2014年11月29日土曜日

北朝鮮による日本漁船銃撃・船員殺害事件(1984年7月28日、石川県内浦町イカ釣り漁船第36八千代丸の行泊貢船長、50歳)について―18年前に私は外務省アジア局北東アジア課を訪問しました―

「軍事境界線だけでなく、経済水域に入っていたかどうかはわからない。操だ室の船長が狙い撃ちされた。だ捕されたときは、全員が殺されると思った」(朝日新聞1984年8月27日記事より抜粋)-


北朝鮮による日本人への蛮行、テロは日本人拉致だけではありません。

北朝鮮は国際法を無視して勝手に設定した「軍事境界線」なるものに日本のイカ釣り漁船が「侵入」したとレッテルを貼り、問答無用で銃撃しました。

北朝鮮の警備艇は石川県のイカ釣り漁船「第36八千代丸」の行泊貢船長を銃撃して殺害しました。

もう30年も前の事件ですが、石川県の漁協の方々なら決して忘れていないことでしょう。

平成8年10月9日、私は外務省アジア局北東アジア課を訪問し、拉致された日本人の返還要求や行方不明になった日本人妻の安否照会問題などを要請した



いささか手前味噌ですが私は18年ほど前に外務省アジア局北東アジア課を訪問し、この件について要請、質問しました。

当時すでに、様々な文献で北朝鮮に少なくとも13人の日本人が拉致・抑留されていることが明らかになっていました。

私は日本政府としてあらゆる外交ルートを通じて「拉致・抑留している日本人を返せ」と要求することや、少なくない日本人妻、帰国者(元在日朝鮮人)が行方不明になっていること、

この人たちの安否照会を北朝鮮に行うこと、

日本政府として北朝鮮当局を人権抑圧という点で批判することなどを要請しました(「現代コリア」1996年11月号掲載拙稿「日本政府は拉致日本人救出になぜ消極的なのか」)。

外務省アジア局北東アジア課担当者の回答「国交が正常化されれば話をするルートができる。日朝間は不正常なのでなるべく早く正常化したい。」


外務省アジア局北東アジア課の担当者は私の要請に対し次のように答えました。

「北朝鮮とは国交がないから、正式に政府のレベルで接触できない。国交が正常化されれば話をするルートができる。日朝間は不正常なのでなるべく早く正常化したい。

今は話し合うルートがない。要請の件をいろいろな経路を通じてという気持ちはわかるが、四者協議にはなじまない。駄目でもともとというより、現実性がある方法が必要だ。

相手がどう対応するかということを考えねばならない。事件の存在、人物の特定化が出来ていないときは外交交渉で取り上げることはできない。

日本共産党の橋本敦参議院議員から、有本恵子さんの件で呼ばれた。この問題は国交正常化交渉の中で取り上げていくことになる。

八千代丸の事件の際は1984年10月30日に、海上保安庁の捜査結果が出たのを受け外務省は事件を「国際法上、過剰な措置」と判断し、『この事件によって生じた賠償請求の権利を留保する』との波多野外務報道官談話を発表した。」

外務省担当官の話を聞いていた私には、国交がないので、日本人を拉致、殺害する権利が北朝鮮にあると日本政府が認めているように思えてしまいました。

真に残念ですが、日本政府、外務省の現在の対北朝鮮政策の基本は18年前と大差ないように思えてなりません。

日本政府は北朝鮮により殺害された日本人の損害賠償要求を事実上放棄した


北朝鮮により殺害された日本漁船員に対する損害賠償を、その後日本政府は一切要求しなくなってしまいました。

いつのまにか忘れ去られ、マスコミでも全く取り上げられなくなれば政府や国会議員は日本人の生命をいとも簡単に放棄してしまうという典型的な例のように思えてなりません。

残念ですが、拉致問題を大事だと主張する国会議員の多くはテレビで取り上げられ、支持者に受けが良いからそう主張しているだけではないでしょうか。政治家は票にならないことはやらないのでしょう。

北朝鮮による日本人殺害事件を今取り上げれば、間違いなく「日朝交渉への障害」になります。

「日朝交渉を頓挫させてはならない」という国会議員や朝鮮問題の研究者は口が裂けても北朝鮮による日本人殺害事件についてコメントしないでしょう。

「日朝交渉」とやらを続けると、なぜテロ国家北朝鮮は披拉致日本人を返すことになるのでしょうか?

何度も何度もお願いにお願いを続ければ、金正恩やテロ国家の最高幹部が心を改めると大真面目に日朝交渉推進論者は考えているのでしょうか?

日朝交渉推進論者は単に、この問題についての具体的、実証的な思考と議論を拒否しているだけだと私には思えてならない。18年前の外務省担当者がそうでした。

「圧力と対話」路線の大失敗を安倍総理は認めるべきだ


現在の日本政府には「拉致問題の解決がない限り国交を樹立しない」という方針が一応あるようですから、「国交樹立が最優先」という発想ではなくなったのでしょう。

「駄目でもともとというより、現実性がある方法が必要だ。相手がどう対応するかということを考えねばならない」という視点からはテロリストとの対話路線という非現実的な「政策」しか導かれようもない。

安倍政権の対北朝鮮政策の基本は「圧力と対話」です。

「対話」をするという名目で制裁を緩和したら、国家安全保衛部の徐某が出てきて外務省幹部と多少話してそれで終わりだったのです。

「圧力と対話」路線では、「対話を続けるためには制裁をもっと緩和しよう」という話になるだけです。

「圧力と対話」路線の大失敗を安倍総理が認め、「圧力と思想攻撃」路線に転換することを改めて訴えます。

テロリスト国家北朝鮮との「対話」「交渉」とは思想攻撃だ!


日本政府は対北朝鮮ラジオ放送で金日成、金正日を批判するべきです。

海外衛星放送で、例えば藤本健二さんの諸著作を連続ドラマ化して中国、朝鮮半島方面に放映すべきです。

中国朝鮮族はこれを録画し、北朝鮮国内に運ぶでしょう。これを放置すれば、国家安全保衛部や対南工作機関が労働党組織指導部に責任を問われます。

「日朝交渉」は必ず頓挫します。同時にとんでもない脅迫を北朝鮮はあらゆる経路でやってくるでしょう。
そのとき、日本政府は「番組の放送をやめてほしければ横田めぐみ、増元るみ子、有本恵子さんらを返せ」と言えば良い。金正恩や朝鮮労働党最高幹部は次の選択に直面するのです。

披拉致日本人を返すか。それとも日本政府により北朝鮮の一般国民や朝鮮人民軍兵士に金日成や金正日の贅沢三昧を暴かれ、忠誠心をより減退させられてしまうか。

武力を持っている人間が金正恩への忠誠心を無くせばどうなるのか


朝鮮人民軍兵士や国家安全保衛部員、金正恩の親衛隊も番組を観れば金正恩への激しい反感を抱くことは間違いない。

武力を常時持っている人間が金正恩への忠誠心を失えばどう動くでしょうか?労働党組織指導部や宣伝扇動部は武力を持っていません。

「学校秀才」ぞろいの外務省高官にはこうした発想ができないのでしょう。
外務省高官には,暴力団の抗争史に関する諸文献を読んで頂きたい。

2014年11月23日日曜日

Marion Cotillard主演仏映画「エディット・ピアフ 愛の讃歌」(原題La Vie En Rose)を観ました。

Édith Piaf(19151219日-19631011日)-父は大道芸人(A Well-Known Travelling Acrobat)。母に捨てられ、父方の祖母が経営するNormandyの娼婦宿で育った。Her grandmother ran a brothel in Normandy)。


Edith Piafはわずか47歳で癌により亡くなっています。「太く短く」というような人生だったのでしょう。晩年には、モルヒネに頼るような暮らしでした。

大道芸人とは「家なき子」のヴィタリスのように、道端や広場で芸を見せ、観客の篤志で生活している人のことです。

英語のサイトには、Piafの父は著名な旅のアクロバット師、母はカフェの歌手だったと出ています。

いつの時代でもどこの国でも、旅から旅を重ね、それぞれの街で見世物をしてその日の糧を得るという暮らしをしている人はいるのでしょう。

古代日本にも、律令制度の外で生きる人々がいました。その人々から、能や狂言が生まれてきたのかもしれません。

「フーテンの寅」の寅さんは、祭りが開かれる所々を訪ね、そこで夜店などを出して生活の糧を得ているはずです。

見物人を逃がさないため「何か芸をやりなさい」と父に促され少女Piafは「ラ・マルセイユーズ」(La Marseillaise)を歌った


この映画では、お父さんがサーカスの曲芸師としてPiafとともに旅をするシーンも出てきます。Piafが10歳位の頃、お父さんは何かでサーカス団と喧嘩になり、団を辞めて大道芸人に戻ります。

「お父さん、サーカスをやめないで」とお祈りするシーンがありますが、なんともいじらしい。

しかしお父さんはサーカスを辞め、道端で逆立ちやアクロバットのような曲芸をして稼ぐ大道芸人に戻ります。映画では俳優が実際に逆立ちと、足を首の後ろに巻きつける芸をやっています。

道端でのお父さんの芸が一段落したあと、見物人の一人が娘Piafに「その子はなにか芸はできないのか?」と尋ねます。

お父さんは客を逃がしてはいけないという一心で直ちに「できます」と答えPiafに「何かやりなさい」と命じます。

突然のことで動揺を隠しきれないPiafですが、やむを得ず「ラ・マルセイユーズ」を歌いだし見物人から大きな拍手と、携えていた帽子に多額の小銭をもらいます。

このシーンは健気に生き抜く少女時代のPiafの姿がよく描いています。「家なき子」では賢い犬のカピが帽子にお金を入れてくれるよう観客にせがんでいました。

下層社会出身のPiafは裏世界と「契約」をしていたのでは


Piafはその後、道端で歌を歌い通行人から稼ぐようになります。

この頃、Piafは裏世界の人間と「街角で歌って得た金の一部を出す」という「契約」を結ぶ羽目になったようです。

Piafの才能を見出し、劇場で歌えるように取り計らってくれた恩人が少し後に殺されてしまいますが、裏社会の人間の仕業だったのかもしれません。

Piafは殺人の共犯者ではないかと警察に疑われますが、無実でした。

Piafの生き様を通して、かつてのフランスの下層社会を垣間見ることもできます。

Piafの再来と言われるZAZによるLa Vie En Rose, Sous le Ciel de Paris


この映画ではPiafの有名な歌が背景の音楽として所々で流れています。それらの響きが心に残り、Piafによる数々の名曲に親しめます。

故越路吹雪がカバーした「愛の讃歌」(Hymme  à l’Amour)は若いふたりの愛を歌いあげている歌として知られていますが、この映画ではPiafの幼少期に背景の音楽として使われています。

同じ曲でも、伝わえられるものがかなり異なってきます。

現代フランスの代表的歌手の一人、ZAZが「Piafの再来」と言われている理由が何となくわかってきました。二人とも声量があり、音響設備がさほどなくても聴かせます。

二人ともずば抜けたリズム感覚の持ち主なのでしょう。

ZAZによる「La Vie En Rose」「Sous le Ciel de Paris」はインターネットで簡単に探せます。現代風に変えられていますので、若い人にはこちらのほうが聴きやすいかもしれません。

ZAZの「On ira」に私は傾倒しています。

2014年11月22日土曜日

Françoise Saganの「ある微笑」(朝吹登水子訳、新潮文庫。原題「Un Certain Sourire」)を読みました。

私は若かった。一人の男が私の気に入っていた。もう一人の男が私を愛していた。私はよくある少女のつまらない悩みの結末をつけなければならなかったのだ。私は一人前になり始めていた。既婚の男すら存在し、もう一人、女もいた。パリの春に、ちょっとした四重奏の遊びが始まろうとしていたのだ(「ある微笑」p35より)。


簡単に言ってしまえば、「ある微笑」はこんなお話です。私、ドミニックはソルボンヌ大で法律を学んでいる女子学生で、ベルトランという学生の恋人がいますが、彼に飽きはじめていました。

ベルトランにはリュックという旅行好きの叔父がいます。ベルトランはドミニックをリュック叔父に紹介します。ドミニックは初対面でリュックを気に入ります。

「かれ、私の気にいったわ。かれ少し年取っていて、私の気にいったわ」(p11)。

リュックにはフランソワーズという妻がいますから、ドミニックは恋人の叔父と不倫関係に陥ってしまったことになります。

Saganの小説-心の動きがどのように描写されているか-


しかしSaganの小説は、「人がいかに生きるべきか」という視点から読むのではなく、「心の動きがどのように描写されているか」という視点から、巧みな文章表現を味わいつつ読むべきでしょう。

あらすじをいちいち説明するのはやめ、登場人物の言動で私が疑問に思う点を書き留めておきます。

ドミニックの恋人ベルトラン、リュックの妻フランソワーズはリュックの過去の言動を何も知らないのか


(その1)リュック夫妻がドミニックに高価なコートを買った時点でベルトランはなぜ、リュックの下心にもっと警戒しなかったのか?ベルトランはそのすぐ後にドミニックと愛し合ったから安心してしまったのだろうか。

(その2)リュックがドミニックを誘惑しようとしていることを、身近で二人のやりとりを見ているはずの妻のフランソワーズはなぜ気付かなかったのか。

フランソワーズはあまり知らなかったとはいえ、リュックには浮気の前歴が相当ある(p60)。

(その3)リュックの矛盾に満ちた口説き文句はそれほど魅力的だろうか。リュックはドミニックに「正直」に話している。

真剣なことなんか何もありはしない(リュック)


「本当に真剣だったアヴァンチュールは一度も無かったんだ」

「それに君のことだって、ほんとに真剣ではないのさ。真剣なことなんか何もありはしない。フランソワーズに匹敵するものは何もない」(p60-61)。

「ドミニック、僕とても君を好きだよ。僕は君を決して『本気』-よく子供たちが言うようにさ-好きにはならないだろうけれど、でも僕たち似てるんだ。

君と僕。僕はただ君と寝たいと思っているだけじゃないんだ、君と一緒に生活したい。夏休みに君と何処かへ行きたい。僕たちきっととても幸福で、とても仲良く暮らせるよ。(中略)」

「そのあとで、僕はフランソワーズの許に戻ろう。君になんの危険が有る?僕に惹かれ、後で苦しむこと?でもそれがなにさ?退屈しているよりいいぜ。幸福であり不幸である方が、なんでもないより君いいだろう?」(p62)。

この最後の言葉に、ドミニックは酔ってしまったのかもしれません。

(その4)フランソワーズは夫の浮気を知り「非常に苦しんだ」(p138)とあるが、暫く後にドミニックと会った時極めて寛大です。

フランソワーズとドミニックはベルトランが紹介するまで何の関係もないのに、ドミニックに実の母のような感情を抱けるでしょうか。

多少の疑問はありますが、リュックを心から消し去ることができたドミニックの呟きと微笑みの描写は魅力的です。以下です。

リュックとの決別を決意したドミニックの微笑み


「私は不意に鏡の中の自分を眺めた。私は自分が微笑んでいるのを見つけた。私は微笑むことをやめることが出来なかった。

私には出来なかった。再び、私は知っていたのだ、自分は独りだということを。私はこの言葉を自分自身に言ってみたかった。独り、独り。

けれどもそれが一体なんだ?私は一人の男を愛した一人の女だった。それは単純な物語だった。鹿爪面をすることもないのだ」(p155-156)。

ふと、30年くらい前の映画「ダイアモンドは傷つかない」(田中美佐子主演)を思い出しました。Saganは後の作家にかなりの影響を与えているのでしょう。

2014年11月18日火曜日

Françoise Saganの「乱れたベッド」(新潮文庫、朝吹登水子訳。原題Le lit défait)を読みました。魔性の女、ベアトリス

彼女は二つの欲望のあいだを揺れ動いていた。一つはエドワールを眩惑すること、一連の暗示や思い出話や曖昧な言葉によって彼の心を乱し、おののかせるか、それとも、もっとも母性的な役割を選んで彼を安心させ、彼女の中には安定性、<不変の本性>といわれるもの、さらには未来への約束さえ存在するという希望を彼に与えること、だった。-



「乱れたベッド」は、「一年の後」の続編です。5年後、ベアトリスは映画と演劇で輝かしいキャリアをつくりあげていました。

ベアトリスに棄てられたエドワールは、新進劇作家として知られるようになっていました。一途なエドワールは、ベアトリスを忘れることができなかったのです。

彼はこれからも、「魔性の女」とでも言うべきベアトリスを愛し続けることでしょう。

劇場主ジョリエと一年間暮らしたベアトリス


ベアトリスはエドワールと別れてから劇場主ジョリエと1年間一緒に暮らしました(p119)。5年前、ベアトリスがエドワールを棄てて50歳のジョリエに従った理由は次です。

「ベアトリスは、パリには彼女に夢中になりうる美青年は千人といるが、彼女を世に送り出そうとする劇場主はただ一人しかいないことを知っていたから、エドワールにもう愛していないと冷酷に告げた次第なのだ」(p103)。

ベアトリスはこれを正直にエドワールに告げました。

彼は自分がせいぜいベアトリスにとって官能の機会でしかなく、それも当時彼はまだごく若くそしてごく不器用であったから、微々たるものにすぎなかった―

という気持ちをずっと持ち続けていました(p103)。

死にゆくジョリエのことを目に涙をためて話したベアトリスは、「自分を憐れんで泣いたのよ」


ジョリエは喉頭癌になり、すっかりやせてしまいました(p104)。

ベアトリスはエドワールの前でジョリエが死をまじかにしていることを目に涙をためて話します。
エドワールはベアトリスの心中にまだジョリエへの愛があるのかと思い、「彼をとても愛していたんだろう?悲しいだろうね」と問いかけます。

ベアトリスはこれに対し「あたし自分を憐れんで泣いたのよ。」と答えました。

自分を憐れむ、とはどういうことなのでしょうか。パリの映画・演劇界を生き抜いてきたベアトリスは空洞のような心を持っています。

「あたし、友達を持ちたいと思ったことなんか一度もないわ。その時間もないし。あたしには自分の職業と情人(amant)たちがあるだけ。それで充分すぎるほどだわ」(p106)。


ベアトリスはジョリエと一年間暮らした後、米国あるいは英国人の俳優の恋人ができたのでジョリエと別れました(p119)。劇場主の力が不要になったのかもしれません。


自分の背後に硝煙もうもうたる廃墟を残すことが好きな女



死を間近にしたジョリエはベアトリスを「自分の背後に硝煙もうもうたる廃墟を残すことが好きな女だ」と評し、エドワールに「君がそうした廃墟の中から再起したのをみて喜んでいる」と述べます(p119)。

ベアトリスはジョリエが休養に行く南仏の別荘へ一緒に来てほしいとエドワールに頼みます。エドワールはすぐに承諾しますが、南仏で「事件」が起きます。

海にのぞむ手すりにもたれ、双眼鏡でヨットにいるベアトリスを見ていたエドワールは、ベアトリスが若い男ジーノと口づけをしているのを見てしまいます。

このシーンが私の印象に強く残ったので、書き留めておきます。

彼女はもう笑っておらず、上半身を仰向けにそらせ、両眼をとじ、若者の頭は船縁から消えていた


「彼女は両手を陽やけした頸のうしろに組んで、微笑していた。
彼女の黄金色の躰は調和がとれ、髪を風になびかせて、彼女は美しかった。いま若者は彼女の口を放して両の乳房の上にかがみこんでいた。」(中略)


「突然またベアトリスが視界に入った時、彼女はもう笑ってはおらず、上半身を仰向けにそらせ、両眼をとじ、若者の頭は船縁から消えていた。

次の瞬間、エドワールはベアトリスが急に身をのけぞらせ、口を開けるのを見た」(p123)。

夕方別荘に戻ってきたベアトリスは、エドワールに全く悪びれることなくジーノとヨットにいたことを語ります。

エドワールが双眼鏡でベアトリスの愛の行為を見たことを告げても、ベアトリスは単に
「ああ、そう...」「いやな偶然だこと...」と平静を保っています(p127)。

エドワールはベアトリスに「そのジーノって若者、愛の行為はうまいのかい?」と訊きます。

ベアトリスは落ちつきはらって、きわめて映画的にシガレットに火をつけてから答えました。
「下手じゃないわ...あなたほどではないけれど、でも下手じゃないわ」。

Saganの小説を日本で映画化するなら、ベアトリスには沢尻エリカ、主題歌は「碧い瞳のエリス」「ワインレッドの心」


ベアトリスのごとき女性は実在するのか、私にはわかりようもありませんが、芸能界ならありえそうです。

Saganの「一年ののち」と「乱れたベッド」を原作にしてもし日本で映画やドラマにするとしたら、ベアトリス役には誰が良いでしょうか。真に勝手ですが私は沢尻エリカを推したい。

エドワールを「嵐」の二宮君なら演じられそうです。二宮君は映画「硫黄島」で熱演していました。
主題歌は、安全地帯の「碧い瞳のエリス」か「ワインレッドの心」でどうでしょうか。

2014年11月13日木曜日

Françoise Saganの「一年ののち」(新潮文庫、朝吹登水子訳 原題Dans Un Mois, Dans Un An)を読みました。

「だが、俺はこのちょっと色褪せた肩を欲しているのではないんだ、俺の欲しいのは、ベアトリスの硬くて丸い肩なのだ、俺は仰向けにのけぞった、無我夢中のベアトリスの肩が必要なんだ、この聡明な肩ではないんだ」(「一年ののち」p48より)


Saganの小説の魅力のひとつは、登場人物の心の声がさりげなく所々に記されていることでしょう。

会話や情景描写の中に時折、心の声が挿入されているので注意しないと会話と思い込み、読み飛ばしてしまいます。

上述部分は、ベアトリスという美人新進女優に恋をしている50代で出版社に勤めているアラン・マリグラスが、彼女と会って家に帰り、妻のファニーと添い寝をしたときの心中描写です。

マリグラス家では毎週月曜日パーティが開かれ、ベアトリスはやって来ます。

ベアトリスは、圧倒的に皆の視線を集めながら、マリグラス家に現れた(p22)。


ベアトリスは結婚と浮気経験があり、かつてはベルナールという20代後半くらいの男性作家とも2年間恋愛関係にありました。

ベルナールは現在、ジョゼを愛していますが、ジョゼは医学生ジャックと恋愛をしています。

アランの従弟のエドワールという青年は、アランの家でベアトリスと出会い、彼女を愛するようになります。

エドワールはアランを叔父と呼んでいるので、甥かもしれません。ベアトリスはエドワールと短期間恋愛関係になりますが、ジョリエという50歳の演出家に惹かれ、エドワールと別れます。

この小説の女主人公はベアトリス、男の主人公はベルナールといえるでしょう。登場人物たちが集うのは主に、アラン・マリグラスの家です。

裕福なフランス人は家に友人を招き、カクテル・パーティをしばしば催すのでしょう。

サガンは泡のごとく浮かびあがり、煙のごとく消えていく恋愛関係を淡々と描きます。登場人物達には、自分の人生に対し反省するような気持ちはあまりなさそうです。

これに、眉をひそめる方はいるかもしれませんが、小説は道徳を説く場ではないはずです。言葉には出せないような心の動きが、細やかに描かれていれば良いのではないでしょうか。

読者たる私たちはそれらを自分の心中で噛み締めることができます。

ジョリエはベアトリスを自分の情人にしようと心を決めていました(p79)。ジョリエは無条件で、次回の芝居の主役をベアトリスに与えます(p80)。

ジョリエは、ベアトリスのようなタイプの女は、一人の男から他の男へ移る以外には、決して男から去らないものだということを知っていました(p81)。

これに対しベアトリスの揺れ動く心は、次のように描かれています。

女優として成功していくためには、優れた演出家で劇場の支配人のジョリエの協力が必要とベアトリスは判断したのでしょう。

野心家ベアトリスの揺れ動く心と演出家ジョリエ


「ベアトリスは一瞬、エドワールの長く、うねった肉体を眼に浮かべ、残念に思った。かの女は、エドワールが其処にいてくれたらいいのにと思った。誰でもいい。

誰か極く若い人にいて欲しかった。この晩に酔いしれるか、あるいは、馬鹿げたことをやってのけたようにかの女と一緒に笑ってくれる人を。

これらのすべてに生命を与えてくれるような人を...。しかし、其処にはジョリエと、その皮肉な批評しかなかった。それに、これから彼と夜を共にしなければならなかったのだ。

ベアトリスの眼は涙でいっぱいになった。かの女は突然、自分を弱く、ひどく若く感じた」(p140)。

ベアトリスは情人(アマン,amant)を持つ方がずっと健康的だと思っています。ジョリエがベアトリスとの噂を立てなかったら死ぬほど恨んだそうです(p130)。

そんなベアトリスの心の中にも、やるせない気持ちの涙は流れるのでしょう。

ジョリエはベアトリスがその年の新進女優になることを、そしてもしかしたら、それ以上に、大女優になるかもしれないことを知っていました(p130)。

いつかベアトリスはかれを苦しませるだろうということをジョリエは予感します(p136)。ジョリエは自らがいずれベアトリスの虜となってしまうことを予感しているのでしょうか。

2014年11月3日月曜日

Françoise Saganの「ブラームスはお好き」(新潮文庫、原題 Aimez-Vous Brahams...)を読みました。

『ブラームスはお好きですか?』いったい彼女は自分自身以外のものを、自分自身の存在をまだ愛しているのだろうか?もちろん、彼女は自分がスタンダールを好きだと人にもいい、自分でもそう思いこんでいた。そこが問題なのだ。そう「思い込んで」いる...。(新潮文庫p55より)。


この本の解説によれば、サガンは自分の属している中流階級以外の人たちを描いたことはありません。

彼女の小説の主人公たちは左翼の闘士でも、社会改革や思想についてとうとうと議論する人たちでもない。

サガンは自分の階層の、女性の繊細な心理を描いています。心理を描くとは、心の中に浮かんでは消えていく言葉を描き出すことでしょう。

サガンの小説の魅力のひとつはそこにあるのでしょう。

39歳の離婚経験のある女性ポールに25歳のシモンが恋した


上記の「ブラームスはお好きですか」は、主人公のポールという39歳の離婚経験のある独身女性への、14歳下の求愛者シモンからの手紙の一節です。

ポールにはロジェという同年代の恋人が居るのですが、浮気を繰り返すロジェに物足りなさを感じていました。

そんなポールには、シモンの手紙の何でもない一文が自らの存在を問い直すきっかけになったのです。勿論、ポールはすぐにシモンに心を許すわけではありません。

音楽会の後、愛を告白したシモンに対しポールは「私はロジェを愛している」とそっけなく告げます。このときポールの心中には次の言葉が浮かびます。

「このちんぴらの女たらしにどうして自分の恋愛がわかるものか、自分たちの恋愛が...。快楽と猜疑心と、肉体のぬくもりと苦痛のまざりあったこの五年間を?誰も自分をロジェから引きはなすことはできない」。

なぜポールは同年代の浮気者ロジェを愛しているのか


私には、ロジェという浮気者のどこにポールがそれほどひかれているのか不可解です。本文を引用しながら、考えてみます。ポールの心は徐々にシモンになびいていきます。

「シモンのはげしい求愛に、屈服するよりほかになかったのだ」(p103)。

しかしポールは、シモンに夢中になったわけではありません。

「これから入っていこうとしているシモンとの関係の、そもそものはじまりから、たとえばロジェとの場合のように、関係がはじまる前にかならずあった、なにか情感をかきたてられるような、生命の躍動といったようなものが感じられるかわりに、なにかしら歩くのさえおっくうなような、深くやさしい倦怠感だけしか感じられない」(p104)。

ポールはロジェへの想いを残したまま、シモンの恋人になりますが、このときの気持ちは次のように描かれています。

「恋人をかえるだけにしておこうと考えていた」「その方がずっと面倒でなく、もっとパリ的で、ざらにあることだったから...」(p104)。

ロジェへの想いを断ちきれないポールの心中は、次です。

「なぜなら、彼女には、ロジェと自分の人生とを切りはなして考えることができなかったからである。なぜだかわからなかった。きっと、彼女が六年ごしに苦労してきたかれらの恋、その絶えまない、苦しい努力が、ついに幸福よりも貴重なものとなったためだろうか。もしかしたら、それが無益だったということが、彼女の自尊心にとって耐えられないのかもしれない」(p149)。

無益だったことに耐えられないからという気持ちも幾分かあるのでしょうが、それだけではない。

浮気癖のあるロジェの心を何とかしてつかもうとする「あやふやな戦い」がポールの存在理由になっていたようです(p149)。

ポールはもう十年ロジェの恋人でいられるのか


ポールとロジェの関係はいつまで続くのでしょうか。

ポールは別れた夫マルクとの間に子どもがあったらよかったのに、という気持ちを持っていますが、今はそうした普通の生活をさほど望んでいないようです(p151)。

もう五年、十年と今のような暮らしを続けられるとポールは思っているのでしょうか。小説の最後は、ロジェが早速次の浮気相手を見つけていることを示唆しています。

サガンの小説の登場人物、主人公は、長い視野で物事を考えることが苦手なのかもしれません。