2013年9月29日日曜日

私に残された望みといっては、私の処刑の日に大勢の見物人が集まり、憎悪の叫びをあげて、私を迎えることだけだった。-「異邦人」韓国語訳(이방인, 알베르 카뮈,김화영 옮김)の解説より思う-

他の人たちもまた、いつか処刑されるだろう。君もまた、処刑されるだろう(新潮文庫p125-126)。




体が資本だ、という言葉があります。何をやるにしても、健康でなければ達成できませんから。そう思って私はジョギングと足腰の鍛錬を日々心がけています。

それでも、誰しもいずれは老いて死んでいくのです。事故や、突然の病で倒れるかもしれません。中高年になれば、あんな元気だった人がなぜ...という経験を持っているものです。

知人が残念無念なことこのうえない死を迎えてしまったとき、神も仏もないのかと呟きたくなります。不条理とはそのようなときに出てくる言葉ではないでしょうか。

不条理(Absurdity)という漢字からなら、理屈にあわないこと、納得がいかないことという意味を私は感じます。

不条理(Absurdity)を韓国語訳ではそのまま、부조리と訳しています。題名のL'Etrangerを日本では異邦人と訳したのですが、韓国でもそのまま이방인(異邦人)と訳されています。


Camusのメッセージの一つは、人は死にゆくことを直視することにより、充実した生き方ができるということではないでしょうか。

上述の文章は、小説の最後にあるムルソー(Mersault)の独白部分からとったものです(新潮文庫p126)。私はこの文章をそのように解釈しました。



Albert Camusの世界―生の喜びと死の展望―




「異邦人」韓国語訳の解説は、翻訳した金ファヨン高麗大学名誉教授が執筆しています。

韓国語訳にはロジェ・キーヨという方の「異邦人」50周年記念論文が掲載されています。この方がどういう方かわからなかったのですが、Roger Quillotという方だとわかりました。

Roger Quillotは海と牢獄」というCamusについての著作を出しています。政治家としてもかなり活躍された方です。Camusとも交流があったようです。

以下、金ファヨン教授の解説で心に残ったことを抜書しておきます。



Albert Camusの描く世界は、生の喜びと死の展望、光と貧困、王国と遺跡、肯定と否定など、裏表の両面が常に噛み合わさり、共存している世界である(韓国語訳p187)。

生の終点である希望のない死は、それをして世間万事の無意味さを感じさせないではおかない。「異邦人」はまさにこの虚無感の表現であると同時に、虚無感を前にしての抵抗を語ってくれる(p187)。



いずれは処刑される私たちですが、それではより良い生の満足を求めて何になるのか?という問いかけそれ自体が、それまでの自分を見つめ直し、死ぬまでのより充実した生を形づくるものではないでしょうか。



「異邦人」の一部と二部の違い―ムルソーへの読者の共感を呼び起こす手法―




金ファヨン教授の解説をもう少し、簡単に紹介しましょう。


「異邦人」の一部と二部は対照的になっており、違いは鮮明です(p195-196)。一部のムルソーには、追憶や未来、計画はありません。今その瞬間を満足のために生きています。

一部のムルソーは奇異な行動をとりますが、純粋な人物です。読者は一面では彼に共感を抱かざるをえません(p198)。

二部ではムルソーは殺人のため収監されていますから、自分の死に対する省察をすることになります。

二部の法廷に登場する人物は、裁判長、検事、弁護士、証人などの役割があるだけで、個人としての名前はありません。

一人称の話者による叙述方式により、読者はいつのまにか殺人者の側になるように仕向けられています。殺人者が社会の被害者となっていきます。

読者はムルソーの眼で彼の行動と現実を見ることになり、ムルソーを見ることができにくくなります。

話者であるムルソーが自分の運命に無関心であるほど、読者は殺人者であるムルソーの側に立っている自分を見出すことになります(p197-198)。

いつのまにか、ムルソーは一種の殉教者となり、法定の喜劇性を風刺し、公の社会を告発する手段となります(p198)。


作家は読者をどのように導くかを考え抜くものなのですね。私も自然に、ムルソーの側に立って「正当防衛ではないか」「こんな法廷は人民裁判だ」などと考えていました。

遠藤周作の「さらば夏の光よ」に登場する作家が、作家は一行たりとも無駄には書いていない、一冊の本をどう噛み締めるか、噛めばどのような味がするかを考え抜くことだ旨述べていました。

「異邦人」にはまだまだ論じたい点があります。

小説の最後にある、ムルソーの司祭に対する怒りをどう考えるべきなのでしょうか。

少し後に書かれた「シーシュポスの神話」(新潮文庫)とともに、「異邦人」のメッセージを考えるべきだという議論がどこかであったと思います。またの機会に論じましょう。



君は死人のような生き方をしているから、自分が生きているということにさえ、自信がない(新潮文庫p125)





「異邦人」の最後のムルソーの独白部分を、何ども噛みしめてみたいものです。上の文章も素敵です。

いろいろ苦しいこと、嫌なことがあっても、生きていく勇気を奮い起こさせるような文章です。

下記は「異邦人」の中で私が気に入っている一節です。英語訳と韓国語訳を抜き書きしておきます。最初の文章は、上述の文章の英語訳と韓国語訳です。


The others would all be condemned on day. And he would be condemned, too.

다른 사람들도 또한 장차 사형을 선고받을 겅이다. 그 역시 사형을 선고받을 것이다.



すべてが終わって、私がより孤独でないことを感じるために、この私に残された望みといっては、私の処刑の日に大勢の見物人が集まり、憎悪の叫びをあげて、私を迎えることだけだった(新潮文庫p127)。


For everything to be consummated, for me to feel less alone, I had only to wish that there be a large crowd of spectators the day of my execution and that they greet me with cries of hate.


모든 것이 완성되도록, 내가 덜 외롭게 느껴지도록, 나에게 남은 소원은 다만, 내가 사형 집행을 받는 날 많은 구경꾼들이 와서 증오의 함성으로 나를 맞아 주었으면 하는 겄뿐이었다.

2013年9月24日火曜日

現代中国は国家独占資本主義-岡本博之監修「科学的社会主義 上-その歴史と理論-」(新日本出版社刊)より思う-

中国の労働者と農民は搾取されている



私と同世代の方々(昭和36年、1961年生まれ)には、マルクス主義経済学を学生時代に多少かじった経験がある方は少なくないでしょう。

岡本博之「科学的社会主義 上-その歴史と理論-」(新日本出版社1977年)は、マルクス主義経済学による搾取(exploitation)という概念を大略次のように説明しています(同書p292)。

労働力が商品となるのは、資本主義社会だけである。労働力が商品として売り出されるためには、次の二つの条件が必要である。

(その1)労働者が労働力を自由に処分できること。
(その2)労働者がいっさいの生産手段の所有から切り離されていること。

資本家は労働者を雇用して剰余価値を作り出す。これは資本家が労働者を搾取していることを意味する(p297)。

北朝鮮はもとより、中国の労働者と農民には上述二つの条件があてはまります。中国の農民には、土地の使用権はありますが所有権はありません。

農村から都会の建設工事などの出稼ぎに行っている人のことを、「農民工」といいます。農民工は都市住民に比べて賃金が安く、社会保障なども殆ど適用されません。

都市住民の健康保険に農民工は入れませんから、医療費がとんでもなく高くなってしまいます。

農民工が労災にあっても、悪質な経営者だと一切補償してくれません。日本の労働基準監督署に該当するような役所がないので、労災にあった農民工は泣き寝入りすることが多いのです。

裁判にはかなりの費用がかかってしまいますから、農民工には負担できにくいのです。

裁判所は中国共産党の支配下にありますから、企業経営者が中国共産党幹部に賄賂を渡せば都合の良い判決が出されるでしょう。

農民工より多少は豊かな都市住民も、生産手段など基本的に所有していません。

最近は地下経済が発達していますから、闇で非合法企業を経営をしている都市住民もいるでしょうが、多数派ではありません。

中国のどんな現実をみれば、「搾取制度が廃止されている」という話になるのでしょうか。中国共産党の宣伝文書にそう書いてあったというだけの話ではないでしょうか。

近年の中国の高成長は、農民工が長年二束三文の賃金で働かされてきたことに強く依存しています。農民工を低賃金で酷使できたから、企業が国際競争力を維持できたのです。

現代中国の普通の労働者や農民は経営者、資本家により搾取されています。国有企業で働いている労働者が搾取されていないわけがありません。

剰余価値(surplus value)云々というマルクス主義経済学の難しい概念を用いなくても、二束三文の賃金で酷使されている人たちは搾取されているというべきでしょう。



中国社会の伝統としての賄賂―地下金融と地下経済―




労働者が賄賂により国有企業の高い地位に昇進できると権限を持ちますから、かなりの賄賂を受け取ることができます。賄賂により普通の労働者から金持ちになれた人もいるでしょう。

賄賂は一種の先行投資なのでしょう。賄賂を出すために、地下金融から資金を調達する場合も多々あるのでしょう。

多額の賄賂を入手できる労働者は搾取されていないと見るべきです。建前の賃金はさほどでなくても、裏でかなりの別収入があるのですから。

賄賂により数億円規模の資産をため込んだような人が、搾取されているといっても言葉のお遊びでしかないでしょう。

賄賂は中国社会の伝統です。新中国とやらにも脈々と伝統は受け継がれているのです。

宮崎市定「雍正帝 中国の独裁君主」(中公文庫、p178)によれば、中国の官僚は資本家の利益代表です。

官僚と資本との結合は密接で、官僚は政権で資本を擁護し、資本はその利益の一部をさいて官僚の後ろ盾となります。結合は多くの場合、利権と賄賂との交換という形式をとります。

宮崎市定は清朝の中国についてこのように説明しているのですが、現代中国を把握する際にも十分適用できる見方です。


社会主義諸国における無料の医療・教育の制度、ととのった社会保障の制度は、資本主義諸国が及びもつかない




岡本博之(前掲本p408-409)は社会主義制度の優れた長所として、次をあげています。


社会主義諸国は、現在十数カ国にのぼり、世界人口三九億の三分の一強、世界の陸地面積の四分の一強をしめ、アジア、ヨーロッパ、ラテンアメリカの三つの大陸にまたがって存在しています。

これらの国ぐにでは社会的生産関係の変革にともない、生産の発展は資本主義とはくらべものにならないはやさですすみ、人民は資本主義的・半封建的搾取から解放され、労働・生活条件の改善がおこなわれています。


(中略)


失業は存在せず、労働時間は短縮され、資本主義に固有の不況やインフレなどの現象は見られません。

国民の社会的・文化的水準は国家の政策によってたえず高められています。

とりわけ社会主義諸国における無料の医療・教育の制度、ととのった社会保障の制度は、資本主義諸国が及びもつかないほど充実したものです。



こんな現実は北朝鮮はもちろん、現代中国にもありません。毛沢東時代の中国は、「失業がない」どころか、失業する自由すらないというべきでした。

中国共産党を批判した人は「労働改造所」という囚人労働をさせられる政治犯収容所に連行されてしまいます。

中国にとって不利になるような発言をした知識人の場合、国家安全部という公安警察によりどこかに連れ去られて監禁されてしまうこともあります。

行方不明になってしまうのですが、全ての人が囚人労働をさせられているわけではありません。ごく最近も、ある著名な在日中国人の政治学者が上海で消息を絶ってしまいました。

報道によれば、国家安全部により監禁されてしまったようです。「二重スパイだった」などという記事も出ています。

この真偽は私にはわかりませんが、国家安全部という部署は人を監禁する権限をもっています。

マルクス主義経済学によると政治犯は囚人労働をしており、劣悪な食事でも配給されているから失業していないということなのでしょうか。

現代中国にはもちろん失業がありますし、インフレは常態化しています。

毛沢東の時代には、農民には社会保障らしきものはなかったはずです。病院がない農村は少なくなかったはずです。

現代の中国でも、都市に出稼ぎに行っている農民(農民工)の子供は原則として都市の学校に入学できません。

「民工学校」という農民工が相互に資金を出して運営している学校らしきところで、農民工の子供たちは勉強するしかないのです。

都市の環境汚染のひどさは、改めて言うまでもありません。水と空気の汚染が酷い。北京や上海に多少でもいったことのある人は皆、実感しています。

マルクス主義経済学の「科学の眼」には、中国農民や労働者が直面している悲惨な現実は一切入ってこないのでしょう。



中国は国家独占資本主義であり帝国主義だ




現代中国は、普通の資本主義どころか、マルクス主義経済学でいう国家独占資本主義の特徴をそれなりに備えています。

岡本博之前掲本(p347)によれば、独占資本はいろいろの方法で、労働者の雇用を制限したり、賃金を切下げたり、新しい労務管理の方法によって労働強化や労働時間の延長を強制します。

職場での民主的権利を奪ったりするそうです。この殆どは、現代中国の大企業あるいは中小企業にあてはまります。

中国では時折暴動が生じます。市民的権利としての示威行動が自由に認められているわけではありません。反日暴動は当局により許容されていますが。

表現の自由が中国では厳しく制限されています。出版物で中国政府を正面から批判することはかなりの「冒険」です。

特に、法輪功やチベット、ウイグルを擁護するような言論活動は厳しく制限されています。

岡本博之前掲本(p382)によれば、帝国主義は軍国主義と政治反動、帝国主義的侵略戦争、民族的抑圧と併合、他国の従属化といった政治的特徴をかならずともなうそうです。

この殆どは現代中国そのものではないでしょうか。

現代中国はマルクス主義経済学の概念を使えば、国家独占資本主義で帝国主義です。

マルクス主義経済学者の皆さんに、なぜ中国で搾取制度が廃止されているのか御説明をいただきたいものです。

聴濤弘にも是非御説明頂きたいですね(文中敬称略)。



追記


毛沢東の時代の中国の労働市場については、上原一慶「民衆にとっての中国社会主義」(青木書店2009年)が参考になります。この本のp14-15では、「計画経済の社会主義」中国における失業消滅、雇用保障政策について、次のように説明しています。


・都市部における労働力の供給過剰を前提にした、都市民衆の就業の労働部門による統一請負・統一配分(一手引き受けと配分)

・農民の都市流入の制限・禁止

・都市知識青年の農山村への下放

・これらは「計画経済の社会主義」の社会編成の最も基本的構成要素のひとつである身分制の形成要因となり、民衆に分断を持ち込んだ。


・身分制には、「農民」と「都市住民」、「幹部」と」「労働者」等の区別があった。



私には、毛沢東の時代、「計画経済の社会主義」で失業がなかったというマルクス主義経済学者の議論は、古代日本の律令制社会では失業がないという話に思えてしまいます。

「計画経済の社会主義」では資本主義的搾取でなく、封建的搾取が存在しているというべきではないでしょうか。身分制度が存在しているのですから。

身分制度が完全に実行されていれば、失業者はいなくなるはずです。

マルクス主義経済学者の「理論」は、唐の玄宗の治世下では完全雇用だったという類のものではないでしょうか。

楊貴妃や宦官は労働者として玄宗に雇用されていたのでしょうかね。

現実の古代日本社会では、律令制度の枠組みに入っていない人がいくらでもいたはずですが。唐でもそうでしょう。

毛沢東の時代の中国でも、少数でしょうがそういう人はいたでしょう。山岳地帯の少数民族の生活までは、完全に管理できなかったでしょう。









2013年9月22日日曜日

「異邦人」韓国語訳掲載の刊行50周年記念論文と英語版への序文より思う( L'Etranger, 김화영 옮김, 민음사, 로제 키오論考)

Maman died today. Or yesterday, maybe, I don't know. 오늘 엄마가 죽었다. 아니 어쩌면 어제.



Albert Camus「異邦人」(The Stranger, Translated by Matthew Ward, Vintage Books)の冒頭文ですが、Matthew Wardの英語訳では上記になっています。

My mother died todayという英訳もあるようです。題名も、The Outsiderという訳もあります。

キム・ファヨン高麗大学名誉教授による韓国語訳では冒頭文は上記になっています。

I can't be sure(私にはわからない), Idon't knowの部分が韓国語訳されていないように思えますが、「아니」で良いのでしょう。

mamanを、어머니(オモニ)ではなく、엄마(オンマ)と翻訳しています。韓国人の語感にはこちらが合うのでしょう。英語ではMamanになっています。

日本語訳では、ママンという片仮名になっていました。ママンという語の響きは、遥かなる異国を感じさせます。

韓国語訳には、Camusによる英語版への序文が掲載されています。

韓国語訳には、「『異邦人』を再び読む 『異邦人』50周年記念論文」と題して、ロジェ・キーヨ(로제 키요)という方の論考が掲載されています(p145-162)。

50周年ですから、1992年に執筆されています。おそらく著名な方なのでしょう。原文は英文か仏文なのでしょう。英語版序文とこの論考を読んで思ったことを書き留めておきます。



ムルソー(Meursault)は嘘を拒否する-実際にあること以外のこと、自分が感じている以上のことを言うのは嘘-




英語版への序文でCamusはムルソー(Meursault)について、嘘を拒否する人物であると述べています。

嘘とは、ありもしないことをいうというだけでなく、実際にあること以外のこと、自分が感じている以上のことを言うことのです。

実際の私たちは、その程度のことなら日常的に行っています。さほど感謝してもいないのに有難うと礼をいい、悲しくもないのに悲しそうな表情をつくったりします。

世間を渡り歩いていくためには、その程度のことはどうしようもありません。ムルソーは世渡りを徹底的に拒否しているのです。

ではムルソー(Meursault)が求めているもの、愛するものは何か。

アルジェの焼けるような日差し、太陽です。永遠普遍の太陽こそ、絶対的な真実をあらわしているのではないでしょうか。

ムルソー(Meursault)は太陽、絶対的な真実を渇望しているのです。真実を徹底して追求したがために、世間の人々から糾弾されて死刑を宣告されてしまったとも言えます。

裁判長から犯行の動機をきかれたとき、ムルソー(Meursault)は自分の滑稽さを承知しつつ、「それは太陽のせいだ」と答えます(新潮文庫p107)。

英訳では次になっています(p103)。I blurted out that it was because of the sun.

「それは太陽のせいだ」とは滑稽ですが、アルジェリアの焼けるような日差しがムルソー(Meursault)に正常な判断力を失わせていたという言い方であるなら、首肯できるのではないでしょうか。

匕首を持ったアラブ人が恐ろしかった。5発も打つ必要がなかったのに、極度の緊張のあまり打ってしまったという程度の嘘をムルソー(Meursault)には言えないのです。

「それは太陽のせいだ」とは事実を正直に告白しているだけです。


Camusは人民裁判(モスクワ裁判など)を裁判している




「異邦人」が刊行されたのは1942年6月です。ロジェ・キーヨ論考によれば、この時代は「裁判の時代」でした(前掲著 p161)。

モスクワ裁判というスターリン統治下のソ連での裁判や、ナチス・ドイツ統治下の裁判を、Camusはムルソーの裁判を通して「裁判」しています。

人間の世界では、そもそも裁判自体が不可能であるとロジェ・キーヨ論考は述べています。裁判をするなら必然的に、外観だけを見て判断することになるからです。

正義こそ疑わしいという考え方は、福音書の「他人を裁くな」という教えに通じるものがあります。



キリストは石を投げられて死んでいった。人々はキリストが死んだとき拍手をし、顔に唾を吐いた




イエス・キリストの死に方について、ロジェ・キーヨ論考はこのように述べています(p162)。


真実の内心を正直に述べたがために死刑を執行されることになったムルソー(Meursault)こそ、「我々にふさわしいただひとりのキリスト」(p161)なのかもしれません。

死刑を前にしてのムルソーの最期の望みは、「処刑の日に大勢の見物人が集まり、憎悪の叫びをあげて私を迎えることだけ」です。

Camusは、イエス・キリストの死に方を想定していたのでしょう。

社会で生き抜いていくためには、嘘や方便が必要であるなら、ムルソーは人間存在の罪を背負って死んだと言えるのかもしれません。

ムルソー(Meursault)のような人間は現実にはありえないでしょう。

しかし空洞のような心をもちつつも、真実を渇望し虚偽を徹底的に拒否する人間像を観察することにより、嘘と方便にまみれた私たちの内心を見つめ直すことができるのでしょう。


Camusによる英訳への序文の上記部分と、「異邦人」の最後の部分の英訳を下記に記しておきます。



私の処刑の日に大勢の見物人が集まり、憎悪の叫びをあげて、私を迎えることだけだった




To lie is not only to say what isn't true. It is also and above all, to say more than is true, and as far as the human heart is concerned, to express more than one feels.

This is what we all do, every day, to simplify life.


すべてが終わって、私がより孤独でないことを感じるために、この私に残された望みといっては、私の処刑の日に大勢の見物人が集まり、憎悪の叫びをあげて、私を迎えることだけだった(新潮文庫p127)。

For everything to be consummated, for me to feel less alone, I had only to wish that there be a large crowd of spectators the day of my execution and that they greet me with cries of hate.





2013年9月17日火曜日

きょう、ママンが死んだ。もしかすると、昨日かも知れないが、私にはわからない-カミュ(Albert Camus)「異邦人」(新潮文庫)より思う-

空洞の心を持つ男、ムルソー



やりきれない虚しさ、虚無感(nihilism)にとらわれてしまった経験は、誰しもあるでしょう。

自分が精魂を傾けて実現しようとしていたことが、ふとしたきっかけから無と化してしまった。一体、自分のこれまでは何だったのか。

そんなことを手がけたこと自体が間違いだったのか。もっと別の路があったのではないか。

この路を選択したのはあのことがきっかけだったが、些細なことで間違った選択をしてしまったのかもしれない...

いろいろ思案していくと、際限がないものです。やり直していくしかないのですが、そのときには取り返しのつかない失敗をしてしまったと思えているかもしれません。

絶望に陥らないことがとても大事だと思いますが、そもそも人は、生きるに値するのか。この問いかけは厳しいものです。

簡単にYesと答えるようでは、何かの失敗により途方もない虚無感に陥ってしまうかもしれません。

Albert Camusの傑作「異邦人」のメッセージ(message)のひとつは、心の深淵に潜む虚無感を見つめ、各自がそれを克服していくことではないでしょうか。

哲学用語では不条理(absuridity)とは、人間存在のどうしようもない不安定性、頼りなさを示しているということだったかと思いますが、私は詳しくありません。

「異邦人」の主人公ムルソーは母親の死にすら、さしたる感情の揺れを持たない男です。アルジェから80キロの、マランゴにある養老院で母親は亡くなりました。

上述の「異邦人」の冒頭文は、空洞の心を持つ男、ムルソーをよく表現しています。



私は深くママンを愛していたが、しかし、それは何ものも意味していない。健康なひとは誰でも、多少とも、愛する者の死を期待するものだ(p68)。



小説の舞台は、灼熱の太陽のアルジェリアです。あらすじはあまりにも有名なので、私が思ったこと、感じたことを書き留めておきます。

ムルソーは普通の意味では、母親や恋人に対する愛情を持っていないのでしょう。

マリイからの、「自分と結婚したいか」という問いに対しムルソーは「それはどっちでもいいことだが、マリイの方でそう望むなら、結婚してもいい」と答えます(p45)。

上述のようにママンへの愛は何ものも意味していない、とムルソーは述べています(p68)。

公判で検事は「あの男には魂というものはひとかけらもない、人間らしいものは何ひとつない、人間の心を守る道徳原理は一つとしてあの男には受けいれられなかった」と述べます(p105)。

ムルソーには、普通の人間なら持つであろう肉親や恋人への愛情、友への友情が欠けていることは明らかでしょう。

健康なひとは誰でも、多少とも愛する者の死を期待するものなのでしょうか。

愛する者が長生きすることを願うのは、病弱で健康を害しているひとである、という言い方なら、頷けます。元の文章を言い換えただけのつもりです。

カミュは空洞のような心を持つ人物を描き出すことにより、人間らしさとは何かということを読者に問いかけているのではないでしょうか。



ムルソーへの死刑求刑理由-「精神的に母を殺害した」(p105)





ムルソーがアラビア人を射殺したことは間違いありません。

しかしアラビア人が最初に匕首を抜き、ムルソーの眼を切りつけたのですから(p63)、ムルソーが拳銃で反撃しても正当防衛になりうるのでは、と思えます。

殺害の場面を見ていた第三者はいないのですが、ムルソーの眼は匕首で傷つけられていたはずです。弁護士がこれに着目し、正当防衛を主張すれば、判決はどうなったでしょうか。

ムルソーはアラビア人殺人の罪を問われたというよりはむしろ、「母殺し」の罪を負わされてしまっています。

検事は「精神的に母を殺害した男は、その父に対し自ら凶行の手を下した男と同じ意味において、人間社会から抹殺されるべきだった」(p105)と述べています。

「精神的に母を殺害した」というのは、ムルソーが母の死にさしたる感情を示さなかったということなのですが、これが死刑の求刑理由にされてしまっているのです。

この時代のフランスでは、陪審員が検察のこんな求刑理由に同意してしまえば、死刑判決が確定してしまったのでしょうか。これでは、罪刑法定主義ではありません。

まさに人民裁判ですね。


他のひとたちもまた、いつか処刑されるだろう。君もまた、処刑されるだろう(p120)




Camusは、絶望的な状況におかれても、人には希望を見出しうる特権があると言いたいのでしょう。

人は些細な理由あるいは偶然で、突発的な死に方を余儀なくされうるのです。そんなとき、誰しも自分の人生にどんな意味があったのだろうと虚無感に浸ってしまうことでしょう。

特赦請願をしても却下されるであろうことを悟ったムルソーは、死ぬときのことを、いつとか、いかにしてとかいうのは、意味がないと考えます(p118)。

ムルソーは自分の最期について、次のように心中で叫びます。


他のひとたちもまた、いつか処刑されるだろう。君もまた処刑されるだろう。

人殺しとして告発され、その男が、母の埋葬に際して涙を流さなかったために処刑されたとしても、それは何の意味があろう(p126)。



病気で亡くなる方は、その病魔により処刑される、という解釈もできます。人は皆、いずれ処刑されるのですから、大差ないということが、「意味がない」の意味なのでしょう。


殆どの人にとって、ムルソーの死に方などどうでも良いことです。「世界の優しい無関心」(p127)とはそういうことでしょう。



これほど世界を自分に近いものと感じ、自分の兄弟のように感じると、私は、自分が幸福だったし、今もなお幸福であることを悟った(p127)




他人には全く意味がないとしても、自分の悲惨な宿命を特権として受け入れるという心境に至ることができれば、「世界の優しい無関心に心をひらいた」と言い切れるのでしょう。

ムルソーの残された望みは、処刑の日に大勢の見物人が集まり、憎悪の叫びをあげて自分を迎えることです。

そういう死に方なら、ムルソーは孤独でないことを感じることができるのです。

憎悪の叫びは、見方を変えれば、斬首台に近づいていかねばならない自分を励ましてくれる声と解釈しうるということなのでしょう。

憎悪の叫びを励ましの声とみなすことが出来れば、虚無感を克服しうるのでしょう。

自分の死を自分の価値観で解釈するという特権を、いずれは処刑される立場である人間は皆持っているのかもしれません。





























2013年9月14日土曜日

夜は、淫らさも、嫉妬心も、何一つ匿しだてしないでささやきかける―井上靖「楊貴妃伝」(講談社文庫)より思う―

天帝より統治権を委任された全人類の帝王-中華帝国皇帝-



井上靖「楊貴妃伝」(講談社文庫)は、唐の玄宗の愛妃で傾国の美女として名高い楊貴妃の物語です。

井上靖の「天平の甍」は玄宗の時代(唐の第六代皇帝。在位712-756)の話でした。日本から遣唐使が派遣されていた時代です。

唐の人口はどのくらいだったのでしょうか。長安の人口が100万人を超えたそうですから、全体では3千万人くらいはありそうですね。

中華帝国について理解するためには、皇帝とはどういう存在なのかということをおさえておくべきでしょう。

皇帝とは、その支配域が及ぶ地域のみの統治者という意味ではなく、天帝より統治権を委任された、全人類の帝王です。天命が変われば王朝は変わります。

「楊貴妃伝」(p257)にも、天帝による皇帝への委任統治論が出ています。

唐の領土はどこからどこまで、などという思考方式は当時の中国人にはなかったはずです。

地上全てが皇帝に属すべきなのです。天帝から統治を委任されているのですから。蛮族、野蛮人は無知蒙昧だからそれを理解していないという発想です。

中華帝国の王朝は、日本や新羅、吐蕃(現在のチベット、Tibet)、回紇(ウイグル、Uyghur)などの異民族の存在を承知していました。彼らは周辺に住む蛮族という位置づけになっていました。

最も、唐の王朝自体元は漢族ではなかったかもしれません。玄宗の頃には漢族化していたでしょうけれど。

自分たちは世界の中心に住む最優秀民族なのだという発想は今でも脈々と中国人に継承されています。中華思想は大変根深いものです。

中国人にとって、日本や南北朝鮮、ベトナム、モンゴル、ブータン、ミャンマー、インドネシア、フィリッピン、インドなど周辺諸国は全て、本来中国に服属すべきなのです。

そもそも蛮族ごときが軍隊を持って政府を樹立すべきではない!という発想です。

中国人にとって日本人や韓国人、ベトナム人、モンゴル人など蛮族は本来、国家を持つべきではないのです。中国と周辺諸国との領土問題は起こるべくして起きたものなのです。



56歳の玄宗が息子の愛妃楊玉環(22歳)を召した―開元28年(西暦740年)―



玄宗の時代には、吐蕃が強国で唐を脅かしていましたが、玄宗の統治期の前半は「開元の治」と呼ばれ、安定して繁栄していたと言われています。

玄宗の祖母は則天武后なのですね(同書p39)。玄宗(685-762)は数えで28歳で即位しています。楊玉環(後の楊貴妃)は、玄宗皇帝の息子、寿王の妃でした。

天帝から統治権を授与されているのですから、息子の愛妃でも自分の後宮に入れと要求できるのです。楊玉環がこれを拒否すれば、息子とともに死なねばなりません。

玄宗と楊貴妃の愛情物語については、白居易の「長恨歌」で知られています。この本の解説によると、楊貴妃一族の祖には随の創始者文帝(楊堅)がいます。名門です。

小説では楊貴妃は蜀(今の四川省)出身となっていますが、解説によると長安(現在の西安)と洛陽の間の出身です(p301)。

人の心は、史料からは判断しにくいものです。玄宗と楊貴妃の愛憎の現実は想像するしかありません。白居易の「長恨歌」も、史書というよりは芸術作品でしょう。

井上文学の魅力のひとつは、登場人物が時代の制約の下、智慧や謀を精一杯使って生き、栄え、敗れていく姿が鮮明に描かれていることではないでしょうか。


以下、小説を読んで心に残ったこと、想像したことを書き留めておきます。



脂肪のたっぷりとのった豊満な体、眼の明るく澄んだ蠱惑的な美しさ(p36)




楊玉環(楊貴妃)は豊満な体格だったようです。脂肪のたっぴりとのった豊満な体と表現されていますが、この時代は太った女性が美人とされていたのかもしれません。

蠱惑的な美しさとは、難しい表現です。蠱(こ)という漢字は、巫蠱(ふこ)という昔の中国の呪いで人を殺す術にある漢字です。

怪しげな魅力をもちつつも、澄んだ眼をした女性。豊満な体つきをした女性。女優なら誰でしょうか。日本や韓国の女優はほとんど皆、痩せていますね。

情熱的な瞳と豊満な体つきといえば、伊女優ソフィア・ローレン(Sophia Loren)を思い出します。

野心を秘めた瞳と言えば、英国女優ビビアン・リー(Vivien Leigh)を思い出しますが、豊満な体つきではないですね。


楊玉環(楊貴妃)は寝所で自分の要求を玄宗にささやきかけますが、昼間玄宗からそれについて触れられると「寝所で申し上げたことを何一つ覚えておりませぬ」と否定します(p65)。


夜は、淫らさも、欲の深さも、何一つ匿しだてしないでささやきかける小さく可愛い生きもの。

昼は必死にそうした自分のものを押しのけ、自分の内部のものと闘い、ただひたすら貞淑で、自己犠牲的であろうとする気品高く身を持している美貌の女性(p65)。



玄宗を手玉のように扱ってしまった女性ですから。男心を熟知していたことでしょう。小悪魔どころか、当時の人々にとっては大悪魔だったかもしれません。

楊玉環(楊貴妃)は徐々に地位を固めていきます。競争者の梅妃を、玄宗から取り上げて酒樽に漬けてやろうとまで思うようになります(p96)。

玄宗に召されて五年後、楊玉環は冊立されて貴妃に封ぜられます(p111)。貴妃とは皇后の下の位です(p11)。



男性でいて男性でない不気味な生きもの、高力士




楊玉環(楊貴妃)の最大の協力者は、老いた宦官高力士でしょう。宦官は男性としての機能を失っていますから、後宮にも出入りできます。

皇帝の傍にいつも仕えることができるのは、寵愛をうけている女と宦官なのです。

楊玉環(楊貴妃)は、高力士が自分の周囲で一番厄介な人物のように見えましたが、玄宗との関係が緊密であることを見抜きます(p67)。

玄宗より一歳年上の高力士は、玄宗の一部と言ってよいような存在でした(p67)。

政治について表面では口出しをしないのですが、実情を熟知している高力士の提案どおりに楊玉環(楊貴妃)が行動することによって、楊玉環(楊貴妃)の地位が強化されていったのです。

中国の王朝の執政には、宦官が隠然たる力を持っていたのではないでしょうか。宦官が策したことであっても、皇帝の勅令となれば絶対的なものになります。

いつでも皇帝の近くにいる宦官を讒言できる宰相などいたでしょうか。宦官は皇帝にいつでも高級官吏や宰相についての悪い噂をそれとなくほのめかすことができたでしょう。

皇帝は子供の頃から宦官にかしずかれて育ったのですから、腹心の宦官もいたことでしょう。

しかし、腹心の宦官が大唐帝国の存続のために常に正しい判断をするとは限りません。

楊玉環(楊貴妃)の一族を次から次へと高位に採用したのは高力士の差金ですが、これは人々の反発を買っていたことでしょう。

高力士は節度使安禄山を絶対的に信頼し重用することを楊玉環(楊貴妃)に主張してきましたが、これは完全に裏目に出てしまいます。

王宮から出たことのない宦官高力士は、軍事情勢について思考することができなかったのでしょう。これは楊玉環(楊貴妃)も同じです。



大きな運命には逆らえない-楊貴妃に子供はいなかったのか-




楊玉環(楊貴妃)は38歳で悲惨な最期を遂げます。悲惨な最期になることは、玄宗に召されたときに定められていたのではないでしょうか。

競争者である梅妃を追い落とし、玄宗の寵愛を受けることができなければ、梅妃により葬られていたでしょう。酒樽に漬けられていたかもしれません。

安禄山について見通しを誤ったのは高力士です。高力士と対立すれば、いずれは玄宗の寵愛を受けられなくなって言ったでしょう。

楊玉環(楊貴妃)は高力士の言を受入れ、玄宗に対して安禄山をかばいつづけました(p224)。

玄宗の寿命がつき、太子が皇位につけば直ちに楊玉環(楊貴妃)は処刑されてしまったのではないでしょうか。

中華帝国の権力抗争に関わったものが、天寿を全うすることは極めて困難なのでしょう。自分が天寿を全うできても、自分の死後は一族が皆殺しにされかねません。

楊貴妃に子供はいなかったのでしょうか。22歳の若さで寵愛を受けていれば、普通は何人もの子宝に恵まれそうなものです。

そうだとしたら、これも運命だったのかもしれません。




















2013年9月11日水曜日

世俗的な野心は鉄の首枷―遠藤周作「鉄の首枷 小西行長伝」(中公文庫)より思う―

あるべき自分と生きるために選択した自分の姿




現代企業社会は厳しい競争社会です。各企業はそれぞれの市場で競合していますから、気を抜けば市場を奪われてしまい、企業存亡の危機に直面しかねません。

勤めている企業が倒産してしまえば、生活の糧を得られなくなってしまいます。またその企業の中で出世できなければ、リストラ、早期解雇の対象になってしまうかもしれません。

そんな中で保身をはかるためには、処世術を駆使せねばならないものです。

嫌だと思いつつも、多少なりとも出世するためには上司へのおべっか使いや付和雷同をせねばならない。そういう経験は誰にでもあるものでしょう。

筋を曲げることをあくまでも拒否して生きようとすれば、世俗的な意味では身の破滅となってしまうかもしれません。

出世のためには、競争者の欠点を周囲に言いふらし、貶めるようにせねばならないかもしれません。それが裏目に出る場合もありえますが。

自分にとっての正義、あるべき自分と、生きるために選択した自分との矛盾。これは現代人だけでなく、戦国時代の切支丹武将も直面していました。

基督教に接し、他者への無償の愛こそ大事なのだという考え方に接した戦国の切支丹武将の場合、あるべき自分と現実の自分との矛盾は大きかったでしょう。

生きていくためには、敵の首をとっていくさに勝たねばならない時代でしたから。生存競争の厳しさは現代人と比較になりません。

遠藤周作「鉄の首枷 小西行長伝」は(中公文庫)は、戦国後期の切支丹大名小西行長の内心の動きを掘り下げていきます。



神は豊臣秀吉による高山右近追放を踏み台にして、小西行長におのれの内面を見るよう仕向けた




豊臣秀吉に基督教への信仰を取るか、領地を取るかと問いただされた高山右近は、迷わず信仰をとりました。

小西行長には、高山右近のような烈しい生き方はできませんでした。

高山右近の追放をきっかけに、小西行長は真剣に神について考えるようになったと遠藤周作「鉄の首枷」(中公文庫)は説きます。

遠藤によれば、小西行長は子供の頃洗礼を受けていましたが強い信者ではありませんでした。

神は高山右近追放を踏み台にして、小西行長におのれの内面を見るよう仕向けたと遠藤は考えます(p89)。

小西行長はこのあと、面従腹背の生き方を選択するようになります(同書p95)。



小西行長は豊臣秀吉の大陸侵攻作戦の無謀さを悟っていた





小西行長は堺の商人の息子ですから、周囲に朝鮮半島や明との交易ないしは往来を経験した人物がいたのではないでしょうか。

小西行長は、中国大陸の広さを知っていたのでしょう。当時は地球儀など殆ど入手不可能でしょうが、世界地図のようなものは南蛮船を通じて手に入ったかもしれません。

切支丹の小西行長は、宣教師からも中国大陸の大きさを知り得たでしょう。豊臣秀吉には、そのような情報を率直に伝えるような人物はいなかったのではないでしょうか。

豊臣秀吉は心中にどんな世界地図を描いていたのでしょうか。明の大きさなど、わからなかったのではないでしょうか。

対馬の領主、宗義智も豊臣秀吉の作戦の無謀さを十分に悟っていたでしょう。対馬は朝鮮半島と長年交易していましたから。

小西行長は娘を宗義智と結婚させ、秀吉の朝鮮出兵を食いとめる同盟関係をつくります(p115-116)。

秀吉の命に従って戦うとみせかけながらひそかに和平工作を行うこと。加藤清正と助け合うようなふりをして実は彼とは別行動をとること(p130)。

小西行長はこのような二重生活をしていたということですが、説得力があります。



小西行長の野心とその挫折




小西行長はなぜ李氏朝鮮、明との和平を望んだのでしょうか。小西行長は太閤秀吉死後の豊臣政権で大きな力を持つのは海外貿易の担い手であると感じていました(p176)。

小西行長の野心は、戦争や征服でなく戦国時代の終わりと共にはじまる新しい時代に向けられていました(p177)。

小西行長は太閤死後の豊臣政権で、明と李氏朝鮮に支持された外務大臣、通産大臣になろうとしていました(p223)。

小西はそのために講和が成立するよう、策をこらしたのですが土壇場で決裂してしまいます。

野心が絶たれた後、小西行長は太閤秀吉と加藤清正に復讐の気持ちを持つようになったと遠藤は考えます(p223)。




小西行長は太閤秀吉の死を待ち望んでいた(p233)―疲れきった小西行長―





太閤秀吉が死ななければ、朝鮮から撤退することはできません。戦意を喪失していた小西行長は太閤の死を待ち望んでいました(p233)。

太閤秀吉は慶長3年(1598年)8月18日に亡くなります。朝鮮から撤退していく小西行長には、虚しさしかなかったでしょう。

朝鮮から九州の土を踏んだとき、行長の心は肉体とともに疲れきっていました(p241)。

二年後の関ヶ原の戦いに敗れ、逃げた後小西行長は進んで縛につきます(p256)。小西行長は大津にあった徳川家康の陣に、鉄の首枷をはめられて留め置かれました(p258)。

大阪と堺で、市中ひきまわしにさらされたときにも、小西行長の首には鉄枷がはめられていました(p261)。



太閤秀吉も運命には逆らえなかった




時代の制約、大きな運命には誰しも逆らえないものです。小西行長は太閤秀吉に引き立てられたからこそ大名となれたのです。太閤秀吉に正面から反抗することなどできようもありません。

晩年に強大な権力をふるった太閤秀吉でさえ、最期は愛児秀頼のことが気がかりでどうしようもありませんでした。

太閤秀吉には、自分の死後徳川家康が権力を掌握していくことが見えていたはずです。秀頼が天寿を全うできる可能性は低いと予想していたのではないでしょうか。

太閤に後継者がいないからこそ、並みいる戦国武将は太閤の死を待って面従腹背の姿勢を取り続けたのではないでしょうか。豊臣家の天下は長くないと皆が予想していたいうことです。

それを太閤秀吉が見抜けなかったとは思えません。

太閤秀吉に成年になった後継者がいれば、面従腹背でなく諸大名は豊臣家に臣服していたかもしれません。「賤ヶ岳のたたかい」あたりで名を上げるような長男がいれば、随分違ったはずです。

北政所の息子ということです。その長男が、文禄・慶長の役でも中心になっていたかもしれません。

加藤清正や小西行長と同世代の長男がいれば、徳川家康でさえ臣服させることができたかもしれませんね。徳川家康は石橋を叩いて渡る人ですから、冒険はしなかったでしょう。

北政所の息子がいれば、その子供、太閤の孫もいたでしょう。太閤の孫は徳川家康の娘と縁組したかもしれません。


太閤が亡くなれば、豊臣家は形だけの存在となる。そこで再び天下をめぐる争いが起きる。天機が塾するそのときまで力を蓄えよう。徳川家康は当然、そう目論んでいたでしょう。

毛利輝元や宇喜多秀家、上杉景勝、あるいは伊達政宗にもそのくらいの読みは当然あったはずです。有力な戦国大名が、太閤秀吉に心から臣服していたとは思えません。


絶大な権力を謳歌した太閤秀吉といえども、しかるべき年齢で子供に恵まれなかったという運命には逆らいようもありませんでした。



鉄の首枷-現世での野望と野心-




面従腹背は小西行長だけではなかったでしょうが、普通の戦国武将は基督教の世界観、価値観を知りません。

従って自分の野望の他に、自分が実現したい心中の願いのようなものは切支丹でない戦国武将にはあまりなかったでしょう。

世俗的な野心と、良心の矛盾に苦しむというような心中の苦しみは少なかったでしょう。無常観は持っていたと思われますが。

イエスが罪深い人間のために十字架を背負い、苦しみながら死んだという話を聞きつつも、保身のためにいくさを重ねねばならない戦国武将の心中の苦しみは相当なものがあったでしょう。

小西行長が最期にはめられていた鉄の首枷には、戦国武将なら誰でも持っていた世俗的な野心があったと遠藤は考えます(p259)。

京都の六条河原で斬首される直前には、鉄の首枷は外されたでしょうが、そのときは現世での野望と野心を捨てるときでした。



現世においては、すべては変転きわまりなく、恒常なるものは何一つ見当たらぬ




斬首の前に、小西行長は肌身からはなさなかったキリストと聖母の絵を両手で捧げ、三度頭上に頂き「晴朗なる顔をもってしばらく天上へ両眼を見据えてから御絵を眺め」介錯人に首を差し出したとあります(p262)。


小西行長は妻子にあてた遺書で、身にふりかかった不運は神の与えた恩恵に由来すると考え、主に限りない感謝を捧げています。妻子に今後は神に仕えることを述べ、さらに次を言い渡します。


「現世においては、すべては変転きわまりなく、恒常なるものは何一つ見当たらぬからである」(p263)


遠藤は小西行長のこの言葉を、神のみが頼るべきただ一つの存在であることを妻子に語ったものと考えます(p263)。


遠藤によれば、神は野望という首枷を使って、小西行長を最期に救いの道に至らせました(p264)。



神は我々の人生のすべてを、我々の人生の善きことも悪も、悦びも挫折をも利用して、最後には救いの道に至らせたもう(p264)。



私には、神なるものがこのような働きを実際にしてくださるのかどうかわかりません。しかし、このような考え方があれば、絶望せずに最期まで生き抜くことができるのではないでしょうか。

大きな運命には、誰も逆らえないものなのでしょう。小西行長は勿論、太閤秀吉ですらそうだったのですから。

京都の六条河原で小西行長の最期を見物していた人々の心に、切支丹小西行長は死に行く姿で消せぬ痕跡を残したことでしょう。






















2013年9月7日土曜日

ソ連の社会主義建設の事業をおしすすめたスターリン―上田耕一郎「先進国革命の理論」(大月書店1972年刊行)より思う―

社会主義は国際体制を形づくった。このことによって、マルクス・レーニン主義の真理性は既に最終的に実践によって証明された



心の秘密と言うべきものは誰にもあるものでしょう。それは、若いころの失敗や躓きでしかなく、他人からすればどうでも良いようなことかもしれません。

好きな人に心の秘密らしきものがあることを感じ取ったとしましょう。そのとき、愛情があるならば、何も言わずにそっとしておくべきなのかもしれません。

配偶者や恋人の過去について、仔細に問いただすことは適切でないかもしれませんね。これは難しい問題でしょうけれど。

不破哲三や志位和夫にとって、かつて日本共産党がスターリンを高く評価していたこと、ソ連や中国、東欧、北朝鮮やベトナム、キューバなども社会主義国とみなしていたことなどは「心の秘密」なのかもしれません。

しかしこの程度のことは日本共産党の少し前の文献を図書館などで多少調べれば、すぐに明らかになってしまうのですから、個人のプライバシーなどではありえません。

そんなことを「心の秘密」にしても何にもなりません。

不破哲三や志位和夫の最近の文献では、あたかも日本共産党が一貫してソ連を覇権主義で人間抑圧社会などと批判し対決してきたかのような記述になっています。

中国覇権主義という語は、最近の日本共産党の文献では死語になりましたね。

かつて「赤旗」記者が中国人民軍により射殺されているのですが、そんなことをいつまでも持ち出しても、世界の共産主義運動の前進には無益だと不破哲三や志位和夫は判断しているのでしょう。

過ぎたことは水に流そう、ということなのでしょう。共産主義運動の前進のためには、「赤旗」記者の生命と人権など羽毛より軽いという毛沢東流の判断なのかもしれません。


今回は宮本顕治の昔の論文などではなく、上田耕一郎の著作「先進国革命の理論」(大月書店1972年刊行)を紹介します。

1980年代に、日本共産党や民主青年同盟の活動に一生懸命参加した方なら、この著作を覚えているはずです。現在40代半ば以上の方々でしょうか。

この著作には、「マルクス・レーニン・スターリン主義」などという宮本顕治流の用語はありません。もう少し、回りくどい表現で上田耕一郎はスターリンを礼賛しています。

この文献から、以下抜粋して引用します。

マルクス・レーニン主義の真理性は、すでに最終的に実践によって証明された



「第一次世界大戦中における偉大な十月革命の勝利、そして第二次世界大戦後、東ヨーロッパとアジア、さらにキューバでの社会主義革命の勝利によって、社会主義は国際体制を形づくった。

このことによって、マルクス・レーニン主義の真理性は、すでに最終的に実践によって証明された。

どんな反共理論もこの事実をうちけすことはできない」(同書p6)


上田耕一郎の論法によれば、ソ連と東欧社会主義の崩壊により、マルクス・レーニン主義の欺瞞性は、すでに最終的に実践によって証明されたことになりそうですね。

どんな反共産主義理論もこの事実をうちけすことができないのではないですか。

若い日本共産党員の皆さんはどうお考えでしょうか。

中国、ベトナム、キューバそして北朝鮮が社会主義国際体制として存続しているから、科学的社会主義の真理性は、最終的に実践によって証明されたとでも考えているのでしょうかね。

スターリンの定式化にある若干の問題点を解明することが、今日必要となっている(p13)


「社会主義の完全な、かつ最終的な勝利のためには、一国における社会主義の勝利だけでなく、他のいくつかの国における社会主義革命の勝利が必要である。

スターリンのこれらの主張が、基本的に正しく適切な展望をもっており、ソ連における社会主義建設の前進にとって大きな指導的役割をはたしたことは、今日きわめて明瞭である。

もしもトロツキーの主張が勝利していたら、二度にわたる五カ年計画の成功もなく、ドイツ・ファシズムにたいする「大祖国戦争」の歴史的勝利も危うかったかもしれない。

この意味では、あの資本主義的包囲のなかで、一国における社会主義革命と社会主義建設の勝利の可能性にさらに明確な展望をあたえ、世界の革命運動との連対と相互支持のもとで、

ソ連の社会主義建設の事業をおしすすめたスターリンの業績は、十分に評価される必要があることはいうまもない。

これらのことの確認を前提として、スターリンの定式化にある若干の問題点を解明することが、今日必要となっている」(p13)


聴濤弘は、ソ連の体制に不満をもつ人々は殺されて当然と考えていたのか



上田耕一郎のこの著作をどう読んでも「ソ連は人間抑圧社会だ。社会主義の反対物だ」などという認識はありません。

宮本顕治や不破哲三の昔の論考と同様に、スターリンのソ連こそ社会主義そのものだという主張です。

この著作が出版された昭和47年(1972年)には、ソ連史の本を多少読めばスターリンによる大量殺戮と政治犯収容所の存在は明らかでした。

上田耕一郎がソ連史の文献を読んでいたかどうかわかりませんが、この人は社会主義と殺人の関係について一体どう考えていたのでしょうか。

共産主義運動の前進のためには、「赤旗」記者の生命と人権など羽毛より軽くて当然という判断と同様に、ソ連の体制に不満をもつ人々は殺されて当然という程度の認識だったのかもしれません。

ブハーリン(Bukharin, N. I.)は公開裁判で死刑を宣告され、銃殺されたではないですか。聴濤弘ならよくご存知でしょう。

「先進国革命の理論」の最後にある著者紹介によれば、上田耕一郎は1951年東京大学経済学部卒業です。宮本顕治の後輩です。

共産主義運動の前進のためにはソ連の体制に不満をもつ人々は殺されて当然という認識だったのなら、学歴って一体何なんだという気すらしてきてしまいます。

ソ連問題の専門家という聴濤弘に、説明をお願いしたいものです。


北朝鮮では「政治犯」を公開で銃殺する―稀に火刑―



今の北朝鮮でも、幹部が時折銃殺されているようです。金正恩の愛人が銃殺されたと韓国紙「朝鮮日報」が少し前に報道しました。

愛人と目されている方の映像を、私は朝鮮日報のサイトで見ました。金正雲と若奥さんの少し後ろで、拍手をしている姿が出ていました。

私にはその方が金正恩の愛人かどうかわかりませんが、可愛らしい女性です。本当に銃殺されてしまったのでしょうか。

真実なら一体、何の罪でこんな方が銃殺されねばならないのでしょうか。「政治犯」の方々は銃殺される前、心底恐ろしい思いをしたことでしょうね。

在日本朝鮮人総連合会の皆さんなら、北朝鮮で「政治犯」が銃殺、公開処刑される場合があることをよくご存知のはずです。

脱北者によると、稀に政治犯が火炙りにされてしまうこともあるそうです。朝鮮語では火刑というそうです。裁判と言えるようなものはないそうです。

体制に逆らったらこうなるぞ、という調子で、住民に恐怖感を与えるために公開処刑をやるのです。

およそ400年前、江戸時代の日本では、切支丹や宣教師が火刑に処されたことがありました。この方々にも、裁判などありませんでした。

400年前ですからね。当時の世界にはどこにも、裁判といえるようなものなどなかったでしょう。欧州では「魔女狩り」が行われていました。

今の北朝鮮は、江戸時代の日本より酷い人権抑圧をやっているのではないですか。毛沢東の時代の中国も同様です。

野蛮なことこのうえないテロ国家北朝鮮を、未だに礼賛している在日本朝鮮人総連合会。日本共産党も、中国や北朝鮮の人権抑圧に目を背けているという点では同じです。

これは現在進行中のことなのですから、「心の秘密」云々などを言っている場合ではないように思えます(文中敬称略)。



















2013年9月2日月曜日

朝鮮民主主義人民共和国は、配給その他すべての点で万全の受入体制を用意している―宮本顕治の「前衛」論考(昭和34年5月)より思う―

宮本顕治による北朝鮮礼賛の史実を知らない若い日本共産党員




昔の失敗を、いろいろほじくり出されるのは嫌なものです。

お前は何年前、ああ言ったこう言ったというような話を何度もされると、そんな人とは一切付き合いたくなくなってしまいます。

過ぎたことは水に流す。友人関係を継続させるためには、これが大事なのでしょう。

しかし、政治家や政党が歴史の中で果たした役割を評価するためには、何十年前の言論、論考だろうと持ち出すしかありません。

左翼は自分たちに都合の良いように史実を捏造しますから。

吉良よし子参議院議員ら、現在の若い日本共産党員は宮本顕治による北朝鮮礼賛の史実など、一切知らないことでしょう。

日本共産党中央委員会による「日本共産党の八十年 1922〜2002」(2003年刊行)や、不破哲三「日本共産党の歴史と綱領を語る」(新日本出版社2000年刊行)などには、日本共産党が北朝鮮を礼賛した史実など一切記載されていませんから。

昭和30年まで、日本共産党員の中には在日朝鮮人がいたことすら、これらの本には記されていません。

戦後のある時期まで、在日朝鮮人の党員が日本共産党の中で最も戦闘的だったはずです。宮本顕治が理論的に正当化した、日本共産党の武装闘争の時代です。


以下、宮本顕治「ソ連邦共産党第二十一回臨時大会の意義と兄弟諸党との連帯の強化について」(「前衛」1959年5月号掲載論考)から、北朝鮮に関する記述を抜粋します。

この論文が発表された頃、日本共産党は在日朝鮮人を北朝鮮に帰国させることを在日本朝鮮人総連合会とともに、日本政府に強く要求していました。

この論文によれば、宮本顕治ら日本共産党代表団はソ連邦共産党第二十一回臨時大会に出席し、チェコスロバキア共和国、中華人民共和国、朝鮮民主主義人民共和国を訪問しました。

日本共産党代表団は平北朝鮮を昭和34年(1959年)2月26日から28日まで訪問し、金日成、朝鮮労働党の指導部と会談しました。

宮本顕治は当時、51歳くらいです。政治家として油がのりきった、絶頂期にあったのではないでしょうか。

論文の高揚した論調から、宮本顕治の自信満々ぶりがうかがえます。宮本顕治は天下をとったような気分になっていたのでしょう。

この頃、日本共産党だけでなく日本の左翼知識層のあいだでは、朝鮮戦争は米国による北朝鮮への侵略から始まったということが当然視されていました。



朝鮮民主主義人民共和国は、配給その他すべての点で万全の受入体制を用意している




「朝鮮労働党と朝鮮人民は、アメリカ帝国主義者が朝鮮にたいする侵略戦争を開始した一九五〇年いらい、日本共産党と日本人民が、このアメリカ帝国主義の侵略に反対してたたかったことを、ふかい友情をもって記憶している。

在日朝鮮人の帰国運動についても、両党の見解は完全に一致している。祖国に帰国することを欲するものをその祖国に帰すということは、基本的人権の初歩的な問題である。

内外の広範な民主的世論のまえで、岸内閣も帰国について「了解」を発表せざるを得なかった。

しかも、朝鮮民主主義人民共和国は、配給その他すべての点で万全の受入体制を用意しているのである」



朝鮮戦争は北朝鮮による韓国への侵略から始まりました。

日本共産党と日本人民とやらの「アメリカ帝国主義の侵略に反対するたたかい」は北朝鮮による侵略の史実を隠蔽する「たたかい」だったのです。

「たたかい」の中には、日本共産党指導下の在日朝鮮人による武装闘争もありました。朝鮮戦争に米軍が参戦しにくくなるよう、後方攪乱を索したのです。

朝鮮戦争に中国人民軍が参戦していますが、これこそ大韓民国への侵略そのものです。

中国の参戦がなければ、とっくの昔に韓国により朝鮮半島は統一されていたでしょう。

「配給その他すべての点で万全の受入体制を用意している」など、誇大広告そのものでした。

宮本顕治らより1年半くらい後に訪朝した関貴星「楽園の夢破れて」(全貌社1962年刊行。亜希書房より1997年再刊行。以下、ページ数は再刊行版による)は、北朝鮮では食糧ばかりでなく衣、住、あらゆる生活必需品が底をついていることを指摘しています(p58)。



行方不明になった帰国者〜「山へ行く」(산에 간다)〜




関貴星は、帰国者の中で「党の命令で学習に行く」という理由で家に帰らなくなってしまった人がいることを指摘しています(p45-47)。

在日本朝鮮人総連合会の皆さんなら、「学習に行く」ということが何を意味するか、よくご存知ですね。、「山へ行く」(산에 간다)ですね。

北朝鮮の体制に何らかの不満を漏らした人は、山奥に送られるか、どこかに監禁されてしまうのです。監禁されて、拷問される場合もあります。「スパイだ」という疑いです。

帰国事業が行われていた頃から、北朝鮮は徹底的な人権抑圧体制だったのです。

管理所という、政治犯収容所が帰国事業の頃、どの程度整備されていたかはよくわかっていません。この頃は国家安全保衛部も未確立でした。

在日本朝鮮人総連合会の皆さんの中には、「山へ行く」(산에 간다)という隠語があります。帰国者が行方不明になったことを意味します。

もう少し、宮本論文を抜粋しておきます。



李承晩一味の干渉といいがかり―日本共産党は大韓民国を国家と認めていなかった―



「しかし、岸内閣は理不尽な李承晩一味の干渉といいがかりに圧迫されて、第三者に帰国意志の再審査をゆだねるという自主性の正しくない処理方針を出し、単純明確な問題をことさらに複雑化させて、問題の解決をひきのばす結果をつくっている。

(中略)


アメリカ帝国主義のあやつる李承晩の特別に理不尽な横車に圧迫されて、在日朝鮮人の帰国にかぎり、岸内閣が問題を複雑化させているのは、まったく不当である」



岸内閣とは、現在の安倍総理の祖父、岸信介内閣のことです。李承晩一味という表現も、聴濤弘のような老共産党員には懐かしい響きでしょう。

この頃の日本共産党は、大韓民国を国家として認めていなかったのです。米国の傀儡というレッテルを貼っていました。

日本共産党と在日本朝鮮人総連合会は、日本政府が大韓民国と条約を締結するための会談開催にすら、全力で反対していました。米国の傀儡など、言いがかりそのものです。

李承晩政権は、北朝鮮による凄惨な人権抑圧の実態を熟知していました。朝鮮戦争休戦のほんの数年後ですからね。

北朝鮮は朝鮮戦争時、普通の韓国人を約8万人も拉致して北に連行したのです。北朝鮮が酷いところであるということは、当時の韓国人にとって常識だったのです。

北朝鮮に帰国するなど、当時の韓国人から見れば奇想天外の愚行だったでしょう。

「李承晩一味の干渉と言いがかり」の中身がわかりませんが、李承晩政権は北朝鮮の凄惨な真実を日本政府に伝えてくれていたのかもしれません。

「李承晩一味の干渉と言いがかり」とやらを、在日朝鮮人は傾聴すべきだったのではないでしょうか。ごく少数だったかもしれませんが、傾聴した人もいたことでしょう。

宮本顕治論考は、延々と北朝鮮礼賛をしています。もう少し抜粋します。



すばらしい速度で復興から新しい社会主義建設の発展にむかってまい進




「朝鮮民主主義人民共和国は、アメリカ帝国主義の侵略戦争によって国土に大きな破壊と犠牲をうけたにかかわらず、朝鮮労働党の指導のもとに団結をつよめ、「千里の駒」運動の標語が示すように、すばらしい速度で復興から新しい社会主義建設の発展にむかってまい進しつつある。


すでに農村の協同組合化は完成している。アメリカ軍の爆撃で九割の家屋を破壊された平壌市には、日に夜をついで新しい建設がすすみ、短時日のあいだにその成果がうまれつつある」



宮本顕治は北朝鮮当局の宣伝を鵜呑みにして日本人と在日朝鮮人に普及しています。「口からでまかせ」とはこういう言論のことです。

「千里の駒」運動とやらの実態は、国民が乏しい配給の下、過酷な重労働をするというだけのことです。

米国の参戦がなければ北朝鮮が朝鮮半島を統一し、韓国人も金日成を礼賛せざるを得なくなっていたでしょう。政治犯収容所がソウル郊外に作られたかもしれません。

「唯一思想体系」とやらが、ソウルにも成立してしまい、ソウル市民も金日成一族への不満を一切言えなくなるなど悪夢のような話ですが、そうなったでしょう。

「全社会の金日成主義化」がそれです。



中国と左翼の宣伝に韓国が屈服しつつある




中国義勇軍とやらが掲げる「プロレタリア国際主義」とやらは、韓国人虐殺を正当化する主義なのです。

左翼はいつの時代でも、どこの国でも共産主義国を擁護し、共産主義国の蛮行、侵略を「平和と民主主義を守る」などと宣伝します。


現在の韓国政府は中国に朝鮮戦争の謝罪と償いを求めていません。在日韓国・朝鮮人にもそういう世論はないようですね。

明は李氏朝鮮の宗主国でした。元は高麗、唐は新羅の宗主国です。李氏朝鮮は清にも、屈従していたのかもしれません。

韓国人が中国を批判するのは難しいようですね。韓国の保守派の中にも、中国批判をする人はあまりいないです。

大韓民国を滅亡させようとしているのは、北朝鮮だけではありません。中国は大韓民国を従属国にしようと策しています。

現在の中国は、思想宣伝で屈服させ、韓国が輸出などで稼いだ金を北朝鮮に流して北朝鮮のインフラ整備資金に回させようとしています。

韓国左翼は、北朝鮮に韓国政府が金を出すことを強く主張します。資金が核軍拡に使われようとそんなことはおかまいなしです。

インフラ整備により、中国が北朝鮮の地下資源を低価格で得ようとしているのです。韓国企業は北朝鮮の北部の鉱山までは入れないでしょう。

中国は北朝鮮の核開発には反対していますが、北朝鮮が韓国や日本から資金を巻き上げることには大賛成です。

中国は地下資源が大好きですから。中国はあの手この手で、韓国だけでなく周辺諸国全てを従属国化させようとしています。

中国人が目指す「富強なる中国」とは、周辺諸国すべてを従属させるということです。覇権主義の権化のようなお国柄です。

現在の韓国が、中華人民共和国を宗主国にしようとしているとまでは思えませんが、思想宣伝で中国に屈服しつつあるようです(文中敬称略)。









棄教後のフェレイラ(Ferreira、沢野忠庵)の哀しみ―遠藤周作「切支丹時代 殉教と棄教の歴史」(小学館ライブラリー)より思う―

21歳前後のフェレイラはイエズス会から東洋布教を命ぜられ、リスボンを出た




遠藤周作の傑作「沈黙」で宣教師ロドリゴに踏み絵を踏むことを説く宣教師フェレイラは、実在の人物です。

遠藤周作「切支丹時代」(小学館ライブラリー、p105-123)は、断片的にしかないフェレイラの史料をつなぎあわせて、彼の生涯を語ります。以下、ごく簡単に紹介します。

フェレイラは1580年、ポルトガルのジブレイラ生まれです。16歳のときにイエズス会に入会しました。

フェレイラは21歳前後のとき、他のイエズス会神学生とともに、東洋布教を命ぜられリスボンを出発したのではないかと遠藤は推測しています。

ちなみに本能寺の変が1582年、関ヶ原の戦いが1600年です。フェレイラは1609年にマカオから布教の目的地日本に向かったとあります(p108)。29歳くらいのときということになります。

遠藤によれば、フェレイラは日本到着後比較的自由に、九州や中国地方、上方を歩いたと考えられます。

1614年に、徳川家康は禁教令を出します。高山右近らキリシタン大名と、宣教師たちはマカオや、マニラに追放されます。

追放令にもかかわらず、37名の司祭たちが日本に残ります。フェレイラもその一人でした。34歳前後のときということになります。

この時点で、フェレイラには殉教の決意があっただろうと遠藤は考えます(p109)。



井上筑後守の「穴吊り」に屈したフェレイラ




フェレイラは潜伏しつつ上方や九州で布教していました。禁教令の約十九年後、1633年にフェレイラは捕らえられ、「穴吊り」にかけられてしまいます。

時の宗門奉行は井上筑後守でした。「穴吊り」とは汚物を入れた穴の中に、体を縛って逆さに入れるという刑です。

拷問5時間後、フェレイラは棄教します。来日から24年程度経った1633年10月18日のことです。53歳前後でした。

その後フェレイラは沢野忠庵を名乗り、死刑囚の妻子を押し付けられたとあります(p115)。フェレイラは幕府の通辞となり、幕府が捕らえた宣教師の取り調べの通訳をしました。

転んだあと、フェレイラは日本人に天文学と医学を教えました。人々の役に立とうという司祭の心理がフェレイラに残っていたと遠藤は考えます(p122)。

フェレイラは1650年11月に長崎で亡くなります。70歳くらいということになります。当時としては長寿です。

島原の乱が1637-38年ですから、フェレイラは乱の様子を多少は聞いていたことでしょう。様子を伝え聞いたとき、フェレイラはどう思ったでしょうか。



棄教後のフェレイラはどう過ごしただろうか―挫折感と屈辱感、嫉妬心





棄教後、亡くなるまで17年間のフェレイラの心中はどのようなものだったのでしょうか。

幕府が捕らえた宣教師と、フェレイラはどんな会話をしたのでしょうか。捕らえられた宣教師から、罵詈雑言を浴びせられたかもしれません。

捕らえられた宣教師が殉教した場合、イエズス会にその知らせが届けば、聖人として扱われるのでしょう。

フェレイラにとって、途方もない挫折感と屈辱感に苛まされる日々だったことでしょう。殉教した宣教師たちへの、嫉妬心すら感じていたかもしれません。

禁教令以後、およそ19年間フェレイラは日本で宣教師として活動していたのですから、かくれ切支丹のあいだでは「著名人」になっていたでしょう。


隠れ切支丹たちは、フェレイラはいずれ幕府に捕らえられ、殉教することを確信していたはずです。だからこそかくれ切支丹たちは、フェレイラを心底尊敬していたでしょう。

そんなかくれ切支丹たちの姿と声が、棄教後のフェレイラの心中にはいつもあったのではないでしょうか。

神は私を決してお許しにならないだろう。私は必ず地獄に落ちるだろう。フェレイラは常にこう感じていたかもしれません。

勿論、フェレイラの周囲にいる幕府の役人たちにはフェレイラのそんな心中を分かりようもありません。

フェレイラから天文学や医学を学んだ日本人たちの中には、フェレイラに感謝していた人もいたでしょう。切支丹でない日本人にとっては、フェレイラは裏切り者ではありません。

天文学や医学を学びに来る日本人との対話と心のふれあいが、晩年のフェレイラにとって心の慰めになっていたでしょう。



フェレイラの人生の意味とは―絶望せず、自決しないで生きよう―




日本にフェレイラは切支丹を増やしたでしょうが、自らが導いた切支丹たちを失望させたかもしれません。

当時の信徒の価値観では、フェレイラは最低の裏切り者、変節者でしかなかったかもしれません。かくれ切支丹たちはフェレイラの棄教を伝え聞いたとき、何を思ったでしょうか。

当然、警戒心を強めより巧妙に隠れなければならないと思ったのではないでしょうか。かくれ切支丹の信じていた基督教の内容にも、多少の変化をもたらしたかもしれません。

当時の日本人の価値観では、拷問に屈した者は生き恥をかくより自決すべきということになるでしょう。

フェレイラは70歳まで生き続けたことにより、かくれ切支丹たちにどんな状況になっても、自決をしてはならないというメッセージを送ることができたのではないでしょうか。

自殺しないことは、基督教の大切な教えの一つですから。遠藤周作の言葉を借りれば、フェレイラが切支丹に残した痕跡の一つはそれだったのではないでしょうか。

人生に失敗し取り返しのつかないような状況に陥っても、絶望せずに黙々と生き抜いていくことが大事なのだという教えを、フェレイラはかくれ切支丹たちに伝えることができたのではないでしょうか。

自分は人生に失敗したという思い、絶望感を抱いて生きている人はいつの時代にもいくらでもいるものです。

その失敗は、取り返しがつかないようなものかもしれません。

そんな人たちが、フェレイラの生き方を知ることができれば、勇気づけられるかもしれませんね。