでしょうか。

この程度の文献も読んでいない共産党員が自らを「とことん共産党」などと自称宣伝するなら、誇大広告ではないですか。

追記 「とことん共産党」と日本共産党学術・文化委員会の皆さんへの提案


「とことん共産党」で司会をお務めの朝岡晶子さんは、日本共産党中央委員会の学術・文化委員会所属のようです。インターネットでそういう記事を見ました。ワイン好きだそうです。

日本共産党員内部で、学術・文化に関する業務を担当されているのでしょう。学術・文化業務に日常的に携わっている方ならば、宮本顕治氏の次の論文を御存知のはずです。

「共産党・労働者党情報局の『論評』の積極的意義」(「前衛」49号、1950年5月掲載。「日本共産党50年問題資料集1」新日本出版社昭和32年刊行、p27-35にも掲載)

「ソ連邦共産党第二十一回臨時大会の意義と兄弟諸党との連帯の強化について」(「前衛」1959年5月号掲載)

「共産党・労働者党情報局の『論評』の積極的意義」は、「日本革命の平和的発展の可能性」を提起することは根本的な誤りであること、議会を通じての政権獲得の理論も同じ誤りであることは論をまたないとと断定しています。

「ソ連邦共産党第二十一回臨時大会の意義と...」は、「社会主義はソ連邦で完全な最後の勝利をおさめた。今日、ソ連邦では国内的に資本主義を復活させる力がないだけでなく、世界的にソ連邦および社会主義陣営をうちやぶれるような力は存在し得ない」と断定しています。

朝岡晶子さんら日本共産党の学術・文化業務担当の方々は、宮本顕治氏のこれらの見解をどうお考えなのでしょうか。

日本革命の平和的発展の可能性や議会を通じての政権獲得が根本的な誤りなら、武装闘争と暴力革命しかありえない。

社会主義のソ連邦における完全な最後の勝利とは、いったい何を意味していたのでしょうか。

推測ですが、宮本顕治氏のこれらの見解は、朝岡晶子さんや吉良よし子議員の見解と大きく異なっているように思えてならないのです。

朝岡晶子さんや吉良よし子議員が武装闘争、暴力革命を真剣に検討し準備しているとは考えられない。

これらについて、「とことん共産党」で出演者が徹底討論なさったらいかがでしょうか。御検討下さい。











2016年11月21日月曜日

北朝鮮在住の作家パンジ著「告発」(萩原遼訳、かざひの文庫刊行)より思う。

「暗闇の地、北朝鮮に灯りをともす、ホタルの光となり...パンジは朝鮮作家同盟中央委員会に所属しており、1950年に生まれ、朝鮮戦争も体験し、両親とともに中国まで避難し幼年時代を送り、再び北朝鮮に戻り生活しました。」(被拉脱北人権連帯代表 都希侖氏の推薦の辞より抜粋。同p2掲載)


パンジとは、朝鮮語で蛍を意味しています。「月刊朝鮮」で強力な北朝鮮批判論を展開してきた趙甲済氏がこの本のあとがきを書いています。

パンジの親戚が脱北して持ってきた肉筆原稿を、被拉脱北人権連帯代表 都希侖氏が入手したとあとがきにあります。

「告発」は200字詰め原稿用紙750枚分の原稿による、七つの短編から成ります。

どれも、全体主義社会で圧政に耐えている人びとの生きざまを描いています。

「プロレタリア文学」「民主主義文学」とは一体何だったのかという疑問を本ブログでは何度も提起してきました。

「プロレタリア文学」「民主主義文学」が圧政と抑圧に抵抗する人々の生きざまを描く文学であると定義するならば、「告発」こそその名にふさわしい。

パンジは、稀代の独裁者金日成を正面から批判しています。筆者が誰か朝鮮労働党にばれてしまえば、「反党反革命宗派分子」とやらの「罪」で処刑される可能性が極めて高い。

筆者だけでなく、家族、親戚もそうなってしまう可能性すらあるのです。

北朝鮮の出版事業は朝鮮労働党の支配下にある


北朝鮮についてよく知らない方は、韓国や日本などでなく、政府の監視網を何とかくぐりぬけて自国で地下出版すればよいではないかと考えるかもしれません。

治安維持法下の日本でも宮本百合子は作家として活動し、ソ連の住民生活を国民に紹介できた。北朝鮮の作家もやればできるはずだ、などと思う方もいるかもしれません。

そういう方はテロ国家北朝鮮の現実について無知蒙昧だとしか言いようがない。

北朝鮮の出版社は全て朝鮮労働党の支配下にあります。北朝鮮では紙は貴重品です。質の悪い原稿用紙ですら普通の人は入手困難です。

金正日の著作でさえ、私たちからみれば劣悪な紙で印刷されています。紙を生産するための諸資源が不足しているのでしょう。

印刷機器と出版に必要な紙やインクを普通の人がどこからか入手し、朝鮮労働党に知られないように本を印刷し配布できるような状況ではない。

北朝鮮の作家や記者は、朝鮮労働党の宣伝扇動部の指導下にいるはずです。

朝鮮労働党の宣伝政策の一環として、金日成、金正日そして金正恩を礼賛し、体制の優位性を宣伝する出版事業がなされています。

印刷物の中身が何であれ、朝鮮労働党の検閲を受けていないものを国民に流布したら重罪です。政治犯収容所行きか、処刑されてもおかしくない。

「赤いキノコ」という題名の掲載小説にも出てくるように、北朝鮮では「政治犯」の「裁判」に弁護人はつかない。弁護人がいないなら、政治犯には「裁判」はないと考えた方が適切です。

北朝鮮では政治犯は、中世欧州の「魔女や「異端」のように扱われているのです。火刑(火あぶりによる処刑)も時折行われていますから。

金日成の「現地指導」は北朝鮮社会の物資流通を妨げ、資源・資材不足を深刻化させている


著者のパンジは、普段は金日成、金正日を礼賛する小説ないしは記事を書いているのでしょう。

金日成を礼賛する小説を書くためには、金日成の「現地指導」の実情を多少は知らなければならない。「伏魔殿」という小説は、「父なる首領様」金日成の「現地指導」の実態を鋭く批判しています。

「一号行事」という名称で呼ばれる金日成の「現地指導」がある地域で行われると、その地域へ行き来する電車が暫く止められ、道路も封鎖されてしまうそうです。

これを、私はこの本を読むまで知りませんでした。金日成や金正日の「現地指導」時に相当な警備がなされているという話は、脱北者の手記に出てきます。

「一号行事」とやらがなされると、その地域近辺では物資の流通、人の往来が一時的に停止してしまう。

慢性的な資源不足、資材不足の北朝鮮社会で、生産をスムーズに行うためには不足している資源や資材を余剰地域から必要な地域に素早く運ばねばなりません。

北朝鮮社会の物資流通を底辺で支えているのは、朝鮮労働党幹部を買収して移動許可証明を入手し、生活のために「担ぎ屋」として各地を移動して物資を売買する人々です。

「担ぎ屋」の移動による物資流通が、「一号行事」により妨げられている。「絶世の偉人」にはそんなことは一切分からなかったことでしょう。

「告発」の存在を日本政府は対北朝鮮ラジオ放送、海外衛星放送で金正恩、金予正に教えるべきだ


北朝鮮では、金日成の「教示」、金正日の「お言葉」が人々の生活の在り方を規定しています。

「党の唯一思想体系確立の十大原則」は、北朝鮮の国民は自分の所業を金日成、金正日の指令に基づいているかどうか、常に点検せねばならないと定めています。

パンジは「十大原則」を踏みにじっているのです。

この小説の存在が金正恩にまで知られれば、国家安全保衛部ないしは朝鮮労働党の宣伝扇動部が朝鮮作家同盟の監督責任を問われかねない。

朝鮮労働党の宣伝扇動部を、金正恩の妹金予正が指導しているらしい。

朝鮮作家同盟ないしは朝鮮労働党の宣伝扇動部内に、金正恩と妹金予正に激しい反感を持っている人物がいるかもしれないのです。

日本政府は至急、金正恩・金予正御兄弟に「党の唯一体系確立の十大原則」を踏みにじる小説「密告」の存在を対北朝鮮ラジオ放送、海外衛星放送でお知らせするべきです。

国家安全保衛部大幹部の皆さんが、金正恩から責任を問われるならその前に...という「決意」をしていただける良いのですが。

ところで、金正恩の妹金予正には、さほどの警備はついていないのかもしれません。金予正は、金正恩の「現地指導」時に一行から離れて気軽に歩く場合もあるようですから。

これも、対北朝鮮ラジオ放送と海外衛星放送で日本政府から国家安全保衛部や朝鮮人民軍の皆さんにお知らせするべきです。











2016年11月14日月曜日

川越敬三「社会主義朝鮮」(新日本新書、昭和45年刊行)より思う。

「では、朝鮮労働党と共和国政府は、米日反動勢力と朴正ヒ一派が宣伝しているように、共和国北半部からいわゆる『ゲリラ』を南朝鮮におくりこんで、その力で朴正ヒかいらい政権を倒そうとしているのだろうか」(同書p167より抜粋。朴正ヒの「ヒ」は漢字で表記されている)


川越敬三氏は、昭和43年1月の「青瓦台事件」を主に想定しているものと考えられます。

この事件について、当時の「赤旗」には「朴かいらい一派との南朝鮮人民のたたかいの発展」などという「報道」がなされていました。

しかし、宮本顕治氏、不破哲三氏ら当時の日本共産党最高幹部は、北朝鮮の武装工作員が青瓦台(韓国の大統領府)を急襲して朴大統領殺害を策した事件であることを認識していました。

これは、赤旗編集局編「北朝鮮覇権主義への反撃」(新日本出版社1992年刊行)や、「不破哲三 時代の証言」(中央公論新社、p80-81)からも明らかです。

宮本顕治氏、不破哲三氏らは北朝鮮の武装工作員が韓国の朴大統領殺害を策した事実を川越敬三氏、新日本出版社の社員ら「赤旗」読者と下部党員に一切伝えなかったのです。

日本共産党最高指導部の北朝鮮認識を察知できなかった川越敬三氏や新日本出版社は、はからずも宮本顕治氏、不破哲三氏の認識と異なる宣伝を断行してしまいました。

「先進的な社会主義制度のもとで、人びとは生気に満ちて、たくましく前進をつづけている」(同書はしがきより)


この本の著者川越氏は、「38度線の北」を著した寺尾五郎氏とならび、最も北朝鮮を礼賛したジャーナリストの一人です。

一昔前の新日本出版社は、北朝鮮礼賛本を出版し全力で普及していました。

川越氏によれば、南北朝鮮人民の意思を結集しておこなわれた朝鮮民主主義人民共和国の創建は、南朝鮮におけるかいらい「国家」「政府」でっちあげにたいする全朝鮮人民の断固たる意志の表明です(p2)。

「社会主義朝鮮」を読むと、北朝鮮には悪いところなど一つもない。医療と教育は無料、住宅も水道料と光熱費を含めて格安です。

朝鮮民主主義人民共和国の社会主義建設は、千里馬のようなはやさで進んできたし、いまも進んでいます(同書p23 )。

労働者は国の主人公であり、誰も搾取されていません。人々は能力に応じて働き、労働量に応じて生産の分け前を受け取ります(p51)。

ところで、労働者の「能力」「労働量」をだれがどんな基準で評価するのでしょうか。

金日成が机に向かって1時間業務をするときに受け取る賃金と、労働者が建設工事や炭鉱で1時間働くときに受け取る賃金は異なっているのでしょうか。

金日成には「賃金」などなく、豪勢な生活を全て国費で賄っているのなら労働者は搾取されていませんか。

金日成の私生活の原資は労働者の労働の成果ではないでしょうか。この本を出版した新日本出版社の方にお尋ねしたいものです。

金日成に粉砕された反党分子はその後どうなったのか


内外の日和見主義者、大国主義者が妨害、干渉、陰謀をたくましくしていた時期がありました(同書p27-28)。

1956年8月の朝鮮労働党中央委員会は反党分子たち(副首相だった崔昌益と朴昌玉らのグループ)の陰謀を粉砕しました。

それでは、反党分子の方々が「粉砕」された後どうなったのか、この本は何も述べていません。川越氏の脳裏にはそんなことは微塵も浮かばなかったのでしょうか。

私見では、反党分子は裁判のような手続きもなく処刑された可能性が高い。北朝鮮では昔から、政治犯には裁判のような制度はありません。

「裁判」があっても、反党分子に弁護人がつくかどうか、極めて怪しい。弁護人も一緒になって反党分子を全力で弾劾してもおかしくない。

川越氏の脳裏には、二次大戦終了前にソ連軍が満州から朝鮮半島の北部まで侵攻し占領していった史実は思い浮かばなかったのでしょうか。

中国共産党と金日成の関係も、川越氏は想像すらできなかったのでしょうか。

北朝鮮の絶賛本としか言いようがないのですが、興味深い箇所について以下指摘します。

川越氏は上田耕一郎氏から「甲山派」の行方不明について情報を得られなかったのか


川越氏は昭和38年、44年と二度訪朝しています。この時期の日本共産党は、北朝鮮、在日本朝鮮人総連合会と親密な関係を維持していました。

川越氏は平壌国立大劇場で音楽舞踊叙事詩「栄えあるわが祖国」や創作オペラを観ました。

「栄えあるわが祖国」は金日成の父親の「朝鮮国民会」運動をとりあげていたそうです。

これには、金正日が何らかの役割を果たしていると考えられますが、この本には金正日の名は出ていません。この時期には金日成の妻、金聖愛がまだ権勢をふるっていました。

川越氏の二度目の訪朝時には、「甲山派」と呼ばれる労働党幹部らが追放、粛清されていたはずですが、川越氏はそれに気づかなかったのでしょうか。

不破哲三氏と上田耕一郎氏は当時からそれを察知していました。「北朝鮮 覇権主義への反撃」から明らかです(同書p20,p70)。川越氏は、上田兄弟と面識はなかったのでしょうか。

昭和45年の出版時なら、その前の朝鮮労働党の文献に「唯一思想体系の確立」という表現が出ていたはずですが、川越氏はその異様さに気づかなかったのでしょうか。

川越敬三氏は舞踊の崔承喜と声楽の永田弦次郎の現状について関心はなかったのか


川越氏は朝鮮人が優れた芸能の素質を持っている例として、舞踊の崔承喜と声楽の永田弦次郎(金栄吉)の名前をあげています(同書p133)。

二人とも昭和45年頃には既に消息不明になっていたはずですが、川越氏は訪朝時に北朝鮮当局に二人の現状について質問ぐらいはしなかったのでしょうか。

この本の「あとがき」によれば、昭和35年の夏、帰国協定の延長問題をめぐる日朝両国赤十字会談が約一か月にわたって新潟で行われました。

川越氏は報道陣の一人として、双方の記者会見を毎日聞きました。

川越氏によれば日本側の主張は、帰国事業を一日もはやく打ち切らせようとする自民党政府の方針に縛られたものでした(同書p214)。

朝鮮側の主張は、苦しい境遇にある在日朝鮮人への思いやりに満ちており、在日朝鮮人を激励する立場が貫かれていました。

川越氏はりっぱな政策をうちだしてくる朝鮮の社会主義について、ぜひ勉強したい思うようになりました。

川越氏の云うように、当時の自民党政府が帰国事業を一日もはやく打ち切らせようという方針を確立していたとは極めて考えにくい。

そういう方は政府内に少数ならいたかもしれませんが、多数派なら簡単に打ち切っていたはずです。

川越氏の主張通りなら、当時の自民党政府は北朝鮮当局が在日朝鮮人を奴隷として利用するために帰国事業を始めたことを察知していたことになります。

また、当時の日本政府が在日朝鮮人を厄介者扱いして皆帰国させようという方針を持っていたというような「研究」がありますが、それはありえない。

帰国事業を現場で見ていた川越氏の記述からもこれは明らかです。

昭和38年8月20日、川越氏、畑田重夫氏ら6人の訪朝団が金日成と会った


この本によれば、川越氏、畑田重夫氏ら6名が昭和38年8月20日に金日成と会いました(同書p174)。

会見場所は朝鮮労働党中央委員会本部でした。一行は1時間半、金日成と懇談しました。

金日成は日本の言論界が共和国北半部の社会主義建設についてとりあげると、その報道が南朝鮮にも伝えられ、南朝鮮人民に北半部の実情を知らせるのに役立っていると述べました。

金日成によれば、日本人民の闘争は朝鮮の自主的統一のかけ橋の役割をしています。

金日成は日本での北朝鮮宣伝が「南朝鮮革命」に重要な役割を果たすことを熟知していたのです。「朝・日両国人民の運命は一つです」と金日成は述べたそうです。

川越氏、畑田重夫氏らは深く感銘したことでしょう。「南朝鮮革命」すなわち大韓民国滅亡への協力こそ、日本人民の使命であると胸に刻んだことでしょう。

「社会主義朝鮮」を出版し、川越氏は金日成の期待に立派にこたえました。

53年も前のことですが、畑田重夫氏に当時の訪朝体験を語っていただきたいものです。北朝鮮による大韓民国滅亡策動を、国際政治学者畑田重夫氏はどう評価しているのでしょうか。

川越氏と大槻健早大教授(教育学)は、昭和44年訪朝時、両江道恵山にも行った(p41-42)


川越氏は共に訪朝した大槻健早大教授と、昭和44年訪朝時に平壌から両江道恵山に、北朝鮮の社会科学院幹部二人と列車で行ったそうです。

平壌からいったん南下して東に行き、ハムフン、新浦、北青、端川、金さくの各駅を経て吉州駅に到着。ここで列車が二つに切り離され、清津に向かう列車と恵山に向かう列車に分かれました。

恵山駅に着いた時には夜になっていました(p43)。この列車速度は、私が知っている北朝鮮のそれよりかなり速い。当時の北朝鮮は、90年代以降ほど電力、資源不足ではなかったのでしょう。

在日本朝鮮人が身内(帰国者)と会うために訪朝できる時期になると、「案内員」という監視役が常に同行するようになっていました。

川越氏と大槻健教授には「案内員」はついていなかったようです。川越氏らは恵山市の北側を流れる鴨緑江を見ました。川幅は渇水期のためせいぜい10メートル程度でした。

20数年後に、相当数の北朝鮮の人々がこの町から鴨緑江を越えて脱北します。渇水期なら川を渡ること自体は難しくない。警備隊を買収する外貨があれば大丈夫だったでしょう。

川越氏と大槻健早大教授が北朝鮮当局から聞いた金日成神話―普天堡戦闘はテロ行為、朝鮮人民革命軍は山賊


川越氏と大槻健教授は、車で普天の街まで行きました。普天には、かつて日本が警官の駐在所、面事務所(町役場)、郵便局、消防隊本部、金融組合などを設置しました。

川越氏によれば、これら機関の実態はみな朝鮮人民抑圧のための暴力装置で日本人たちが武器を持って集まっていたそうですが、荒唐無稽な話です。

町役場や郵便局、消防隊、金融組合に武器などあるはずがない。当時の日本では拳銃、鉄砲は貴重品でしたから、警察ですらいつも保有していたわけではない。

1920年生まれの川越氏には、その程度の推察力すらなかったのでしょうか。

川越氏によれば、1937年6月4日夜、金日成将軍が自ら引きいた朝鮮人民革命軍の一隊が鴨緑江と佳林川を越え、この町の日本の各機関をいっせいに襲撃しました(p43)。

敵を倒し、駐在所の留置場にとらえられていた朝鮮人を開放し、建物に放火したパルチザンは住民から歓声で迎えられました。

金日成将軍は群衆に向かって反日愛国勢力の団結を訴える演説をしました。

朝鮮人民革命軍の隊員たちは、「祖国光復会10大綱領」や朝鮮人あてのアピールを町中に張り出した後引き上げました。

「この町の日本の各機関をいっせいに襲撃」とありますがから、警察の駐在所はもちろん町役場や郵便局、消防隊も襲撃したのでしょう。

銃声が聞こえたでしょうから、役場や郵便局、消防隊の近くに住んでいた朝鮮人たちはどんなに恐ろしかったでしょう。

放火などしたら、普通の朝鮮人の家まで延焼してしまうかもしれません。消防隊も襲撃されたのでは、誰も消火できなくなってしまいます。

金日成の部隊が金融組合を襲撃したのなら、金品を強奪した可能性もあります。放火や金品強奪をして山中に逃げてしまう連中を、一般に山賊と呼びます。

川越氏らは遊撃隊の抗日スローガンがいまなお墨黒ぐろと読めるのを見た(p45)


川越氏らは金日成の指揮する遊撃隊の野営地と、隊員たちが樹の幹を削って書き記した抗日スローガンが今なお墨黒ぐろと読めるのを見ました。

「墨黒ぐろ」なら、その抗日スローガンはごく最近記されたのではないでしょうか。1930年代から、川越氏が訪朝した昭和44年(1969年)まで三十数年の歳月が流れています。

三十数年経てば、墨は雨で流れてしまうはずです。川越氏にはその程度の推察もできなかったのでしょうか。

この本を出版した新日本出版社の担当者は、川越氏の記述の奇妙さに気づかなかったのでしょうか。

川越氏らは恵山で普天堡戦闘勝利記念塔を参観しました。若き金日成将軍を先頭にたくましく前進する61人のパルチザン戦士と人民の彫像で、高さ38.7メートルの石とブロンズの塔です。

金日成の神格化が、川越氏の訪朝時でかなり進んでいたことがこの記述からもわかります。金日成の彫像など、無駄な公共事業の典型です。

川越敬三氏、国際政治学者畑田重夫氏は関貴星氏の「楽園の夢破れて」をどう評価していたのか


この本を執筆する際の資料として、訪朝した人の視察報告や、在日本朝鮮人総連合会のジャーナリスト、研究者の協力を得たそうです。

在日本朝鮮人総連合会関係者の中に、日本共産党や左翼人士の政治工作を担当する方がいらっしゃったのでしょう。「国際部」という部署の方がそういう仕事をする場合があるそうです。

在日本朝鮮人総連合会副議長だった金柄植氏もそういう仕事を担当していたはずです。上田耕一郎氏は、金柄植氏としばしば会っていました(「北朝鮮 覇権主義への反撃」p64)。

関貴星氏の「楽園の夢破れて」はすでに出版されていたのですが、川越氏は資料価値がなど全くないと判断したのではないでしょうか。

川越氏と共著を出している畑田重夫氏に、関貴星氏の「楽園の夢破れて」をどう考えていたのか、お尋ねしたいものです。

「社会主義朝鮮」と、関貴星氏の「楽園の夢破れて」のどちらが北朝鮮の現実を適切に認識していたのか。今日ではあまりにも明らかではないでしょうか。

川越敬三氏が礼賛した「主体思想」の文献を黄長ヨップ氏が主に執筆した―国際政治学者畑田重夫氏に問う


吉良よし子議員、池内さおり議員ら若い共産党員の皆さんは、川越敬三氏の「社会主義朝鮮」を読んだことがないかもしれません。絶版になっているのは残念です。

川越氏によれば、主体思想こそ朝鮮が世界に誇る指導理念です。

「チュチェ」という朝鮮語は、最近では西側諸国の進歩的な思想家のあいだでもそのまま新しい用語として使われ始めているそうです(同書p194)。

ところで、川越氏が礼賛した「主体思想」に関する当時の文献を主に執筆したのは、のちに亡命した黄長ヨップ氏です。

国際政治学者畑田重夫氏は、川越氏の「社会主義朝鮮」と黄長ヨップ氏による主体思想批判の数々の文献を、今日どう分析しているのでしょうか。


2016年11月12日土曜日

宮本百合子「モスクワの姿―あちらのクリスマス―」(「宮本百合子全集」第九巻。原著は「婦人サロン」昭和6年12月号掲載)より思う。

「五ヵ年計画がソヴェト同盟に実行されてはじめて、教会と坊主は、プロレタリアートと農民の社会主義建設の実践からすっかりボイコットされてしまった。農村で、青年・貧農・中農たちが現実に有利な集団農場を組織しようとする。

農村ブルジョアの富農は反対で、窓ガラス越しに鉄砲をブチ込み積極的な青年を殺したりした。坊主をおふせで食わせ飲ますのは富農だ。坊主と富農は互に十字架につらまって、農村の集団化の邪魔をする。

坊主を追っぱらえ!レーニンの云った通り、社会主義建設の実際からソヴェト同盟の反宗教運動は完成された。一九二九年、坊主はXマスであった日にパン屋の入口に職業服のまま立って乞食していた。」(同書より)


宮本百合子は1927年12月15日から3年弱、ソ連に滞在しました。この短い紀行文は帰国してから書かれたものです。

熱烈なソ連信者だった宮本百合子は、ソ連が搾取者だった富農を排除して着実に社会主義を建設し、労働者と農民の国になっていくことを示したかったのでしょう。

共産主義理論によれば、ロシア正教会は基督教という非科学的な世界観で労働者と農民を奴隷的地位に縛り付ける役割を果たしています。

宮本百合子が買った本「聖書についての愉快な物語」


宮本百合子は、ロシア語はあまり読めなかったそうですが、モスクワの国立出版所で「聖書についての愉快な物語」という本を買いました。この本には次のように記されていました。

「諸君。一冊の本がある。それを教会で坊主が読むときには、みんな跪いて傾聴する。開けたり閉めたりするときは、一々接吻する。その本の名は聖書だ。

ところで、聖書には、神の行った実に数々の奇蹟が書かれている。神は全智全能だと書かれている。

けれども、妙なことが一つある。それは、その厚い聖書を書いたのは神自身ではない。みんな神の弟子たちだということだ。ヨブだのマタイだのと署名して弟子が書いている。

全智全能だと云いながら、して見ると神というものは本はおろか、自分の名さえかけなかった明きめくらだったんだ。」

1927年当時のソ連では、実に品のない基督教批判がなされていたのです。私は基督教徒ではありませんが、これは酷い。

神が自分で本を書くわけがない。ばかばかしいことこの上ない。

宮本百合子はロシア正教会の聖職者を「坊主」と訳していますが、悪意のこもった訳です。

「坊主」とは仏教の僧侶を、見下して使う俗語ですから。普通は「お坊さん」と言います。

そもそもロシア正教会の聖職者は仏教徒ではない。宮本百合子は仏教も「封建社会の遺物」などと把握していたのでしょう。

富農と聖職者の追放、粛清はレーニンの遺訓


当時のソ連共産党は、レーニンの遺訓に依拠し、教会の聖職者は富農の手先だから粛清せよ!という方針を保持していました。

宮本百合子はそれを「坊主を村から追っぱらえ!レーニンの云った通り、社会主義建設の実際から、ソヴェト同盟の反宗教運動は完成した」と表現しました。

レーニンは繰り返し、富農の粛清を強調しています。

いささか奇妙ですが、私は宮本百合子は社会の動きに関する感覚の鋭い人だったと思いました。

宮本百合子が滞在していた時期に、ソ連社会は「人間抑圧型社会」(不破哲三氏の表現)に変貌していきます。

全体主義がソ連で確立されていく時期だったのです。

工業化を急速に達成するためには、「五ヵ年計画」と農業集団化で農村の余剰を工業化に強制配分せねばならない。

そのためには農民から移動の自由、職業選択の自由を奪い、共産党の指令に服従するよう、思想改造をせねばなりません。労働者もソ連共産党の指令に従い、黙々と働くようにせねばならない。

宮本百合子はソ連共産党の反宗教運動を「社会進歩」と認識していた


労働者、農民がスターリンとソ連共産党よりロシア正教会の聖職者を偉いと考えているようでは、共産党の指令に従わなくなってしまいます。

ロシア正教会のおしえは、ロシア人の心に深くしみ込んでいました。ロシア正教会の聖職者に対する尊敬感は社会主義建設の障害でしかない。

ソ連共産党はこれを上記のような本で除去しようとしたのです。クリスマスも徐々に廃止させようとしました。

宮本百合子によれば、1928年のクリスマスの日には樅の木売りがモスクワの目抜きの広場から姿を消していました。

モスクワの労働者クラブで、夜明け頃まで反宗教の茶番や音楽、ダンスがあったそうです。

富農とロシア正教会の聖職者を追放し、建設現場や政治犯収容所で奴隷のごとき囚人労働をさせることは、工業化の財源確保のためでもありました。

宮本百合子が上記のような背景を承知していたとは考えにくいですが、富農と聖職者の追放が社会を大きく変える重大事であることを宮本百合子は感知していました。

富農と聖職者の追放、下品な反宗教運動を宮本百合子は大真面目に「社会進歩」などと把握していたのです。

Christmasに乞食をしていた聖職者はその後どうなったのか


ところで、宮本百合子が目撃した、1929年のクリスマスの日にパン屋の入り口で乞食をしていた聖職者はその後、どうなったのでしょうか。

この方が所属していたであろう教会は反宗教運動により破壊されてしまったのでしょうか。

ロシア正教会聖職者の多くは、凍えるモスクワの冬を越えられず、餓死していったのかもしれません。

宮本百合子が本質的に残虐な性格の持ち主だったとまでは思えませんが、この一文には「搾取を擁護してきた坊主は死ね!」というメッセージが込められている。

「階級的憎悪心」というものでしょう。乞食をしていた聖職者は失業していたと言えるはずですが、憎しみでいっぱいになってしまっているこの方にそんな発想の転換ができるはずがない。

ソ連にも、失業者がいたということです。「人民の敵」として囚人労働をさせられなかったが、その類とみなされて国有企業で職を得られなかった人はいたはずです。

十年ほど後には、スターリンが国民を戦争に徹底動員するため、ロシア正教会を利用します。そのときまで、ロシア正教会の聖職者たちはどうやって暮らしていたのでしょうか。気になりますね。

吉良よし子議員は宮本百合子のソ連礼賛文を読んでいるのか


吉良よし子議員や「民主主義文学運動」に参加されている皆さんは、宮本百合子の数々のソ連礼賛文をどう評価しているのでしょうか。

吉良よし子議員は読書好きだそうです。宮本百合子の「モスクワの姿」は、青空文庫でも読めます。是非読んで、感想をホームページなどに書いて頂きたいものです。

私には吉良よし子議員が教会の牧師や神父、仏教の僧侶を憎んでいるとは到底考えられないのです。宮本百合子のような発想で宗教者を見ているのなら、「市民との共闘」などありえません。

聴濤弘氏(日本共産党元参議院議員)なら、宮本百合子のソ連礼賛文を御存知でしょう。その話をするといろいろ厄介なことになるから黙っているのでしょうね。

宮本百合子の「歌声よおこれ」の「歌」とは、在日本朝鮮人総連合会の皆さんが歌う「金日成将軍の歌」「金正日将軍の歌」と大差ない。

「モスクワの姿ーあちらのクリスマス」を読んで改めてそう感じました。







2016年11月4日金曜日

アンドレ・ジイド「ソヴェト旅行記修正」(昭和27年新潮文庫)より思う

「立身出世の早道は密告である。密告をすると警察とよきつながりができるし、その庇護をうけることになる。但し警察から利用されることにもなるが。

一度、これをやりはじめたが最後、もはや名誉や友情に拘ることなく、ただ密告一筋道あるのみとなる。(途中略)不穏な言葉を耳にしながら、早速申し出なかった者は投獄または流刑に処せられる。したがって、密偵行為は一つの市民的な美徳とすらなっているわけである。」(同書p30-31から抜粋)


スターリンの時代のソ連社会の特徴の一つは、市民間の密告です。知人が不満を言ったら警察に密告しないと、自分が投獄、流刑されるかもしれない社会でした。

今の北朝鮮と同じです。こんな社会で生きていくことはどんなに困難だったでしょう。

1956年のフルシチョフによるスターリン批判より約20年も前に、ソビエト社会の実情を暴いたジイドの慧眼に感服させられます。

「ソヴェト旅行記修正」の解説(小松清氏)によればジイドのこの評論は、前著「ソヴェト旅行記」が出てから半年あまり後の1937年6月(昭和12年6月)に発表されました。

「ソヴェト旅行記」は、ロマン・ローランにより厳しく批判されました。ジイドはこれらに答えるため再度ソ連批判をしました。上記はその一部です。

スターリンとソ連共産党による独裁体制、今日の不破哲三氏によれば「人間抑圧型社会」が形成されていることをジイドはいち早く看破したのです。

不破哲三氏がソ連を「人間抑圧型社会」と規定したのはソ連崩壊後です。

ソ連について、日本共産党員がジイドと同様の認識に至るまでおよそ53年の歳月が必要だったのです。

宮本百合子のジイド批判―「こわれた鏡」は「人間抑圧社会」礼賛


ジイドの反論文は、「中央公論」昭和12年10月号に「ローランその他への反撃」という題名で翻訳されて掲載されたようです。

宮本百合子は「こわれた鏡―ジイド知性の喜劇―」(「帝国大学新聞」昭和12年10月11日号)と題してジイドを批判する評論を書いています。

宮本百合子は、ジイドが引用している統計をソ連当局が公開し発表していること自体が、ジイドによって描かれているとは異なった現実があることを読者に感じさせると主張しています。

宮本百合子は、ジイドは歴史の本質を把握しておらず猛烈な自己分解を行っていると論じています。

今日の不破哲三氏から見れば、宮本百合子は「人間抑圧型社会」の形成が「歴史の法則的発展」であると断言したことになります。

宮本百合子の「歌声よ、起これ」という新日本文学会の由来の呼びかけは、日本をソ連のような人間抑圧社会に変えていくための「歌声」だったのです。

「私たち一人一人が、社会と自分との歴史のより事理にかなった発展のために献身し、世界歴史の必然な動きをごまかすことなく映し返して生きてゆくその歌声」と宮本百合子は新日本文学を規程しています。

「歴史のより事理にかなった発展」「世界歴史の必然的な動き」とやらの先頭に立っているのは、スターリンとソ連共産党が指導するソ連邦である、と宮本百合子は考えていたに相違ありません。

宮本百合子ら当時の日本共産党員はスターリンとソ連共産党を深く信頼し、敬愛していました。

夫君の宮本顕治氏はマルクス・レーニン・スターリン主義とやらへの盲信を「前衛」掲載論文で表明しています。

百合子のソ連社会生活体験が、宮本顕治氏の盲信を深めさせてしまったことは想像に難くない。

在日本朝鮮人総連合会の皆さんは、「金日成将軍の歌」「金正日将軍の歌」を歌っていらっしゃるでしょうが、宮本百合子が起こそうとした「歌声」はこれと大差ありません。

スターリンの時代のプラウダ、イズベスチヤにはソ連の問題点を暴く記事があった―ブハーリンの意志か?


ジイドの「ソヴェェト旅行記修正」にはプラウダやイズベスチヤに掲載されている統計やソ連の問題点を暴く記事を根拠にしてソ連の問題点を述べている部分は確かにあります。

これには私も少し驚きました。1936年なら、イズベスチヤの編集長はブハーリンです。ブハーリンは1937年の早い時期に逮捕されてしまいます。

当時のソ連の新聞には、現在の北朝鮮の「労働新聞」「民主朝鮮」と異なり、自国の問題点を多少は暴く記事があったのですね。ブハーリンの意志が反映されていたのかもしれません。

「多少」としか言えないのは、「富農」「人民の敵」とレッテルを貼られた人々が政治犯収容所やシベリアで強制労働をされている事実や、彼らによるソ連共産党批判が当時のソ連の新聞に掲載されていたとは考えにくいからです。

1932年から33年のウクライナでの大飢饉についても、当時のソ連の新聞に記事が掲載されていたのでしょうか。ジイドですらこれを知らなかった可能性が高い。

肝心なところは書かないで、枝葉末節部分を掲載するしかなかったのでしょう。キーロフ暗殺後のソ連社会で、スターリンの権威を根本的に脅かすような記事が掲載されるとは考えにくい。

ソ連における搾取―資本家はいないが特権層が存在する


ジイドは、ソ連には資本家はいないが高額の報酬を受け取り、権力をふるう官僚、特権層が存在していると指摘しています。

高級官僚、特権層はスターリンと運命共同体ですから、現行制度の忠実な支持者です。彼らの高収入の源泉は、労働者の低賃金による剰余です。

そんな連中より、市場経済で倒産の危険を引き受けて企業経営をする資本家のほうがどれだけましかわからない。

普通の資本家や企業経営者には政治家の御機嫌を取らねばならない誘因はありません。

私見では、ソ連や中国の共産党員は資本家というより、地代を得ている地主に近い。彼らは土地を所有していませんが、国家の権限を利用して高収入を得ています。

権限を利用した収入(賄賂)や地代を英語ではRentと言います。

寡占市場にも、Rentは生じます。国家の権限利用という「サービス」を供給する官僚は「独占企業」ともいえる。独占市場、寡占市場では資源が非効率的に配分されてしまいます。

マルクス主義経済学の理屈はどうあれ、ソ連社会で一般の労働者は低賃金で黙々と働くしかなかった。所属企業の運営方針に正直に意見を述べることは殆どできなかった。

国営企業の運営方針に不満を述べれば、監獄行きか流刑になってしまいかねません。労働者がそんな状態なら、通常の日本語では搾取されているというべきです。

ジイドによれば個人の内部的な改革を伴わずして社会状態の変化はない。ソ連で新しく形成されつつあるブルジョアジーは、西欧のブルジョアジーと大差ない。

彼らは共産党員かもしれないが、心の中のどこに共産主義があるのか。一向に見当たらないとジイドは述べています(同署p61)。

ジイドはなぜソ連の本質を見抜けたのか―ソ連から戻ってきたルドルフ氏の叫び「スターリンの犠牲者を救い出すため、どうか力になって下さい!」


ジイドはなぜ、ソ連が全体主義社会になっていることを看破できたのでしょうか。

本人の慧眼もさることながら、ソ連から仏に逃げてきた人々がもたらした情報をジイドが得ていたことも重要な要因でしょう。

「ソヴェト旅行記修正」の末尾に、当時の読者がジイドにあてた手紙が掲載されています。p131-134に、A・ルドルフという方のジイドへの手紙があります。

ルドルフ氏はかつて共産党員であり、ソヴェト政府の役人として三年以上新聞関係の仕事をしました。1934年12月のキーロフ暗殺事件の後、ルドルフ氏は仏に戻りました。

ルドルフ氏は実体験からソ連社会の恐ろしさを知り、「ソヴェト・ロシアよりの決別」という著書を出したそうです。

ルドルフ氏はジイドへの手紙で、ジノヴィエフ・カーメネフ裁判、白海やシベリア、トルキスタンにいる数千の「反革命家」の問題に関心を訴えています。

スターリンの犠牲者を救い出すため、どうか力になって下さい!とルドルフ氏は書いています(同署p134)。

聴濤弘氏(日本共産党元参議院議員)、吉良よし子議員は宮本百合子による「人間抑圧社会」礼賛をどう受けとめているのか


「ソヴェト旅行記修正」が新潮社から出版されたのは昭和27年でした。

ジイドのソ連批判を、当時の宮本顕治氏や蔵原惟人氏は一蹴してしまったのでしょう。

宮本顕治氏、蔵原惟人氏ともに狂信的なソ連礼賛論文を「前衛」に掲載していたことを、本ブログで何度か指摘してきました。

昭和27年頃若き活動家だったであろう不破哲三氏や畑田重夫氏も、ジイドのソ連批判には一切耳を傾けなかったのでしょう。

吉良よし子議員、池内さおり議員ら若い共産党員や、「民主主義文学運動」に参加している方々は、宮本百合子が「人間抑圧社会」を礼賛してしまった史実をどう受けとめているのでしょうか。

ソ連問題の「専門家」聴濤弘氏(日本共産党元参議院議員)なら、宮本百合子によるジイド批判を御存知のはずです。

ジイドの見解は「こわれた鏡」である、という宮本百合子のソ連論は適切だったと聴濤弘氏は本気で考えているのでしょうか。

共産主義者は「反党・反革命分子」「反党宗派分子」の処刑を支持する


宮本百合子の観察眼は、少なくともソ連社会に関する限り完全に曇っていたのです。色眼鏡で見てしまうと全てがバラ色に見えてしまう。

この件に深入りすると不破哲三氏から批判されて厄介なことになるから黙っていよう、と民主主義文学運動の参加者は判断しているのでしょうか。

そうであるなら、文学者というより海千山千の狡猾な政治家ですね。「民主主義文学者」として生きていくためには、共産党の最高指導者の顔色を常に窺わねばならない。

今日の在日本朝鮮人総連合会の皆さんは、脱北者の声に一切耳を傾けません。在日本朝鮮人総連合会の皆さんは、「反党反革命宗派分子」張成澤の処刑を大喜びしているのでしょう。

宮本百合子や宮本顕治氏も、「人民の敵」ブハーリンの処刑を当然視していたのでしょう。宮本夫妻が「モスクワ裁判」への疑問を表明したなどという話は聞いたことがありません。

共産主義者とは、「反党・反革命分子」「宗派分子」の処刑を支持する「こわれた鏡」を持っている方々なのです。







2016年10月23日日曜日

統一朝鮮新聞特集班「『金柄植事件』-その真相と背景」(昭和48年統一朝鮮新聞社発行)より思う

「『総連』の内部事情からみれば、1971年1月ひらかれた『九全大会』で、金柄植は筆頭副議長に選出され(後に『第一』副議長をせん称)『総連』は、韓・金体制で完全に固められるところとなった。だが、それは韓・金両人、就中金柄植が、自分に気にくわぬか、阿諛追従せぬ良心的にして気骨のある古い幹部や中堅活動家等千数百名を、あるいは宗派分子、あるいは非組織策動分子といったレッテルをはるなど、あらんかぎりの理不尽な手段方法でもって追放した結果、確立されたものであった。」(同書p20より抜粋)


北朝鮮の現実を考えるためには、金日成、金正日そして金正恩に絶対的な忠誠を誓ってきた在日本朝鮮人総連合会が行ってきたこと、果たしてきた役割を分析することは大事です。

金父子への絶対的忠誠を、「唯一思想体系」「唯一指導体系」の確立と表現します。北朝鮮の特殊用語・表現を、在日本朝鮮人総連合会の文献で少しずつ理解しなければなりません。

昭和48年に発行されたこの本は、当時の在日本朝鮮人総連合会で生じた最高幹部間の権力争いと在日本朝鮮人総連合会の実態を赤裸々に暴いています。

「統一朝鮮新聞社」は、後に「統一日報」になります。「統一日報」に近年掲載された故佐藤勝巳氏の手記について、本ブログでは何度も批判してきました。御時間のあるときにご覧下さい。

この本を読むと、金日成や朝鮮労働党から在日本朝鮮人総連合会に、在日本朝鮮人総連合会の「経済使節団」や万景峰号(北朝鮮の船)を通して「提講」という指示が出されていたことがわかります。

「提講」という語は日本語にはありません。韓国でも、企業や団体の長が社員や会員に指示を出すときこんな言葉を使わないでしょう。北朝鮮の特殊用語です。

「提講」と、金日成の「教示」や金正日の「お言葉」がどう違うのか、私にはわかりません。この本には金正日の名前は出てこない。70年代前半にはまだ金正日は表に出ていなかったのです。

この時期の「提講」にも、金正日の決済があった可能性もあります。

この本には私たち日本人にはなじみのない方々の御名前が次から次へと出てくるので、わかりにくい。

韓徳銖議長と金柄植氏による在日本朝鮮人総連合会支配と、権力闘争


この本の中心内容は、次です。

当時の在日本朝鮮人総連合会の議長は韓徳銖氏でした。

この本によれば、韓徳銖議長は在日本朝鮮人総連合会の全組織を自分一人の支配下におき、縁戚関係にある金柄植氏を自分に次ぐ第二人者に仕立てようと策してきました。

昭和46年の「九全大会」で金柄植氏は名実ともに在日本朝鮮人総連合会の第二人者になりましたが、今度は韓徳銖議長をもさしおいて、在日本朝鮮人総連合会の運営を自分勝手に仕切るようになりました。

金柄植氏は自分に直属する秘密工作部隊である「ふくろう部隊」(総連内の俗称)に命じて、韓徳銖議長宅に盗聴器をつけていたそうです(同書p4)。

四十五年くらい前のことですが、「ふくろう部隊」という組織があったことは間違いない。私はその組織に入っていた方とお会いしたことがあります。

在日本朝鮮人総連合会の所業について、当時の日本共産党最高幹部は怪しいと感じていた可能性があります。

油井喜夫氏の力作「汚名」(平成11年毎日新聞社刊行, p81-89)は、昭和47年5月頃「新日和見主義者」とレッテルを貼られた民青同盟幹部が北朝鮮との関係を当時の日本共産党中央から疑われたことを記しています。

権力闘争は朝鮮労働党の「鶴の一声」で決着がついた


盗聴器を付けた方がそれを自白し、韓徳銖議長も黙っていられず巻き返しにでました。朝鮮労働党は様々な経路で在日本朝鮮人総連合会の動向を常に把握しています。

韓議長と金柄植氏の争いは結局、朝鮮労働党の次の指示で決着を見ます。

昭和47年12月13日に新潟港に停泊していた北朝鮮の船「万景峰号」で総連側に次の指示が示されました。

提講「総連内に主体思想を徹底的に樹立することは、在日本朝鮮人運動の勝利的前進のための決定的担保」が金柄植氏を「反党、反革命、宗派策動分子」と規定しました。

この奇奇怪怪な表現も普通の日本人にはなじみにくいですが、要は歴史上最悪の人間ということです。北朝鮮では朴憲永、後に張成澤らがこの類のレッテルを貼られました。

同時期の日本共産党は、民青同盟の幹部たちに「新日和見主義者」というレッテルを貼り過酷な「査問」をしました。

旧ソ連では、「富農」「人民の敵」、中国では「走資派」というレッテルを貼られた人たちがいました。

金柄植氏は昭和47年秋ぐらいには北朝鮮に召喚され、「学習」にやられたようです。その後長く金柄植氏の消息は伝えられませんでしたが、金日成が亡くなる少し前に出てきました。

二十年ほど、金柄植氏が何をしていたのか、なぜ突然出てきたのかは不明です。「反党反革命宗派分子」が復権した珍しい例です。

金日成の還暦祝いに莫大な贈り物-総額50億円以上と「人」-


この本によれば、在日本朝鮮人総連合会は金日成の還暦祝いと称して莫大な贈り物をしました。総額で50億円以上とあります(p100)。以下、少し紹介しておきます。

・総連「中央」はフィルム製造やオフセット印刷等3つの工場設備に技術者をつけておくった。その費用が約20億円。

・大阪本部は、金日成の邸宅の家具調度・装飾一式でその負担金1億5千万円。

・兵庫本部は内閣の首相執務室の調度・装飾一式で1億3千万円。

・東京が「労働党」総秘書事務室の調度・装飾一式で1億3千万円。

昭和47年に総額50億円の「贈り物」が真実ならとんでもない額です。主に供出したのは、朝鮮商工人の皆さんでしょう。朝鮮商工人は、どこからどうやって資金を出しているのでしょうか?

正確な金額は不明ですが、途方もない金品と物資がこれまで北朝鮮に運ばれて行きました。核兵器や生物・化学兵器を製造するための資金だけでなく設備や機器も運ばれている可能性が高い。

「平和運動」に励む左翼の諸団体はなぜ、朝鮮商工人による北朝鮮への核軍拡資金提供を批判しないのでしょうか。

上記からも明らかですが、在日本朝鮮人総連合会は「技術者」すなわち人を「贈り物」にしてしまう組織なのです。

この時期、「オートバイ部隊」などと呼ばれた若者たちが200人くらい、北朝鮮に「贈り物」として送られました。人の贈り物とは、「奴隷」ではないでしょうか。

朝鮮労働党の「南朝鮮革命路線」から考えれば、「南朝鮮解放」のために資金と物資、「奴隷」を在日朝鮮人が「朝鮮半島北半部の民主基地」である北朝鮮に献上するのは当然です。

日本は大韓民国滅亡策動に協力すべきなのか


「南朝鮮解放」とは大韓民国を滅亡させることです。日本人、日本政府はこれに協力すべきなのでしょうか。日本人、日本政府は金正恩の贅沢生活維持に協力すべきなのでしょうか。

かつての日本の左翼、特に日本共産党は朝鮮労働党の「南朝鮮革命路線」を支持していました。大韓民国を国家として認めていなかったのです。「米国の傀儡」と規定していました。

これは、1960年代の「赤旗」や「前衛」を図書館などで探して調べればすぐにわかります。

吉良よし子議員、池内さおり議員ら若い共産党員は、日本共産党と朝鮮労働党の共同声明や帰国事業など御存知ないかもしれません。

最近の「赤旗」や「前衛」には掲載されていませんから。

若い共産党員には、一昔前の日本共産党の文献を直接読んで自分たちの先輩がやってきたこと、主張してきたことを考えることができないのです。

知的誠実さ、粘り強さが欠けている。

聴濤弘氏(日本共産党元参議院議員)や国際政治学者の畑田重夫氏なら、日本共産党と朝鮮労働党が日韓条約粉砕、米国批判などで協力してきたことをよく御存知です。

国際政治学者畑田重夫氏に問う―大韓民国は滅ぶべきなのか


「現代朝鮮論」を研究テーマの一つになさっている国際政治学者畑田重夫氏は、普段から新聞各紙を熱心に読み込んでおられるそうです。

それならば、畑田重夫氏は金柄植氏の所業や北朝鮮の政治犯収容所、出自で個人を差別する「成分」制度について十分な情報を得ているはずです。

畑田重夫氏は、在日朝鮮人による集団的帰還事業である帰国事業の実現のために粉骨砕身の努力をされました。

「社会主義朝鮮」とやらへ笑顔で帰国していった元在日朝鮮人や日本人妻のことを、畑田重夫氏なら今でも覚えているはずです。

帰国者と呼ばれる彼らは、北朝鮮で徹底的に差別され、常に監視対象におかれました。自由な日本社会を知っている元在日朝鮮人は、気軽に朝鮮労働党幹部を批判してしまいます。

結果から見れば、帰国事業とは「奴隷運搬事業」でしかありませんでした。

昭和30年まで、在日朝鮮人の共産主義者は日本共産党員でした。畑田重夫氏なら、当時の事情を御存知でしょう。

畑田重夫氏は在日本朝鮮人総連合会の幹部の方々と、かつては共に日韓条約粉砕などの社会運動に参加されたのではないでしょうか。

畑田重夫氏の若い頃の著作「朝鮮問題と日本」(新日本新書、昭和43年刊行)では、朝鮮半島は北朝鮮により統一されるべきであること、すなわち大韓民国は米国の植民地だから滅亡されるべきであるという論調で一貫しています。

当時の日本共産党は、朝鮮労働党との共同声明で、「南朝鮮革命路線」支持を表明していました。畑田重夫氏の著作「朝鮮問題と日本」は当時の日本共産党の路線に沿っています。

畑田重夫氏は国際政治学者としての社会的責任を果たすべきだ


今の畑田重夫氏は、若い頃の御自分の著作は出鱈目だったと本音では思っているが、それを吉良よし子議員、池内さおり議員ら若い共産党員には内緒にしているのかもしれません。

若い頃の失敗は人生経験として大事ですが、畑田重夫氏の著作を信じて大韓民国滅亡のための宣伝や運動に参加してしまった元民青同盟員は少なくない。

その方々も今では、70歳近くになっているのでしょうけれど。

畑田重夫氏には是非、かつての御自分の著作と北朝鮮の凄惨な人権抑圧の実態、大韓民国の滅亡が必要か否かについて見解を表明して頂きたい。

それが、国際政治学者として果たすべき社会的責任ではないでしょうか。













2016年10月16日日曜日

H. G. ウェルズ「影のなかのロシア」(みすず書房昭和53年刊行。Russia in the Shadows by H. G. Wells, 1920)より再び思う

「私は、広く支持された教育的なキャンペインによって、現存の資本主義組織をコレクティヴィズム的な世界組織へと教化していくことができる、と信じている。これに反してレーニンは、不可避的な階級闘争、再建への序曲としての資本主義秩序の崩壊、プロレタリアート独裁等々といったマルクス主義のドグマを何年来信奉しているのである。

だから彼の主張は、近代の資本主義が癒し難いほど略奪的、浪費的で、教えることなどできないものであり、打倒されるまで人類の遺産を愚かしく無目的に搾取しつづけるであろう、...それは本質的に奪い合いなのだから不可避的に戦争をひきおこすであろう、ということであった。」(同書p103-104より抜粋)。


英国のSF作家ウェルズは1920年十月にソ連を訪れ、モスクワでレーニンと会いました。ウェルズはそのときの経緯と中身を、同書で明らかにしました。

上記はレーニンとウェルズの討論内容の一部です。

ウェルズは、自らを漸進的なコレクティヴィストと位置づけ、マルクス主義者であるレーニンと大きく異なっていると述べています。

戦争はなぜ起きるか―ウェルズ「資本主義的社会組織から起きるのではない」


ウェルズによれば、戦争は国家主義的帝国主義から起きるのであり、資本主義的社会組織から起きるのではありません(同書p104-105)。

これに対しレーニンは資本主義はつねに奪い合うものであり、コレクティビズム的な活動の正反対であるから社会的、世界的な統一に発展することはできないと述べました。

ウェルズの主張は、ドイツ社会民主党の理論家カウツキーの「超帝国主義論」ないしは後の構造改革論者に近い。

「構造改革論」とは、昔の社会党の江田三郎氏や神奈川県知事になった長洲一二氏らが唱えたマルクス主義の理論です。

私見では現在の日本共産党の帝国主義論も、ウェルズの主張に接近しています。現在の日本共産党の革命理論も、「構造改革論」と似ています。

吉良よし子議員、池内さおり議員ら若い共産党員は、「構造改革論」を御存知でしょうか。若き不破哲三氏、上田耕一郎氏は「構造改革論」を「修正主義」と徹底批判しました。

両氏の「マルクス主義と現代イデオロギ―」(大月書店刊行)を読んで頂きたいものです。

戦争はなぜ生じるか―開戦時と非開戦時それぞれで得られる「利益」の大小


私見では戦争、組織的暴力は開戦した場合に得られる「利益」と、開戦しなかった場合に得られる「利益」を国家や社会組織の支配者が比較し、前者が後者より大きいと見なせば生じます。

「利益」の大きさは、開戦時に勝利できる確率に依存する。「利益」は勝利時に得られる物的、人的資源や「名誉」に依存する。

社会の中で資本主義企業の占める位置は戦争の勃発とはほとんど関係はありません。

レーニンとボリシェヴィキは「帝国主義戦争を内乱に転化せよ」と主張し内戦を起こしましたが、彼らは「独占資本」とは直接関係がない。

レーニンがドイツ政府から資金援助を受けていたという疑惑はありますが。

独占資本、大企業が存在しない時期にも、欧州諸国は植民地争奪戦を繰り返しました。

中国史は、北方遊牧民族との抗争の歴史でもあります。匈奴や突厥、鮮卑、モンゴルや満州族には独占企業は存在しませんでした。その頃の漢族にも、独占企業は存在しない。

北朝鮮が韓国に侵攻したのは、スターリンと毛沢東の承認を受け、金日成は勝利できると予想したからです。

ウェルズの戦争論のほうが、レーニンの「戦争の根源は独占資本主義だ」論より歴史の現実にふさわしい見方でした。

しかしウェルズも、その後のソ連が勢力圏を広めるべく、東欧や朝鮮半島に侵攻することは予想できなかったでしょう。

ウェルズは西側が「トラスト」(企業合同)を結成してボリシェヴィキと交易すべきと主張した


ウェルズは、前に本ブログで紹介したようにロシア革命後のペテルブルグとモスクワの現実をよく見ていました。

ウェルズによれば、ボリシェヴィキはロシアで私有財産と私的な商取引を便宜的でなく正義の問題として抑圧しました。

ロシア全土には、西欧の商業生活の慣習・慣例を尊重するような商人、商業団体は残っていません(同書p111-112)。

実際には、闇屋がかなり残っていたはずですが。闇屋が農民から穀物を買い上げ、都市に運んでいたからこそ、生き延びることができた都市住民は少なくなかった。

ボリシェヴィキは私企業家たちを海賊のようにみなしていたそうです。

この時期のレーニンとボリシェヴィキは私企業家を敵視していました。商業活動を禁止する「戦時共産主義」策は、市場取引を抑圧し住民生活を悪化させました。

ウェルズによれば、ロシアの共産主義者は買い物や市場での売買を禁止したとき、店やマーケットをどう扱うかを実際に考えていませんでした(同書p36)。

ボリシェヴィキは資本主義を打倒しさえすれば、貨幣の使用と商売を中止すれば、そして社会的差別を一切廃止すれば、それだけで一種の至福千年王国がやってくると信じている狂信家たちです(同書p68)。

これでは、社会が荒廃し経済がどん底に落ちていくのは当然です。狂信家に国家の運営、特に軍と警察を任せたらとんでもない凶行をやりかねない。

ウェルズは絶望的な経済破壊に直面しているロシアを救うために、西側諸国がトラスト(企業連合)を形成してボリシェヴィキと交易することを主張しています。

それでもウェルズは、ボリシェヴィキのロシアが新しい何かを作り出すと期待していたのです。


ウェルズの期待は裏切られ、社会主義は商人の集合体になった―共産党員が権限を使って金もうけをする現代中国


その期待は、富農の一掃とロシア正教会の徹底弾圧を指令し断行したレーニンにより裏切られました。

レーニンは「新経済政策」により戦時共産主義の失敗を認めました。

農民が生産した穀物を一定割合の現物税を支払った後、自由に処分して良いなら簡単に「富農」になれます。闇市が公然化し小商業ができるなら、金儲けをする人はいくらでも出ます。

皆が富農になって金もうけをしてよいなら、社会主義とは商人の集合体でしかない。

金もうけを正当化したら、共産党員と言えども金が一番大事という流れになります。

スターリンは新経済政策により金もうけをした「ネップマン」を敵視し、再び富農を一掃しました。富農一掃は、レーニン主義です。

権力から生じる権限の配分により金もうけをする共産党員は「商人」です。新経済政策の帰結は共産党員の商人化です。

不破哲三氏らの主張する「社会主義を目指すレーニンの探求」が新経済政策であるなら、中国共産党と朝鮮労働党がそれを立派に継承しています。

金正日は39号室という外貨稼ぎ(金山や石炭、鉄鋼石生産部門も含まれる)、外貨管理部門を持っていました。「経済の管制高地」を金正日が掌握していたのです。まさに新経済政策です。















2016年10月9日日曜日

畑田重夫・川越敬三著「朝鮮問題と日本」(昭和43年新日本出版社刊行)より思う

「朝鮮の統一という課題を追及する努力とたたかいが民主主義のためのたたかいとして承認されるのなら、戦争は政治の継続ですから、民主主義のための戦争(内戦)もまた承認されなければなりません。



その意味で、わたしたちも、だれが、どちらが朝鮮戦争を始めたかということよりも、「韓国」およびアメリカの支配階級の客観的情勢の分析に主力をそそいできたのでした」(同書p107より抜粋)。


畑田・川越両氏は、朝鮮戦争を始めたのが北朝鮮、朝鮮労働党であったとしてもそれを民主主義のためのたたかいとして正当化しています。

この本の奥付によれば畑田重夫氏は1923年(大正12年)生まれで国際政治学者です。川越敬三氏は1920年(大正9年)生まれでジャーナリストです。

御二人とも、日本朝鮮研究所所員と出ています。残念ながらこの本は現在は絶版になっているようです。

昭和43年当時の日本共産党員は、この本を現代朝鮮研究の最高の到達点として受けとめていたことでしょう。

「団塊の世代」くらいの日本共産党員が、民主青年同盟員としてこの本を一生懸命学習したはずです。

畑田重夫氏は現在でも、日本平和委員会や原水協、労働者教育協会などで活動されています。

民主主義とやらのために、朝鮮人民軍がソウル市民を殺戮することが正当化されるのなら、日本人や韓国人の拉致、大韓航空機爆破なども正当化されるのでしょう。

民主主義のために韓国人は死ね!という主張と上記に違いがあるでしょうか。この本は、韓国をアメリカの完全植民地と規定しています(同書p99, p180)。

南朝鮮人民にとっては、「日韓条約」を破棄し、アメリカ帝国主義に従属する日本独占資本と日本帝国主義の南朝鮮侵略のたくらみとたたかうことが、南朝鮮を解放する革命の大きな課題となっていると両氏は主張しています(p180)。

吉良よし子議員、池内さおり議員ら若い共産党員は畑田重夫氏のこの本を御存知ないかもしれません。この本は、当時の日本共産党の朝鮮問題に関する政策と十分整合的でした。

若い共産党員は、一昔前の日本共産党の文献を図書館などで探して読み、日本共産党と「平和運動」「民主運動」の歴史を自分の頭で考え、整理していくことができにくい。

共産主義者として朝鮮問題を語ろうとするなら、この本は必読です。

畑田氏と川越氏は、朝鮮戦争の歴史的意義として次を指摘しています(同書p118-119)。

畑田重夫・川越敬三両氏が語る朝鮮戦争の歴史的意義


第一に、朝鮮人民とその武装力である人民軍は、その英雄的闘争によって、祖国、朝鮮民主主義人民共和国を外国帝国主義の侵略から守りました。

祖国の自由と独立、社会主義制度を守り通し、第三次世界大戦を防止するという偉業に大きな貢献をしました。

第二に、朝鮮人民と人民軍は、その英雄的たたかいをとおして、祖国を守ったのみならず、社会主義陣営の当方の哨所を確固と守り抜きました。

第三に、朝鮮人民のたたかいは、中国人民の闘争とあいまって、東邦被抑圧民族の反帝民族解放運動の旗じるしとなり、その後の全世界的な民族解放闘争を限りなく激励しました。

第四に、朝鮮戦争は、全世界の組織的な平和運動の発展の一大契機となりました。

第五に、朝鮮戦争はアメリカ帝国主義は万能であるという「伝統」と「神話」をうちくだきました。

朝鮮人民をふくむ全世界の人民は、社会主義と平和と民主主義の諸勢力がかたく団結してたたかいさえすれば、帝国主義と反動と侵略の諸勢力に勝利できることを教訓として引き出せます(同書p119)。

「団塊の世代」、あるいは聴濤弘氏(元日本共産党参議院議員)ら年長の日本共産党員は、北朝鮮こそ社会主義陣営の東方の哨所だと固く信じていたのです。

最も、宮本顕治氏、不破哲三氏ら当時の日本共産党中央の最高幹部は、この時期にはすでに北朝鮮の危険性に気づいていました(不破哲三「時代の証言」中央公論新社p80-84参照)。

宮本顕治氏、不破哲三氏は北朝鮮が「民族解放」と称してテロ部隊をソウルに送っていることも気づいていたのですが、それを下部党員や「赤旗」読者には一切知らせませんでした。

金日成はスターリン、毛沢東の承認をもらって準備を整え、朝鮮戦争を始めました。中国の参戦は、大韓民国への侵略です。

畑田重夫氏は今でも、「抗米援朝保衛祖国」を掲げた中国人民軍の朝鮮戦争参戦を支持しているのでしょうか。

それなら、畑田氏は今でも北朝鮮により大韓民国は滅亡させられてしかるべきだ、と考えていることになります。畑田氏と川越氏は、次のように北朝鮮への帰国事業を礼賛しています。

「日本海を平和の海に」「帰国船を日朝間の平和の懸け橋に」といったスローガンではじまった帰国事業は、日朝友好運動史上の画期的なできごとでした(同書p191)


畑田氏・川越氏によれば、内外の反動勢力は何回も帰国事業の破壊をこころみましたが、その都度、日朝両国人民の連帯の力でこれをはねかえしてきたそうです。

これによって帰国事業は1967年末までの八年間つねに順調にすすめられ、合計八万八千余人が無事祖国へ帰って新しい生活に入りました(同書p191)。

しかし帰国事業は、重大な危機にさらされているそうです。

佐藤内閣と自民党は「日韓条約」発効以後、帰国事業をうちきる策動をあらためて開始し、帰国協定の延長を一方的に拒否したそうです(同書p191)。

畑田氏、川越氏によれば朝鮮学校で行われている民主的民族教育は、祖国を愛し、平和を望むりぱな共和国公民を育てることを目的としています(同書p193)。

昭和43年時点で北朝鮮に帰国した元在日朝鮮人とその家族(約6000人の日本国籍者を概ね含んでいる)は約88000人だったのでしょう。

畑田氏や日本共産党の努力と北朝鮮礼賛宣伝が実り、さらに約5000人が北朝鮮に帰国できました、というより帰国してしまいました、と書くべきでしょう。

以前にブログに書きましたが、昭和43年頃には相当数の元在日朝鮮人が行方不明になっていました。山間へき地への追放(山へ行った)、あるいは政治犯収容所送りでしょうか。

少数ですが、何かの「罪」で処刑されてしまった元在日朝鮮人もいたようです。

昭和43年頃には「唯一思想体系の確立」と称して金日成の神格化が始まっていました。

朝鮮労働党は住民の追放や政治犯収容所への連行を「学習に行った」ことにしますから、裁判などありません。

「三年すれば里帰りさせてやる」と在日本朝鮮人総連合会関係者に日本人妻は言われていましたが、この時点では誰も帰国できていません。

テロ国家北朝鮮を礼賛し、在日朝鮮人に北朝鮮への帰国を奨励した畑田重夫氏


今日の畑田重夫氏は、かつてテロ国家北朝鮮を礼賛し、在日朝鮮人に北朝鮮への帰国を奨励した史実をどう考えているのでしょうか。

テロ国家北朝鮮で、「民族反逆者」などとレッテルを貼られ政治犯収容所に連行されてしまった元在日朝鮮人もいます。

佐藤内閣と自民党は在日朝鮮人が北朝鮮に帰国することを妨げたそうですが、「奴隷船」の運行を妨げることこそ民主主義です。

北朝鮮へ帰国した元在日朝鮮人の多くは、北朝鮮社会では「動揺階層」に区分され、進学、就職、居住、配給など生きていくすべての面で差別されました。

帰国した元在日朝鮮人たちも、北朝鮮の人々と価値観が大きく異なっていましたから住みにくいことこの上ない。元在日朝鮮人は北朝鮮の人々を「原住民」「アパッチ」などと呼んでいます。

金正日の愛人となった高英姫(金正恩の母で、大阪市生野区出身)は、例外中の例外です。

高英姫は「地上の楽園」ともいうべき消費生活を満喫できましたが、金正日の正妻にはなれませんでした。金日成は金正日に元在日朝鮮人との結婚を許さなかったらしい。

金日成と金正恩が一緒にいる写真が出てこないのは奇妙です。金正日は高英姫との子供を、金日成に紹介できなかったのでしょう。

元在日朝鮮人に対する差別感情は北朝鮮社会で根強い。韓国でも同様かもしれません。

畑田氏、川越氏によれば「日韓条約」そのものがアメリカ帝国主義のアジア侵略体制の一環です。

畑田重夫氏はテロ国家北朝鮮による蛮行の歴史、御自分が韓国を罵倒した史実をありのままに見るべきだ


日本人民が「安保」条約破棄のたたかいを一つ一つ具体的にすすめているのと同じ意味で、日朝両国人民は「日韓条約」の具体化の一つ一つと着実にたたかわねばなりません(同書p181)。

畑田氏、川越氏は南朝鮮革命、すなわち大韓民国滅亡こそ朝鮮人民の解放であると考えていたのです。

畑田重夫氏は、今でも「日韓条約」破棄、すなわち韓国と国交を断絶すべきと考えているのでしょうか。本気でそういうなら、極右翼も顔負けです。

畑田重夫氏は、「現代人の学習法 社会科学を学ぶ人のために」(学習の友社昭和61年刊行)も著しています。

この本で畑田氏は次のように述べています(同書p212)。

一つの活動が終わったら、その活動の行われてきた過程を一つの流れとしてつかみ、同時にそこにあらわれているすべての問題について検討してみなければなりません。

その場合、何よりも恐れることなく、事実をありのままに見ることが必要です。

畑田重夫氏は、テロ国家北朝鮮による蛮行の史実、御自身が北朝鮮を礼賛し、韓国を罵倒した史実をありのままに見つめるべきでしょう。

御自分の書いた本の内容には、御自分の行動で責任を持っていただきたいと思うのは私だけでしょうか。























H. G. ウェルズ「影のなかのロシア」(みすず書房、昭和53年刊行。H.G. Wells, Russia in the Shadows, 1920の翻訳)より思う。

「共産党は大地主の土地没収を許したり、対独講和を結んだりしたことによって農民の消極的な支持をたちまちに確保した。また、多くの銃殺刑を施行することによって大都市の秩序を回復した。しばらくの間は、許可なく武器を所持していたものはすべて銃殺されたのである。


この処置は拙劣で血なまぐさくはあったが、効果はあった。共産党政府はその権力を確保するために、事実上、無限の権力を持つ臨時委員会を組織した。そしてすべての反対勢力を赤色テロによって粉砕したのである。」(同書p44より抜粋)。


1917年のロシア革命とは一体何だったのでしょうか。

聴濤弘氏(元日本共産党参議院議員)によれば、1917年11月7日にロシア社会主義革命が成功し、その四日後に全ロシアで8時間労働制が実施されました。

同じ日に革命政府は社会保障制度を導入することを宣言し、確立したそうです。

1918年には教育の無料制、そして医療の無料制を実施したそうです(「社会主義をどう見るか」新日本出版社昭和61年刊行、p48-50より)。

聴濤弘氏が描いたロシア革命後のソ連社会では搾取制度の廃止により労働者が解放されていますから、短時間の労働で十分に暮らしていけそうです。

教育と医療が無料なのですから、労働者は賃金を全額使ってしまっても老後の心配、家族の医療費の心配をする必要がなさそうです。

夢のような社会が、約100年前のロシアで実現されていたことになります。ソ連崩壊の4,5年前まで、日本共産党はソ連をこのように宣伝していたのです。

ロシアでは暴力による住民支配が横行する―ロシア革命後には飢饉も


現実のロシア社会は聴濤弘氏が宣伝してきたような「労働者の祖国」だったのでしょうか。

今の私たちは、ソ連が崩壊しロシアがマフィア資本主義になったことを知っています。

ロシア社会の重要な特徴の一つは、マフィアの暴力による住民支配です。

どんな社会でも、何かの理由で政府が弱体化し、警察が国民の安全を守れなくなるとマフィアや暴力団のような連中が武装力を背景にしてのさばります。

帝政ロシアやソ連邦崩壊後のロシアでは、暴力が横行しました。聴濤弘氏によればコーカサス・マフィア、チュチェン・マフィア、ロシア・マフィアなどいろいろな組織があります。

専門的な職業としてのマフィアだけでなく、マフィアとつながった国家管理のマフィアがいます(「新ロシア紀行 見たこと、聞いたこと、読んだこと」新日本出版社2004年刊行、第二章より)。

マフィア資本主義化またはその危険は、ロシア革命直後のロシアにも蔓延していました。不破哲三氏、聴濤弘氏にはそれがわからないようです。

日本共産党員はいまだに、レーニンが生きていた時期のソ連では「市場経済を通じて社会主義を建設する新たな道が探求されていた」等と信じています。

レーニンが生きていたロシア革命直後のロシアでは、ソ連崩壊後のロシアと同様に暴力が蔓延していました。

ソ連崩壊後には、飢饉というほどの事態は起きなかったようですが、ロシア革命直後のロシアでは飢饉が生じました。

これは、「タイムマシン」「モロー博士の島」「宇宙戦争」などで有名な英国のSF作家H. G. ウェルズ(1866-1946)の「影のなかのロシア」(Russia in the Shadows, 1920)などからも明らかです。

ウェルズが見た1920年9月末のペテルブルグ―巨大な、修復不可能なまでの破壊―


英国のSF小説家ウェルズは1914年1月に、二週間ほどペテルブルグとモスクワを訪れました。次には1920年9月末から十五日間、主にペテルブルグに滞在しました。

ウェルズはペテルブルグの第一印象として上記のように記しています(前掲著p3)。

以下、ウェルズの前掲著より抜き書きします。1920年9月末から10月のペテルブルグの住民生活の実情が、おぼろげながら見えてくるでしょう。

ウェルズによれば、巨大な解体のさなかにあって約十五万の党員を持つ訓練された一つの政党、共産党によって支持された臨時政府が支配権を掌握していました(p3)。

臨時政府は数多くの銃殺により盗賊行為を鎮圧し、荒廃した諸都市に一応の秩序と安全をもたらし、粗雑ながら一つの配給制度を確立しました(p3-4)。

配給制度のためには、農民の生産物を徴発するしかありません。必需品の統制を維持するため、商店が閉鎖されていきました(p5-6)。

路面電車が走っていますが、ラッシュアワーには満員になります。人々は乗れないと外側にぶらさがります。事故は珍しくありません(p6-7)。

路面電車の走っている道路は酷い状態で、3,4年間全く補修されていません。いたるところ穴ぼこだらけです。木造家屋は昨年の冬に全て焼き尽くされました(p7)。

ペテルブルグの人口は(1919年以前の)120万から、70万を少し越えたぐらいまで減少しました。

闇で食糧を高値で売る人は、「不当利得を得た」とかいう理由で直ちに銃殺されました(p9)。普通の取引でも厳しく処罰されました。

取引は全て「投機」と呼ばれて違法だが、食糧取引は黙認されていた


取引は全て「投機」と呼ばれて違法とされています。しかしぺテルブルグでは、道路の片隅で行われている食糧取引は大目に見られています。モスクワでは公然と行われています(p10)。

食糧取引を黙認しなければ、農民に食糧を提供させることができません。

駅という駅はみな青空市場で、列車の止まる場所には牛乳やりんご、パン、その他いろいろなものを売りつけようとするおおぜいの農民が群がっています(p10)。

農民の暮らし向きは良くなっているようです。しかし赤軍が統制価格で農民から食糧を徴発する際、抵抗する場合があります。

十分な兵力を持たない赤軍が攻撃され、殺戮されることもあります(p10-11)。農民より上のすべての階層は、官僚も含めて極度の窮乏状態にあります。

各種の商品を生産した金融・産業組織が倒壊してしまったからです(p11)。新しい日用品は全くもい当たらない。お茶と煙草、マッチはうまく供給されています。

医薬品は払底し、医療は受けられません。風邪、頭痛に対する処置はありません。軽い症状の病気もたちまち重くなってしまいます。出会う人々は殆ど皆、元気がありません(p12)。

あらゆる種類の物資が不足しているので、病人が来ても治療できません。病人を力づけるような食事を出すことはできません。患者の家族が食事を持ち込むしかない(p12)。

最低水準の配給食糧はボールいっぱいの水っぽいオートミールと、ほぼ同量のリンゴの砂糖煮です。人々は配給カードを持ってパンをもらうために行列を作っていました(p14)。

去年の冬、多くの人々は零度以下の室内で生活しなければなりませんでした。水道管が凍結し、衛生施設が役に立たなくなりました(p15)。

1920年の秋がこういう状況なら、冬を越えられなかったペテルブルグ市民は相当いたはずです。21年には飢饉が生じます。

ロシアの各地で農民反乱が相次いだ―農民により館が焼かれた


ウェルズは、ロシア革命後のロシアで農民反乱が相次いだことを指摘しています。戦争に負けたロシア軍の兵士は、武器を手にしたままばらばらになってロシアに戻ってきました。

おびただしい数の農民兵士が、希望も、糧食も、規律もなく故郷に戻ってきたのです(p20)。

ロシア各地で農民反乱が相次ぎました。館が焼かれ、凶行が起きました(p20)。

誰も止めるものがいないので、ペテルブルグやモスクワでは白昼公然と路上で脅迫され、シャツまで剝ぎ取られました。時には死体が水に一日中放置され、その傍らを人々が通り過ぎました。

武装した男たちはしばしば赤軍と称して家に押し入り、略奪し人を殺しました。

1918年はじめの数か月間、ボルシェヴィキ新政権は反革命に対するだけでなく、あらゆる種類の泥棒や盗賊に対しても激しい闘争をしました(p21)。

1918年の夏になってようやく、数多くの強盗や人殺しが銃殺された後で、ロシアの大都市に治安が回復し始めました。

それでもウェルズは、共産党、ボリシェヴィキに対しては好意的に評価しています。

ロシアがすべて、農民たちのように無感動であるか、錯乱状態でしゃべりまくるか、あるいは暴力ないし恐怖に駆り立てられているとき、共産主義者だけが確信を抱き、行動への準備ができていました(p43)。

共産党は多くの銃殺刑を施行することによって大都市の秩序を回復したのです(p44)。赤色テロを行った人々は社会的な憎悪と反革命の恐怖で気が立っていました(p44)。

赤色テロを行った人々は狂信的でしたが、正直でした(p44)。

ウェルズは、マルクス主義についても鋭い批判をしています。レーニンとモスクワで会見しています。これらについては、別の機会に紹介します。

聴濤弘氏のソ連宣伝と、在日本朝鮮人総連合会の北朝鮮宣伝-公式文献の盲信


ロシア革命後のロシアのどこに、8時間労働制や無料医療が存在したのでしょうか。飢饉に直面した労働者は、無料医療制度をなぜ利用しなかったのでしょうか。

搾取制度が廃止されると、たくさんの労働者が餓死するなら、資本家に搾取されていたほうがどれだけ良いかわからない。

資本家、企業経営者は投資や企業運営を行い、社会に貢献しています。富農も農産物を生産していました。地主が何の労働をしていなかったとしても、殺害されねばならない存在ではない。

聴濤弘氏にお尋ねしたいものです。吉良よし子議員、池内さおり議員はロシア革命後のロシアについて、何か御存知なのでしょうか。

聴濤弘氏のソ連宣伝と、在日本朝鮮人総連合会の北朝鮮宣伝は同じような水準です。社会の現実を、地域住民や旅行者から聞き取って調査し把握するという姿勢がない。

自分が現地に滞在し、公式宣伝と異なる現実を見ても、それがなぜ生じるのかを解明していく気概がない。

公式文献への疑問を表明すると、「反革命」「反党分子」「民族反逆者」というレッテルを貼られてしまうのが怖いのでしょう。共産主義者は保身を重視します。

聴濤弘氏は、公式文献への疑問を少しは抱いていたようですが、ソ連崩壊までそれを公にできませんでした。

1917年のロシア革命後、レーニンが生きていた時期(1924年死亡)のロシアは、経済と社会の崩壊、暴力が横行していました。

秩序の確保のために銃殺が簡単になされていたのです。大規模な飢饉の一要因は、ボリシェヴィキが農民から穀物を強制的に徴発したことです。






2016年10月2日日曜日

畑田重夫「共産主義のはなし」(日本青年出版社昭和43年刊行。「民主青年新聞」昭和43年1月24日号から26回連載に加筆、再編成したもの)より思う

「資本主義社会における『言論』『出版』『結社』『集会』などの自由は、働く人びとにとっては法律のうえの形式上のものにすぎませんが、社会主義社会においては、勤労人民にとってそれらがすべて実質的に保障されます。ただし、資本主義復活をめざす言論や行動の自由だけはどんな場合でも除外されます」(同書p51より抜粋)。


共産主義国では、資本主義復活を目指す言論、行動の自由は全くないということですね。

共産主義国が本質的に全体主義体制であることを、畑田重夫氏は正直に告白しています。

共産主義国では資本主義復活を望む人々や言論の自由を求める人々は「人民の敵」「反革命」「走資派」「宗派分子」などとレッテルを貼られ、徹底的に弾圧されてきました。

勿論、共産党、労働党の最高指導者が、私企業の自由な活動を認めた場合には資本主義が復活していきます。

鄧小平の「改革・開放」政策により中国は資本主義になりました。

旧ソ連、東欧は共産党政権が瓦解し、雪崩のごとく資本主義が復活していきました。

北朝鮮でも金正日が私企業の自由な活動を様々な分野で是認ないしは黙認し、市場経済化が進みました。金正日は、39号室という外貨稼ぎの専門部署をつくりました。

北朝鮮は覚せい剤や石炭、鉄鉱石を中国や日本の暴力団等に安値で売って外貨を稼いできました。北朝鮮の外貨稼ぎ部門は外国の保険会社から保険金詐欺を何度もやってきました。

外貨稼ぎ部門は利潤最大化を目標としているのですから、資本主義企業と本質的に変わりません。株式会社という形式になっていないだけです。

「共産主義のはなし」には、ソ連、東欧、中国がいずれは資本主義になるだろう、などという予測は皆無です。

ロシア革命によりぽっかりあいた資本主義世界の大穴はもうふさぐことはできない。癌のようにあちこちに転移しながらだんだんと広がっていくと畑田氏は断言しています。

癌ならば手術や薬で治療する方法がいつかは見つかるかもしれませんが、どんな名医も資本主義の没落をくいとめることはできないそうです(同書p115-116)。

社会主義社会を実現するための運動は、どんなに苦難にみちたものでも、最後にはかならず成功するという法則にそっているそうです(同書p116)。

昔の民主青年同盟員、日本共産党員は畑田重夫氏の「共産主義理論」を熱心に学んだ


畑田重夫氏は、三十数年前に東京都知事選挙に出馬されました。

日本共産党の推薦だったか、「革新都政をめざす会」というような団体の推薦だったか、記憶がはっきりしません。

新宿駅頭などで、何としても勝とう、勝たねばならないという演説をされていました。

早稲田大学の民主青年同盟が、日米安全保障条約についての勉強会で畑田氏を講師に招いたことがあったと記憶しています。昭和56,57年くらいだったでしょうか。

この本の奥付によれば、畑田氏は1923年(大正12年)京都府綾部市生まれで1948年(昭和23年)に東大法学部政治学科卒業されました。

労働者教育協会常任理事、中央労働学院常務理事という職務についていました。

畑田氏は日本共産党の流れにある平和運動、労働運動の理論家、運動家として活躍されてきた方です。

この本は民主青年同盟の機関紙に連載された「だれにでもわかる共産主義のはなし」をもとにして加筆、再編成してできたと「あとがき」にあります。

昭和43年(1968年)連載ですから、当時の読者は今70歳くらいになっているはずです。

この四年くらい後に起きた「新日和見事件」に連座した方々も、この連載を熱心に読んでいたことでしょう。「新日和見事件」については、油井喜夫「汚名」(毎日新聞社刊行)が詳しい。

「民主青年新聞」連載時に読者だった方々が、この本を今読んだらどんな感想を持つのでしょうか。

社会主義とは空想だったな、と思う方が少なくないのではないでしょうか。

中国や北朝鮮では,人間による人間の搾取が廃止されていたと大真面目に今でも信じている元民主青年同盟員がいるのでしょうか。

毛沢東、金日成、金正日は労働者ですか。

畑田重夫氏御自身は、今でも御自分の主張が正しかったと思い込んでいるのでしょうか。

ところで、日本共産党の運動に熱心に参加していた方々でも、この本の次の記述には違和感があったのではないでしょうか。

ブルジョアたちは、夫をもっている婦人との姦通、つまり婦人の共有を平然とおこなっているのです。しかも、プロレタリアの妻や娘を自由にできるだけでは満足せず、自分たちの妻をたがいに誘惑しあうことを無上のたのしみとさえしています(同書p64)。


「ブルジョア」とは、男性だけから構成されているのでしょうか。女性の会社経営者は世の中に存在しないのでしょうか。姦通、不倫は男性だけの「誘惑」により成立するのでしょうか。

複数の男性と性関係を持っている女性経営者は存在しないのでしょうか。

畑田重夫氏によれば、プロレタリアには二号さんをかこうような金があるはずがない(同書p65)。労働者は姦通、不倫をしないと言いたいのでしょうけれど。

あまりにも非現実的です。畑田氏は、愛情関係では女性が専ら受け身の存在としか把握できなかったようです。

畑田氏の人間観察眼は一体どうなっていたのかと思わずにいられません。極めて表面的な人の見方しかできない方なのかもしれません。

畑田氏の浅薄な人間観を示す記述をもう一つ指摘しておきます。宗教観です。

いま世界には十三の社会主義国がありますが、強制力によって宗教を禁止している国はひとつもありません。...社会主義がその高い段階である共産主義の段階へ近づくにつれ、宗教と宗教を信仰する人は、じょじょに社会から姿を消してゆくにちがいありません。そして、文字通り共産主義の社会になれば、宗教は完全に消滅することでしょう(同書p53-54)。


旧ソ連、東欧では教会も共産党の支配下にありました。ロシア正教会はレーニンにより徹底弾圧されましたが、スターリンが利用価値を見出したので支配下にはいって存続できました。

中国ではチベット仏教に中国共産党が徹底介入してきました。チベット人やモンゴル人がダライ・ラマへの信仰を公に表明すれば、監獄かどこかへ連行されてしまうでしょう。

毛沢東の時期の中国で、基督教信仰と布教が許容されていたとは考えにくいのですが、どうだったでしょうか。

現在の中国では、「法輪功」という宗教集団が徹底弾圧されています。「抜け穴」が相当あるそうですが。

北朝鮮では「寺院」はありますが、労働党が外人の見世物用に運営しているだけです。

北朝鮮では基督教信仰は政治犯収容所行きにされるくらいの「重罰」です。基督教信者は金日成、金正日より偉大な存在がいた、と信じているのですから。

この本の執筆時期に、ソ連や中国、北朝鮮の宗教事情を正確に認識するのは難しかったでしょう。しかし、どんなに技術が進歩しても宗教が無くなるはずがない。

人はいずれ、最期のときを迎えるのです。そのときが近くなれば、何かにすがりたいと思うのではないでしょうか。

遠藤周作の「沈黙」「侍」を、共産主義者は「非科学的」の一言で片づけてしまうのでしょうか。

プロレタリア文学とは、共産党の最高指導者と人間抑圧社会礼賛文学なのでしょうね。














2016年9月24日土曜日

不破哲三氏は中国覇権主義、「鉄砲政権党」に屈服した―志位和夫氏は中国、北朝鮮の人権抑圧と中国によるベトナム、韓国侵略(朝鮮戦争参戦)を批判できない

「6月4日未明、北京の天安門でおこった中国人民の平和的な民主的要求運動への、軍隊―武器・鉄砲による鎮圧事件とそれ以後の「人間狩り」は、世界中の心ある人々を驚かせ、この人権無視の事態への大きな怒りがひろがっています。」(宮本顕治氏の1989年7月10日談話冒頭より抜粋)

「中国の政権党は『鉄砲政権党』とよぶにふさわしいものです」(宮本顕治氏談話より抜粋)


平成元年の天安門事件から27年もの歳月が流れました。宮本顕治氏(当時は日本共産党議長)は、中国共産党を「鉄砲政権党」とよび、上記のように強く批判しました。

日本共産党の最高幹部の一人だった小林栄三氏は「中国の事態と社会主義のもつべき基本」という論文で、次のように述べました。

天安門での中国人民軍による蛮行を「内政問題」として抗議も論評もしないという態度は、人権問題の国際性を少しも理解していない。

外国からの非難や抗議を「内政干渉」だなどという中国共産党と政府指導部の態度には国際法など眼中になく、人権軽視を示している(「前衛」1989年8月号掲載)。

不破哲三氏も、中国でおこっていることの本質は、科学的社会主義・共産主義の原理の「放棄」であり、本質的に言って「共産党」の名を裏切るものと述べていました(「日本共産党国際問題重要論文集22、p89)。

かつての日本共産党は、鄧小平によるベトナム懲罰論と中国のベトナム侵略を強く批判した


鄧小平による「ベトナムを懲罰する」という発言(昭和54年)についても、当時の日本共産党は強く批判しました。

中国によるベトナム侵略の事実を報道した「赤旗」記者が人民解放軍に射殺されています(「三月七日、ランソンにて」新日本出版社昭和54年刊行)。

当時の日本共産党は、「赤旗」などで中国によるベトナム侵略を強く批判しました。

立木洋氏は、民主主義の長期にわたる蹂躙、基本的人権の軽視は社会を破壊する重大な誤りであると述べました(「日本共産党国際問題重要論文集22、p19)。

27年くらい前のことですから、40代後半以上の日本共産党員なら当時のことをよく覚えているはずです。

中国共産党は鉄砲政権党だ、というビラを駅前などで必死に配布した思い出がある方は少なくないはずです。

吉良よし子議員、池内さおり議員ら若い共産党員は、当時のことは何も御存知ないかもしれませんが。

不破哲三氏による路線転換―中国共産党(鉄砲政権党)と関係を正常化し「理論交流」


天安門事件からおよそ9年後に日本共産党は中国共産党との関係を正常化します。「鉄砲政権党」と関係を正常化し、不破哲三氏の主導で「理論交流」を始めました。

天安門事件の頃の不破哲三氏の言を借りれば、不破哲三氏は科学的社会主義の原理を放棄した組織と「理論交流」を始めたことになります。

このときに、天安門事件については中国と異なる見解を持っている旨、日本共産党は通告したようですが、それだけでハイ終わり、にしてしまいました。

中国共産党は天安門での大弾圧、その後の「人間狩り」をいまだに正当化しています。虐殺を正当化する連中が、中国の一般国民の基本的人権を保障するわけがない。

中国の一般国民と中国居住外人を監視する国家安全部


中国の一般国民が公の文献、公の場で中国共産党を批判すれば、国家安全部に何をされるかわからない。出鱈目な罪をでっちあげられ、「経済犯」として投獄されてしまいかねない。

国家安全部とは、旧ソ連のKGBや北朝鮮の国家安全保衛部に相当する秘密警察です。

メールやインターネットの掲示板も国家安全部は始終監視しています。

どういう手法で国家安全部が国民のメールを見るのか、私にはわかりませんが、中国在住の日本人に「天安門」という字の入ったメールを送ると国家安全部が察知する場合があるそうです。

それで直ちに中国在住の日本人が監獄行きになるわけではありませんが、以降日本からの郵便物が届きにくくなったりします。

どなたか、国家安全部から依頼されて中国在住日本人の言動を監視している方がいるのです。

チベット人やウイグル人、モンゴル人も、中国共産党、国家安全部により徹底的に監視され、抑圧されてきました。

少数民族が中国共産党と国家安全部の監視外で子供たちの教育や言論活動、宗教活動を自由にやりたいと思うのは当たり前です。

中国社会には言論と表現の自由がない。知識層はどれだけ苦しいでしょうか。

中国社会に蔓延している農民差別と「赤旗」の沈黙


戸籍が農村にある人が北京や上海など大都市に来て建設労働等に従事するとき、その方の子供は大都市の小学校や中学校に原則として入学できません。

都市の学校は、都市住民の子供たちが学ぶ場であり、農村戸籍の子供が学ぶ場ではないのです。

農村出身の方々は、子供たちの教育のために私費を出し合って私設の「学校」をつくっています。「民工学校」と呼ばれているそうです。

「民工」とは、農村から都市に出稼ぎに出てきている労働者のことです。建設現場やタクシーの運転手などに多い。

地域によって多少の差はあるそうですが、「民工」には健康保険や年金はない。建設現場で「民工」がケガをしても、労災が適用されない場合が多い。

経営者に労働法を守らせる労働基準監署のような官庁が中国にはありませんから。「民工」が経営者を訴えたくても、裁判費用がかかりますし勝訴できる可能性は高くない。

「赤旗」は中国共産党による少数民族抑圧、農民差別について、完全に沈黙しています。

中国共産党が国際法を守るわけがない。中国はベトナム侵略も一切反省していません。「赤旗」記者の射殺など反省も謝罪もしていません。

不破哲三氏は中国共産党と関係を正常化する際、中国人民解放軍に射殺された高野功記者のことを何とも思わなかったのでしょうか。

「赤旗」記者の生命と人権より、「野党外交」のほうが大事だという判断だったのでしょう。

不破哲三氏は、日本共産党の「野党外交」は98年の中国との関係正常化が転機となったと自慢気に著書で述懐しています(「不破哲三 時代の証言」p194、中央公論社刊)。

中国は韓国とベトナムを侵略した


朝鮮戦争への中国の参戦は、大韓民国への侵略です。朝鮮戦争は北朝鮮が韓国に侵攻して始まりました。

金日成、朝鮮労働党は開戦前に、スターリンと毛沢東から了解を得ていました。

中国が最初に核実験を行ったのは昭和39年、東京オリンピックの頃です。この少し前に、毛沢東が主導した「大躍進」により、数千万規模で餓死者が出ました。

大量餓死者を出しつつも、貴重な資源を核軍拡に配分するのが中国共産党と朝鮮労働党なのです。

中国共産党は数々の国際会議で長年、自らが核兵器を廃絶することを目指しているかのような虚言を吐いてきたのです。不破哲三氏はこれくらいのことは百も承知です。

結局、不破哲三氏は中国覇権主義、鉄砲政権党に屈服したのです。不破氏は「野党外交」が赤旗」記者の生命と人権より大事と判断したのです。

志位和夫氏は中国と北朝鮮による人権抑圧に沈黙せざるを得ない―歴史の隠蔽のために


最近、志位和夫氏は中国を批判し始めていますが、中国の人権問題、中国によるベトナムや韓国侵略を批判することはできないでしょう。

これらを志位氏が公の場で論じ始めたら、不破哲三氏への批判が下部党員からかなり出てきてしまいかねません。

「不破さんが熱心にやってきた中国との理論交流、野党外交は何だったのだ」

「不破さんは鉄砲政権党の『理論』から何を学んだのか」

といった疑問が下部党員から噴出してしまいます。「赤旗」記者が中国人民解放軍に射殺されたことについても、志位和夫氏は沈黙を貫かざるを得ないでしょう。

北朝鮮による人権抑圧、政治犯収容所の存在を志位和夫氏が中央委員会総会などで取り上げたらどうなるでしょうか。

そんなひどい国に、なぜ十万人近くの元在日朝鮮人が帰国したのか、という疑問が下部党員から出てきてしまいます。

そうなったら、宮本顕治氏がかつて北朝鮮を礼賛した史実が、吉良よし子議員、池内さおり議員ら若い共産党員にも知られてしまいます。

昔の日本共産党は「鉄砲政権党」だった―吉良よし子議員、池内さおり議員は宮本顕治氏の論文「ソ連邦共産党第二十一回臨時大会の意義と兄弟諸党との連帯の強化について」(「前衛」1959年5月号掲載)を御存知なのか


ところで、宮本顕治氏も若い頃は、「議会を通じての革命」を全面的に否定する論文を書いていました。本ブログではこれを何度も紹介してきました。

昔の日本共産党は、国民に武装蜂起、武力闘争でソヴェト権力を樹立しようと訴えていました。

日本共産党も、「鉄砲政権党」だったのです。朝鮮戦争の時期に、実際に日本共産党は武装蜂起をしました。宮本顕治氏は武装蜂起を正当化する論文を「前衛」に発表しました。

レーニン、スターリン、毛沢東を崇拝してきた方々ですから。

「帝国主義戦争を内乱に転化せよ」「自国政府が敗北するように行動せよ」はレーニン主義の中心命題です。

吉良よし子議員、池内さおり議員ら若い共産党員の皆さんには、一昔前の日本共産党の文献を少しは読んで頂きたいものですね。宮本顕治氏の上記論文をお勧めします。

追記


宮本顕治氏による「議会を通じての政権獲得、平和革命」全面否定論文は下記です。

「共産党・労働者党情報局の『論評』の積極的意義」(「前衛」49号、1950年5月掲載。「日本共産党50年問題資料集1」、昭和32年新日本出版社刊行、p27-35にも掲載)



2016年9月23日金曜日

アンドレ・ジイド「ソヴェト旅行記」(Retour de L' U. R. S. S. 小松清訳。岩波文庫昭和12年、1937年刊行)を読みました。

「スターリンはいつも正しいということは、とりもなおさず、スターリンがすべての権力を握っているということと同じである。人々は「プロレタリアの独裁」を約束した。しかし、約束の感情はあまりにも桁違いでなかろうか。いかにも独裁はある。だが、それは唯一人の人間の独裁であって、結合したプロレタリア、即ちソヴェトのそれではない。...人々が願ったものは、あんなものではなかった。、もう一歩向こうに行くと、こんなことも言えるだろう。人々が願わなかったものは、正しくこれだったと」(同書p98より抜粋)


アンドレ・ジイド(1869-1951)は、「狭き門」等で有名なフランスの作家です。

ジイドはマキシム・ゴーリキーの病が重いという知らせを聞き、1936年(昭和11年)6月にモスクワを訪れました。

それまでジイドはソ連を熱烈に支持していたのですが、一か月ばかりのソ連滞在でその本質を見抜きました。

ソ連ではスターリンによる専制支配体制が確立していることを、ジイドは僅かな滞在期間で看破したのです。当時の仏共産党員はこの文をどう受けとめたのでしょうか。

この本が出版されてすぐ、欧州でかなりの反響をよんだと翻訳者が解説しています。

ジイドが見たスターリン専制下でのソ連国民の暮らし―順応主義(Conformisme)


ジイドはソ連国民の日常生活を緻密に観察し、今の私たちにも参考になることをいくつも見出しています。

第一に、モスクワの民衆は呑気で無精です。ソヴェトでは労働者を少しでも放っておくと、十人中八、九までもが怠け者になってしまいます。

そこでスタハノフ運動という生産性向上運動が必要だったのだろうとジイドは述べています。

第二に、ソヴェトでは全てのことに、一定の意見しか持てません。人々は非常によく訓練された精神の持ち主となっています。

画一主義、順応主義(仏語ではConformisme)がソヴェト社会に蔓延しています。

プラウダ(ソ連共産党の機関紙)は国民が知り、考え、信じるにふさわしいことを教えています。その教えの範囲から外に出ることは危険です。

第三に、ソヴェトの市民は、外国のことについて徹底的に無知です。ソヴェト市民は、外国ではすべてのものがあらゆる方面でソヴェトよりうまく行っていないと教え込まれています。

ソヴェト市民は自分たちが外国より優れていると思い込んでいます。

第四に、ソヴェトではほんの僅かな抗議や批判さえも最悪の懲罰をうけます。

抗議や批判はすぐに窒息させられます。

ソヴェトではヒットラー独逸より、人間の精神が不自由で、圧迫され、恐怖に脅えて従属させられています(同書p85-86)。

ジイドは、人々を政治犯収容所に連行する秘密警察の存在を知っていたのでしょうか。

ジイドは農業集団化のための富農一掃が、富農とレッテルを貼られた農民の大量虐殺であることを見抜いたのでしょうか。

大量餓死の存在まで、短い期間でジイドが知ったとは考えにくい。

関貴星「楽園の夢破れて」は金日成による専制支配を看破した


この本を読み、私は関貴星氏の「楽園の夢破れて」(亜紀書房より再刊)を思い出しました。

関貴星氏も、僅かな北朝鮮滞在で金日成による専制支配の存在を見抜き、告発しました。

ジイドによるソヴェト批判は、日本ではすぐに「中央公論」誌に翻訳されて掲載されました。宮本百合子はジイドに反発し、「こわれた鏡」などと論じています。

レーニン、スターリンとボリシェヴィキを盲信していた宮本百合子には、3年ほど居住してもソ連社会の真実を全く見抜けませんでした。

宮本百合子の「鏡」こそ、完全に破壊されていたのです。

宮本顕治氏はジイドのこの文章が発表された頃監獄にいましたから、その頃はこれを読めなかったでしょう。

しかし戦後、監獄から出てきた後には読む気があれば読めたはずです。

宮本百合子がジイド批判を書いていたことを宮本顕治氏は承知していたはずですから。

「人間抑圧社会」ソ連を礼賛した宮本夫妻の生き方より―「民主主義文学運動」とは、人間抑圧社会礼賛運動なのかー


宮本顕治氏がジイドの「ソヴェト旅行記」を読んだかどうか不明ですが、ソ連とスターリンへの盲信を表明する論文を宮本氏はいくつも書いています。

本ブログを何度か訪問して下さった方なら御存知ですね。ソ連居住経験のある宮本百合子は、宮本顕治のソ連盲信を「実体験」の知識を提供して支えたことでしょう。

今の日本でも、北朝鮮を盲信し金日成、金正日、金正恩を礼賛する在日本朝鮮人総連合会で専任職員として勤務している御夫婦はいらっしゃるでしょう。

宮本夫妻の生き方と在日本朝鮮人総連合会職員の御夫婦の生き方はよく似ています。

吉良よし子議員、池内さおり議員は、中国、北朝鮮による凄惨な人権抑圧を直視すべきだ


現在の日本共産党員の御夫婦は、中国や北朝鮮における凄惨な人権抑圧をどう考えているのでしょうか。

日本共産党員には、中国と北朝鮮の核軍拡が日本の平和と安全を脅かしていることについて思考と議論ができにくい。

日本共産党員の中では、ジイドのいう「順応主義」が蔓延しています。不破さん、志位さんの言うとおりにしていればよい、という調子です。

「順応主義」は、日本共産党職員の方の中で根強いようです。有事の際に自衛隊の出動を認めるか否か、中国の人権問題などで突出した発言をすると厄介ですから。

吉良よし子議員、池内さおり議員はジイドの「ソヴェト旅行記」や宮本百合子のジイド批判を御存知でしょうか。

早大文学部卒の吉良よし子議員は読書好きだそうですから、宮本百合子のソ連礼賛文を少しは読んでいることでしょう。

宮本百合子による「人間抑圧社会」礼賛文は、「民主主義文学」「プロレタリア文学」なのでしょうか。読書好きの吉良よし子議員にお尋ねしたいですね。

関貴星氏の「楽園の夢破れて」(亜紀書房より再刊)を、吉良よし子議員、池内さおり議員ら若い共産党員の皆さんには読んで頂きたい。

ソ連を礼賛した宮本夫妻の生き方を、「民主主義文学運動」に参加している作家の皆さんや吉良よし子議員、池内さおり議員は一切批判できないのでしょうか。

「民主主義文学運動」とは、日本共産党を盲信する人々を描く文学運動なのでしょうか。

不破哲三氏や金日成、金正日を盲信する共産党員や在日本朝鮮人総連合会の皆さんの内面をえぐりだしていく文学こそ、「民主主義文学」ではないでしょうか。




2016年9月18日日曜日

市川正一「日本共産党闘争小史」(大月書店昭和29年刊行。市川正一氏が昭和6年7月の公判での代表陳述にもとづいて編集)より思う。

労働者・農民大衆は資本家と地主の搾取、隷属、失業、飢餓、堕落から解放されるためには、また帝国主義戦争の悲惨からまぬかれるためには、日本共産党の指導のもとに大衆的な武装蜂起をもって公然と資本家・地主の国家権力と武力闘争をなし、労働者・農民のソヴェト権力を樹立しなければならぬことを知るにいたっている(同書p182より抜粋。市川正一氏の最終陳述の一部)。


市川正一氏(1892-1945)を日本共産党は「創立時の党員で、第二次大戦前の、わが党の誇るべき指導者のひとりです」(「赤旗」平成19年8月16日)と評価しています。

市川正一氏は16年間の監獄生活で徐々に衰弱し、昭和20年3月15日に宮城刑務所で亡くなりました。

日本共産党としては、市川氏は不当に投獄されたと言いたいのでしょうが、「武装蜂起」「武力闘争」により「ソヴェト権力」とやらの樹立を策した人物が投獄されるのは当たり前です。

市川氏ら共産党員を逮捕できる法律がなければ、共産党は「武装蜂起」「武力闘争」を断行して地主や企業経営者、あるいは政府の要人にとんでもない危害を加えてしまったかもしれません。

今こそ革命的情勢だ!などという思い込みで、人を殺めてしまったら被害者だけでなく、加害者にも不幸です。日本共産党は、特別高等警察に感謝すべきです。

治安維持法と特別高等警察が、戦前の日本共産党による「武装蜂起」「武力闘争」、すなわち地主や企業経営者、要人殺害などの蛮行を防いだのです。

「武装蜂起」「武力闘争」など、民主主義の根源的否定です。「戦前のわが党は、主権在民を掲げてたたかった」という現在の日本共産党の宣伝に騙されてはいけません。

武装蜂起に反対する人は、「プロレタリア赤軍」により「反革命」とレッテルを貼られて投獄、場合によっては処刑されるのでしょうから。

戦前の日本共産党は、コミンテルン(世界共産党)の一支部でした。コミンテルン(世界共産党)はソ連共産党の支配下にありました。

日本共産党員は、レーニン、スターリンとソ連を盲信していました。

日本共産党は、日本社会をソ連のようにするために「不屈の闘争」を、コミンテルンの援助を受けて行いました。「労働者、農民のソヴェト権力樹立」とは、日本のソビエト化です。

市川正一氏が「不屈の獄中闘争」をしていた頃、ソ連では「人間抑圧社会」化が進んだ


市川正一氏の投獄期間に、「労働者の祖国」ソ連ではスターリンによる専制支配が確立されました。

「富農が隠している穀物を徴発せよ」「富農一掃」はレーニン、スターリンによる重要指令です。

これをボリシェヴィキが数百万人規模で餓死者を出しつつも断行したからこそ、ソ連が「人間抑圧型の社会」になったのです。

これを獄中にいる市川正一氏が知ることは不可能だったでしょう。しかし、1921年から23年にロシアで大飢饉が存在したと、市川氏は明言しています(同書p79)。

大飢饉の存在自体は、適切な認識です。

市川氏は大飢饉を「反革命があれくるったため」と主張していますが、「反革命」とやらが荒れ狂うとなぜ農業生産高が激減するのでしょうか?

「反革命の荒れ狂い」とやらと農民の生産意欲、農産物の流通にはどういう関係があったのでしょうか?

当時の日本共産党員には、農作業の経験がある方がいたはずですが、その程度の疑問も持てなかったのは奇妙です。

レーニンが出した穀物徴発指令が内戦を勃発させた


ロシア革命後の「戦時共産主義」の時期にレーニンとボリシェヴィキ(後のソ連共産党)は農民から穀物を徹底的に取り上げました。

自分が食べる分や来年の種までも取り上げられるなら、農民は生きるために穀物を隠すか、ボリシェヴィキに抵抗するしかない。

レーニンはそういう農民に「富農」のレッテルを貼り、掃討を命じました。ロシア正教会も徹底的に弾圧されました。

ロシア革命で農民は土地を与えられたはずでした。しかし収穫物(農産物)を強制的に取り上げられるのなら、農民から見ればボリシェヴィキは地主より悪質です。

武装したボリシェヴィキに抵抗するためには自分たちも武装するしかない。内戦です。

内戦に勝利したレーニンとボリシェヴィキは、農民を懐柔するために、農産物の自由販売を一定程度認めました。これが新経済政策(NEP)です。

新経済政策により豊かになった農民は、数年後にスターリンにより「富農」のレッテルを貼られ、政治犯として囚人労働を強制されました。

「富農一掃」による農業集団化とは、豊かになった農民の大弾圧でした。特に、1932年から33年にかけて、ボリシェヴィキはウクライナを徹底攻撃したようです。

「帝国主義戦争を内乱に転化せよ」は内戦の呼びかけ―日本共産党も「鉄砲政権党」だった


市川正一氏によれば、日本共産党こそ、中国革命の支持、帝国主義戦争反対のスローガンをかかげてそのために真にたたかっています。

「中国革命の支持」とは、毛沢東と中国共産党への服従表明です。このころの中国共産党は、中国の農村地域で「地主とのたたかい」と称し収奪と反対者の虐殺を断行していました。

獄中の市川正一氏がソ連や中国共産党による蛮行、残虐行為を知るのは困難だったでしょうが、盲信は知性ある人間のやることではない。

ソ連や中国の現実を調べるためには、ボリシェヴィキや中国共産党による宣伝文句をうのみにしてはいけません。

市川氏によれば日本共産党は「帝国主義戦争を内乱へ」「自国政府の敗北」というスローガンをもって、実際に自国ブルジョアジーの政権と闘争する唯一の存在だそうです。

日本とソ連は対立していました。日本共産党はソ連が日本に勝利するように「たたかう」政党だったのです。

「帝国主義戦争を内乱へ」はレーニン主義の中心命題と言っても良い。内戦を聖戦と盲信していた日本共産党員は、今の〇〇〇〇原理主義者の連中と大差ありません。

後に宮本顕治氏は、中国共産党を「鉄砲政権党」と呼びました。

昔の日本共産党は「帝国主義戦争を内乱に転化」させるため、武装蜂起を策していたのです。昔の日本共産党も「鉄砲政権党」でした。

宮本顕治氏自身、若い頃は武装闘争を正当化、合理化する論文「共産党・労働者党情報局の『論評』の積極的意義」を昭和25年に雑誌「前衛」で発表しています。

宮本顕治氏御自身が、「鉄砲政権党」の「理論」を担当する大幹部だったのです。

この論文発表の少し後に、日本共産党は実際に武装闘争を始めました。朝鮮戦争に参戦した米軍の後方かく乱の「任務」を日本共産党はソ連・中国から与えられたのです。

戦前でも、日本共産党の影響力がもっと大きくなっていたら、ソ連は日本共産党に実際の武装蜂起を命令していたでしょう。

レーニン、スターリンを盲信し忠誠を誓っていた日本共産党員と、金日成、金正日を盲信し忠誠を誓う在日本朝鮮人総連合会


市川正一氏はコミンテルン(世界共産党)が作成した「綱領」「理論」に依拠して公判で「天皇制打倒」「資本家的・地主的搾取私有財産制度の打破」等と主張しました。

武装蜂起、武力闘争に反対、抵抗する労働者や農民が圧倒的多数であることを、市川正一氏は全く想像できなかったのでしょうか。

レーニン、スターリンを盲信すると、内戦、テロが聖戦に思えてしまうのです。当時も今も、日本共産党員には「革命」についての実証的な思考ができない。

「労働者・農民のソヴェト権力の樹立」を日本共産党員が労働者や農民に呼びかけても、全く相手にされなかった。ソヴェト権力など、一体全体どんな組織なのかわかりようもない。

地主に反感を持っている農民は少なくなかったでしょうが、武装して地主や企業経営者から財産を取り上げ、抵抗すれば殺すような野蛮行為に手を貸すほど日本の農民や労働者は愚かではなかった。

市川正一氏には、公判で自分の主張を大宣伝する機会を与えられたのです。この点だけでも、昔の日本は旧ソ連、現在の中国や北朝鮮よりずっと民主的です。

「反党反革命宗派分子」張成澤が「裁判」で国家安全保衛部に反論することができたのでしょうか。張成澤に弁護人はついていたのでしょうか。何もわかっていません。

吉良よし子議員、池内さおり議員は「武装蜂起」を「革命運動」「民主的変革」と認識しているのか


在日本朝鮮人総連合会の皆さんは、金日成、金正日そして金正恩を盲信し、忠誠を誓っています。

同様に、市川正一氏、宮本顕治氏ら昔の日本共産党員はレーニン、スターリンを盲信し忠誠を誓っていました。

世界共産党(コミンテルン)から与えられた綱領を市川氏らは「実践」すべく武装蜂起を策していたのです。

在日本朝鮮人総連合会の皆さんも、金日成の「教示」、金正日の「お言葉」を盲信しています。

吉良よし子議員、池内さおり議員ら若い共産党員の皆さんには、武装蜂起など愚行そのものであることが理解できないのでしょうか。

大韓航空機爆破や日本人、韓国人拉致は、「南朝鮮革命」に貢献しているのでしょうか。これらは金正日の指令により北朝鮮工作員が行いました。

吉良よし子議員、池内さおり議員は、武装蜂起を「革命運動」「民主的変革」と認識しているのでしょうか。労働者・農民ソヴェトとやらを武装して樹立すると「民主的変革」ですか。

「鉄砲政権党」という表現を、吉良よし子議員や池内さおり議員は御存知ないかもしれません。

殺人やテロは「民主的」ですか。暴力団は民主主義を広める団体なのでしょうか。




2016年9月11日日曜日

蔵原惟人「宮本百合子の『ソヴェト紀行』」(蔵原惟人評論集第四巻所収、新日本出版社刊。青木文庫「ソヴェト紀行」昭和27年11月の解説)より思う

「しかし実際にはこの時期にソビエト社会では皮相な観察者の目に見えない、また見ようとしないところで、全く新しい生活がはじまっていたのである。

それは工場、農村、その他の生産点に注意を向け、またソビエト社会とその文化の成り立ちを研究するものだけに見えるものであった。そして宮本百合子は当時においてこのような現実に眼をむけ、それを正しく観察し、それを祖国に伝えた数少ない外国人の一人であった」(蔵原惟人評論集第四巻p138-139より抜粋)。


蔵原惟人氏(1902-91)は、小林多喜二の師です。小林多喜二の小説「党生活者」に出てくる「ヒゲ」は蔵原氏を想定しています。

蔵原氏による宮本百合子「ソヴェト紀行」解説によれば、氏は1925、26年と1930年の後半の二回をソ連で過ごしました。

この解説は昭和27年ごろ執筆されたのでしょうから、フルシチョフによるスターリン批判より4年くらい前です。

スターリンによる「富農一掃」という名の大量虐殺を蔵原氏が知るのは難しかったでしょう。政治犯収容所の存在も、昭和27年では知りようがない。

1932年から33年頃、ウクライナを中心にして数百万人にも及ぶと言われる大量の餓死者が出ました。

これも、当時の日本共産党員が知るのは無理だったでしょう。そういう事情を考慮しても、この解説は酷い。「富農」=反革命=極悪人という「公式」を普及しています。

在日本朝鮮人総連合会の皆さんによる北朝鮮社会論とよく似ています。

蔵原惟人「しかしこの間にソビエトの人民は社会主義のゆるぎない基礎をなす五ヵ年計画を黙々として完遂しつつあったのである。」


蔵原氏が二回目にソ連を訪れた1930年は、五ヵ年計画の第三年目で、四ヵ年で完了しうる見通しがついたときだったそうです。

「五ヵ年計画を四ヵ年で」というスローガンが、いたるところに掲げられ、それを強行するためにかなりの犠牲がしのばれていたと蔵原氏は述懐しています。

それに乗じて社会主義化をよろこばない富農や技師、商人そのほかの反動分子がいたそうです。

彼らは国内の反革命政治家や外国の帝国主義者と気脈をつうじて、生産や流通を妨害し、政府の転覆をはかっていたと蔵原氏は断言しています。

蔵原氏は「国内の反革命政治家」として誰のことを思い浮かべていたのでしょうか。

「富農」とやらが国内の反革命政治家や外国の帝国主義者と気脈をつうじて生産や流通を妨害し政府の転覆をはかっていたそうです。

少しばかりの土地や家畜を持っているだけの農民が一体どんな手法で生産や流通を妨害し、政府を転覆できると蔵原氏は考えたのでしょうか。

蔵原氏は「プラウダ」にそんな記事が載っていたことから、それを丸ごと信じただけではないでしょうか。

この解説には、興味深い記述もあります。

1925、26年頃の新経済政策の時期には失業者や乞食、浮浪者や売笑婦がいた


蔵原氏によれば、新経済政策(NEP)は資本主義的な経済を部分的に許容した政策でした。

新しい資本家や商人が頭をもたげました。1925,26年には失業者や乞食、浮浪者、売笑婦さえもがいました。

生活物資は豊富で、金さえあればなんでも買え、労働者や勤め人の給料も悪くなかったので一般の生活はいちおう安定しているように見えたそうです。

しかし1930年の後半には、食料品店の前には長い行列があり、衣料や紙、石鹸などの日常必需品の入手が困難になっていたそうです。

これらの物資は工場や農村には重点的に配給されていましたが、それでも不足していたそうです。

ヤミに流れた物資は、半ば公然となったヤミ市で、個人商人の手によって十倍、二十倍の価格で売られていたそうです。

蔵原氏はこういう現象だけをとらえれば日本の戦時および戦後数年のありさまに似ていたと正直に述べています。

それならば、「五ヵ年計画」によりソ連庶民の暮らしは、新経済政策の時期より貧しくなっていったのではないでしょうか?日常生活必需品すら入手しにくくなったのですから。

労働者、勤め人は、配給だけでは生活していけないから闇市で高価格でも物資を得るしかなかったのです。闇市、すなわち資本主義経済が庶民の苦しい生活を支えていたのです。

ソ連宣伝が頭の隅々まで染み込んでしまうと、何も見えなくなってしまうのでしょう。在日本朝鮮人総連合会の皆さんにも、国家安全保衛部の恐ろしさがわからない。

わかっていても、保身のために北朝鮮礼賛をやめられないのかもしれません。左翼は保身を重視します。

俊英ブハーリンを尊敬するソ連国民は少なくなかった


蔵原氏の知っているモスクワのある党員の家庭では、そこの息子の青共員(青年共産団員のことか?)が、党のモスクワ県委員会の書記でブハーリン主義者であった叔父の影響をうけていました。

彼はさかんにスターリンとその政策の悪口を言っていたそうです。

蔵原氏はロシア語をかなりできた方ですから、当時のソ連国民の話を聞き取ることができたのです。

ブハーリンが処刑される八年ほど前の話です。

「社会主義工業化の資金源をどこに見出すか」でトロツキー派と論争した俊英ブハーリンを尊敬していたソ連国民はいくらでもいたはずです。

1930年後半に闇市がモスクワのどこかの地域にあったのでしょう。このころ徐々に飢饉がソ連各地に忍び寄っていたのかもしれません。

蔵原氏はブハーリンが「反革命」の大悪人であることを確信しています。ブハーリンは処刑に値するような人物であると本気で考えていたのでしょう。

今にして考えれば、庶民の愚痴を聞き取ることができるようなロシア語力を持つ日本人は、スターリンと秘密警察にとって日本のスパイ以外でしかありえない。

もう数年後に蔵原氏がソ連を訪れていたら、スパイとして処刑されてしまった可能性が高い。蔵原氏は日本の特別高等警察に逮捕されたので、「命拾い」をしたようなものです。

「暗黒政治」下にあったはずの日本で共産党員として活動した自分が刑期を終えたら出所できたのに、レーニンの愛弟子だったブハーリンは「反革命」とやらで処刑されてしまったのです。

それならばソ連社会の方が反体制分子に対して過酷な抑圧をしているのではないか?という疑問は当時の蔵原氏には思いつきもしなかったのでしょうか。

蔵原惟人氏は極東ソ連軍による満蒙開拓民への残虐行為をどう考えていたのか


蔵原氏によれば、二十余年前の1930年の困難な時期に、今日のソ連の繁栄の萌芽をみて、それを正しく伝えた旅行者は少なかったそうです。

多くのソビエト旅行者は、ソビエト社会の表面のマイナス現象だけを見て、「ソビエト人民は今悲惨のどん底にある」と報告し、ソビエト政権の滅亡を予言したそうです。

宮本百合子はソビエト社会を緻密に観察し、ソビエトの繁栄を予見した数少ない旅行者の一人だったと蔵原氏は大真面目に考えていたのでしょう。

蔵原氏は杉本良吉らソ連で行方不明になった左翼芸術家や共産党員を一体どう考えていたのでしょうか。病死したのだろう、くらいの気持ちだったのでしょうか。

蔵原氏や宮本顕治氏、宮本百合子は極東ソ連軍による満蒙開拓民への残虐行為をどう考えていたのでしょうか。

極東ソ連軍による満蒙開拓民への残虐行為や、シベリアに抑留されている旧日本兵の存在を、昭和27年頃の日本人が知らないはずがない。

蔵原氏の思考方式は、今日の在日本朝鮮人総連合会の皆さんのそれとよく似ています。

私には、徳田球一氏の方が宮本顕治氏、蔵原惟人氏よりソ連への盲信の程度が弱かったように思えます。

徳田球一氏は、コミンフォルム(共産党・労働者党情報局)の幹部を「若造ども」というように馬鹿にしていたらしい。

蔵原惟人、宮本百合子は「人間抑圧社会」を礼賛した


「ソビエト人民は今悲惨のどん底にある」と報告し、ソビエト政権の滅亡を予見した旅行者とは、例えば仏の小説家アンドレ・ジイドを想定しているのではないでしょうか。

蔵原氏が力説しているソビエト社会の「新しい生活」とは、ソ連共産党の宣伝でしかなかった。餓死や「政治犯」としての囚人労働の「暮らし」が「新しい生活」でしょうか。

蔵原氏、宮本百合子はソ連宣伝の片棒を担いでしまったのです。

「プロレタリア文学運動」に参加している作家や評論家の皆さんは、蔵原惟人氏や宮本百合子のソ連礼賛評論をどのように受け止めているのでしょうか。

プロレタリア文学とは、「人間抑圧社会」礼賛文学なのでしょうか。金日成、金正日を礼賛する文学は「プロレタリア文学」ですか?

この時期のソ連社会を、今日の不破哲三氏は「人間抑圧社会」と規定しています。

吉良よし子議員、池内さおり議員ら若い共産党員の皆さんには、蔵原氏や宮本百合子の「人間抑圧社会」礼賛評論を是非読んで頂きたい。

2016年9月3日土曜日

宮本百合子のソ連礼賛「共産党公判を傍聴して」より思う(「働く婦人」日本プロレタリア文化連盟、昭和7年(1932年)4月号掲載。青空文庫所収)

「ソヴェト同盟の工場には工場学校があって、そこでは本当にプロレタリアの技術を高めるために勉強がされている。十六歳までの青年は六時間以上の労働はすることなく、しかもそのうち三時間は工場学校で勉強して、六時間分の給料を貰うのだそうです」(「共産党公判を傍聴して」より)


宮本百合子(1899-1951)には、ソ連滞在経験がありました(1927年12月15日~1930年10月25日。途中にワルシャワやベルリン、パリを含む) 。

宮本百合子は友人の湯浅芳子と一緒にこの期間、主にモスクワに滞在しました。「宮本百合子全集」第九巻「ソヴェト紀行」にこのときの手記が掲載されています。

1927年12月とは、ロシア革命から10年ほど後です。この時期にはチェーカーは、GPU(ゲーペーウー、国家政治保安部)という組織に改編されていました。

今の北朝鮮の国家安全保衛部のような組織と考えればよいでしょう。

宮本百合子のソ連滞在時期に、「人間抑圧社会」が形成されていった


この時期に「反革命分子」を収容所に連行し囚人労働を行わせる仕組みができつつありました。宮本百合子、湯浅芳子のソ連滞在期間に、新経済政策(NEP)は終わります。

農業の強制的集団化、富農(クラーク)撲滅、加速的工業化が宮本百合子らの滞在末期に急速に進められていきます。1929年から30年に聖職者、教会への徹底攻撃が再びなされます。

「共産主義黒書-ソ連篇」(恵雅堂出版2001年、p156)によれば、200万人以上の農民が強制収容所に送られました。そのうち180万人は1930、31年のわずか一年で移住させられました。

600万人が餓死し、何十万人が収容所に送られる間に死亡しました。

聴濤弘氏は、富農を「階級敵」と規定し、富農の絶滅をスローガンにして行った農業集団化では、血で血を洗うような凄惨な事態が進行したと述べています(「ソ連はどういう社会だったか」新日本出版社1997年、p48)。

農業集団化は、ロシア農民を帝政ロシアでの農奴、あるいはそれ以下の社会的地位に落とすような蛮行ですから、地方では相当な抵抗があったことも今ではわかっています。

都市モスクワの滞在者でしかない宮本百合子らに、農村で起こっている凄惨な事態を見通すことは無理だったでしょう。宮本百合子はロシア語はあまりできません。

しかし、史実は史実です。宮本百合子は数百万人の大量殺戮が断行されたスターリンの時代のソ連を帰国後礼賛してしまいます。

宮本百合子らがもう5,6年後にソ連を訪問していたら、「スパイ」の疑いをかけられていたかもしれません。

帰国後の宮本百合子は、ソ連と共産党員を礼賛する小説を公刊できた


「共産党公判を傍聴して」という短編小説は、失業中の若い女性が昭和7年3月15日に開かれたという共産党の公判を見に行って感じたことを語るという形式になっています。

日本共産党や左翼人士の歴史観によれば、この時代の日本は絶対主義的天皇制、軍国主義の暗黒社会だったことになっています。

治安維持法という稀代の悪法で国民は一切の自由を奪われていたが、主権在民を掲げていた日本共産党は官憲による徹底的な弾圧にも屈せず戦い抜いたそうです。

「暗黒社会」であるなら、政府を少しでも批判する言論活動は一切許されないはずですが、宮本百合子はソ連と共産党員を礼賛する小説を公にしていました。

昭和恐慌の頃ですから、勤労者の生活は大変でしたが、暗黒社会などではありえません。

共産党員が公判でソ連宣伝をできる社会が「暗黒社会」なのか


この小説では、高岡只一という共産党員が公判でソ連宣伝をします。主人公はそれに感銘します。

「私を失業させたのはこのブルジョア社会です。

私はそれとどんなに闘うかというやり方を少しでも、闘士たちの闘争ぶりから学ぼうと決心したのです。あの人々は命がけで、私達が毎日闘っているものと闘っていてくれるのです。」

と決意を新たにします。

宮本百合子人はスターリンとボリシェヴィキを盲信していました。こうなると、ソ連のすべてがよく見えてしまうのでしょう。

在日本朝鮮人総連合会の皆さんには、北朝鮮のすべてが素晴らしく思えています。

こんな内容の小説を公にできた国が、暗黒社会であろうはずがない。朴正ヒ政権下の韓国(1960,70年代)より自由があります。

1920年代後半から30年代のソ連では、スターリンによる専制支配が確立されて行きました。

30年代のソ連で、スターリンと共産党を批判する小説は出版可能だったでしょうか。5カ年計画、富農撲滅と加速的工業化に反対する主人公を描く小説が出版できたとは思えない。

出版社はすべて国営ですから、すぐに警察に通告されてしまいます。そんな小説の出版を計画しただけで「人民の敵」とレッテルを貼られ処刑されてしまうでしょう。

今日の不破哲三氏によれば、スターリンの時期のソ連は「人間抑圧社会」になっていました。

今日の不破哲三氏の史観を受け入れれば、宮本百合子は「人間抑圧社会」を礼賛した浅はかな小説家だったことになります。

宮本顕治氏ら当時の共産党員は、日本をソ連のような「人間抑圧社会」にするための「不屈の闘い」をしていました。

「32年テーゼ」の核心「帝国主義戦争を内乱に転化せよ」は武装闘争、テロ方針


「帝国主義戦争を内乱に転化せよ」という類の世界共産党の指示に従い、労働者や農民を組織して実際に内乱を起こそうとしていたのが当時の日本共産党でした。

「32年テーゼ」の核心は「帝国主義戦争を内乱に転化せよ」です。内乱ですから、武装闘争、テロです。「帝国主義戦争を内乱に転化せよ」はレーニンの教えそのものです。

日本共産党は今日に至っても、「32年テーゼ」を高く評価しています。

労働者、兵士に宣伝、組織活動を行い「プロレタリア赤軍」を結成して内乱を起こすなどという物騒なことこの上ない団体とその構成員が逮捕、投獄されるのは当然です。

そんな連中を放置しておいたら、要人暗殺などとんでもないテロをやってしまったかもしれません。当時の共産党員は、逮捕・投獄して下さった特別高等警察の方々に感謝すべきです。

テロを起こさずに済んだのですから。要人暗殺など、被害者だけでなく殺人者にも不幸な結末になってしまいます。

「転向」した共産党員はテロリストたることを辞めた


共産党員の「転向」とは、テロリストたることを辞めたことなのです。それで本当に良かった。

「非転向」だった宮本顕治氏は、スターリンとソ連への盲従を誓い、武装闘争、テロを正当化する論文「共産党・労働者党情報局の『論評』の積極的意義」を1950年に発表しました。

この論文によれば、日本革命の「平和的発展の可能性」を提起することや、議会を通じての政権獲得の理論は根本的な誤りだそうです。

同志スターリンに指導され、マルクス・レーニン・スターリン主義で完全に武装されているソ同盟共産党が、共産党情報局の加盟者であることを銘記しておく必要があると宮本顕治氏はこの論文で力説しています。

この論文発表の約40年後のソ連崩壊時に、宮本顕治氏はソ連崩壊万歳を叫びます。

宮本百合子ら昔の共産党員からみれば、宮本顕治氏は「反革命分子」「反党分子」に転向、変質したことになります。

1960年代から80年代の日本共産党でも、ソ連は崩壊してしかるべきだなどと共産党員が公の文章にしたら除名処分でしょう。

「党の上に個人を置いた」「大会決定に反している」と言われてしまいます。

プロレタリア文学とは「人間抑圧社会」礼賛文学なのか―民主主義文学運動に参加している作家の皆さんと聴濤弘氏(元日本共産党参議院議員)に問う―


プロレタリア文学とは「人間抑圧社会」礼賛文学なのでしょうか。

「宮本百合子全集」第九巻(新日本出版社1980年刊行)には、宮本百合子によるソ連礼賛文章が満載されています。

民主主義文学運動に参加している作家の皆さんや日本共産党のソ連専門家聴濤弘氏(元日本共産党参議院議員)は、これらを読んでいるはずです。

民主主義文学運動に参加している作家の皆さんは、「人間抑圧社会」を礼賛する宮本百合子の随筆や小説を「プロレタリア文学」とみなしているのでしょうか。

宮本百合子は、ブハーリンらは「反革命分子」だから処刑されて当然と考えていたのでしょうか?

そういう疑問を提起し、公の文章で議論すれば日本共産党の規約に触れるから、民主主義文学運動参加者の方々は宮本百合子のソ連礼賛について沈黙しているのでしょうか。

民主主義文学運動の参加者がそうであるなら、その方々の内面を描く文学の方がよほど面白い。

吉良よし子議員、池内さおり議員ら若い共産党員の皆さんには、宮本百合子によるソ連礼賛の歴史を直視して頂きたい。

「宮本百合子全集」すら読んでみようという気概がない方が日本共産党の国会議員をやっているなら、党員と国民を愚弄しています。

2016年8月21日日曜日

聴濤弘「レーニンの再検証」(大月書店2010年刊行)への疑問。ロシア革命における「民主主義革命」とは何なのか?「ロシア社会主義連邦ソヴェト共和国憲法」(1918年採択。岩波文庫「人権宣言集」掲載)より思う。

第九条 現在の過渡期において期待されるロシア社会主義連邦ソヴェト共和国憲法の基本的な任務は、ブルジョアジーを完全に抑圧し、人間による人間の搾取をなくし、階級への分裂も国家権力もない社会主義をもたらすため、強力な全ロシア・ソヴェト政権のかたちで、都市と農村のプロレタリアートと貧農の独裁を確立することである。


ロシア革命とは、いったい何だったのでしょうか。

1918年7月10日、第五回全ロシア・ソヴェト大会でロシア社会主義連邦ソヴェト共和国憲法が採択されました。第九条は上です。

「ブルジョアジーを完全に抑圧」することを憲法が任務としているそうです。「強力な全ロシア・ソヴェト政権」とやらが、搾取と国家をなくすために必要なそうです。これでは大変ですね。

本ブログは、レーニンが「穀物徴発」と称して「富農」の財産没収、粛清指令を出していたこと、ロシア正教の教会財産没収、聖職者殺害指令を出していたことを指摘してきました。

革命により権力を掌握したレーニンとボリシェヴィキは農民と宗教者への徹底弾圧を断行したのです。

穀物や財産を没収された人は生活できません。数百万とも言われる規模で餓死者が出ました。

私見では、民主主義とは見解の違いを話し合いにより決定していく仕組みのことです。

レーニンとボリシェヴィキにより「富農」「黒百人組」「ブルジョアジー」などとレッテルを貼られ、殺されてしまった方や餓死した方が話し合いに参加できません。

ソヴェト共和国憲法九条に明記されているように、「ブルジョアジー」を、完全に抑圧することが「プロレタリアートと貧農の独裁」なのです。

ソヴェト共和国憲法七九条には、ソヴェト共和国の財政政策は、ブルジョアジーを収奪し、富の生産と分配で共和国市民の全般的平等の条件を準備すること、という記述があります。

ブルジョアジーの「完全抑圧」「収奪」に抵抗する人は、共産主義理論では「反革命」です。この時期に、チェーカーという秘密警察もつくられています。

チェーカーとは、今の北朝鮮なら国家安全保衛部のような組織です。

ロシア革命の時期のレーニンの宣伝文句がどうあれ、レーニンとボリシェヴィキが断行した殺戮と大量餓死は民主主義の根本的否定です。

映画「ドクトル・ジバゴ」(David Lean監督)でも、ジバゴが住んでいた屋敷をボリシェヴィキに没収されてしまう場面がありました。

「ブルジョアジーの収奪」とは、単なる略奪行為です。

聴濤弘氏(元日本共産党参議院議員)はいまだにロシア革命を礼賛している


ところが、聴濤弘氏は著書「レーニンの再検証」(2010年大月書店刊行、p34)で次のようにロシア革命を礼賛しています。

「ロシア革命とはツァーリ(皇帝)専制を打倒し、民主主義革命を成功させ、引き続いて社会主義革命の勝利をかちとり、

人類で初めて資本主義とは違う新しい社会があることを事実によって世界に証明したロシア人民の闘いの歴史である。」

「民主主義革命」とは、レーニンとボリシェヴィキ(後のソ連共産党)が権力を掌握することを指すようです。

ところが当時のロシア社会で、民主主義が成立していたか否かについては、聴濤氏は一切説明していません。レーニンの宣伝文句を引用しているだけです。

聴濤氏には、ボリシェヴィキにより殺された人や餓死させられた人は話し合いに参加できないから、当時のロシアには民主主義などなかったということが理解できていない。

ソ連共産党の宣伝文句が、骨の髄までしみついてしまっている年配の日本共産党員は少なくない。齢を重ねると、思考方式を変更することは困難です。

聴濤弘氏の「レーニンの再検証」が描くレーニン像は、「ソ連邦共産党史」(日本共産党中央委員会宣伝教育部訳。大月書店昭和35年刊)と大差ありません。

在日本朝鮮人総連合会には、金日成、金正日の「教示」「お言葉」を絶対の命令と思い込んでしまっている老活動家は少なくない。

日本共産党員と在日本朝鮮人総連合会関係者の思考方式はよく似ています。

宮本顕治氏は、日本のソビエト化=日本の「人間抑圧社会」化実現のために長年獄中闘争をした


宮本顕治氏は、「帝国主義戦争を内乱に転化せよ」を主張した「32年テーゼ」が、民主主義革命から社会主義革命への道を解明した、などと信じ込んでいました。

内乱を起こしたら、話し合いができなくなります。民主主義の前提がなくなってしまう。宮本顕治氏が入党したころの日本共産党は、内乱を起こすことを策していたテロリスト集団でした。

当時の日本共産党は、内乱を起こすことを英雄的行動とみなす「理論」をクーシネンらソ連共産党から伝授され、多額の活動資金と武器(ピストル)まで受け取っていたのです。

物騒な連中ですから、逮捕されるのは当たり前です。逮捕されて「転向」した共産党員は、内乱を起こすことの愚かさを悟ったのです。

当時の日本共産党が目指していたのは日本のソビエト化です。スターリンのソ連社会は、今日の不破哲三氏によれば「人間抑圧社会」です。

日本を「人間抑圧社会」にするために、宮本顕治氏らは獄中で長年頑張ったのです。

ソヴェト連邦共和国憲法では「賃労働を利用するもの」「商人」「修道僧および僧侶」(ロシア正教会の聖職者を指すのでしょう)らが選挙権、被選挙権をはく奪を明記しています。

この憲法はレーニンの時代に作成されていますから、レーニンの「民主主義論」を十分に反映しています。

「ソビエト型民主主義」「プロレタリア民主主義」とは、「搾取者」「ブルジョアジー」「富農」の人々を徹底抑圧することにより、労働者と農民の権利が保証されるという「理論」なのです。

下記です。聴濤弘氏なら、この憲法の条文を御存知のはずです。

聴濤弘氏に問いたい。「搾取者」や聖職者から選挙権、被選挙権をはく奪することは「民主主義革命」ですか?「プロレタリア民主主義」の実施は民主主義革命ですか?

吉良よし子議員、池内さおり議員ら若い共産党員には、ロシア革命でのレーニンとボリシェヴィキによる蛮行の史実を、文献をしっかり読んで学んでいただきたい。

映画「ドクトル・ジバゴ」は良い作品です。「ラーラのテーマ」は、ソ連共産党による過酷な弾圧の時代を生きたロシア人の哀しみを思い起こさせる名曲です。

ソヴェト連邦共和国憲法 第四篇積極的選挙権と消極的選挙権 第十三章、第六五条


上にのべられたカテゴリーに入っているものでも、次のものは選挙したり、選挙されたりできない。

(イ)金もうけ目的で賃労働を利用しているもの。

(ロ)資本からの利子、企業からの収入、財産からの所得というような労働によらない収入でくらしているもの。

(ハ)私的な商人、および商業ブローカー。

(ニ)修道僧および僧侶。

(ホ)以前の警察、憲兵隊および秘密警察の勤務員とそれらの手先、ならびに旧ロシア皇族。

(ヘ)定められた手続きで精神病者あるいは精神薄弱者とみとめられるもの、および禁治産者。

(ト)破廉恥罪によって有罪とされたもの、ただし、法律あるいは裁判所の判決で定められた期間。