2015年2月27日金曜日

Benoît Magimel主演仏映画「デッドリンガー」(Dead Ringer, よく似ている人。原題はTrouble。Natacha Régnerが主人公の妻役)を観ました。

Troubleとは仏語で不安、胸のときめき。存在の不安定さを描いた映画。


ある日突然、自分の生い立ち、由来が自分の知っていたことと異なっていることがわかったら、誰しも不安になってしまいます。

一体、自分はどんな人間なのだろうという気持ちになります。

Benoît Magimelが演じたこの映画の主人公は、孤児院で育てられ、卒園後はカメラマンになりました。

清楚な妻と可愛い男の子の三人家族に、もうすぐ下の子供が生まれてくる幸せな男性です。

孤児ですから、父も母も知りませんでした。ある日突然母の遺産が入ること、そして自分が双子だったことを知ります。遺産を管理する弁護士の前で、一卵性双生児の片割れと出会います。

双子だったのに一体なぜ自分は孤児にされてしまったのでしょうか?これにはある重大な秘密が隠されていました。

それを突き止めるためには、全てを知っているはずの片割れに接近して問いただすしかありません。しかし片割れはなぜか、主人公の平穏な暮らしを脅かすような言動をとります。
主人公は徐々に、幼児のとき失った記憶を取り戻します。

家族や友人との信頼関係の大事さを再発見させる映画


この映画の宣伝を見ると、「戦慄のサイコ・スリラー」とあります。双子の片割れの不気味な言動や、主人公の記憶が徐々に戻ってくるシーンは空恐ろしさをかきたてます。

この映画のメッセージはそれよりも、人間は各自が所属する小社会での役割を演ずることに喜びを見出す生き物であるという人間観ではないでしょうか。

社会学者の中にそうした人間観を提起している人がいます。Max Weberはその一人でしょう。

家族や企業、地域や学校での自分の存在が揺らげば、自分がどんな役割を演じればよいのかわからなくなり不安になってしまいます。

人の存在は、周囲の人間が自分を信頼してくれているからこそ成り立っているのです。映画の最後では主人公の最愛の妻子すら、彼を疑っています。

映画を観て現実にはこんなことなどありえないと思った方もいるでしょうが、現実性を問題にすべきではありません。

映画が人間存在の不安定性を極端な事件を想定して描き出したことにより、観客が家族や友人との信頼関係の大事さを再発見できるのですから。

人の風貌や言動を極端化して描く手法は、日本の昔の人物画や歌舞伎にも見られます。お市の方の夫で勇猛果敢な武将だった柴田勝家は、精悍な風貌に描かれています。

Benoît Magimelは良い役者です。足取り軽く走る姿は爽やかですし、二役をよく演じました。 Natacha Régnerは、夫を信じてどこまでもついていこうという妻を感じさせます。

2015年2月22日日曜日

Isabelle Huppert, Benoît Magimel出演仏映画「ピアニスト」(原題La Pianiste)を観ました。

Isabelle Huppert演じる中年女性音楽教師エリカにBenoît Magimel演じる青年ワルターが恋をする。エリカには異常な性癖があった。


抑圧され、鬱屈した感情を内心に抱いている人は何かのきっかけで全てを破壊してしまいたくなります。現代日本にはそんな人が少なくない。

とんでもない暴行や殺人事件をしでかした犯人の内心には、破壊への衝動があるのでしょう。

この映画は、病める現代人の姿と内面を描いています。

頭脳明晰で潔癖な雰囲気のピアノ教師エリカに魅かれた青年ワルターは、強引にエリカに接近していきます。ワルターに触発されたのか、エリカは徐々に本性を現します。

エリカの性癖、性的嗜好はあまりにも異様なので、私はここで説明する気になれません。

エリカは現代の「ジキル博士とハイド氏」(Dr. Jekyll and Mr. Hyde)か


知的で清楚な外面をもつ中年女性が、異常な内面を抑えきれなかったのか、犯罪にまで手を染めるようになっていきました。ジキル博士より、ハイド氏の内面が勝利をおさめてしまったのです。

少数でしょうが、エリカは現代人の一類型なのでしょう。心が壊れてしまった人はいます。

病める現代人を描いたという点では面白い作品ですが、私はこの映画を観て「本当に面白かった」という気持ちにはなれませんでした。

この映画はカンヌ国際映画祭でグランプリを受賞したそうですが、興行的に成功したのでしょうか?監督が著名なのかもしれません。

映画の中で何度も流れるピアノの演奏は素晴らしい。

Isabelle Huppert、Benoît Magimelがそれぞれピアノを演奏する場面がありますが、代役を使っていないように見えました。

Benoît Magimelはいろいろな人物を演じられるようです。齢を重ねれば名優になりうる。

2015年2月20日金曜日

Benoît Magimel主演仏映画「いのちの戦場―アルジェリア1959-」(原題L’Ennemie intime, 2007年)を観ました。

フランス版「Platoon」と言われるが単なる反戦映画ではない。1959年のアルジェリア戦争をフランス人兵士の視点から描いた。


この映画の歴史的背景となっている19世紀から20世紀前半の国際社会を考えてみましょう。当時は、強国が領土を武力で確保するのが当然とされていました。日本の戦国時代と似ています。

国際法は強国に都合が良いように作られていたのです。

韓国人や中国人には腹ただしいことでしょうが、日本が朝鮮半島や満州に進出し併合するのは当時の国際法、国際慣習上は合法的で普通でした。

20世紀前半までの国際社会では、富国強兵政策を実施できない国家は滅亡を覚悟せねばなりませんでした。

富国強兵のためには幅広く交易をせねばなりません。警察と法秩序が確立していない地域で交易を安全に行うためには、その地域に自国の軍隊を常駐させねばならない。

「侵略と開発」による激しい戦い


当時の欧州諸国も日本も、当時の国際法、「グローバル・スタンダード」に従って海外進出したのです。

武力で領有したあとはその地域に鉄道や水道、電力など社会的なインフラを建設して経済開発をせねば算盤があいません。現代風にいえば、強国は「侵略」すれば現地を開発をせねばならない。

フランスは北・西アフリカにかなりの投資をしたはずです。投資、開発のためには相当数のフランス人が移住したでしょう。

しかしアフリカの住民がいつまでもフランスに屈従しているはずもない。独立を求めて激しい戦いが生じるのは必然だったのです。

フランスからすれば独立を求めるアフリカの人々は暴徒でしかない。

現地の地理を熟知し、独立を求めるアフリカの住民は、激しいゲリラ戦を行いました。

独立派が罪もない住民を虐殺した-正義はどこに


左翼はこういう人たちを「帝国主義の圧政からの独立のために戦う」と評しますが、実際の独立派は現地の人々を自分たちの意に従わせるために虐殺を行ったのでしょう。

この映画にもそういうシーンがあります。何の罪もない住民を殺害するのですから「独立派=自由と民主主義のために戦う人々」ではありえない。

独立派は正義の体現者などではなく、虐殺の実行者だったと描いた点でもこの映画は興味深い。

勿論フランスの北アフリカ支配を継続しようとするフランス軍も、正義の軍隊ではありえない。

理想主義者は命のやりとりをする戦争に無用の長物


主人公はフランス軍の中尉(lieutenant)ですが、理想主義者らしくアルジェリア側に理があると発言しています。心底そう思うなら、まだ若いのですから軍人を辞めて別の生き方を探すべきでした。

悲惨な結末は必然だったのでしょう。映画の最後で主人公の部下だった歴戦の勇士が、理想主義者には戦争は無理だった旨評していました。これは製作者のメッセージの一つなのでしょう。

現実主義者であるなら、自国が富国強兵化を成し遂げるためにはかなり荒っぽいことをせねばならないと判断します。

戦争の現場では、現実主義者にならねば生き残れないのです。自国と命運をともにしようとするなら、兵士たちに選択肢などなかった。

戦場に散ったフランス兵士の悲劇は、個人ではのりこえようのない時代の壁だったのでしょうか。Benoît Magimelは現代のフランス人にこれを問いかけたかったのでしょう。

2015年2月16日月曜日

Françoise Saganの「愛と同じくらい孤独」(朝吹由紀子訳、新潮文庫。原題はRÉPONSES)を読みました。

私の作品にはテーマが二つあります。たしかにいつも同じです。恋愛と孤独。孤独と恋愛という順で言ったほうが正しいかもしれません。主要テーマは孤独のほうですから(同書p73より)。


この本は「悲しみよ こんにちは」より20年後、Saganが39歳くらいの頃に出ています。二十年間の様々なインタビューを編者が集め、Saganが最後に目を通しています。

Saganの生い立ち、「悲しみよ こんにちは」が爆発的に売れた後の暮らしと交通事故による重傷をSaganは淡々と語っています。Saganの文学観、社会観を窺い知ることができます。

Saganは日々の暮らしに劇的なものを見出す。「日常生活がドラマなのです」(p74)。


Saganによれば、自分の本の中ではドラマチックな事件が少ない。これは日々の暮らしの全てがドラマチックだからです。

ある人に出会い、恋愛し、一緒に暮らし、その人が自分のすべてとなり、なのに三年のちには心を痛めて別れることになる(同書p73)。

Saganは日々の暮らしに劇的なものがいくらでも見出せると言いたいのでしょう。

人の存在の基盤は、自分の夫や恋人、情人がどういう人間かを知ること...。


「わたしが興味を持つものは、念を押して言うと、人間と孤独、あるいは恋との関係です。それが人間の存在の基盤になっていることは確かです。

人の存在の基盤は、宇宙飛行士や空中ぶらんこ乗りとはどういう人かというより、自分の夫や恋人や情人がどういう人間かを知ることです」(同書p76)。

「人は一人孤独に生まれてきて、一人孤独に死ぬのです」(p130)。

孤独をまぎらすために、人は恋愛をします。Saganによれば、愛はお互いに相手をとらえようとする戦いです。

愛は嫉妬や所有や誰々のものという感情からなり、戦いであるから犠牲も出ます(p140)。

殆どの人は自分の地位、あるいは経済的生活環境に不満だから、その不満を恋愛関係の中で取り戻そうとします。

確かに、社会的な上昇志向の強い人、エネルギッシュな人、自己顕示欲の強い人は幾つになっても恋をします。婚姻関係など関係ない。

芸能人や、企業経営者にそういうタイプが多い。

二人の関係の終わりはどちらかが退屈しだすとき


しかし始まりがあるものには、途中と終わりがあります。Saganによれば、恋愛の終わりはどっちが先に飽きるかによります(p149)。

二人の関係が終わりだと感じるのは、退屈しだすときです(p157)。これは単純な答えですが、まぎれもなく真実です。

人は孤独をまぎらわすために恋をし、愛し合って安心感を得ます。結婚により大きな安心感を得られますが、結婚は終着駅ではありえない。

人は寝る場所や、愛している、と言ってくれる人を求めていて、孤独や恐怖や額に汗をかいて目覚めることを味わいたくないと思っている(p96)。

孤独から逃れるためには、額に汗をかいて日々努力せねばならない。

Saganの小説の登場人物たちは、生活の糧を得るためにあくせく働いているようなタイプは少ない。彼らは孤独から逃れるために日々苦闘しています。

「乱れたベッド」のベアトリスはそんな美女でした。

恋に生きるベアトリスのような美女と彼女に群がる男性たちの心中を、想像力を駆使して描くことが、Saganのライフワークだったのでしょう。

人の典型化、モデル化は社会科学だけでなく、文学でも重要なテーマです。Saganによる人間の典型化は、次の一文にも表れています。

「面白いのは、私の描く人たちの心理的な関係は、どんな環境の人たちにも当てはまることです。嫉妬はパリのインテリであろうとジロンド地方の農夫であろうと変わりはないわけです」(p76)。


2015年2月8日日曜日

Françoise Saganの「赤いワインに涙が...」所収「早くも一年」(朝吹登美子訳、新潮文庫。原題はMusiques de scènes)を読みました。

「あなたも知っている通り、あたしたちはよいお友達として別れたのですもの。それどころか...」「彼と一緒に暮らさなくなってからというもの、あたしはもう生きていないのも当然なの。...」(「早くも一年」より)


この本の出版は1981年です。
あとがきによれば、Saganは18歳で書いた「悲しみよ こんにちは」が大流行して以来、流行作家として常にもてはやされてきましたが様々な苦しい体験もしました。

九死に一生を得た自動車事故、療養中に苦痛を和らげるための麻薬による中毒、二度の離婚、倒産に近い差し押さえなどです。

この本は短編集ですが、Saganの人生経験を思わせるものもあります。

夫と離婚して一年経った女性が、彼と新妻も参加する親友主催のPartyに参加する


「早くも一年」は、夫リシャールと離婚して一年経ったジャスティーヌが、彼と新しい妻も参加する親友主催のPartyに出るときの心中を描いています。

ジャスティーヌは本音では、リシャールを忘れられない。

自分が生き返れるただ一つの希望はリシャールがもう一度自分を愛してくれるようになるという、ありえない可能性にかかっていると彼女の心の声はつぶやきます。

しかしジャスティーヌはそれをPartyを主催する親友ジュデェットには言えません。リシャールからジャスティーヌが受けた心の痛手はもう癒えているということが、皆の了解事項です。

かりにそうでないとしても、彼女はそういうふりをすべきであるということも皆の了解事項です。

ジャスティーヌは元夫に恨みをもって一年過ごしたと考えられないか-愛と憎しみはコインの裏表-


フランス人には、多数の友人を夫婦で招いて食事をともにし、機知のきいたおしゃべりをする習慣があるのでしょう。離婚しても、それぞれの友人との関係は変わりません。

元の夫婦がPartyで会うことも珍しくないのでしょう。そのとき、何でもないように友人として振舞わねばなりません。

日本人なら、よほどのことがない限り元夫婦をPartyで同席させないようにすると思います。

Saganの小説の魅力の一つは、登場人物の愛情に関する心中の呟きを詳細に描いているところです。

「早くも一年」は、一年前の同じ場所で、仲間たちの面前で夫リシャールに捨てられた女性ジャスティーヌの内心を描いています。

しかしジャスティーヌはリシャールに強い恨みを持ちつつ一年間過ごしたと考えるほうが現実的ではないでしょうか。

愛と憎しみはコインの裏表ではないでしょうか。

2015年2月1日日曜日

Romain Duris主演、仏・伊・西・英合作映画「ルパン」を観ました。(原題Arsène Lupin、2004年製作)

怪盗紳士 アルセーヌ・ルパンの愛と父親との相克を描いた映画です。「カリオストロ伯爵夫人」に主に依拠。


もう40数年前になります。子供の頃、「怪盗紳士」「奇巌城」「813の謎」「虎の牙」「水晶の栓」などを子供向けにしたアルセーヌ・ルパンもの(南洋一郎訳)を読みました。

ルパンとともに秘宝がどこに隠されているか、次から次へと起きる殺人事件の真犯人は誰なのかなどを考えていくことができ、子供心にとても面白かった。

当時好きだったビスケットの「チョイス」をほおばりながら、夢中になって読みました。

この映画は原作の生誕100周年を記念して製作されました。「カリオストロ伯爵夫人」に主に依拠しているらしいのですが、私はそれを読んでいません。

カリオストロ伯爵夫人は年を取らないそうです。原作でもそうなっているなら良いのでしょうが、「怪盗ルパン」が怪奇物語のようにも思えてしまいます。

カリオストロ伯爵夫人がルパンの子供をさらってテロリストに育てたようですが、そんな話が原作にあったのでしょうか。

「怪盗ルパン」は父親との相克を主なテーマとしていただろうか


勿論これだけではなく、ルパンが子供の頃首飾りを盗んだ話や、豪華客船で装飾品を盗む話、「奇巌城」のようなところに隠されていた財宝の話なども映画には含まれています。

私の記憶では、子供の頃のルパン・シリーズには父親との相克は描かれていなかったように思いますが、この映画の主題の一つはそれです。

子供向けですから、ルパンのロマンスが殆ど描かれていなかったのは当然でしょう。原作の「カリオストロ伯爵夫人」にはルパンのロマンスが描かれているのかもしれません。

ルパン・シリーズの愛読者ならすぐにわかるよう、いろいろな作品のエピソードが少しずつ入っているます。

ルパンがアクションスターのようになり、謎解きの面白さが半減している


惜しむらくは、アクション・シーンが多すぎ、ルパン本来の謎解きの面白さが減退していると感じました。

十字架に隠された秘密をルパンが解明していくのですが、途中に何度も激しいアクションが入ると謎解き物語なのか、007のようなアクション映画なのかよくわからなくなってしまいました。

Romain Durisは普段からかなり体を鍛えているのでしょう。見事なアクション・シーンがあります。

怪盗紳士アルセーヌ・ルパンを映画化するなら、「813の謎」や「奇巌城」を主な原作とするべきではなかったでしょうか。