2018年8月29日水曜日

宮本顕治「スパイ挑発との闘争―1933年の一記録―」(昭和20年12月執筆、「赤旗」昭和50年12月11日再掲載)と袴田里見氏の訊問調書より思う。

「1933年12月下旬、日本共産党中央委員会は、大泉兼藏・小畑達夫が天皇制権力のスパイ挑発者である事実を公表し、両名を党籍より除名した。


たまたまこの両名の査問中、小畑達夫が急死したことを材料として、当時官憲はこれを党内の派閥闘争に起因する殺害事件として大々的に逆宣伝をおこなった。そして、日本共産党にたいするあらゆる捏造と誹謗に終始した。」(宮本同論文の冒頭より抜粋)。


昔の日本共産党には、警察が送り込んだスパイが入り、日本共産党の活動状況を警察に通報している場合が少なくありませんでした。

当時の日本共産党は、ソ連から武器や資金を受け取り、「帝国主義戦争を内乱に転化せよ」などと主張する物騒な集団でした。

警察がスパイとなる人物を組織して、テロを未然に防ぐために日本共産党の内部情報をえようとしたのは当然です。

日本共産党側では、幹部が次から次へと逮捕されてしまうので、誰かから情報が警察に漏れているのではないかと疑心暗鬼になっていました。

スパイとされる人物へのリンチ、殺人疑惑として知られている事件が、東京市幡谷(今の渋谷区)で起こりました。

昭和8年12月24日昼間頃です。

宮本論文によれば日本共産党中央は、「白色テロル調査委員会」を設定しスパイの疑いのある人物を調査していました。

この委員会の責任者は逸見重雄氏。袴田里見氏、秋笹正乃輔氏が調査委員でした。

「宮本顕治の半世紀譜」(昭和58年新日本出版社編集部編、p20)によれば、逸見氏と秋笹氏は中央委員で、袴田氏は中央委員候補でした。

宮本顕治氏は党中央として、調査委員会の報告を受け、査問委員会をつくりました。

下記の袴田氏の訊問調書の記述を読むと、宮本氏が小畑達夫氏にかなりの苦痛を与えたのではないかと思えます。

「宮本顕治公判記録」(新日本出版社刊行)によれば、宮本氏はこの事件の二日後、12月26日に逮捕されます。

その後宮本氏は昭和9年11月30日、「治安維持法違反、殺人、同未遂、死体遺棄、不法監禁、鉄砲火薬類取締法施行規則違反」の罪名で起訴されました。

昭和19年12月5日、裁判所は「治安維持法違反、不法監禁致傷、不法監禁致死、不法監禁、傷害致死、死体遺棄、鉄砲火薬類取締法施行規則違反」の罪名を宮本氏に認定しました。

これらの罪により宮本氏は無期懲役を言い渡されます。

しかし昭和20年10月4日、連合軍最高司令官の覚書「政治的、市民的および宗教的自由にたいする制限の撤廃」が発せられ、政治犯釈放の措置が取られました。

宮本顕治氏は10月9日に網走刑務所から解放されました。

宮本顕治氏は「スパイ小畑は特異体質の持ち主で、ショック死した」と主張するが


宮本顕治氏は論文「スパイ挑発との闘争」で小畑達夫氏が異常体質の持ち主で査問の途中にショック死した旨、主張しています。

宮本氏は小畑達夫氏に対し私刑を加えたことは否定していますが、身体にあった傷については以下のように微妙な説明をしています。

「それは大部分かれが逃亡をこころみて頭そのほかで壁に穴をあけようと努力した自傷行為とみなされる」。

宮本氏のこの説明は奇妙です。

壁に頭突きをしたら、大穴が空いて脱出できるでしょうか。4人の査問委員監視下で小畑氏がそんな大暴れをできるでしょうか(木島氏を入れたら5人)。

小畑氏の頭部に、かなりの損傷があったから、宮本氏は苦しい言い訳をしているとしか私には思えません。

ともあ\れ、小畑達夫氏がどのようにして死亡するに至ったかについて、査問委員の説明を聞くのは大事です。

宮本顕治氏と袴田里見氏それぞれの説明をみておきましょう。

宮本氏は論文で下記のように説明しています。

私と木島は、小畑の手をそれぞれ両腕でかかえ袴田は脚をかかえて、みな小畑の暴れるのをとめようとしていた。


「査問が一段おちついたとろこで、前夜査問にあたっていたわれわれは、その部屋の炬燵に入って、うとうとしていた。

逸見と同志袴田が、両名に補足的な訊問をやっていたようであった。

時刻は午すぎであった。

突如私は浅い眠りから急な物音によってよびさまされた。

みると、小畑が拘束されていた手足の紐をたちきって、窓際にちかよろうとしているのに、同志袴田と逸見が気がついて小畑にとりつこうとしている。

二人は、大泉の訊問をしていて、小畑から少し目をはなしていたのだったらしい。事態の重大性を直感し、私もとびおきて木島とともに小畑の傍へよった。

小畑は、大声を上げ、猛然たる勢いでわれわれの手をふりきって、暴れようとする。私たちはそれを阻止しようとして、小畑の手足を制約しようとする。

逸見は小畑の大声が外へもれることをふせごうとしてか、小畑が仰向けになっている頭上から、風呂敷のようなものを小畑の顔にかぶせかけていた。

私と木島は、小畑の手をそれぞれ両腕でかかえ袴田は脚をかかえて、みな小畑の暴れるのをとめようとしていた。

すると、そのうち、小畑が騒がなくなったので、逃亡と暴行を断念したのだと思って、私たちは小畑からはなれ、事態が混乱におちいらなかったことをほっと一安心した状態であった。

そこへ、秋笹が階下からあがってきて、だまって小畑のおおいをとった。

すると、顔色がかわり、生気をうしなっている。

これはまったく予期しない事態であるので、ただちに秋笹が脈をとり、人口呼吸をはじめ、さらに私が柔道の「活」をこころみ、それを反復したが、小畑の意識はついに快復しなかった」。

宮本はその片手で小畑の右腕をつかんで後ろへねじ上げ、その片膝を小畑の背中に掛けて組み敷きました(袴田里見氏の説明)。


袴田里見氏の予審での訊問調書が、平野謙「『リンチ共産党事件』の思い出」(三一書房昭和51年刊行)に掲載されています。

昭和13年2月頃に作成された文書ですから、旧仮名遣いになっています。重要な部分を現代仮名遣いにしてみました。

小畑氏が査問会場から脱出しようとしたので、査問委員がおさえつけて阻止したという点では、宮本、袴田両氏の認識は同じです。

おさえつけ方についての記述が、宮本氏と袴田氏で異なっているので、袴田氏の主張を以下、紹介します(同書p239)。

「その時私は仰向けに小畑はうつ伏せして倒れたのでありますが、倒れた小畑の頭の傍には逸見が座っておりまたこの騒ぎに寝ていた宮本、木島の両名が起き上がってきました。

その瞬間小畑が起き上がろうとしたので木島はその両手で小畑の両足をつかんでまたうつ伏せに倒し、宮本はその片手を小畑の右腕をつかんで後ろへねじ上げその片膝を小畑の背中に掛けて組み敷きました。

逸見は前から座っていた位置に倒れた拍子に小畑の頭が行ったので、その頭越しにすなわち小畑の頭に被せてあったオーバーの上から両手で小畑ののどをおさえて、小畑が絶えず大声を張り上げて喚くのでその声を出させないためにその喉を締めました。

その時私は小畑の腰のところを両手で押さえつけていたのであります。

この出来事は話せば長いように思われますがごく瞬間の出来事で小畑は糞力を出して我々の押し付けている力を跳ね返そうと極力努力したのであります。

すると喉をオーバーの上から絞められたので苦しそうな声で呻いていた小畑が急に静かになりました。

そこで皆が期せずして押さえつけていた手を離し極度の緊張が突然緩んだのでちょっとの間ポカンとしておりました。

そこへ秋笹が階下から上がってきました」。

小畑氏が暴れないよう、袴田氏は脚ないしは腰をおさえていたということです。この点では、宮本氏と袴田氏の記述は大差ない。

小畑氏はうつ伏せの姿勢で押さえつけられていたと袴田氏は主張。しかし宮本氏は仰向けと主張。

逸見査問委員が、小畑氏の頭部に風呂敷ないしはオーバーを被せ、声が外に漏れないようにしていたという点でも、両氏は同じ認識です。

異なる点は以下です。

袴田氏は、逸見氏が小畑氏の喉を締めたと主張している。宮本氏は逸見氏が喉を締めたなどと言っていない。

さらに宮本顕治氏が、小畑氏の片腕をつかんで後ろにねじ上げ、片膝を小畑氏の背中に掛けて組み敷いたと袴田氏は主張している。

宮本顕治氏は、木島氏と一緒に小畑氏の両腕をかかえただけだと主張しています。小畑氏の倒され方が、仰向け(宮本氏)か、うつ伏せ(袴田氏)かで異なっています。

宮本氏、袴田氏の主張のどちらが信ぴょう性があるでしょうか。あるいは、二人とも大嘘をついているのか。御二人とも大嘘をついているとは考えられない。

御二人の説明に、共通する部分が相当あるからです。

仰向けにされて両手、両足をつかまれ、風呂敷で頭を包まれたら成人男性は動けなくなるか


ある人が密室から必死に逃げようとしたとき、仰向けにされて両手と両足をつかまれ、頭部を風呂敷で包まれているぐらいで動けなくなるでしょうか。

逃げようとしている方の体格が、おさえつける側のそれと比べて相当劣っているなら、動けなくなるでしょう。大人が、駄々をこねて暴れる幼児を抑えつけるのは簡単です。

格闘家に両手、両足を抑えられたら動けなくなります。しかし優れた格闘家ならもっと効率的なおさえ込みを瞬時にするでしょうね。

普通の大人同士なら仰向けにされてもすぐに起き上がれるはずです。足でおさえつけている人を蹴ったり、手を振りほどくこともできる。

この程度のことは、兄弟や友人と取っ組み合いの遊びをした経験のある男性ならすぐに想像できるはずです。

宮本顕治氏の説明に大きな無理があるように思えてならない。

宮本顕治氏は小畑達夫氏の親族になぜ死亡時の状況説明をしなかったのか

袴田氏の説明どおりなら、小畑氏は片腕をつかまれて後ろにねじ上げられ、背中に宮本氏の片膝で重圧をかけられています。

さらに逸見氏により小畑氏は喉を締められている。

前日からの長時間の査問で疲れ切っているとき、喉を締められ?、うつ伏せにされて背中に片膝を載せられ、片腕をつかまれてねじ上げられたら、窒息死ないしは別の要因で死亡してもおかしくない。

私は医師ではないので、小畑氏の正確な死因はわかりません。

喉を締められ、うつ伏せにされて背中に片膝をのせられ、片腕をつかまれてねじ上げられると相当な負荷が心臓や呼吸器、あるいは血管にかかりそうな気がしてならない。

そういう亡くなり方を医学的になんと表現するのでしょうか。

ところで宮本顕治氏はなぜ、平野謙氏の著書に詳細に反論しなかったのでしょうか。

宮本顕治氏は査問委員会の中心だったのですから、小畑達夫氏の死亡に大きな責任があるはずです。

査問委員が何の暴行も加えなかったのに小畑氏が突然亡くなってしまったのなら、異常事態です。

普通に暮らしていても、心不全で突然死する方はいます。

宮本氏は、このときの査問が査問委員と査問者の間でお茶を飲み、食事もし、談笑を交えながら行われた、などと言いたかったのでしょうか。

そういう状況で突然亡くなったのなら、心臓疾患から心不全で亡くなった可能性は十分にあるでしょう。

宮本氏の論文でも、査問委員3名が大暴れする小畑氏を渾身の力で押さえつけたことになっています。談笑の最中に急死したのではない。

戦後、獄中から出た後、宮本顕治氏らは小畑氏の親族に状況説明をするべきではなかったのか。

小畑氏が査問会場から逃げようとして壁に頭突きをしたから、頭部に傷ができたと親族になぜ説明しなかったのでしょうか。

過酷な査問から何としても逃げたいと、壁に頭突きをするまで人を追い詰めることは適切だったのでしょうか。

宮本顕治氏の説明を信じている方は、これを真剣に考えていただきたい。

私は精神医学を良く知らないのですが、何かに追い詰められて絶望した場合、突拍子もない行動をする方はいる。

宮本氏の説明が真実なら、被査問者の精神を徹底的に痛めつけ、追い詰める過酷な査問の存在を裏付けていることになりませんか。

小畑氏は特異体質だった、心不全などで突然亡くなる方はいるというように、なぜ宮本顕治氏は親族に説明しなかったのでしょうか。

疑惑は深まるばかりです。

立花隆「日本共産党の研究(三)講談社文庫、p108」掲載の逸見氏と秋笹氏の予審調書より


立花隆氏のこの本に、査問を行った逸見氏と秋笹氏の予審調書が引用されています。これも旧仮名遣いですので、現代仮名遣いに直してみます。

逸見重雄氏
「宮本が小畑の腕を捩じ上げるに従い、小畑の体の俯きとなり、『ウーウー』と外部に聞こゆるごとき声を発したゆえ、自分は外套を同人の頭にかけようとしていると小畑は

『オウ』と吠ゆるごとき声を立て、全身に力を入れて反身になるような恰好をし、すぐグッタリとなりたり」。

秋笹正之輔氏
「二階にて小畑が大声にてわめき立つる声が聞こえて、次いでそれを取り鎮めるためバタバタと非常にさわがしき物音が聞こえ、7、8分を経るや、小畑が虎の吼えるごとき断末魔的叫び声をあげたかと思うとあとはヒッソリとしたり」。

逸見氏は小畑氏ののどを締めていないのかもしれません。

この点は袴田氏の説明とことなっていますが、宮本顕治氏が小畑氏の腕をねじ上げたという点については袴田氏と同じです。

日本共産党は、立花氏の論考が「文藝春秋』「週刊文春」に掲載された昭和50年12月から翌年1月頃、何度も反論文を「赤旗」に掲載しています。

しかし、小畑達夫氏がどのようにして亡くなったのかという点について、袴田氏や逸見氏の説明を日本共産党が正面から批判した文章は見つかりませんでした。

これでは、宮本顕治氏が小畑氏の背中に片膝をのせて、片腕をねじ上げたという袴田氏の説明のほうが正しいと思えるのは当然ではないでしょうか。

逸見重雄氏は戦後、法政大学社会学部教授を務めた方です。立花隆氏の論考や著作が公にされた後も特に見解を表明されなかったそうです。

私は逸見氏が、予審で嘘をついたとはどうしても思えません。








2018年8月27日月曜日

宮本顕治氏によるソ連・中国核実験擁護論(社会主義国の核による戦争抑止論)より思う。日本共産党第九回大会(昭和39年11月24~30日)での中央委員会報告より。

社会主義陣営の経済は、全体としては資本主義世界のそれよりもずっと早いテンポで発展し、世界経済のなかでしめる比重も増大した(第九回大会中央委員会報告より抜粋。p11)。


日本共産党第九回大会が開催された昭和39年といえば、東京オリンピックの開催年でした。この頃から日本は、高度成長期に入ります。

当時、宮本顕治氏ら日本共産党員はソ連、中国、東欧、北朝鮮、ベトナムなど社会主義諸国の方が資本主義国より高成長をしていると確信していました。

北朝鮮は千里馬のいきおいで社会主義を建設しているなどと、当時の日本共産党は大宣伝していました。

社会主義国では搾取がないから国民の生活は日ごとに良くなるという類のマルクス主義経済学の主張を盲信していたのでしょうね。

この時期の日本共産党は、フルシチョフらソ連共産党を現代修正主義と規定し、強く批判していました。

しかしソ連や中国の核兵器については、防衛的なものとみなし、核実験に理解を示していました。

聴濤弘氏ら古参の日本共産党員、運動家は若い頃の御自分の言動をどう評価しているのか


「いかなる国の核実験にも反対」というスローガンを主張した当時の社会党指導部を、宮本顕治氏は以下のように中央委員会報告で強く批判しています。

若い日本共産党員には信じがたい事でしょうけれど、いかなる国の核実験にも反対したのは日本共産党ではなく、旧社会党だったのです。

当時の日本共産党は、ソ連や中国の「社会主義の核」が帝国主義の核戦争を防止すると信じていた。

今の日本共産党が強く批判する核抑止論です。

この当時から日本共産党員として活動されていた方々は、宮本顕治氏のソ連、中国核兵器保有支持論を今日、どう評価なさっているのでしょうか。

聴濤弘氏(元日本共産党参議院議員)は、今でもソ連や中国の核実験は防衛的なものだったと擁護しているのでしょうか。

それならば、朝鮮労働党の核軍拡、核実験も米帝国主義の核戦争準備に対し、防衛上余儀なくされていると評価できそうです。

平山基生さんは、沖縄、日本から米軍基地をなくす運動に長年参加なさっている方です。

平山基生さんは、かつての日本共産党が「いかなる国の核実験にも反対」しなかったことを今日、どう評価されているのでしょうか。

昔の日本共産党は核抑止論者だった


今、沖縄から米軍基地をなくす運動に参加されている年配の日本共産党員は、若い頃の自分を思い出すことはないのでしょうか。

私は平山知子さんの「現代離婚事情」(新日本出版社)は面白い本と思っているのですけれど。平山基生さんのtwitterによれば、私は親米売国の輩らしい。

従米売国の輩は日本から去れ!と平山基生さんはつぶやかれています。あらあら、としか申し上げようもありません。

日本共産党の「真の平和綱領のために」(昭和56年7月)は核抑止論を少し修正し、路線転換しています。

宮本顕治氏も核抑止論はまずかったな、と思ったのかもしれません。

平山基生さんは、日本共産党の「平和理論」について御存知なのでしょうか。

宮本顕治氏は、旧社会党の「いかなる国の核実験にも反対」論を強く批判した


以下、宮本顕治氏の第九回大会中央委員会報告の一部を御紹介します。

「1961年秋に、アメリカ帝国主義による核戦争の挑発の危険を阻止するためにソ連がやむなく核実験を再開した時、米日反動勢力はブルジョア宣伝機関を総動員し、『核実験はごめんだ」という広範な人民の素朴な感情を最大限に利用して、ソ連を『平和の敵』とする反ソ・反社会主義の大カンパニアを組織した。」

「社会党指導部その他もまた、ソ連核実験への抗議とこれを基本原則として定式化した『いかなる国の核実験にも反対』というスローガンbを原水禁運動におしつけ、運動を帝国主義の核戦争政策との対決の方向からそらせようとした。」

「わが党は、これにたいして、核兵器の全面禁止に一貫して反対しているアメリカ帝国主義の核戦争準備と核脅迫の政策こそが、ソ連に防衛上核実験をよぎなくさせた根源であることを明らかにするとともに、...」(9回大会決定p54より)。

「中国核実験とその後の事態は、第一に、『いかなる国の核実験にも反対』『部分的核停条約反対』などの主張を原水禁運動におしつけることが、核戦争に反対する人民のたたかいのなかでどんな政治的役割を果たすかを、浮き彫りにした。」(同p56より)。

「それはアメリカ帝国主義が日本を重要な拠点にして中国に対する核攻撃をたくらんでいるときに、中国が必要な防衛措置をとることに反対し、その放棄を要求するという、道理にも平和の利益にも反する方向に運動をおとしいれることである。」(同p56より)。







2018年8月26日日曜日

高杉一郎「征きて還りし兵の記憶」(岩波書店より平成8年刊行)より思う。

「8月23日、私たちはマリノフスキー将軍の命令でハルビン市内を去り、武器を棄て、ソ連側の指定した集結地海林に行った。私たちはこのまままっすぐに祖国へ帰れるものだとばかり信じこんでいたのだった。」


「野盗のような赤軍兵士になやまされながら、長蛇のようなソ連の貨車が満州での戦利品を運び去っていくのを眺めて暮らす毎日だった」(同書p24より抜粋。昭和20年8,9月の話)。


高杉一郎氏は、シベリア抑留体験者です。「極光のかげに」(岩波文庫)という体験記を、復員後早く著しています。

高杉氏はシベリア各地で強制労働をさせられました。以下、高杉氏の体験と、帰国後高杉氏が会った人物との対話について、同書より記します。

高杉氏らシベリア抑留者はバイカル・アムール幹線鉄道建設に従事させられた

高杉氏がハルビンから初めに連行されたのはバイカル湖よりはるかに北の、雪に覆われた山の中、ニューヴェルスカヤという部落でした。

バイカル・アムール幹線鉄道建設の西側起点です。

密林をきりひらいたと思われる広い窪地の上に、丈の高い有刺鉄線の塀が大まかな方形に二重にはりめうぐらされていました(同書p31)。

バイカル湖、モンゴル共和国よりずっと北の地で大した冬着も与えられず重労働をさせられて、どうして生きのびられたのでしょうか。

高杉氏は各地を引き回された結果、昭和24年8月終わりごろに、港町ナホトカに連行されました。

ナホトカから恵山丸で8月30日に舞鶴港に入り、9月1日に伊豆天城山麓にある故郷に帰還しました。

高杉氏は雑誌「文藝」の編集者として、宮本百合子、中野重治らと付き合いがあった


戦前から宮本百合子や中野重治と交際のあった高杉氏は、昭和25年4月中頃に中野重治宅を尋ね、シベリア抑留体験について話しました。

中野重治は辛抱強く高杉氏の話を聞いて、「やっぱり、スターリンは偉大な政治家だよ」と言いました。

この後、高杉氏はシベリア俘虜の記録を書こうと思い立ちます。

雑誌「人間」に掲載された「極光のかげに」と題した手記が、昭和25年10月半ばには出回りました。

同年12月に、目黒書店から同書は出版されました。出版後、高杉氏は旧知の宮本百合子宅を訪問しました。

宮本百合子は既に「極光のかげに」を線を引いて読んでおり、そこに書かれているシベリアのことを次から次へと聞きました。

彼女が最後に口にしたことばは、「やっぱり、こういうことはあるのねえ」という呟きでした。

宮本顕治氏はマルクス・レーニン・スターリン主義者だった―在日本朝鮮人総連合会の皆さんは金日成民族


宮本百合子が高杉氏の話を聞き終わった頃、宮本顕治氏が出てきました。宮本百合子は夫に高杉氏を紹介しました。

宮本顕治氏も既に「極光のかげに」を読んでおり、いきなり次のように言いました。

「あの本は偉大な政治家スターリンをけがすものだ」「こんどだけは見のがしてやるか」(同書p188より)。

高杉氏はこの言葉が、「敗北の文学」の筆者の言葉とは信じられなかったそうです。

宮本百合子はこの後、宮本顕治氏にソ連の実態について何か話をしたのでしょうか。

マルクス・レーニン・スターリン主義者を自認していた宮本顕治氏のソ連信仰は、「極光のかげに」を読んだくらいではびくともしなかったのです。

宮本氏の言動は、北朝鮮の惨状を直視できない在日本朝鮮人総連合会の皆さんのそれとよく似ています。

在日本朝鮮人総連合会の皆さんの、金日成、金正日、金正恩への信頼と尊敬は本やテレビ番組くらいでは揺るがない。金日成民族の一員ですから。

しかし、中野重治はこれから十数年後には高杉氏の著作を熱心に読んだのではないでしょうか。

宮本百合子がもう少し長生きしていたら、昭和31年のハンガリー事件についてどう発言したでしょうか。宮本顕治氏はこのとき、ソ連軍の介入を支持しています。

誰しも、先を見通すのは難しいものです。

この四十年ほど後、ソ連が崩壊して宮本顕治氏が万歳を叫ぶとは、宮本百合子も予想できなかったでしょう。

現在日本共産党で、シベリア抑留問題を担当している小池晃議員に、高杉一郎氏の著作を読んでいただきたいものですね。

2018年8月25日土曜日

仏映画「ティエリー・トグルドーの憂鬱」(原題 La Loi du marché 市場の掟)を観ました。

身体障害者の息子(高校生)を持つ50代男性が失業したらどうすればよいのか


諸般の事情により、多忙で暫くブログを更新できませんでした。

アクセスして下さっている皆さん、すいません。

久しぶりに仏映画を観ました・厳しい現実を淡々と描く映画でした。

いろいろな理由で勤めている会社の経営が悪化したら、経営者は不採算部門を切り捨てねばなりません。

それができなければ、会社が倒産してしまう。切り捨てられた部門に所属していた労働者は解雇される。

50代で解雇されたら、よほど特殊な才能を持っていない限りそれまでのような労働条件で再就職するなど夢のまた夢でしょう。

この映画の主人公、ティエリーは解雇されて再就職先がなかなか見つからない。

元の会社の経営陣と裁判闘争を続けようという仲間にもついていけず、再就職訓練でクレーン技師の資格をとって再就職しようと努力します。

しかし、建設関係では職務経験のある人しか雇わないそうです。

再就職訓練は無駄になってしまいます。もうすぐ失業手当の受給額が500ユーロになってしまい、そうなったら毎月かなりの赤字になってしまう。

こう悩む主人公に、銀行の担当者は持ち家を売却することを勧めます。

そうすれば、現在の借金を返せますし、もっと安い額で借家をすれば暮らしが楽になるという話です。

しかし、マイホームに思い入れがあるティエリーにそんなことはできません。察するに、奥さんと息子にとっても大切な住処なのでしょう。

高校生の息子は、身体障害者です。知的遅れはないようですが、体の動きがぎこちない。どんな障害なのかはよくわかりませんでした。

ティエリーの心中には常に、この子は将来どうなっていくのかという気持ちがあるのでしょう。

ティエリーは移動式住宅を売却する決意をします。仏にはこういう住宅があるのですね。

しかし、電話で7000ユーロで買うと約束をしてくれた相手に実際に家を見せたら、6000ユーロにしてくれと言われてしまいます。

これではとても算盤があわず、売却はできない。

人生には、何かの拍子で歯車が狂うと次から次へと裏目に出てしまうことがあるようです。

ティエリーは仕事に就けたが


漸く、ティエリーはスーパーマーケットの警備係の仕事に就くことができますが、ここでも試練が待っていました。

最後は、「キレて」職場を去ってしまう。この終わり方は私にはよくわからなかった。

中高年の失業者対策について政策提案を映画に求めるべきではないでしょうが、抑制のできるはずの主人公の性格が突然変わってしまったように思えました。

この映画は、失業した中高年の厳しい生活を描いている。社会的には意義のある作品です。

しかし日本で同じような作品を作って興行上、算盤があうでしょうか。仏ではこの映画はかなりの観客動員数だったらしい。

同じような悩みを抱えている方々が、この映画を観ても自分の現状を打開する策を見いだせるとは思えないのですけれど。

それでも、失業者の現状に関する映画や社会評論は必要です。論じる事それ自体に意義はありますから。