2014年12月31日水曜日

Albert Camus「侮蔑によって乗り越えられない運命はない」(There is no fate that cannot be surmonted by scorn. Il n'est pas de destin qui ne se surmonte par le mépris.シーシュポスの神話、原題Le mythe de Sisyphe)より思う。

人にはそれぞれの運命があるにしても、人間を超えた宿命などありはしない。If there is a personal fate, there is no higer destiny or at least there is but one which he concludes is inevitable and despicable.


平成26年はもう終わりですね。

皆様の今年はどんな一年だったでしょうか。本ブログを訪れて下さり,有難うございました。

私は今年、若い頃手がけてそのままになっていたことを少しでも前に進めるべく、いくつか挑戦しました。運動では鉄棒(逆上がり)と縄跳びです。

暫く前になりますが、飛び上がるくらいの高さの鉄棒で逆上がりをやってみたら、できました!十数年ぶりです。根性の成果が多少出たようで、気分が良かったです。

縄跳び(普通飛び)をひっかかりながらもほぼ毎日続けています。つい先程も、総計1200回ほどやりました。

毎日は無理ですが、Joggingを続けています。今日は午前中、ゆっくりと時間をかけてですが部屋から芦屋浜沿いにかけて15キロくらい走りました。

勉強では、フランス語を約30年ぶりに学び出し、多少読めるようになりました。フランス語の勉強と関連して、フランス人歌手ZazやFrance Gallの素晴らしさを知りました。

CamusやSaganを少し読み、雑文をブログに載せました。体の鍛錬と自分の勉強をこれからも黙々と続けていきたいと思っています。

人生はもっと偶然というやつが働いている


ふと思い出すのは、今年もいろいろな場で深い教養と人生経験を持った魅力的な方々に沢山お会いしたことです。出会った方々から多くを学びました。

私は昭和36年生まれですから、出会った方々の中には、もう二度とお会いすることのない方もいるのかもしれません。都会に生きている人は誰しもそうなのでしょう。

出会った方々との心の交流、ふれあいは偶然の産物であり、煙のごとく消えてなくなっていくものとみなすべきなのでしょうか。

遠藤周作は「わたしが・棄てた・女」で次のように語っています。

「しかしこの人生で我々人間に偶然でないどんな結びつきがあるのだろう。人生はもっと偶然というやつが働いている。...(中略)

もし、神というものがあるならば、その神はこうしたつまらぬ、ありきたりの日常の偶然によって彼が存在することを、人間にみせたのかもしれない。」(前掲著p25-26、講談社文庫)。

私には神が存在するかどうかわかりませんが、偶然が私たちの人生に大きな役割を果たしているのは間違いないように思えます。

偶然出会う。そしてお互いの人生に様々な影響を及ぼしあい、時が来ればそれぞれの道を選択し二度と会わなくなるという人間関係が現代社会には余りにも多い。

人間関係が煙のごとく消え去るのなら、人は不安になってしまう


全ての人間関係が煙のようになってしまえば、不安になり心を病む人が増えてしまい新たな社会問題の温床となってしまいかねません。

北朝鮮に拉致された日本人の救出に無関心な日本人が多いひとつの要因は、忙しすぎて他人のことなど関係ない、それもこれもすぐに消えていくから無視しようという風潮が広がっているからです。

殆どの政治家、特に自民党の国会議員の多くは票にならないことをやりません。

拉致された日本人のことなど他人のことだから関係ないと多くの人が考えているから、票にならないということを、自民党の国会議員は敏感に感じ取っているのです。

人々の意識動向を感じ取れない人は票を得るような宣伝活動をできないから、選挙に当選できない。小選挙区制度下、殆どの国会議員は次回当選できるかどうかという不安にさらされています。

国民も政治家も他人のことは関係ない、金や票、自分の利益にならないことは無視しようという気分感情に浸ってしまっているのではないでしょうか。これでは人々の心が病んでしまいかねない。

そんな風潮に、私は非力ながら本ブログで抵抗しているつもりです。

経済のグローバル化により競争が激烈になった-人間関係の希薄化、偶然による出会いと別離


現代社会はグローバル経済での厳しい競争に直面していますから、人間関係が希薄になるのは致し方ない面もあります。

お互いにとって不要な関係をいつまでも続けていたら、自分の仕事が疎かになり競争に負けてしまうかもしれないからです。

私と僅かながらでも交流して下さった方々の中には、何かにより絶望的な気分になっている方がいるかもしれません。

そんな方に私は、表題のAlbert Camusの言葉を送りたい。

侮蔑によって乗りこえられない運命はない。ひとにはそれぞれの運命があるにしても、人間を超えた宿命などありはしない。

Camusは、偶然により訪れることになった不幸でも強い意思、あるいは自分への侮蔑で乗り越えることができると訴えていたのでしょう。それがどうした、という気持ちを持てということでしょうか。

無数の人の心に残る言葉を投げかけてくれたCamusは交通事故で急死します。偶然が神のサイコロによるものであるなら、神はどんなサイコロをふったのでしょうか。

Romain Duris主演仏映画「スパニッシュ・アパートメント」(原題L'Auberge espagnole)を観ました。

卒業を来年に控えたフランス人大学生Xavierがバルセロナでの一年留学に...Parisに残った恋人Martine(Audrey Tatou)との将来は?


若さが画面に溢れているような映画です。夏目漱石の「三四郎」をふと思い出しました。

若者は自分が何者だかわかりません。自分が何者であるかを知るためにもがき苦しみ、徐々に自分を築いていくのでしょう。

昭和36年生まれの私は、この映画の主人公の親にあたる世代です。

よしっ、精一杯頑張って勉強してこいよ!という調子で、若きXavierの肩を叩いてやりたくなります。

欧州とは何か-栄えある欧州の復活のため、共同体を形成できるのか


この映画の主題のひとつは「欧州とは何か」でしょう。欧州諸国はローマ帝国とその後継者神聖ローマ帝国(Holly Roman Empire)による統治、そして基督教という共通の歴史を持っています。

従って欧州諸国はそれぞれのidentityを持ちつつも連合として共存共栄できるはずだ、というメッセージがあるのでしょう。

欧州が共同体となり、大きな市場を形成できればビジネスチャンスが生まれ、投資が喚起されて経済成長を実現出来るという発想です。

米国やアジアよりも大きな市場を欧州でつくろうという狙いでしょう

欧州の将来、栄光の欧州を復活させられるかどうかはこの映画に出てくるような若者たちにかかっていると製作者は言いたいのでしょう。

日本人から見れば欧州諸国の言語は似ている-「家なき子」レミの師匠ヴィタリスはイタリア人


日本人からみれば、欧州の言語は似ています。

フランス語とスペイン語、イタリア語、ルーマニア語のラテン系の言葉のうち、私が多少わかるのはフランス語だけですが、それぞれで書いた文章をよく見ると何となく、どんなことが書いてあるかぐらいは見当がつきます。

この映画でもスペイン語が何度もでてきますが、字幕を観れば何となく、こんな言葉が出てきたのだなとわかるときがあります。

フランス人ならイタリア語やスペイン語は多少学べばすぐ習得できるのでしょう。イタリアにもフランス語を流暢に話す人はいくらでもいることでしょう。

「家なき子」の主人公レミの師匠ヴィタリスと無二の親友マッチーヤはイタリア人ですが、フランス語を母国語のごとく話しました。

このような関係は、アジア諸国間には殆どない。中国語、韓国語(朝鮮語)、日本語はお互い相当勉強しなければ理解できない。東南アジアでも言語ではさほどの共通性はなさそうです。

「アジア」という概念は地理上のもので、文化的な共通性はあまりない。

欧州のインテリは、英語を皆勉強していますからそれぞれの癖のある英語ならすぐに話せるようになるのでしょう。

ラテン系語と英語、ドイツ語は大きく異なりますが、それでも日本語や韓国語と英語よりはずっと近い。Xavierの友人達は皆、英語を流暢に話しています。

青春の思い出を大切に-知識は銀、経験は金(Knowledge is silver, experience is gold)


Xavierはバルセロナでの一年留学で、実にたくさんのことを学んだのではないでしょうか。

バルセロナのアパートで共同賃借人となった英国、ドイツ、スペイン、ベルギー、イタリア、デンマークの友人たちとの交流を、Xavierも友人たちも生涯忘れないでしょう。

レスビアン(Lesbian)のベルギー人女性との交流も貴重です。青春の思い出を大切にして生きていくことが大事なのでしょう。

異なる文化、生活環境で生きてきた友人の生きざまを見聞することにより、Xavierにはフランス人としての自分が見えてきたのでしょう。

「一年で何を学んだの」ときく母親に対し、Xavierが「黙って、ママ」と無愛想にいうシーンがありますが、私は頼もしさを感じました。

Xavierは母親を深く愛しているからこそ、こんな喋り方ができるのです。自分の生き方をしっかり歩もうとする若い男は親に余計なことを言わないでしょうし、それでこそ精神が鍛えられるのです。

「母親に余計なことを言うべきでない」というのは日本人の感覚かもしれません。韓国男性なら、母親に何でも相談する方が多いかもしれません。型にはめて議論するのは良くないかもしれません。

この映画でも、「-人はこうだ」と型にはめるのはよくないとスペイン人が英国人に反発するシーンがあります。

大きすぎる市場経済の管理、運営は困難-経済のグローバル化の本質的な矛盾


神聖ローマ帝国の復活そのものはありえないでしょうが、こんな若者たちが沢山欧州にいるなら様々な困難を乗り越えられるのではないでしょうか。

しかし現実の欧州は若年層の失業問題がかなり深刻です。失業の原因の根元には、欧州統合があるのかもしれません。

大きすぎる市場経済を管理、運営することは困難ですから、市場統合が進めば各国経済は不安定化し格差ができてしまいかねないのです。

通貨を統合しても、財政は別ですから困窮した地域に支援ができにくい。米国内の地域格差であれば、困窮した地域への財政支援に米国民はさほど反対しませんが、欧州内ではそうならない。

金融資産の諸国間移動自由化により、成長性のある地域に富が偏在化し、その地域の富裕層はさらに恩恵をうけて豊かになります。

しかし富が入ってこない地域には投資が十分されませんから低成長になり貧困化してしまいます。イタリアとスペインの若者はその後どうなったでしょうか。

ドイツ人の若者は立身出世を遂げていそうです。頑張れ!と声をかけてやりたいですね。

2014年12月28日日曜日

Françoise Saganの「愛は束縛」(新潮文庫。河野万里子訳、原題La Laisse)を読みました。

彼女はぼくを愛したことなど一度もなかったのだ。ただぼくを、所有していただけなのだ。あの忘れてしまいたいような挫折の日々にやさしく慰めてくれたのも、ぼくの挫折が彼女にとっては都合がよかったからにすぎない。(新潮文庫p121)-


「愛は束縛」の原題La Laisseは、辞書をひいてみると犬をつないでおく紐のことです。犬は紐でつなぎとめておかないとどこかへ出ていってしまいかねません。

人の愛情関係もそうなのでしょうか。

人を愛するということは、その人のすべてを知り尽くし、その人の行動、服装、人付き合いなどすべてを自分の管理下におくことなのでしょうか。

財力のある男(女)が女(男)を愛したとき、財力という「紐」で相手をつなぎとめるようになってしまいかねません。相手方も心のどこかでそれを期待しているかもしれません。

犬は自分の領域内をにおいを嗅ぎながら歩き回り、空腹になれば主人のところに戻ってくるでしょう。

財力のない側もそうなるのでしょうか。しかし財力がなかった側がある日事業に成功したら、紐を自分で切ってしまうかもしれません。

売れない作曲家ヴァンサンは、資産家の娘ローランスと国立高等音楽院卒業後2,3年で結婚した


「愛は束縛」の主人公ヴァンサンは、Parisの国立高等音楽院( Conservatoire)のピアノ科を卒業して2,3年後に、資産家の娘ローランスと結婚しました。

結婚後7年、二人はローランスの父からの支援で裕福な暮らしをしてきました。

ヴァンサンが作曲した映画音楽「にわか雨」が当たり、ヴァンサンは百万ドルの大金を手にすることになりましたが、そのとき二人の間に隙間風が吹き始めます。

あらすじの説明はこのくらいにして、ヴァンサンの心に浮かぶ言葉の中で私の心に特に響いたものを書き留めておきます。

二人の間の幾多のベッドの物語も、今となってはもう何も変えることはできない。


「彼女は、ぼくの人生の最も輝かしい時期を奪ったのである。二人の間の幾多のベッドの物語も、今となってはもう何も変えることはできない。彼女は自分のためだけに、ぼくを愛した。彼女はぼくを識りはしないのだ」(p122)。

二人は二十代の中ごろから7年間共同生活をしたのですから、人生の最も輝かしい時期を一緒に過ごしたといえるでしょう。しかしその7年はヴァンサンの主体的な選択でもあったのです。

少し前にヴァンサンの頭の片隅で「先立つものを手にしたとたんにローランスと別れるのはまるで人間のくずだ」という声がしていました(p45)。

愛情とは冷めてしまうとそれまでのすべての言動がつまらなく、価値のないことだったように思えてきてしまうはかない感情なのかもしれません。

「二人の間の幾多のベッドの物語」など煙のようにヴァンサンの心中から消えてしまったようです。

ローランスの決めたベッドでの禁止項目を甘受していたヴァンサン


「ぼくはジャニーヌと、とても楽しく二時間過ごした。これまでローランスの決めたベッドでの禁止項目を甘受していたため、自由奔放にふるまうことによって生まれ出る刺激的な快楽の味を久しく忘れていたようだ。ぼくは恍惚となり、励ましのようなものさえ受け取った気がした」(p130)。

ジャニーヌとは娼婦です。ヴァンサンはローランスにベッドの上でさえ、「支配」されていたのかもしれません。ヴァンサンはローランスを忘れるためし、700フランで娼婦と寝たのでしょう。

「ローランスは頭はいいが、機知はない。

金づかいは荒いが、気前のいい鷹揚さはない、美しいが魅力はない、人を羨むが自らの願望はない、彼女は、人を中傷するが憎しみはもっていない、自尊心は強いが誇りはない。

親しげだがあたたかさがない、感受性は強いが傷つくことはない」p155)。

愛情が冷めてしまったヴァンサンにはローランスの長所が、同時に短所のように思えてきています。このときのヴァンサンの、ローランス論の結論は次です。

「そしてつまり、情熱はあるが、愛がないのだ」(p156)。

艶事には、炎のように燃え上がるローランス


真実のローランスは、ヴァンサンの心中の言葉のような人なのでしょうか。サガンの小説のヒロイン描写は男性の心をそそらせるものがあります。

「ベッドで、彼女より先にぼくの方から求めようとすると、物憂げに<もうあなたったら、それしか考えていないんだから>とつぶやき、その逆だと、消え入りそうな声で<ねえ、私のこと、もう愛していないの?>とささやくのだ。

そして-彼女の端正な容姿にふさわしい、古典的な表現を引くならー艶事には、炎のように燃え上がるのである」(p6)。

「長い黒髪に包まれた彫の深い顔立ち」で情熱的なローランスの姿、声と吐息も、別れを決意したヴァンサンの心中からは消えてしまったのでしょう。

ローランスの必死の慰留により、ヴァンサンは考えを改めます。

「彼女はぼくのことを少し愛しすぎているのだと思い続けてきたが、その<少し愛しすぎる>ということがどれほどの地獄であるかは、考えてもみなかった」(p232)。

しかしその翌日ローランスが投げかけた言葉が、破滅を呼んでしまいます。ローランスの支配欲にも似た愛情は、ヴァンサンを再び傷つける激しい言葉となってしまいました。

愛とは束縛なのでしょうか。サガンの小説は、主題を改めて最後におき、読者に考えさせることが多いようです。

2014年12月27日土曜日

米国Sony Pictures製作「The Interview」は金正恩の命運を左右しうる

中国朝鮮族、脱北者は米国映画「The Interview」をCDやUSBに保存して北朝鮮国内に持ち込む-北朝鮮社会の首領神格化を崩すきっかけになりうるー


欧米や日本、韓国の普通の政治家なら、映画で自分がどのように表現されていようともさほどの問題ではないはずです。

とんでもない誹謗中傷の記事を週刊誌等に出されたりした場合、名誉毀損に訴える政治家はいるでしょうが、それ以上でもそれ以下でもないはずです。

しかし、北朝鮮社会の「政治家」はそうではない。米国映画「The Interview」は北朝鮮の独裁者金正恩を喜劇化した内容のようです。

「喜び組」らしき女性たちの下着姿なども出てくるようです。映画の最後で、金正恩は爆殺されてしまうらしい。

架空の人物ならまだしも、金正恩は実在の人物ですからこれはひどいと私も思います。

しかしその映画を上映するな、上映すれば報復するぞなどと言うのは明らかに常軌を逸しています。度量のある政治家なら、自分を喜劇化した映画を苦笑いして無視するでしょう。

北朝鮮社会では金日成、金正日そして金正恩が神格化されているー「党の唯一思想体系確立の十大原則」


北朝鮮社会についてよくご存じない方々は、なぜ北朝鮮当局がこの映画の上映を何としても阻止したいのかわからないでしょう。

北朝鮮では「党の唯一思想体系確立の十大原則」により、金日成、金正日、そして金正恩が神格化されています。

金日成の「教示」、金正日の「お言葉」、金正恩の指令を全国民は絶対に実行せねばならない。

金日成、金正日、金正恩を普通の韓国人は勿論、全世界の労働者、人民が心から敬愛していると北朝鮮当局は宣伝しています。

これが虚偽宣伝であることに気づいた北朝鮮の人々は脱北してしまうか、金正恩と朝鮮労働党に激しい反感を抱きつつ耐え忍んで北朝鮮社会で生きていくしかない。

金正恩に激しい反感を抱いている北朝鮮の人々は少しずつ増えているでしょう。

しかし敬愛までしてなくても何となく「党の指令」に従っている人々のほうが多数派ですから、北朝鮮社会がそのまま持続しているのです。

在日本朝鮮人総連合会の皆さんが作っている在日朝鮮人の小社会でも同様です。朝鮮学校でも、「党の唯一思想体系確立の十大原則」は不可侵です。

全体主義社会に生きる人々には人生の「選択肢」がわからない


米国映画「The Interview」を北朝鮮の人々が見れば驚愕するでしょう。金正恩の暗殺など、北朝鮮の一般国民には想像を絶すします。

一般に、全体主義社会に生きている人々には人生の「選択肢」がわからないのです。いつでも「党の指令」に従っていさえすれば万事良し、という社会ですから。

金正日の女性関係、家族関係を話題にしただけで「管理所」という政治犯収容所に、国家安全保衛部により家族もろとも連行されてしまうのが北朝鮮社会なのです。

横田めぐみさん、有本恵子さん、増元るみ子さんら被拉致日本人を救出するためには、北朝鮮の人々の金日成、金正日、金正恩への忠誠心を弱体化させねばならない。

忠誠心がなくなれば、金正恩の「指令」「お言葉」など誰もまじめに実行しなくなってしまいます。

国家安全保衛部(中国の国家安全部や旧ソ連のKGBに相当する組織)の人間が映画「The Interview」を見ればどうなるでしょうか。

「首領冒涜罪」を犯した「民族反逆者」を逮捕して政治犯収容所に連行する仕事にまじめに取り組まず、賄賂で大目に見るようになるかもしれません。

そのとき、賄賂工作による被拉致日本人救出が現実味を帯びてくるはずです。

慢性的な栄養失調に苦しむ朝鮮人民軍兵士が映画「The Interview」を観たらどう思うでしょうか。朝鮮労働党に激しい反感を抱き、少しの賄賂で脱北者を見逃すかもしれません。

脱北者や中国朝鮮族の商売人は、さまざまな経路で北朝鮮にこの映画をCDやUSBに保存して運ぶでしょう。

朝鮮語の字幕をつけるまで多少の時間がかかるでしょうが、どういうわけかこういう映画は北朝鮮社会でかなりの価格で売れるそうなのです。

中国朝鮮族により映画のCDやUSBが北朝鮮に運ばれ、朝鮮労働党幹部が高価でも買う


ある脱北者によれば、北朝鮮社会で米10キロを買えるぐらいの価格でこの映画のCDやUSBが流通するのではとのことです。

米10キロといえば北朝鮮社会では相当な貴重品ですから、労働党幹部しか買えないでしょう。

買った労働党幹部はCDを誰かに貸して外貨を稼ぐのでしょう。「水は上からにごる」というようなことわざが朝鮮語にあるようです。

拉致問題対策本部への要望ー藤本健二氏「金正日の料理人」を連続ドラマ化し、海外衛星放送で放映すべきだ-WAXに主題歌を!


日本政府は、藤本健二氏の諸著作を連続ドラマ化し、海外衛星放送で放映するべきです。ドラマの主題歌を韓国の実力派人気歌手WAXに歌ってもらったらどうでしょうか。

藤本さんの著作は基本的に事実でしょうが、「苦難の行軍」期に金正日が贅沢三昧をしていたことなど北朝鮮の人々には想像を絶するのです。

金正日の女性関係をドラマ化し、その女性たちが抱いていたであろう金正日への想いを韓国歌手に歌ってもらいましょう。良いドラマになります。

拉致問題対策本部の潤沢な予算を、日本国内のコンサートに使っても北朝鮮にはほとんど関係がない。このくらいのことを拉致問題対策本部に進言できる政治家はいないのでしょうか。

金正日が周囲にはべらせていた「喜び組」はその後どうなったのか


なお、現実の金正恩の周囲に「喜び組」のような女性たちがいるのかどうか、わかっていません。

金正日の周りにそういう女性たちがたくさんいたことは間違いないのですが、その方々が金正日の死後、どうなっていったかはわからないのです。

「秘密保持」のためにどこかへ追いやられてしまったのかもしれません。

政治犯収容所送りになっていなければよいのですが。

韓国で従北政党が解散させられましたが、対南工作機関の幹部とその家族が政治犯収容所送りになる可能性があります。

2014年12月21日日曜日

Françoise Saganの「ジゴロ」(朝吹登水子訳、新潮文庫「絹の瞳」所収。Gigolo)を読みました。

彼女は彼の生活費を全部出していて、衣類から宝石類まで買ってやり、彼はそれを拒みはしなかったのだ。彼はほかの連中のように愚かで厚かましい術策を弄することはなかった(前掲著p31)。-


Gigoloとは若いツバメ、富裕な女性の恋人に生活の面倒をみてもらっているような若い男性のことです。

Saaganの「絹の瞳」に掲載されている文庫本で12ページほどのこの短編は、50を過ぎた富裕な女性と20歳年下のジゴロ、ニコラの物語です。

ニコラは毎日彼女の家で過ごし、一緒に外出しても、人々が二人に投げかける意味ありげな視線に気づきません。ニコラは愛想がよく、礼儀正しく、良い情人(amant)です。

ジゴロは時折、Patronに人を見下すような皮肉な薄笑いをする


ジゴロを職業とする若者は、パトロン(Patron)である女性に対し時折、人を見下すような皮肉な薄笑いを浮かべます(前掲著P31)。

この薄笑いは「まあいいさ、あなたが喜ぶことだから...。でも知っているでしょうがぼくはまったく自由なんですよ、ぼくを憤らせない方があなたの身のためだ」という心中の呟きを示しています。

「彼女」は以前ジゴロだったミッシェルのときに初めてこの薄笑いに気づきました。

その後彼女は自分のジゴロがこの薄笑いを見せると、相手を傷つけてやりたい気持ちになり、手を切ってきました。しかし現在のジゴロであるニコラはこの薄笑いを浮かべません。

ニコラが彼女にくれた「むさぼるような、悲しいキス」


彼女が「ニコラ、私にキスをして」と彼女が言えばニコラはすぐにキスをしてくれます。ジゴロとして非の打ちどころがないニコラですが、彼女はこの時のキスが気にいあらなかったようです。

ニコラが彼女にしてくれたキスは、本当に彼女を愛しているみたいな、むさぼるような、悲しいキスでした(前掲著P35)。彼女は「危険だ」と思いました。

「危険」とは、ニコラが自分が彼女のジゴロであるという事実を忘れて、本当に彼女を好きになってしまうことでしょう。

彼女は半年間彼女の家で暮らしたニコラを、エシーニ夫人にあげる決意をしました。彼女がニコラと初めて会ったのはエシーニ夫人の家のカクテル・パーティでした。

こうしたカクテル・パーティは文字通り市場、展示会で、爛熟した女性たちがいまにも青年の上唇をまくりあげて犬歯を調べ始めるのではないかとさえ思われるとあります(前掲著P37)。

Parisの富裕層間では、実際にこのようなカクテル・パーティが彼らの家で開催されるのでしょうか。

ニコラを棄てて南仏に行く彼女「もうずるはできないの。さあ、去ってちょうだい」


彼女はニコラを棄てて南仏に行く決意をします。

ニコラに彼女は「あなたはずるをしてるわ」「私はずるをしたくてもできないの。もうずるはできないの。さあ、入って去ってちょうだい」という言葉を投げつけます。

「ずる」とは、ニコラが彼女を愛しているという芝居を演じ続けていると考えたのでしょうか。

50すぎの彼女の鏡に映る自分の顔は取り返しようもなくおいているのですから、30代前半であろうニコラが彼女を本気で愛するはずがないということでしょうか。

ニコラがほかの青年と同様に、彼女に対し時々皮肉な薄笑いを浮かべていたら、彼女はニコラをジゴロにし続けたのでしょうか。

その場合には半年どころでなくもっと早く彼女はニコラを捨ててほかの富裕な婦人に譲渡していたでしょう。

Saganの小説は登場人物の心の中の呟きを、読者が読み込み、解釈を与えることができます。

そこがSaganに多くの人が魅せられてきた理由の一つなのでしょう。

2014年12月14日日曜日

遠藤周作「日本の聖女」(「夫婦の一日」、新潮文庫p123-168所収)を読みました。

細川ガラシャ(1563-1600年8月25日。細川忠興の妻で明智光秀の娘、お玉)は切支丹として死んだのではなく、日本人の宗教で亡くなった(新潮文庫p168)。


細川ガラシャといえば、典型的な聖女として知られています。

ガラシャは「関ヶ原の戦い」で石田三成側(西軍)から人質になって大阪城へ来るよう要求されましたが、徳川家康側(東軍)についた夫細川忠興の足かせとならぬよう「自害」しました。

細川ガラシャは切支丹でしたから、家来に自分を殺させたそうです。

遠藤周作はこれまでの日本の基督教徒による細川ガラシャ解釈にこの短編で疑問を提起しています。

「私」は戦国日本に基督教布教のため欧州から来た修道士


「日本の聖女」の語り手「私」は欧州から日本に訪れた、日本語に通じている修道士です。

恐らくイエズス会(Socistas Iesu)所属でしょう。「私」の心中の言葉に、遠藤周作の日本文化観、基督教観が出ています。

「私」はガラシャが夫細川忠興を信じられないから、教会に拠り所を探してきたのだと考えました。

「私」に対してパードレ(Padre、神父や司祭のこと)は「たとえどのような路から山に登るとも、いずれの路も頂きに達する。神への道も同じであることを忘れてはならぬ」としかります(同書p133)。

「私」は日本人が基督教的世界観、価値観を受け入れられないことを次のように語ります。

「日本人の多くは、世に生きぬくことの辛さに耐えかねると、逃げ場所を宗教に求める者が多いからだ。

私のようなヨーロッパの人間から見れば、それは人生の逃避であり、人生の苦しさを回避する弱い生き方のようにも思える。こうした弱い生き方を仏教では解脱とか遁世と呼ぶ。

だが遁世とは世俗の煩悩を捨てて生きる意味であり、決して切支丹の生き方ではないと私は考えている。

なぜなら主イエスは決して人生の苦しみの象徴である十字架を肩からお捨てにならなかったからである。つまり切支丹はこの人生のさまざまな苦悩から逃げてはならないのだ。

人生の苦悩の中で傷つき生きぬくことが切支丹のあり方だと思う」(同書p133-134)。


「私」は夫を愛さなくなった細川ガラシャをいさめなかったPadreに批判的です。

Padreの心には、細川忠興の奥方のような貴婦人が切支丹になれば布教の上で力になるという期待があったと「私」は考えます。

関白豊臣秀吉の「関白を選ぶか、切支丹を選ぶか」と小西行長、高山右近


「私」は関白秀吉の「関白を選ぶか、切支丹を選ぶか」という問いに表面では屈し、切支丹を捨てて関白秀吉を選んだ小西行長の心情を理解します。

おのれの弱さのため現世を回避するだけが切支丹の道ではなく、小西殿のように現世のなかで卑怯者と見られながらも、術策をこらして主のために生きるのも切支丹の道ではないか(同書p141)。

「私」によれば、仏教と切支丹の根本的な違いは、この世の十字架を捨ててそれを解脱とよぶか、それともこの現世の十字架を主と同じように死まで肩に背負って歩くかの相違にあります。

小西行長のような「鉄の首枷」をはめた生き方こそ切支丹らしい生き方で、高山右近や細川ガラシャが選択した生き方、死に方には切支丹信仰の美名を借りた異端の臭いがあります(同書p162)。

小西行長の生き方を理解するなら、Padreの現実妥協も理解すべきでは


しかし小西行長の生き方を理解するなら、権力者に擦り寄って布教の助けとしようとしたPadreの態度も正当化されるべきではないでしょうか。

切支丹信仰の美名を借りた異端の臭い、という「私」の語りは、遠藤周作の見解ではないでしょう。

これは遠藤周作が解釈した当時のイエズス会の日本観でしょう。

「日本の聖女」には遠藤周作が数々の小説を通して読者に問いかけたメッセージが凝縮されています。

遠藤周作は歴史上の人物の生き方、死に方の解釈を通して自分なりの解釈による基督教の世界観、価値観を示したのです。「沈黙」のフェレイラの生き様もそうでした。

2014年12月6日土曜日

仏女性歌手Zaz(Isabelle Geffroy, 1980年5月1日フランスのTours生)について調べてみました。

ZazのOn ira(We are going)から遠藤周作、Ella Fitzgerald、Dooley Wilsonを思う-


Piafの再来と言われている仏女性歌手ZazのOn iraは聴けば聴くほど深みと味わいが感じられます。次の部分が特に好きです。

Oh qu'elle est belle notre chance, Aux mille couleurs de l'être humain, Mélangées de nos différences, À la croisée des destins.

この部分は英語では、次のように訳されています。

Oh what luck do we have, The thousands of colors of the human being, Mixed to our differences, At the crossroads of destiny.

日本語にするとこんな感じでしょうか。

「おお、なんて私たちは運が良いのだろう。いろいろな肌色と価値観をもつ人がいる。私たちは運命の十字路で出会い、その違いで混ざり合うのさ」。

沈黙する神はサイコロをふって私たちに語りかけている


生きていけばそれだけでいろいろな人とめぐりあい、お互いに影響を与え合い、暫くすれば離れていきます。

そのときに気づかなくても後から考えてみれば、ある人との出会い、その人の何気ない言動が自分の人生に大きな影響を与えていることがあるとわかることがあります。

遠藤周作はそれを、神がサイコロを振っている、神は沈黙しつつも人々の出会いと別れに影響を及ぼして人々に語りかけていると解釈しました。

私はZazのOn iraを聴きながら遠藤周作の文章を思います。

「しかしこの人生で我々人間に偶然でないどんな結びつきがあるだろう。人生はもっと偶然というやつが働いている」(「私が・棄てた・女」(講談社、p25)

この部分は英語訳では次になっています。

But which encounters in our lives do not stem from chance? And yet chance plays an even greater part in other events during the course of our lives.

ZazはHusky voiceですが相当な声量があります。Monmtartreの街頭で何年も歌っていたのですから、声量がなければ通行人に聴いてもらえない。

この部分を聴くと、ふと自分のそれまでの人生で出会った沢山の人々の姿や声が心の中で蘇ってくるようです。

Zazが影響を受けた音楽家-Vivaldi, Ella Fiutzgerald, Enrico Macias, Bobby Mcfferrin, Richard Bona


ZazについてInternetで少し調べてみました。

Isabelle Geffroy(のちのZaz)は5歳でToursのConservatoire(音楽・演劇学校)に姉、兄と入っています。そこで11歳まで勉強しました。

バイオリンやピアノ、ギター、コーラスそしてsolfège (イタリア語で、音楽の教育方法を意味する)を学びました。

1994年に両親が離婚し、3人の子供たちは母親についてLibourne、そのあとBordeauxに行きました。95年にIsabelleは 歌の講義をとりました。

中学三年の頃になりますから、歌を学ぶ特別なコースに入ったのでしょうか。2000年にIsabelleはBordeauxのCIAMという音楽学校に入りました。

その頃影響を受けた音楽として彼女はビバルディの四季(Les Quatre Saisons de Vivaldi)、Ella Fitzgeraldという米国のjazz歌手、Enrico Maciasという仏のシャンソン歌手、Bobby Mcfferrin, Richard Bona等をあげています。

Ella Fitzgeraldを私はFrance Gallによる賛歌Ella, Elle l'a(Ella, she has it. Ella, 貴方には何かがある)で知りました。Vivaldiの四季は誰もが認める名曲でしょう。

私にはjazzが他の分野の歌とどう異なっているのかよくわかりませんが、ピアノの弾き語りや、リズムに強く依拠した歌い方をjazzというのでしょうか。

米国映画カサブランカ(Casablanca)のAs Time Goes by-Ingrid BergmanとDooley Wilson


米国映画カサブランカ(Casablanca)でのAs Time Goes byのような曲をそう呼ぶのではないでしょうか。

イングリッド・バーグマン(Ingrid Bergman)の優しい語り口「Play it, Sam. I will hum it for you. Lalai Lalai La, Lalai.La」は忘れられません。Dooley Wilsonの哀しみを漂わせた歌声が心に残ります。

You must remember this, a kiss is just a kiss, a sigh is just a sigh. The fundamental things apply, as time goes by...

Internetで調べたらBobby Mcfferrinも著名なjazz歌手だということがわかりました。

Richard BonaはCameroon出身で、Jazz Fusion Bassistと出ていますが、これが何を意味するのか私にはわかりません。

Zazのリズム感溢れる歌い方はjazzの影響によるところがあるのでしょう。フランスにはjazzを幅広く支持する文化的土壌があるようです。

こういう分野の音楽をSoul music(La musique soul、魂の音楽)と呼ぶこともあるようです。Dooley Wilson, Ella FitzgeraldやZazの歌い方は魂に訴えると言われれば、そんな気もしてきます。

Zazの歌を誰かがカバーして日本にも広めたら...


言葉の壁があるので、Zazの歌が日本で幅広く受け入れられるのは困難でしょうが、誰かにカバーしてもらいたいですね。Zazの歌はかなり難しいでしょう。

真に勝手ですが、宇多田ヒカルならできそうに思えます。私には、宇多田ヒカルの歌もjazzの影響を受けているように思えます。It's automaic...のメロディーがそのように感じられます。

これがデビュー曲だったかな。宇多田ヒカルは長年米国で暮らしていますから、jazzに親しんでいるのではないでしょうか。

宇多田ヒカルのような既に著名になっている方だけでなく、、まだ無名の若い歌手に挑戦してもらいたいものです。

Montmartreの街頭で歌っていたZazや、貧困のどん底から名をなしたPiafもそれを望んでいるのではないでしょうか。