2019年1月19日土曜日

那覇軍港の浦添移転、浦添沖埋め立てによる米軍新基地建設問題と左翼の権謀術数―浦添市議会の会議録より

伊礼悠記議員(日本共産党浦添市議)

「貴重なサンゴやイノーが残る西海岸の埋め立ては、自然破壊で税金無駄遣いであり軍港建設と一体のものとなっています。

埋め立てはやめて、海兵隊の出撃基地となる軍港の受け入れを撤回することを強く求めます」(浦添市議会平成29年3月7日会議録より)


報道によれば、玉城知事は松本哲治浦添市長と那覇軍港の浦添移転、浦添沖埋め立てによる米軍新基地建設についての合意を確認しました。

美ら海の埋め立ては自然破壊になるのではという懸念に対しては、返還される那覇軍港の跡地利用による経済波及効果を考えると、やむを得ない旨玉城知事は述べたそうです。

玉城知事のこの立場は、故翁長知事の後継者として当然です。

玉城知事は現在進行中の辺野古埋め立てに強く反対していますが、浦添沖埋め立てを推進するのは二重基準、ダブルスタンダードではないか。

インターネットではそんな批判がかなりなされています。

浦添の埋め立て面積は辺野古のそれの倍近くなる。美ら海の生態系にはかなりの影響があるでしょう。

浦添の海は、地元ではカーミージーの海と呼ばれて親しまれているそうです。

浦添市の埋め立て案のほうが、沖縄県と那覇市の提案より埋め立て面積は少ないそうです。

玉城知事はかなり大きな決断をなさったと思えてなりません。


日本共産党はなぜ浦添沖埋め立てによる米軍新基地建設についての県民投票を主張しないのか


日本共産党は上記の伊礼悠記浦添市議の発言からも明白なように、那覇軍港の浦添移転、浦添沖埋め立てによる米軍新基地建設に強く反対してきました。

しかし今の日本共産党は、玉城知事のこの判断について沈黙しています。

12月の沖縄県議会では日本共産党県議は多少の事を言ったかもしれませんが、「赤旗」記事には何も出ていないようです。

ツイッターやブログを散見しても、この問題に関し見解を述べている日本共産党議員を見出せません。

「赤旗」の論調は玉城知事と共に辺野古埋め立てに断固反対しよう、です。ここで玉城知事を批判するのは得策でない、という判断でしょうか。

日本共産党と左翼人士は、辺野古埋め立てについて県民投票に参加しない決定をした宜野湾市などを批判しています。

しかし日本共産党や左翼人士は浦添沖埋め立ての県民投票をしようという主張はしない。玉城知事を批判すると厄介だ、という判断でしょうか。

政治巧者ですね。

故瀬長亀次郎氏なら、浦添沖を埋め立てて米軍新基地を建設しようとする玉城知事と、それを事実上黙認する日本共産党を何と評したでしょうか。

沖縄の政治家や左翼平和運動には、権謀術数の世界にどっぷりはまっている方が多いのでしょうか。

浦添埋め立てに沈黙する日本共産党議員、左翼人士の世界を想像すると、常に自分が有利になるように身を処そうとする自民党議員と大差ないと思えてきます。

日本共産党員や左翼人士の人生行路ー長いものには巻かれろ


誰しも、社会の中で生きのびていくためには多少の妥協や筋を曲げるようなことをせざるを得ないのかもしれません。

伊礼悠記議員は、浦添沖埋め立てを進める玉城知事を今後批判するでしょうか。御一人では難しいでしょうね。

筋を曲げずに一人で異なる主張をすると、日本共産党から除名、除籍されかねませんから。

日本共産党員や左翼人士の人生行路は、長いものには巻かれろ、になるのでしょうか。

沖縄出身の作家、霜多正次氏ならどう判断したでしょうか。

伊礼悠記議員の上記の質問に対し、松本哲治浦添市長が興味深い答弁をなさっています。

答弁から、権謀術数の沖縄政治の中の日本共産党の奇怪な動きがわかります。

以下、浦添市議会の会議録より抜粋します。

松本哲治浦添市長の伊礼悠記議員の質問に対する答弁(抜粋)



「それではただいまの伊礼悠記議員の御質問の中から質問番号7番について先にお答えをいたします。

これまで那覇軍港の浦添移設を唱える翁長県知事と城間那覇市長を一貫して支持し、軍港説に明確に反対をする独自の市長候補者を擁立することもなく、

さらには現行計画のまま西海岸開発を推進すると、公約して明言する市長候補者を党として正々堂々と応援してきた事実に鑑み、

共産党を中心とするオール沖縄の皆様と我々とは事実上、

那覇軍港の浦添移設容認、西海岸開発の水深という点においては幸いにも全会一致を見出すことができたのではないかと考えております。

今回の選挙戦がこれまでの軍港建設反対、西海岸埋め立て反対の主張と矛盾するのではないか。

あるいは口で言っている事と行動が違うのではないかなどの市民の素朴な疑問については、再質問を通して議論を深めていきたいと考えております」

2019年1月7日月曜日

飯山陽「イスラム教の論理」(新潮新書)と井筒俊彦「『コーラン』を読む」(岩波現代文庫)より思う

「イスラム教はおそらく、『今』『この世界』が嫌だという人にとって最強のオルタナティヴです。信じることさえできれば、すべての人が救われるのです」(同書まえがき、p10より抜粋)。


人生、大過なく着実に生きていくのは本当に大変です。

順風満帆と自他ともに認めていた方が思わぬ失敗をすることがある。

自分の力ではどうしようもない事により、運命が大きく変わってしまうこともある。

自分の何気ない言動が、他人に大きな影響を与えてしまい、自分にも跳ね返ってくることもある。

遠藤周作はそれを、神がさいころを振ったといいました。

「コーラン」の存在感覚、世界像ではあらゆるものが神を讃美している


飯山さんの上記の言葉が、私は気になっていました。

なぜ「今」「この世界」が嫌だという人にとって、イスラム教が最強の対案なのでしょうか。

この問題を井筒俊彦「『コーラン』を読む」(岩波現代文庫、第三講「神の讃美」)により、考えてみます。

人間には神への讃美を拒否する自由があるが―天国へ行く者と地獄に行く者の区別は


井筒によれば、「コーラン」の世界像はあらゆるもの、天にあるもの、地にあるもの、全てがただそこにあるということで神を讃美している。

アッラーに対する人間の、最も優れたあり方は、いちばんよく神を讃美するような仕方で存在する事です。

人間以外の存在者は、天使と悪魔を別として、存在する事により神を讃美していながらそのことを知らない。

しかし人間には神への讃美を拒否する自由がある。

天国に行ったものだけが、心ゆくまで神を讃美する。

地獄に落ちた者は神を讃美できない。

では、天国に行く人と地獄に行く人の区別はどうやってなされるのでしょうか。

井筒俊彦訳の「コーラン」を私なりに読むと、この区別は次のようになされます。

天使が人々のなした行いの点数をつけている


アッラーが預言者ムハンマドに伝えた言葉は、「コーラン」に示されている。

「コーラン」に示されている生き方、存在の仕方で神を生前に讃美したものは、天使がそれを良い点数としてつけている。

アッラーを讃美せず、多神教を信じた者には天使が悪い点数をつけている。

世界の終りの日に、全ての死者は蘇り、神の前でその点数を天使により示され、天国へ行くか、地獄へ行くかが決まる。

従って大切なのは現世ではなく、永遠に続く来世である。

この視点なら、現世でうまく身を処すことができず、社会的に成功できなかった人でも「コーラン」が教えるように神を讃えて生きれば天国に行ける。

「この世界」が嫌でも、「コーラン」に従って神を讃美していれば天使が良い点数をつけて下さり、世界の終りの日に蘇って天国へ行ける。

天国では清浄な妻が何人もあてがわれる


井筒俊彦訳「コーラン 上の四、女」(p142)は天国について次のように記しています。

「だが信仰を抱き、義しい道を踏み行う者、そういう人たちはせんせんと河川流れる楽園に入れて、そこに永久に住みつかせてやろう。

そこでは清浄な妻(前出、天女フーリーの事)を何人もあてがおう。そして影濃き木影に入らせよう」。

聖戦に出征すると良い点数-汝らの身近にいる無信仰者たちに戦いを挑みかけよ


良い点数は、「聖戦」に出征してもつけてもらえるようです。「コーラン 九 改悛」(井筒訳、p328)は聖戦参加者への点数についての部分を抜き書きします。

「そういう人たち(聖戦に出征した人々)は、何か大なり小なりの費をしたといっては記録され、ちょっと谷を越したと記録され、それで(後日)アッラーから自分たちが(現世で)してきた最善の行いを御嘉賞して戴ける」

「これ、信徒の者よ、汝らの身近にいる無信仰者たちに戦いを挑みかけよ。彼らにおそろしく手ごわい相手だと思い知らせてやるがよい。

アッラーは常に敬神の念敦き者とともにいますことを忘れるでないぞ。」

飯山陽「イスラム教の論理」(p44)によれば、コーランで命じられているのだから喜捨もジハード(聖戦)もヒジュラも全部やるという「イスラム国」のありかたの方が、イスラム教の理ではより強力で正統です。

飯山氏によれば世界には「多様性」を否定的にとらえ、世界はひとつの価値観に収れんされなければならないと考える人もいる(同書p5)。

イスラム教はこれに属する。

私はインドネシアやイラン、トルコと日本は交流関係を深めるべきと考えていますが、距離の取り方が難しいと思えてなりません。





2019年1月1日火曜日

内田樹・石川康宏「若者よ マルクスを読もう」(かもがわ出版平成22年刊行)より思う。

「社会の悪(障害や罪や抑圧)は、ある特殊な社会的領域・特殊な社会的立場に集約されているので、それさえ取り除けば、社会はよくなるというのは、悪いけれど、耳に快い『お話』にすぎません」(同書p100より抜粋)。


この本は内田樹・石川康宏両教授による「若者よ マルクスを読もう」の最初の巻です。

フランスの現代思想を専門とする内田樹教授と、マルクス主義経済学者として知られている石川康宏教授の往復書簡という形式になっています。

内田教授が「まえがき」で明記されているように主な読者として高校生を想定されていたようですが、かなり広い年齢層の読者を得たようです。

私としては、内田樹教授による、上述のマルクス批判が興味深かった。

「ヘーゲル法哲学批判序説」が共産主義勢力による蛮行の遠因と内田樹教授は解釈

内田樹教授のこの指摘は、マルクスの「ヘーゲル法哲学批判序説」にある、次の記述によるものです。

「一国民の革命と市民社会の一特殊階級の解放とが一致し、一つの立場が社会全体の立場として通用するためには、

逆に社会の一切の欠陥が或る他の階級の中に集中していなければならず、また或る特定の立場が一般的障害の立場、一般的障壁(拘束)の化身でなければならず、

またさらに、或る特殊な社会的領域が、社会全体の周知の罪とみなされ、そのためこの領域からの解放が全般的な自己解放と思われるようになっていなければならない。

或る一つの立場が優れた意味で解放する立場であるためには、逆に他の一つの立場が公然たる抑圧の立場でなければならない」(「若者よ マルクスを読もう」p98-99より抜粋)。

マルクスの文章は難解ですが、上記の最後の文章だけでも意味はほぼわかります。

要は次です。

労働者は革命的で抑圧されたものを解放する階級、資本家は抑圧する階級です。

労働者が資本家と闘争して国家権力を奪い、企業を社会全体のものにする革命を行えば万事良くなります。

私見では、エンゲルスの「空想から科学へ」の中心的主張はこれです。

内田樹教授は、この例としてスターリンのソ連、毛沢東の中国、ポル・ポトのカンボジアを指摘しています(同書p100)。

富農を人民の敵、と主張し彼らを除去、追放すれば万事良し、と最初に主張したのはレーニンでした。

ヘーゲル法哲学批判序説が若い、未成熟なマルクスの議論


内田樹教授のこの指摘に対し、石川康宏教授は次のように返答しています。

生産関係の転換を基本にすえて、それによって人間関係の転換を目指そうとするものであり、「あいつさえやっつければ世の中は変わる」といった単純な社会理解ではない同書p141)。

内田樹教授が引用しているマルクスの論考の当該箇所を石川康宏教授がどのように解釈したかという件はよくわかりません。

「ヘーゲル法哲学批判序説」がマルクス経済学の確立の前に書かれた文献なので、若い、未成熟な議論だったと考えているようです(同書p140)。

資本家は「利札を切る」だけで社会的に無用な存在ーエンゲルスは金融資産市場の資源配分機能(貯蓄から投資への資金の潤滑な配分)を役割を理解できなかった


私見では、マルクス、エンゲルスの革命理論は資本主義的搾取の理論により、さらに単純化されてしまった。「空想から科学へ」に次の記述があります。

「資本家のあらゆる社会的機能は今や俸給者によって司られている。

資本家は所得を懐に入れ、利札を切り、様々な資本家がお互いに自分たちの資本を奪い合う取引所で投機する以外は、何の社会的活動ももはや行わない」

エンゲルスは資本家による金融資産購入と売却が単なる投機であり、社会的に無用だと主張しています。

資本家に雇われた経営者が日々の企業経営を行っているので、資本家は無用という話です。過剰人口だとエンゲルスは述べています。

金融資産市場、または金融仲介機関の存在により、貯蓄主体から投資主体に資金が配分され、投資がなされて経済が活性化するのです。

消費者の動向を敏感に把握した人が会社を興すとき、自己資金だけで足りない場合がある。その人は銀行から資金を借りれば良い。

あるいは、裕福な方から借りれば良い。

北朝鮮では、銭主から資金を借りて自分なりの会社を興す、あるいは国有企業を買収して実質的に私有にする人が現れていると考えられます。

金融資産市場に関する法制度が整っていれば、株式を発行して資金を調達することもできる。

マルクス、エンゲルスは金融資産市場、または金融仲介機関が貯蓄主体から投資主体に資金を配分するという役割を果たしている事が理解できなかった。

起業家がどのような投資計画を持っているかを審査する能力を持つ金融仲介機関が存在すれば、起業家は金融仲介機関から起業のための資金を借りれば良い。

政府が金融仲介機関の存続を保障すれば、庶民は安心して金融仲介機関に資金を預ける事ができる。これにより、金融仲介機関は貸出しの原資を自己資金プラス預金にできる。

預金を発行して貸出しをすることができれば、社会全体にかなりの資金が流通していく。信用創造です。

19世紀の欧州で、実際にどのような債券や株式が売買されていたのか私は存じませんが、優良な金融資産は存在したはずです。

利子収入や配当は、不確実な将来に対して危険を取った事に対する報酬と言える。これを搾取とみなして禁止したら、経済はむしろ非効率的になる。

優秀な起業家が企業を起こせず、雇用が創出されなくなってしまうからです。

レーニンは穀物を自分と家畜の必要以上に生産して販売し、儲けようとする農民を搾取者とみなした


金融資産市場、金融仲介機関の存在意義を理解していない点では、レーニンも同様でした。ヒルファーディングはこれを理解していたように思えますが。

「青年同盟の任務」(レーニン全集第31巻、p290-291)でレーニンは、穀物を自分と家畜の必要以上に生産し他人に売って投機をしようとする農民は搾取者に変わっていると批判しています。

穀物投機をする農民は、飢えた人が多ければ多いほど高い値段が支払われると胸算用するから、搾取者だとレーニンは主張しています。

穀物が不足しているなら、沢山の農民により多くの穀物を生産してもらい、それを市場で倍すれば穀物の価格は投機により多少変動しても、落ち着いていくでしょう。

相当数の餓死者が出なければ、レーニンはそれを理解できなかった。「青年同盟の任務」は、新経済政策の少し前の著作です。

穀物投機者は搾取者、富農は人民の敵だというレーニンの主張は、エンゲルスの資本家による金融資産購入は無意味であり、資本家は不要だという主張の延長です。

マルクスの「ヘーゲル法哲学批判序説」の継承でもあります。

社会の一切の欠陥が或る他の階級の中に集中している」という発想から、レーニンは富農やロシア正教会聖職者弾圧を指示しました。

石川康宏教授は、エンゲルスの「空想から科学へ」の資本家不要論や、レーニンの「青年同盟の任務」をどう読んでいるのでしょうか。