2014年9月27日土曜日

Audrey Tautou主演「A Very Long Engagement」(原題Un long dimanche de fiançailles)を観て思う。

第一次対戦は欧州が主戦場だった。独仏が激戦を繰り広げた。


「戦争」というと私たち日本人は、大東亜戦争を思い起こします。米軍によって東京、大阪など主要都市が焦土化したのですから、当然でしょう。

韓国では「戦争」というと1950年6月25日からの朝鮮戦争を思い起こす人が多い。朝鮮人民軍によりソウルが徹底攻撃され、数え切れぬ程の市民が犠牲になりました。

私は15年ほど前にソウルに一年間滞在しましたが、そのときの下宿のおばさんによると、明洞というソウルの一番の観光地付近には市民の死体が数知れず重なっていたそうです。

ソウルでは何度も「解放」、奪還がなされています。市街戦のような状況も多々あったのでしょう。

第一次大戦の傷跡が残っているフランス


同様に、欧州では第一次対戦が相当数の庶民を巻き込んだ激戦でした。独仏が激戦を繰り広げました。この映画を見て改めてそれを実感しました。

この映画の舞台は、第一次対戦後のフランスです。

Audrey Tautou演じるマチルダの元に、出征した恋人マネクの死亡通知が届きます。マチルダはどうしてもそれを信じられません。マチルダはマネクの行方を必死に探します。

マネクは共に自ら負傷したという罪に問われ、ドイツ軍との最前線に送られてしまったことがわかります。他に4人の兵士が軍法会議で死刑を宣告され最前線に送られます。

恋人は死刑宣告を受け、最前線に送られた―独戦闘機アルバトロスの機銃掃射―



死刑宣告を受けたマネクらは、戦死が確実なところに行くよう上官から命じられます。マチルダはマネクがドイツ軍戦闘機により負傷させられたことを突き止めます。

アルバトロスというドイツの戦闘機による機銃掃射ですから、マネクの生存は絶望的です。それでもマチルダは恋人の死を信じられず、捜索を続けます。

この映画は何と言っても映像が素晴らしい。一つ一つの場面が名画のようです。黒沢明の映画を思わせます。

純愛物語ですが、齢を経た私でも思わず映画に引き込まれてしまいます。

マチルダの心中での「賭け」と兵士の恋人、妻の生きざま


マチルダが搜索の節目で、恋人が生きているかどうか心中で「賭け」をします。
これで更に観客が主人公に引き寄せられるようになっていきます。

このあたりが、主演女優としての見せ場なのでしょう。

Audrey Tautouの心中を表すような音楽が流れます。映画は役者の台詞と演技だけでなく音楽、撮影手法、場面の展開など総合性が問われる芸術なのでしょう。

Judie Fosterが脇役で少し出ています。激戦地から逃れるためには、ある兵士がJudie Foster演じる妻にやらせたようなこともありえたかもしれません。

筋書きがやや複雑なので、私には繰り返し観ないとよくわかりませんでした。

マネク以外の4人の死刑囚とその周囲の人物像も面白いのですが、名前や呼び名をメモなどしておかないとわかりにくい。外国人の名前は覚えにくい。

Ange、ノートル・ダム、シ・スー、バストゥーシュ(家具職人)の4人です。彼らの妻や恋人がそれぞれの生き方を貫きます。時代を精一杯生きるとはどういうことなのか、改めて考えさせられます。

一次大戦後のパリの街の様子を感じ取ることができるという意味でも、面白い映画です。

2014年9月21日日曜日

朝鮮労働党は蓮池薫さんらが北朝鮮の工作船に助けられたという筋書きを作って蓮池薫さんに暗記させた-蓮池薫「拉致と決断」(新潮社)より思う-

党の方針は拉致被害者ではなく、「行方不明者」として私たちを世界の前に出そうというのだった(前掲書p214)-


北朝鮮の「特別調査委員会」とやらの「調査報告」が遠からず出てくるでしょう。「被拉致日本人は皆死んだ」という類の大嘘が何らかの形で出てくる可能性が高い。

北朝鮮は帰国を許可した日本人妻にこれを言わせる可能性があります。

あるいは、拉致ではなく自分の意思で北朝鮮に入国し、今は幸せに暮らしているから日本に帰国する意思はないという「意思表示」を拉致被害者がするかもしれません。

蓮池薫さんの著書によれば、海辺でデートをしていた蓮池さんらはモーターボートを運転してみたところ、エンジンが止まって陸に戻れなくなり漂流してしまい、沖で北朝鮮の工作船に救助されたという筋書きを作られ、暗記させられていました。

これは朝鮮労働党の手口、宣伝手法をよく表しています。蓮池薫さんの前掲書に朝鮮労働党が作成した「筋書き」が全文掲載されています(p215-216)。抜粋して引用します。

蓮池薫さんがモーターボートを運転して沖に出たら、エンジンが止まり北朝鮮の工作船に救助されたと捏造


「海辺の人影のいないところに至った二人は、肩を並べて坐り、沈みゆく夕日を見ながら話に夢中になっていた。すると、少し離れた波打ち際に一台のモーターボートがあるのに気づいた。

まわりには誰もいない。興味を引かれた私は、ボートのところに行ってみる。(中略)。

他人のボートだから早く降りて来いと騒ぎ立てる妻を、『少しだけだから、大丈夫』と言って逆にボートに連れ込んだ私は、沖に向かって操縦し始めた。あたりは暗くなっていたが、視界は十分にきいた。早く戻ろうとせがむ妻をしり目に、夢中になってアクセルをふかす。

あたりが闇に覆われ、妻が泣き出すころになって、ようやく陸へと舵を切る。ところがそのときエンジンが止まった。手探りで何度も試みるが、無常にもエンジンはかからない。

アンカーのないボートはすぐに漂流を始めた。遠くに柏崎の街明かりが見えるが、漕いでいくオールもない。次第に潮は強くなり、どんどん沖のほうへと流されていく。

不安を通り越し、死の恐怖に襲われる。一夜明けると、朝から灼熱の太陽が照りつけた。飲み水すらない二人はぐったりとし、ただ救助が来るのを待っていた。

だが、誰も来ない。家族に行先を告げなかったことを後悔しても、あとの祭りだった。遠くを通り過ぎる貨物船に、干切れんばかりにTシャツを振って見せたが、これも無駄なことだった。

何日経ったのか、意識が朦朧とし、すべてを放棄しかけていた。そのとき、偶然通りかかった小型船が意識を失った私たちを救助してくれた。

しかし、船は私たちを日本の陸地に戻してはくれなかった。任務遂行中の北朝鮮の工作船だったからだ。船はそのまま北朝鮮に戻り、私たちはハムギョン北道のある病院に運ばれた。

数日して意識を取り戻した私たちは、自分が異国の地に来ていることに驚きながらも、命を救ってくれたことに深く感謝した。

退院後もしばらくその病院にお世話になって暮らしながら、北朝鮮社会のことを知っていった。

さほど裕福でないとしても、平等な社会で希望と生きがいを持って生きている人々の姿に深く心を動かされる。

殺伐とした資本主義社会の日本とはまったく違うこの社会で、私はしばらく生活してみようと決心する。その後二人は結婚して子どもができた。

私は新たに学校も出て、日本語を使う仕事に就いた。誠実な働きぶりが評価され、その数年後には平壌に移り住むことも許された。

そして現在、高層アパートの一室で市内の大学に通う子どもたちと一緒に幸せな生活を送っている」。

被拉致日本人は現在、同様の筋書きを暗記させられている-暴力団関係者への徹底課税体制を!警察と国税庁の協力体制構築のための法改正をが必要だ-


大同小異の「筋書き」を、現在徹底暗記させられている被拉致日本人の皆さんが相当数いることでしょう。横田めぐみさんの元御主人、金英男氏による拉致された時の話と少し似ています。

北朝鮮に対し、徹底的な経済制裁を断行すべきです。

暴力団関係者への適正課税を国税庁と警察が協力してできるように法改正をすれば、北朝鮮への経済制裁にもなります。暴力団関係者と北朝鮮は密接な関係を保持していますから。

北朝鮮を訪問した在日韓国・朝鮮人の日本への再入国を拒否するべきです。

これにより対南工作機関が在日韓国・朝鮮人に直接の指令を出しにくくなる。朝鮮商工人をおだてて資金を巻き上げることができにくくなるのです。

政府は対北朝鮮ラジオ放送で金正日の贅沢三昧生活、女性問題を暴くべきだ-放送の合間に北朝鮮近海の天気予報や、海上の予想される波の高さを伝えよう-


さらに、本ブログで何度も主張しているように政府は対北朝鮮ラジオ放送で金日成、金正日を批判するべきです。

例えば、金正日の招待所での贅沢三昧生活や金正日の女性関係をラジオ放送で暴くべきです。これをやれば北朝鮮の一般国民や人民軍兵士に真実が広まってしまいます。

ラジオ放送の合間に北朝鮮近海の天気予報や、海上の予想される波の高さなどの情報を伝えると特に効果がでます。

朝鮮人民軍兵士や一般国民は近海で魚を取り、中国や闇市場に売って外貨を得て生活を維持していますから、近海の天気予報や、海上の予想される波の高さを是非知らねばなりません。

日本のラジオ放送を聞けばそれがわかるのなら、人民軍兵士や一般国民は外貨を安全に得るため聞くでしょう。北朝鮮のテレビやラジオには天気予報という番組はないようです。

国家安全保衛部がこれを放置すれば彼らの責任問題になりますから、国家安全保衛部はあらゆる経路で日本側に「放送を辞めろ」と必ず要求してくる。

このとき、日本は「放送を辞めて欲しいなら横田めぐみさん、有本恵子さん、増元るみ子さんらを直ちに返せ」と要求すればよい。

北朝鮮がこれに沈黙しているなら、黙々とラジオ放送を続ければ良いのです。そのうち内部で責任のなすりつけあいが始まるでしょう。

テロリストの弱点を突くという発想は、残念ながら外務省や拉致問題対策本部の皆さんにできないようです。単に「粘り強く交渉を続けます」では北朝鮮の思うつぼです。

北朝鮮は外務省の「とにかく交渉を続けることだ」という方針を熟知していますから、外務省に自分たちの要求を飲ませるためには「交渉を切るぞ」と脅かせば良い。

なぜ外務省や政治家が路線変更を主張できないのか-保身と「暴力団との共生者」の存在


この程度のことは誰でもすぐにわかりそうなものですが、外務省最高幹部には「これまでの路線を変更しよう」と言い出すことができないようです。

路線を変更して「失敗」すれば自分の責任になってしまうからです。政治家なら路線変更を言えるように思えますが、票にならないし面倒だからやめておこうという方が多い。

政治家が「被拉致日本人救出運動に関わると面倒だ」と思う理由の一つは、被拉致日本人救出運動に「暴力団との共生者」とも言うべき人物が参加しているからです。

そんな人間とかかわり合いを持つなどまっぴらだと言うことのようです。

暴力団は北朝鮮の最も近い友人と言えるでしょう。暴力団と北朝鮮の関係は覚せい剤や麻薬の売買だけではない。

西岡力東京基督教大教授、島田洋一福井県立大教授にはこうした実情を直視していただきたい。

遠藤周作は「天正の少年使節」から何を思ったか―「日本史探訪11 キリシタン大名と鉄砲伝来」角川文庫所収より思う

本能寺の変の起こった1582年(天正十二年)の早春、長崎を発った少年たちは、ポルトガルの植民地マカオに渡り、順風を待って、マラッカから、さらにインドに入った。少年使節を乗せた南蛮船は、ザビエル以来の、日本に布教にやって来たキリシタン宣教師たちのコースを、ちょうど逆にたどって、ヨーロッパへ向かったわけである(前掲書p220-221)


天正の少年使節とは、九州のキリシタン大名らの名代として欧州にわたった13歳から14歳の4人の少年たち、伊東マンショ、千々石ミゲル、中浦ジュリアン、原マルチノのことです。

使節派遣を実際に立案し推進したのは、イエズス会巡察師ヴァリニャーノでした。「日本史探訪」とは、昔のNHKの番組です。「天正少年使節」は昭和47年度放送と記されています。

少年使節らはインドからアフリカ大陸の喜望峰を回ってアフリカ西海岸を北上し、リスボン港に1584年夏に着きました。当時の船でこれだけの距離を航海するのは命懸けの大事業です。

ポルトガルからスペイン、イタリアまで少年使節は貴族や大司教に各地で大歓迎されました。

戦後初めて、カトリックの留学生として欧州に行った遠藤周作


これに対し、遠藤周作は二次大戦後間もないころの自分の留学体験と重ね合わせて、次のように評します。

「背後に、少年たちが、何かつらい思いをしただろう、あるいは悲しかったろうとも思うのです。...歓迎されて行くということは、非常に少年たちにとってうれしいことであったかもしれないけれども、これは疲労することですよ、ぼくの昔の経験から言って」。

「善意を持たれるということは、同時にその善意の重荷を背負わなくちゃいけないわけで、これに旅の疲労が交って、かなり彼らはノイローゼ気味になったんではないか、というのがぼくの想像です」(前掲書p227)。

これらから私が注目したのは、「善意の重荷を背負わねばならない」という表現です。

他人のために良かれと思って何かを行っても、結果として他人の人生に悪い影響を及ぼしたり、重荷を背負わせることもあるのでしょう。

当時の日本人には欧州とはどんな土地なのか、全く想像もできなかったはずです。

欧州に関する文献など当時は何もなく、宣教師の言葉による説明でしか少年使節らには情報は得られなかったでしょう。不安と期待が心中を錯綜しつつ、少年使節は欧州に旅立ったのでしょう。

大海原を越えて二年後にようやくたどり着いた遥かなる異国の地で思いをよらぬ大歓迎を受ければ、少年でなくても心が乱れ、情緒不安のような状態になってしまってもおかしくない。

約二年半後、少年使節はローマで法王との謁見を許された


1585年春、少年使節らはローマに入り、バチカンでグレゴリウス13世と面会します。使節の一人、中浦ジュリアンは熱病にかかり、歩行も困難だったそうですが歯をくいしばって馬に乗りました。

中浦ジュリアンは特別に彼だけで法王に会えるよう、取り計らいを受けました。

無事に法王との謁見を終え、帰国する運びとなった少年使節らの心境について、遠藤周作は次のように語ります。

「大役を果たしていざ帰国ということになると、何年ぶりかの故国に帰ることはうれしかったに違いありませんが、同時にまた新たな不安も頭をもたげてきたと思うのです」。

「エリートとしてここへ連れてこられたのだから、帰ったら自分たちが何かをしなくてはいけないんだという重さ、これはぼくも留学生の時、非常に感じましたね」。

少年使節にはそういう気持ちはあったでしょうが、彼らは帰国後高い地位を保証されているわけでもない。喜びとともに不安を一杯抱えて彼らは帰国の途についたことでしょう。

少年使節を送り出してくれた九州の大名たちが、その時点でどうなっているのか彼らには全くわからなかったはずです。非力な自分たちに一体何ができるのだろう。そんな気持ちだったでしょう。

帰国時にはキリシタン大名は世を去っていた-千々石ミゲルの棄教-


一行は1590年7月21日、長崎に到着しますが、日本の基督教徒を取り巻く事情は様変わりしていました。

大友宗麟ら九州のキリシタン大名は世を去り、豊臣秀吉による伴天連追放令が出されていました。

詳しい事情はよくわかりませんが、帰国後3,4年もたたないうちに少年使節の一人だった千々石ミゲルが棄教します。

千々石ミゲルは大名に「キリスト教国家は、日本の侵略計画を持っています」と告げてしまいます。

当時のスペイン、ハプスブルク帝国の実態を千々ミゲルがよく認識したものだと私は思いますが、当時のイエズス会に対する裏切り行為、転向とも言えるのでしょう。

転向者にも魂があった-基督教国民でない者は人間にあらずという考え方についていけなかった


遠藤周作は千々石ミゲルの転向について次のように述べています。

「いわば基督教の中華思想というものが当時ありましたから、基督教国民でない者は人間にあらずという考え方について行けなかったのではないか。あるいは基督教文化の栄光と同時に、行く先々の基督教国の植民地の悲惨も同時に見たのではないか」。

「疲労感とか屈辱感とかも、彼の棄教の一つの原因に、というより、大きな原因になったかもしれません」。

転向したものは当時の基督教徒としては言語道断であっても人として当然の選択をしたのではないかと推し量るのが遠藤周作らしい。「沈黙」のフェレイラ像がそうでした。

日本人、日本国家が基督教布教を口実にして欧州の大帝国に蹂躙されるかもしれないのに、座視するのが基督教徒のとるべき態度なのでしょうか。

千々石ミゲルは心中でイエスに問いかけたのかもしれません。

他の三人はその後の生涯を布教に捧げます。他の三人は何らかの経路で千々石ミゲルの棄教を知ったことでしょうが、どんな思いだったでしょうか。

若い頃生死を共にした仲間の一人が棄教したのですから、衝撃を受けたでしょう。

基督教布教を推進しているのは欧州の大帝国であり、基督教徒でないものは人間でないという発想が彼らにあることをほかの三人も知っていたはずです。

長崎で殉教した中浦ジュリアン-われこそは、ローマを見た中浦ジュリアンである


少年使節の一人だった中浦ジュリアンは江戸幕府による基督教徒弾圧が吹き荒れる1633年に、長崎で殉教しました。

刑場に引き出されたとき、中浦ジュリアンは絶叫しました。

「われこそは、ローマを見た中浦ジュリアンである」。

拷問のとき、中浦ジュリアンの心中には48年前のローマでの法王との謁見時、熱病の苦しみを耐えて馬に乗ったこと、自分だけ別に許されて法王と会えた場面が何度も蘇っていたのかもしれません。

2014年9月15日月曜日

遠藤周作「マリー・アントワネット」(新潮文庫)より思う―彼女は首をふって帽子を頭からおとし、助手たちに連れられてギロチンの落ちる台にその首を入れた。

鈍い音。首輪がねじでしめられた。十二時十五分。群衆の喚声がまた波のように起こった。鳩が舞いあがった(前掲書下巻p375-376)。


マリー・アントワネットの最期を遠藤周作はこのように描いています。1793年10月16日でした。処刑直後、「共和国万歳」という群衆の喚声がコンコルド広場であがったのでしょうか。

マリー・アントワネットの人生そのものについては、遠藤のこの本より、伝記文学として書いたシュテフアン・ツヴァイクの本が詳しいでしょう(河出文庫)。

遠藤のこの本は小説ですから、架空の人物が何人も登場します。登場人物が交わす言葉や心中の呟きの中に、遠藤の読者へのメッセージが込められているのでしょう。

「間抜け」パン屋のおかみはマルグリットを大声で怒鳴りつけた。


この小説の冒頭は、孤児院からパン屋のおかみに引き取られて毎日パン屋で重労働をしているマルグリットが、おかみさんから「間抜け」と怒鳴られる場面から始まります。

マルグリットはマリー・アントワネットとそっくりでした。

マリー・アントワネットがオーストリアから国境の町、ストラスブールにやってきた日のことです。

ガラス張りで金色に縁どられたオーストリア王女の馬車を見て、市民は叫びます。

「万歳、マリー・アントワネット姫」「万歳、我々の王女」。

群衆の背の間からマルグリットは心の中で呪いの言葉をくりかえします。

「あんな子は・・・早く、死んじゃえばいい。早く、殺されたらいい」(前掲書上巻、p11)。

マルグリットはその後、様々な人間に操られながらマリー・アントワネットの周辺にいることになります。処刑場に向かう馬車のマリー・アントワネットを目撃した彼女は、次のように呟きます。

孤児だったマルグリットの呟きに遠藤の人生観


「あんたがいなかったら、わたしは自分の惨めさに気づかなかったかもしれない。でもあんたをあのストラスブールで見てから、わたしは自分のみじめさや、この世の不公平をたっぷり知ったわ」(前掲書下巻、p373)。

マルグリットのこの呟きに、遠藤の人生観が現れているのでしょう。

「人間は他人の人生に痕跡を残さずに交わることはできない」という、「わたしが・棄てた・女」の語り手吉岡の呟きです(講談社文庫、p150)。

マリー・アントワネットは絶望的な状況で死を迎えることになってしまいましたが、その死に方を通して多くの人、そして現代人ともと交わっているのでしょう。

マリー・アントワネットの悲劇的な死に方は、その後のフランスの文学や絵画に大きな影響を与え、世界に発信されていったのです。

マリー・アントワネットは死に方を通じて、フランスに大きく貢献したのではないでしょうか。

アニエス修道女の訴え「革命の美名のもとに実は人間の醜いエゴイズムや暴力が行われるのはなぜでしょうか」(下巻p296)


この小説のもう一人の重要な登場人物は、アニエス修道女です。羊飼いの娘に生まれた彼女に教育を与え、学校に通わせてくれたのは一人の善良な神父でした。

自分の意思で彼女は尼僧となりました。教会と聖職者により今日の自分があるのです。

しかし彼女は、次のように修道院長に訴えます。

「修道女が修道院にとじこもり、何もしない時代は過ぎ去ったような気がします。わたくしは修道女ですから、更に正しいことに向かって飛びこんでいきたいのでございます」

修道院を出たアニエスはその後、偶然から革命家を殺めることになります。

捕えられた後、アニエスはコンシェルジュリーというマリー・アントワネットが幽閉されている場所に囚人として閉じ込められます。

アニエスが捧げた祈りの声は、死にゆくマリー・アントワネットの心の慰めになりました。アニエスも群衆の罵声や怒号の渦のなかで跪き、ギロチンの穴の中に従順に首を入れて生涯を終えます。

実際のマリー・アントワネットの周囲にも、後世の私たちには知りようもない、彼女を支えた無名の善良な人物がたくさんいたのかもしれません。その出会いは偶然の産物だったのでしょう。

「神がさいころをふった」のでしょうか。

人生で我々人間に偶然でないどんな結びつきがあるのでしょうか。(「わたしが・棄てた・女」、講談社文庫p25)。

2014年9月12日金曜日

お市の方と長女茶々(淀)の生きざまから思う―戦国の世の勝者、敗者とは―

あでやかな着物のお市の方の絵は、長女茶々が描かせた


人を描くとはどういうことなのでしょうか。私は絵画の手法を殆ど何も知りません。

日本の昔の人物画は、実際の容姿そのものを正確に描写することを目指していないようにに感じます。西洋の人物画とこの点で異なっているのではないでしょうか。

これはルネッサンスと何か関係があるのかもしれません。

お市の方は情熱的な瞳をしていたのでは―鼻筋が信長と似ている―



それにしても、この人はきっと相当な美女、あるいは美男子、勇猛果敢な武将だったのだろうなと思わせる絵はいろいろありますね。

私はインターネットでみただけですが、お市の方像は素晴らしい。鼻筋が通っています。信長像もそんな印象があります。情熱的な瞳をしていたのではないでしょうか。

昔の日本の絵は目を小さく描くようです。

絵のお市は真っ赤な着物を着ていますが、きっと当時の最高級衣装なのでしょう。今残っているお市の絵は、長女茶々が画家に描かせたものだそうです。

お市の方の高貴さを感じさせます。悲劇の人生を歩んだ母親への茶々の愛情が伝わってくるようです。

悲劇の人生を歩んだ母と長女



市の方(15471583)とは、織田信長の妹で浅井長政、柴田勝家の妻です。調べてみると、近江の国(滋賀県)の領主浅井長政と二十歳くらいで結婚し三人の娘を産んでいます。

長女が茶々ことのちの淀です。浅井長政は兄信長に攻め滅ぼされます。

居城が落ちるとき、お市の方は三人の娘を連れて生きのびるのですが、夫や嫁ぎ先の義父母が死んでいく様を目の当たりにしていたでしょう。

のときのお市は26歳くらいです。およそ9年後、今度は兄の天下人信長が本能寺で明智光秀にやられてしまいます。

市は信長の筆頭家老だった柴田勝家に嫁ぎますが、再婚生活は1年しか続きませんでした。猛将柴田勝家も、軍団の機動力を備えた知将羽柴秀吉に滅ぼされてしまうのです。

お市は三人の娘を逃げさせ、勝家とともに居城で果てます。勝家が介錯をしたのでしょうね。36歳の若さでした。

大阪夏の陣で露と消えた茶々は生涯で三度の居城落城を経験しました。激しい生き方をする運命だったのでしょうね。お市の方の絵は、高野山にあるようです。

大阪夏の陣屏風―戦国のゲルニカ―


大阪夏の陣屏風は大阪城にあるのでしょう。これは落城の凄惨な様子を描いています。戦国のゲルニカとも言われるもので、黒田長政が描かせました。

ところで、お市の三番目の娘はお江の方、徳川秀忠の正妻です。調べてみると、お市の血筋は今上天皇に脈々と受け継がれているのですね。

戦国時代の勝者、敗者とはいったい誰なのでしょうか。既に決着がついた過去の人であっても人生を正確に描くことは難しい。

生きている私たちがそれぞれの人生を、思うように描いていくのが難しいのも当然かもしれません。

2014年9月10日水曜日

他人の人生を横切るとき(遠藤周作「わたしのイエス」祥伝社黄金文庫)より思う

われわれが善意でやったことが、われわれの知らぬうちに、その人に傷を与えたり、不幸をもたらしている―


きな作家の文章を何度も読み返し意味を考えたいものです。ときには、自分のこれまでの歩んできた道を見つめなおすことが大事でしょう。

人生の節目で、自分はいろいろな決断をしてきた。あのとき、自分はこの道を選択したがもし別の道を選んでいたらどうなっていただろうか。

あのとき、自分がその決断をした背景には、誰かのちょっとした言葉や行動が実は大きな影響を与えていたのではないか。その人は熟慮の結果そうした言動をとったのではない。

それでも自分の選択に大きな影響を及ぼしていた。一体これはなぜだろう。神がサイコロをふったとはこういうことなのだろうか。偶然が私たちの人生にあまりにも大きな影響を及ぼしている。

自分も他人の人生を横切っている



同様に、自分の何気ない一言や行動が他人の人生に大きな影響を及ぼしていたこともあったかもしれません。自分も、他人の人生を横切っているのですから。

遠藤周作は数々の著作で、登場人物の独白という形でこのように語っています。

私はこの人生観から神の存在を信じるという気持ちにはなかなかなれませんが、何度も噛みしめたい考え方だと思っています。

凶悪な人、組織は存在する―北朝鮮、暴力団そして基督教にも殺戮の歴史



しかし、世の中にはどう考えても凶悪な人間、組織は実在するのです。北朝鮮、朝鮮労働党はその一つです。

朝鮮労働党が北朝鮮の人々に強制してきた世界観、人生観では民間航空機の爆破や韓国の要人殺害、日本人や韓国人の拉致・抑留こそ栄えある行為です。

暴力団も同様で、組長の命令ならどんな悪事でも断行することを○○組に入る際に誓う儀式があるそうです。

凶悪国家、組織と私たちが直面しているという現実を思うと、神の存在などなかなか信じられない。凶悪国家や組織は他人の人生を泥足で踏みにじっている。

基督教の歴史にも、凄惨な殺し合いがありました。

私には神に救いを求めて蛮行を座視するということはできませんから、様々な訴えを長年してきています。その行為により私は他人の人生を横切っているのかもしれませんね。

下記は遠藤前掲書よりの抜粋です。

遠藤周作「わたしのイエス」祥伝社黄金文庫p229より


ただし、まったくこういうことに気がつかないで、一生を終える人もいるわけです。

しかし、多少の感受性を持っている限り、われわれ人間というものは、自分の十年前、二十年前、あるいは四十年前に、自分の存在によって、歪めてしまった他人というものをたくさん持っているはずなのです。

なぜならば、そういうものが人生というものであり、そういうものが人間と人間の関係だからです。

2014年9月6日土曜日

「異邦人」(L’étranger par Albert Camus, 新潮文庫)より不幸について思う。「人間は全く不幸になることはない、とママンはよくいっていた」。 Maman disait souvent qu’on n’est jamais tout à fait malheureux.

空が色づいてくるときや、暁のひかりが私の独房にしのびこんで来るとき、ママンの言葉はほんとうだと思った。Maman used to say that you can always find something to be happy about.


よりよく生きていこうとすれば常に、新しいことに挑戦せねばならないでしょう。さすれば必然的に、何らかの失敗や挫折を経験することになるのでしょう。

その時、自分の心の動揺を抑え、制御して次の道に向かわねばならない。人生は挑戦の連続ですから。

「異邦人」は「不条理」(absurdité)がテーマですが、小説の至る所に挫折や失敗を重ねて窮地に陥り、不幸な境遇となった人々へのCamusのメッセージが込められているように思います。

下記は「異邦人」第二部5より抜粋したものです。

フランス人民の名において広場で斬首刑を受けるムルソー


ムルソーは「フランス人民の名において広場で斬首刑をうけるのだ」と宣告されました。処刑の日を待つムルソーは独房で自問自答します。

ギロチンにかけられるとは具体的にどういう状況なのだろうか。特赦請願が受理され何とか刑の軽減がなされないだろうか。処刑人は夜明けにやってくる。一体彼らはいつ来るのか。

そんなムルソーの心に浮かぶのは、母がよくいっていたつぶやきでした。人間は全く不幸になることはない。

母親に対する愛と信頼から、ムルソーは母の言葉を思い起こした


この部分にも、ムルソーの母親に対する愛と信頼がにじみ出ています。葬儀の日に涙を見せなかったからと言って、母親への愛情に欠けていたわけではないのです。

ムルソーは誰にでも訪れる死が母親にも訪れたのだと虚心坦懐に受け入れていたのでしょう。「人間は全く不幸になることはない」とは含蓄のある言葉ですね。

挫折や失敗の真っ最中にあるとき、思い起こしたい言葉です。

「異邦人」に散りばめられている珠玉の言葉は、ふとしたきっかけから改善不能の状況に陥ってしまった人々に、心のあり方、自分の姿を見つめさせます。

死をまじかに控えた人なら、心に響く文章がいくつもあることでしょう。

今は健康な私たちも、いずれは何らかの形でそんなときを迎えるのです。

新たな道に挑戦し、成功する人もいれば挫折と失敗を重ね、限りなく不幸になってしまう人もいる。それでも最後は皆、同じ結末を迎えるのです。

下記は「異邦人」の該当部分です。

C’est à laube quils venaient, je le savais. En somme, jai occupé mes nuits à attendre cette aube. Je nai jamais aimé être surpris.

 Quand il marrive quelque chose, je préfère être là.

Cest pourquoi jai fini par ne plus dormir quun peu dans mes journées et, tout le long de mes nuits, jai attend patiemment que la lumière naisse sur la virtre du ciel.

Le plus difficile, cétait l’heure doureuse où je savais qu’ils opéraient d’ habitude. Passé minuit, jattendais et je guettais.

Jamais mon oreille navait perçu tant de bruits, distingué de sons si ténus.

Je peux dire, dailleurs, que d’une certaine façon j’ai eu de la chance pendent tout cette période, puisque je n’ai jamais endendu de pas.

Maman disait souvent quon nest jamais tout à fait malheureux.

 Je lapprouvais dans ma prison, quand le ciel se colorait et quun nouveau jour glissant dans ma cellule. Parce qu’aussi bien, j’aurais pu entendre des pas et mon coœur aurait pu éclater,


Matthew Ward, Vintage Books, p113より。


They always came at dawn, I knew that. And so I spent my nights waiting for that dawn.

I’ve never liked being surprised. If something is going to happen to me, I want to be there.

That’s why I ended up sleeping only a little bit during the day and then, all night long, waited patiently for the first light to show on the pane of sky.

The hardest time was that uncertain hour when I knew they usually set to work. After midnight, I would wait and watch. My ears had never heard so many noises or picked up such small sounds.

One thing I can say, though, is that in a certain way I was lucky that whole time, since I never heard footsteps.

Maman used to say that you can always find something to be happy about.

In my prison, when the sky turned red and a new day slipped into my cell, I found out that she was right. Because I might just as easily have heard footsteps and my heart could have burst.

新潮文庫p116より抜粋



彼らがやって来るのは夜明けだ。私はそれを知っていた。結局、私の夜々はあの夜明けを待つことだけに過ごされた。私は驚かされることがきらいだった。

何かが起こるときには、身構えていたい。そういうわけで、私は昼間少ししか眠らず、夜は、夜もすがら暁のひかりが空のガラスのうえに生まれ出るのを、辛抱強く待った。

いちばん苦しいのは通常彼らのやって来ることを私の知っている、あのどうもあやしい時刻だった。真夜中を過ぎると、私は待ち構え、見張っていた。

私の耳がこれほど物音に敏感になり、これほど低いひびきを聞き分けたことはなかった。

のみならず、この間、決して足音が聞こえたことはなかったのだから、ある意味で私には運があった、ということができる。人間は全く不幸になることはない、とママンはよくいっていた。

空が色づいて来るときや、暁のひかりが私の独房にしのび込んで来るとき、ママンの言葉はほんとうだと思った。というのは、足音が聞こえたとしたら、私の心臓は破裂しただろうから。