2014年10月26日日曜日

北朝鮮は「朝鮮問題の専門家」とテレビ局を使って日本の世論作りを策している-「北朝鮮とまずは国交を樹立し、平壌に大使館をおいて拉致問題を話し合おう」ー

「特別調査委員会に国家安全保衛部という強力な権限をもつ組織が入って調査した結果、被拉致日本人は皆死んでいた。日本人妻、被拉致日本人の子供たちも同様に死んだと証言している。哀しみを乗り越えて、東アジアの平和を守るために北朝鮮と国交を樹立しよう!」


朝鮮労働党の対南工作機関が策しているのは、日本でこんな世論を形成することでしょう。

世論形成は簡単ではありませんが、私は、北朝鮮が次の仕掛けをやっていると見ています。

朝鮮問題の専門家を懐柔し、その人にテレビで次のように言わせるのです。

「日本政府は平壌に何度でも担当者を派遣して徹底して話し合うべきだ。そして拉致問題が解決しないでも、国交をまず樹立し大使が正式に外交チャンネルで継続して取り組むべきだ」

「国家安全保衛部は北朝鮮の隅々まで調査する権限をもっている。強力な組織が調査して結果を出したのだから、間違いはない」

こんな見え透いた愚論をテレビ局を通じて日本社会に流布させてしまえば良い。テレビの世論形成力を、朝鮮労働党の対南工作期間は熟知している。

次の愚論も流布させようとしているでしょう。

日本と北朝鮮に「行き違い」が生じているのは日本政府に責任がある


「日本側が拉致問題を最重要課題と位置づけているのに、北朝鮮側は日本人妻や残留日本人の遺骨の問題を先行させようとしているという行き違いが生じているのは日本政府が担当者を平壌に派遣して徹底的に話し合い意思疎通を図ってこなかったからだ」

こんな見え透いた愚論、北朝鮮の対日宣伝を受け売りする専門家がいるのか?と思う方はいるでしょうが、私はある放送局の北朝鮮問題に関するテレビ討論番組でこれを確認しました。

その方が具体的にどのような手段で、朝鮮労働党に懐柔され急速に北朝鮮の対日政策そのものとも言える見解をテレビで述べるようになったのかは不明です。

平壌を訪問し「現場を見た」人はテレビに「朝鮮問題の専門家」として出演できる


一つの可能性ですが、朝鮮問題の専門家が北朝鮮を訪問し「最近の平壌を生でを観た」ということになると、テレビ局としても北朝鮮情勢の解説者として使いやすくなることを指摘しておきたい。

北朝鮮当局としては朝鮮問題の専門家に、平壌訪問を許可しそこで懐柔すればよい。

「これからも日朝友好のために協力して下さい。何度でも平壌を訪問してください」

朝鮮労働党の幹部からこの類のお墨付きを得られれば、朝鮮問題の専門家として引き続きテレビに出演できます。

平壌を頻繁に訪問しているような方が北朝鮮問題の解説者として出てくるのなら、在日本朝鮮人総連合会の皆さんも決してテレビ局に苦情を言わないでしょう。

テレビ局としても、一石二鳥なのです。

勿論、平壌を訪問した研究者の全てが北朝鮮よりの発言をしているわけではありません。懐柔されない方もいます。

しかしテレビに解説者として出演すると、虚栄心を大いに満足させられる人はいるのでしょう。自分が著名人の仲間入りをしたとでも思えるのでしょうか。

「外務省高官が国家安全保衛部と会って交渉し、主導権を握るべきだ」-「交渉」「主導権」の定義がない


ある方ほど露骨ではないですが、政府の担当者が平壌に行って交渉の主導権を握り、拉致問題解決のロードマップを示させろなどという方も少なくありません。

「交渉」「主導権」とやらは具体的に一体何を意味しているのでしょうか?

外務省高官が国家安全保衛部大幹部に「拉致問題解決の調査を優先させろよ」という荒々しい語調で要求すれば「気合勝ち」して「強い交渉」ができ、「主導権を握る」ことになるのでしょうか?

外務省高官の気迫におされた国家安全保衛部大幹部は、「党の唯一思想体系確立の十大原則」に反したということで銃殺ないしは政治犯収容所送りになる可能性を知りつつも、被拉致日本人の居住地を外務省高官に教え、そこへ連れて行って下さるのでしょうか?

外務省高官が国家安全保衛部に何を要求しようと、国家安全保衛部は次のように言い放てば良いでしょう。

「行き違いがあったのはわかった。日本の今後の態度によっては調べてやっても良い」

「早期に安倍総理が平壌に来れば、調査結果を知らせる」

「関係改善のために、制裁をやめろ。制裁を続けられているのに信頼関係が築けるか。信頼関係がないのに拉致の調査などやれるわけがない」

この程度の返事をしておけば日本側は大喜びで帰国することになりませんか。

全ての権限を持つ国家安全保衛部の大幹部が被拉致日本人の調査を「約束」「合意」してくださったのだから、粘り強い交渉の成果だという話になりそうです。

「粘り強い交渉」とやらを続けるためには外務省、厚生省が省をあげて制裁解除と安倍総理の早期訪朝を強力に主張するなどというシナリオにならないことを祈るばかりです。

Françoise Saganの「悲しみよ こんにちは」(新潮文庫、原題Bonjour Tristesse)を読みました。

父はくだらない男でもなければ、エゴイストでもなかった。ただ女性が好きだった。つける薬がないほど。とはいえ、深い感情がわからないわけでも、無責任なわけでもない(新潮文庫p154より)


フランスには、金を優雅に使うことを心得ている富裕層がいるのでしょう。

「悲しみよ こんにちは」の私のイメージは、陽光が降り注ぐ浜辺のカフェで、青い地中海を見ながら高級ワインを飲み、チーズを食べながら談笑している金髪の美男美女たちです。

「悲しみよこんにちは」の語り手は17歳の女の子セシルです。セシルの母は15年前に亡くなっています。40歳で広告の仕事をしている父レイモンにはエルザという愛人(maîtresse)がいます。

父は離婚しているのですから、エルザは愛人というより恋人なのでしょうが、あえて語り手の私は愛人という言葉を用いているのでしょう。父レイモンにとってエルザは愛人でしかない。

29歳のエルザは背が高くて赤毛、社交的ともいかがわしいともいえる女性です。端役の女優としてテレビや映画のスタジオ、シャンゼリゼのバーなどに出入りしています(p10)。

エルザは「職業側、結局は愛も金銭ずくのこの女性」(p132)で、シャルル・ウエッブという演劇関係の広告宣伝に携わっている人物の長年の愛人でした(p135)。

夏の休暇(vacance)に父は二ヶ月間、地中海のほとりに大きな白い別荘を借り、セシルとエルザの3人で過ごすことにしました。

その揺るぎない意志と、人を気おくれさせるような心の静けさが、あらゆるとことに表れているアンヌ(p15)


3人が別荘についてから6日目でしょうか。夕食後、父がアンヌ・ラルセンという、母の旧友で服飾の仕事をしている離婚している42歳の女性が別荘にやってくると話します。

アンヌは「誇り高くもうっすら疲れの漂う、超然とした美しい顔立ちの女性」(p15)です。アンヌは「物事に輪郭を、ことばに意味を持たせる人」です(p18)。

アンヌはレイモンに列車でパリから来ると告げていたようですが、なぜか車で別荘まで来ました。レイモンとエルザは駅までアンヌを迎えに行っていたので、別荘には私ことセシルだけでした。

どこで知ったのか不明ですが、アンヌはエルザを知っていました。しかしエルザとレイモンの関係までは知らなかったようです。

エルザが別荘に来ていることを知ったとき、アンヌの顔をが不意にゆがみくくちびるが震えます(p21)。アンヌは父レイモンを愛しているのか?父にはアンヌ好みのところなどひとつもない。

弱い男だし、軽い男だし、ときどきは無気力だし。セシルは思い悩み始めます。

しかし駅からエルザと帰ってきた父の笑顔をみて、セシルはアンヌが父を愛することは非常にありうると考え直します。誰だって、父を愛しうる(p23)。

セシルの鋭い人物観察に、いつのまにか読者は引き込まれてしまいます。恋は盲目ということですしょう。

レイモンとアンヌの世界観、価値観の違いは埋めようがない


そもそもレイモンのような生き方は相当な資産がある人でないとできない。芸能人を愛人にできる人は現代日本でもフランスでも限られているでしょう。

アンヌはレイモンが受け継いだ資産の意義を示唆しています。その時の会話から、登場人物間の世界観、価値観の違いが浮き上がってきます。

セシルは試験に落ちてもあまり勉強しません。

バカンス後の10月の試験にはうからなくちゃねとセシルをたしなめるアンヌに対しレイモンは、自分は免状など一枚ももらっていない、それでもいい暮らしをしていると述べます。

アンヌはあなたには最初からかなりの財産があったからと指摘しています。

それでもレイモンは、「僕の娘なら、食わせてくれる男どもには不自由しないさ」と堂々と言います。

この世界観、価値観の違いはどうにもこうにも埋めようがないでしょう。

レイモンは娘セシルがエルザのような生き方を選択して良いと考えている


レイモンはエルザを想定しているのでしょうか。金持ちの男性と次から次へと関係を持つことによって、生活の糧とするような生き方を娘が選択しても良いとレイモンは本気で思っているようです。

僕の娘なら、食わせてくれる男どもに不自由しないさと言い放つのですから。

「父とわたしにとって、内面の平穏を保つには、外部の喧騒が必要なのだ。そしてそれを、アンヌは認めることができない」(p153)。

セシルによれば父は、自分のこと以外は気まぐれに身をまかせ、無節操で、安易に流れています。あらゆることを生理的理由でかたづけようとし、それを合理的とよびます。

この小説の魅力のひとつは、レイモンとアンヌという対照的な人物の心中とその生き様をを娘セシルが推し量ったり、評価しているところでしょう。

セシルの思惑による仕掛けがとんでもない結果を引き起こすことになります。それでも似た者同士の父と娘は同じような暮らしをまた始めます。

アンヌの声と言葉は二人の生き方を変えることはできなかったが、ごくたまに良心の呵責


レイモンの次のお相手はなかなか野心のある若い女性で、セシルはその新しいガールフレンドがとても高くついていることを知っています。

セシルと父は、顔をあわせると笑い、勝ち取ったそれぞれの相手の話をします。

アンヌがレイモン、セシルに言いたかったことは彼らの心の隅にはあるのでしょうが、生き方を変えることはできない。時折、二人の心にアンヌの声と言葉が少しだけ蘇えるのでしょう。

それを「ものうさと甘さが胸から離れないこの見知らぬ感情」「絹のようになめらかに、まとわりつくように覆う」(第一章冒頭)、すなわち悲しみよこんにちは、とセシルは呼んでいます。

小説の冒頭と終わりは同じような場面になっています。これによりセシルの心の隅にある「ものうさ、後悔、ごくたまに良心の呵責」を思い起こさせます。

2014年10月19日日曜日

Marion Cotillard主演仏映画「サハラ、熱砂の愛」(原題Le Dernier Vol)を観ました。

映画のテーマは愛のあり方ですが、砂漠の暮らしの厳しさを思い起こさせます。


サハラ砂漠で生活している人々、「砂漠の民」は一体どうやって食べ物、衣料、飲み物を得ているのでしょうか。「砂漠の民」とはどういう人たちなのでしょうか?

水がふんだんにある日本に住む私にとって、「砂漠の民」はほぼ対極にいる方々のように思えます。映画を見ると砂漠の厳しさが体に伝わってきます。

私は何度もうがいをしたくなりました。「砂漠の民」は、うがいなど滅多にできないのでしょうが、その必要をさほど感じない体質を持っているのでしょう。

映画はサハラ砂漠を飛行中に墜落してしまった飛行士ビル・ランカスターをMarion Cotillard演じる恋人がサハラの厳しい自然と闘いながら捜しにいく話です。

この恋人たちの話はフランスでは有名なのでしょう。徐々に愛の現実が明らかになっていきます。主人公を助ける仏軍人の愛のあり方や軍人としての生き方も問われています。

愛しているとは言いながら、心の奥深くに打算や自分を正当化するものはなかったのか。相手の愛の言葉は本心だったのか。これはいつでも問われるテーマなのでしょう。

Mallion Cotillard演じる主人公が砂嵐により顔と頭が砂だらけになってしまうシーンがあります。砂漠では頭をいつでも簡単に覆える服装が必要不可欠でしょう。

私には映画の本筋よりも、サハラ砂漠の厳しさのほうが印象に残りました。音楽は砂漠を旅するラクダの隊商を思い起こさせるようなメロディーです。

サハラ砂漠の砂嵐を耐えながら生活する人々とラクダ


サハラ砂漠の砂嵐は凄まじい。画面から砂が吹いてきそうに思えてしまいます。砂嵐がくるとテントに入っていても体中が砂だらけになってしまいそうです。

サハラ砂漠にはどういうわけか、ハエのような羽虫がかなりいるようで、羽音が時折聞こえてきます。これだけでもかなり苦しい。マラリヤにかかる人もいるのでしょう。

砂漠では昼間と夜は相当温度差があるのでしょう。夜はかなり寒そうです。

サハラ砂漠の所々にオアシスがあり、そこで人々は水分を補給しているのでしょうが、食べ物はどこかから運んでくるのでしょうか。サハラ砂漠で畑作や牧畜は困難でしょう。

インターネットで調べてみると、ナツメヤシをオアシスで栽培しその果実を食べられます。サハラ砂漠では良質の塩が取れるそうです。

牛や羊をオアシス近辺と、砂漠そのものではない地域で飼育しているようです。またラクダの乳や肉も食用になっています。ラクダは砂漠近辺の荒野に生えている植物を食べるそうです。

「砂漠の舟」と言われるラクダの鳴き声が映画のほぼ全体に入っています。

砂漠を彷徨う主人公らは、最後はラクダの生存本能により生き延びます。

現代フランス人は北・西アフリカを領土とした歴史をどのように評価しているのだろうか


ところで、サハラ砂漠以北はフランス領だった地域が多いのですが、なぜ当時のフランスはこの地域に着目したのでしょうか。油田があることが早くからわかったのでしょうか。

アフリカの北部や西部をフランス領とし、住民にフランス語を普及したことは、現代のフランス社会にどんな影響を及ぼしたのでしょうか。

サハラ砂漠を生活圏としている人は、アラブ人だけでなく黒人もいます。種々の部族があるようですが、殆どがイスラム教徒でしょう。

フランス語を流暢に話すイスラム教徒がフランスに住むと、言葉は通じても基督教徒と生活習慣や世界観の違いから様々な衝突を起こしそうに思えます。

人質解放交渉を進展させるために日朝交渉を辞めるべきだ-対北朝鮮ラジオ放送で金日成を批判し国家安全保衛部と対南工作機関を窮地に陥れよう-

被拉致日本人を監禁している国家安全保衛部、対南工作機関は日朝交渉が頓挫すれば責任をとらされる


北朝鮮に拉致された日本人は、なぜ北朝鮮の一般国民のように中朝国境を越えて逃げてこられないのでしょうか。平壌近辺に住んでいるなら、なぜ外国の大使館に逃げ込めないのでしょうか。

答えは簡単で、何者かにより常に監視されているからです。監視者は人と場合により異なるでしょうが、恐らく国家安全保衛部ないしは対南工作機関でしょう。

朝鮮人民軍により監視されている方もいるかもしれません。横田めぐみさんの元御主人金英男氏は対南工作機関らしき組織に所属していました。

金英男氏は高校生のときに拉致された韓国人です。それでは被拉致日本人を救出するためには、国家安全保衛部や対南工作機関の幹部とどうやって「交渉」すればよいのでしょうか。

平壌に行き国家安全保衛部の徐大河とやらと会って「横田めぐみさん、有本恵子さん、増元るみ子さんらを返せ」と喧嘩調で言えば徐大河は驚いて返してくれるのでしょうか。

朝日と毎日の基本的見解「粘り強く交渉を」は空論だ


10月7日の朝日新聞社説「日朝協議・果敢な交渉で主導権を」は日本政府の担当者が平壌を訪問し、拉致被害者らの調査をしているという特別調査委員会に直接ただし、交渉の主導権をにぎるべく力をつくすべきだと主張しています。

10月1日毎日新聞社説「拉致再調査 北は駆け引きに走るな」は日本政府が平壌に担当者を派遣すべきか否かについては何も言っていませんが、社説の最後で次のように述べています。

「日本政府は、北朝鮮との意思疎通を密にし、早期解決に導くよう対応を強化しなければならない」。

朝日、毎日両社の社説の基本的考え方は、「日本政府は北朝鮮側と粘り強く徹底的に交渉すべきだ」ということでしょう。

朝日、毎日の論説委員の皆さんにお尋ねしたいのは、「果敢な交渉」、「北朝鮮との意思疎通を密にする」とは具体的にどのようなことを意味しているのかということです。

外務省担当者が優柔不断で柔和に北朝鮮側に接してきたから被拉致日本人を救出できなかったのか


朝日新聞論説委員の方々は、外務省の北朝鮮担当者のこれまでの対北朝鮮折衝が優柔不断だったと考えているのでしょうが、それは例えばどういう点なのでしょうか。

担当者が優柔不断だったから、北朝鮮側につけこまれて被拉致日本人を救出できなかったなどということがありえるでしょうか。

「果敢」という語の具体的中身が社説に全く記されていません。

北朝鮮の特別委員会が明確に答えない場合は、理由を厳しく追及するべきだという記述が社説にあります。

それなら朝日の論説委員の方々は、外務省の担当者が北朝鮮側と接するときの語調や表現、顔色がこれまで柔和だったから荒々しい表現や険悪な表情に改めろと言いたいのでしょうか。

外務省の担当者が怖い顔つきをすれば国家安全保衛部の徐大河らは外務省担当者に気迫負けして横田めぐみさんらを返すだろうと朝日新聞論説委員は本気で考えているのでしょうか。

外務省担当者が北朝鮮側と密接な人間関係を作れば被拉致日本人を救出できるのか


毎日新聞論説委員の方々は、外務省の北朝鮮担当者が北朝鮮側と心を開いて話し合う場を徹底的に作れば、被拉致日本人を救出できると思っているのでしょうか。

「意思疎通を密にする」という語の意味は、日朝交渉の公式折衝の場の後、外務省担当者は北朝鮮側の担当者とどこぞの高級酒場に行き、豪華な食事と酒で接待し何でも話せるような人間関係を作れということなのでしょうか。

外務省の担当者が北朝鮮側の担当者と高級酒を酌み交わしながら自分の若い頃の失敗談、恋愛話あるいは日本の政治家には放送局勤務の若い女性と噂がある人もいるというような話をすれば良いのでしょうか。

これにより北朝鮮側の担当者、あるいは国家安全保衛部幹部が日本人に親近感を抱くようになり、被拉致日本人を日本に返しても良いと思うようになると毎日新聞論説委員は本気で考えているのでしょうか。

「交渉」という語の具体的中身を考えられないのか


「粘り強く交渉を続けるべきだ」論者は、「交渉」という語の具体的中身を一切思考していないとしか私には思えない。

北朝鮮当局は金(外貨)を得るために日本と「交渉」しているだけなのです。北朝鮮当局の実情と狙いを一切考慮していない現在の日朝交渉は人質解放交渉になっていない。

外務省、朝日新聞、毎日新聞は国家安全保衛部や対南工作機関の善意に期待しているだけです。

被拉致日本人を返さねばどうにもやっていけないような窮地に、国家安全保衛部や対南工作機関を追い込まねば、被拉致日本人解放交渉は始まらない。

まずは日朝交渉を打ち切り、国家安全保衛部大幹部の徐大河による外貨獲得策動を大失敗させましょう。国家安全保衛部は黄ピョンソに責任を追及されるでしょう。

対北朝鮮ラジオ放送で金正日の女性関係を暴露するべきだ


さらに対北朝鮮ラジオ放送や海外衛星放送で金日成、金正日を批判すれば国家安全保衛部の責任は余りにも重大です。対日工作に失敗した対南工作機関も無能力者の集合体です。

対北朝鮮ラジオ放送の合間に天気予報で北朝鮮近海の天気、予想される波の高さなどを教えれば良い。

外貨獲得のためイカやタラなどをとっている朝鮮人民軍兵士も対北朝鮮ラジオ放送での金日成、金正日批判を聴くことになります。金正恩への忠誠心が地に落ちてしまいかねない。

全ては、日本との交渉に失敗した国家安全保衛部の責任なのです。国家安全保衛部が主体思想を十分習得していないから、こんな結果になったと黄ピョンソらが追及できるようにしましょう。

窮地に陥った国家安全保衛部があらゆる経路で猛烈に日本側を脅迫してきたとき、人質解放交渉が始まるのです。

日本政府は対北朝鮮ラジオ放送や海外衛星放送で次のように言えば良い。

日本軍に負けてソ連に逃げた金日成は軍事的に無能だった


「北朝鮮は直ちに横田めぐみ、有本恵子,増元るみ子さんらを返せ。金日成一味は中国共産党の指導下で山賊行為をやったから日本軍に討伐された。金日成らはその後ソ連に逃げてしまった」

「日本軍に負けてソ連に逃げた金日成は軍事的に無能だった。白頭山のパルチザン根拠地など全て捏造だ。ソ連にいた人間は白頭山に根拠地など作れない」

「金正日には金英淑、ソン・ヘリム、高英姫、金玉という女性がいた。他にもいるだろう。高英姫は元在日朝鮮人で、金正哲、金正恩、金予正のお母さんだ。ソン・へリムは金正男のお母さんだ」

「高英姫の妹は米国に亡命した。金正日の長男、金正男はマカオや欧州に出没している」

「金正男には息子がいて、パリで勉強している。金日成の孫や曾孫は主体革命偉業と無縁の暮らしをしている。白頭血統とやらの中には資本主義の水に浸かりきっている者もいるのだ」

この程度の情報が北朝鮮の住民に広がれば、「誰でも首領冒涜罪」になり国家安全保衛部が存亡の危機となることに留意されたい。

金日成、金正日の家族関係を知ることそれ自体が、「首領冒涜罪」なのです。

対日工作に大失敗した対南工作機関も黄ピョンソや金正恩に責任を追及されるでしょう。放送を辞めて欲しければ横田めぐみ、有本恵子,増元るみ子さんらを返せば良いのです。



2014年10月12日日曜日

Audrey Tautou主演仏映画「アメリ」(原題Le Fabuleux Destin D’Amélie Poulain)を観ました。

誰にも失敗する権利がある-人生観を語る映画-


この映画では台詞の中に、いろいろな人生観が語られています。人生観を語るフランス映画は多いのでしょうか。この映画の台本をじっくり読んでみたいものです。

アメリ(Amélie Poulain)という、変わった育ち方をして今はパリに住んでいる女の子が恋を成就させていく物語です。母親のありえないような亡くなり方も人生観を語っています。

アメリは他人との関係をうまく作れなくなっています。人に対する捉え方が普通の人と違うのでしょう。

そんなアメリの眼から人々を見ているからでしょうか。この映画の登場人物はどこか非日常的です。

この映画ではアメリが周囲の人物に多少の悪戯をしますが、私はそれらが悪戯であることがなかなかわかりませんでした。

父親や、自分が今住んでいる部屋の元の住人への心温まるアメリの悪戯は、人生をふと振り返らせます。

小人の人形が世界各地を勝手に旅をする写真を見て父親が「私にはわからん」と呟きます。アメリの父親への愛情が画面から溢れてくるようです。

アメリの悪戯、想像と挑戦は人生そのもの


アメリが時折ありえないような想像をします。

人生とは、挑戦と失敗、出会いとすれ違い、思い違いや行き違いの連続なのでしょうか。それらを繰り返して自分なりの成功を掴み取っていければ良いのでしょう。

他人が何の気なしに行った言動が自分の人生に大きな影響を与えることもあります。

そこに神の意思を読み取ることができると遠藤周作は考えていたのでしょう。偶然がそれぞれの人生、そして社会を創りだす。この映画にもそんな人生観、世界観があるように思えました。

それはCatholicism(カトリック)の影響なのでしょうか。

主演のAudrey Tautouの可愛らしさと、ほぼ全体に流れている音楽がよく適合しています。Parisの街並みも心に残ります。

2014年10月8日水曜日

テロ国家北朝鮮との「粘り強い対話」をやめ、「粘り強い思想攻撃」を!外務省高官、政治家の皆さんに暴力団と共産党研究を望みます-

対北朝鮮ラジオ放送で金日成、金正日を批判して国家安全保衛部大幹部を窮地に陥れよう―


外務省高官は大真面目に「粘り強い交渉と対話」とやらで披拉致日本人を全員取り戻せると思っているのでしょうか。まさかそうではないでしょう。

しかし外務省高官としては戦争により披拉致日本人を取り返すなど到底考えられない。従って多少の制裁をしつつも、「粘り強い交渉と対話」しかないという結論になっているのでしょう。

制裁を強化すると北朝鮮が対話の場に出てこなくなり「交渉のルート」が無くなるから、制裁を強化することにも外務省高官は反対してきたのでしょう。

政治家にもそんな方は多そうです。北朝鮮との粘り強い対話」を主張するのは左翼だけではない。

「学校秀才」は暴力団やテロリスト、共産主義者研究をしたことがないしする気もない


やや外在的な批判かもしれませんが、外務省高官のこの類の思考方式は「学校秀才」の限界と私には思えてならない。

東京大学法学部や経済学部の普通の講義や講義等で用いられているテキスト、参考書には「暴力団の現状と行動」「テロリストの思考方式」「中国、北朝鮮による蛮行の歴史-政治犯収容所の現実」「共産主義者の行動方式」などという項目はなかったのでしょう。

学校秀才は、学校の科目にない雑多な文献を読んでいたら良い成績をとれません。国家公務員試験に合格できない。

学校秀才中の秀才である外務省高官には、北朝鮮が普通の国ではなくテロを国策としているテロリスト国家であることがどうしても認識できないようです。

暴力と脅しが骨の髄まで浸み込んでいるような人間が世の中には存在するのです。暴力体質をもつ人間たちが武力を保持して組織や国家を形成してしまえば、暴力団やテロ国家となる。

〇〇組の組長、若頭、若頭補佐らと「対話」をすれば心を入れ替えて脅迫行為を辞めるのか


外務省高官が〇〇組の組長や若頭、若頭補佐と「対話」して心と心を通わせれば、その方々は心を入れ替えて脅迫行為をやめるでしょうか。

〇〇組には「粘り強い対話」を続けて住民への脅迫行為をやめるよう説得するしかないでしょうか。外務省高官も、そんなことを考えていないでしょう。

〇〇組の犯罪行為を警察が摘発し逮捕すればよい。しかし北朝鮮は強力な軍事力を持っているから日本政府は北朝鮮の権力者を逮捕できない。
従って「粘り強い対話」を続けていくしかない、「粘り強い対話」のための「交渉のルート」を維持するために食糧支援をしようという思考方式です。救いがたい。

資金源を断つだけでなく、構成員の幹部に対する尊敬感と忠誠心を無くす思想攻撃を!


〇〇組に住民は様々な経路で資金を出し続けるべきだと言っているに等しい。〇〇組を壊滅させるために資金源を絶たねばなりません。

さらに、〇〇組の幹部に対する構成員の忠誠心を減退させるような思想攻撃を行うべきでしょう。資金だけでなく幹部に対する尊敬感と忠誠心が無くなれば暴力団は存続できない。

幹部に対する尊敬感と忠誠心が構成員に残っているなら、構成員はあらゆる手段で資金を調達し幹部への上納を続けるでしょう。

対北朝鮮ラジオ放送で金正日による「招待所」での奢侈生活や華麗な女性関係を暴露すべきだ


テロ国家北朝鮮についても同じことがいえるのです。

対北朝鮮ラジオ放送で金日成が日本軍に討伐されて旧ソ連領へ逃げてしまったこと、金正日による「招待所」での奢侈生活や華麗な女性関係を暴露し北朝鮮の一般国民に広めてしまえばよい。

外務省高官や政治家にはこれは奇想天外のように思えるでしょうが、北朝鮮の一般国民がこれらを知れば仰天するどころではない。

共産党員、労働党員、在日本朝鮮人総連合会の皆さんは最高指導者批判を心底嫌がります。

奇妙な理屈に固執している人たちは、奇妙な理屈を作り出した最高指導者を信奉します。

外務省高官や政治家の皆さんにはこのあたりがどうしてもわからないようです。

対北朝鮮ラジオ放送の合間に北朝鮮近海の天気予報を入れるべきだ


ラジオ放送の合間に、北朝鮮の近海の天気予報を入れれば、イカなどをとって外貨稼ぎをする朝鮮人民軍兵士や漁民が放送を聴きます。予想される波の高さを教えてやればよい。

背景の音楽は韓国の歌謡曲にするべきです。

これを実行すれば、これまでの「日朝交渉」を北朝鮮側は打ち切ってくるでしょうが、そのままにしておいたら国家安全保衛部が責任をとらされてしまう。

朝鮮労働党の組織指導部に国家安全保衛部が責任を追及されうる。国家安全保衛部はあらゆる経路で「ラジオ放送をやめろ」と脅迫してくるでしょう。

テロ国家との「交渉」とは、「粘り強い思想攻撃」だ!


そのとき日本政府は「ラジオ放送を辞めてほしいなら横田めぐみ、有本恵子、増元るみ子さんらを返せ」と言えば良い。

テロ国家北朝鮮との交渉とは、「粘り強い対話」でなく「粘り強い思想攻撃」なのです。

ラジオ放送だけでなく、北朝鮮側と会う場でも外務省高官が金日成や金正日を批判するようになれば、国家安全保衛部大幹部は仰天して激怒する。

激怒した後、彼らは何かを考えるでしょう。日本側のいうことが本当かもしれない、などと。国家安全保衛部大幹部も思想的に動揺させてしまうべきなのです。

国家安全保衛部大幹部や労働党組織指導部が、本気で金正恩を尊敬しているなどあり得ない。しかし彼らは本気で金日成を尊敬しているでしょう。これを批判することが大事です。

外務省高官や政治家の皆さんには、暴力団や共産党、労働党、在日本朝鮮人総連合会に関する文献を読んで頂きたいものです。

追記-朝鮮労働党大幹部が業務遂行の気力をなくせば裏取引ができる-


「粘り強い思想攻撃」のために対北朝鮮ラジオ放送だけでなく、海外衛星放送でも金日成や金正日を批判する朝鮮語の番組を作り朝鮮半島や中国東北部で視聴できるようにするべきです。

北朝鮮の一般国民がこれを直接観る事は困難ですが、中国朝鮮族の行商人が番組を観てファイルにし、北朝鮮国内に運ぶでしょう。

「粘り強い思想攻撃」の結果、被拉致日本人を監視、監禁している国家安全保衛部や対南工作機関幹部が金正恩への忠誠心をなくしていくように仕向ければよい。

国家安全保衛部らが仕事を真面目にやろうという気力を失くし、外貨のためなら日本の意を受けた誰かと裏取引をしても良いなと考えるようにすることです。

国家安全保衛部や対南工作機関幹部が金日成や金正日への疑問を持つようになれば、金正恩の命令を真面目に実行しなくなるでしょう。

大幹部のやる気をなくさせるためには、一般国民に金日成や金正日の贅沢三昧生活の実態を知らせれば良い。「首領冒涜罪」が社会に蔓延するようにするべきです。

北朝鮮の人々がよく使う言葉でこれを表現すると、「資本主義の水を飲む」です。

国家安全保衛部や対南工作機関、労働党組織指導部の皆さんに「資本主義の水」をがぶ飲みしていただきましょう。

「資本主義の水」を大量に飲めば、「唯一思想体系確立の十大原則」や「全社会の金日成・金正日主義化」などありえず、愚の骨頂と思うようになっていきます。

そんな大幹部となら、被拉致日本人解放のための裏取引が可能になるでしょう。

北朝鮮が幹部から「軟着陸」していくかもしれません。処刑される大幹部もでるかもしれませんが。

スイスの学校で「資本主義の水」を大量に飲んだ金正恩が、一足先にやる気を無くしている可能性を指摘しておきます。

金正恩は「唯一思想体系確立の十大原則」や「全社会の金日成・金正日主義化」など国際社会で誰も相手にしていないことを熟知しているのです。

金正恩が精神的に参っているのかもしれません。要注意です。



2014年10月5日日曜日

米国映画Cocoon(Cocoonとは繭。1985年作)を観て-死を予見できる時期をどう過ごすか-

太古のとき海に残った仲間を連れ戻すため、宇宙人が地球にやってきた-


私はこの映画を大学を卒業してさほど経たない頃、ビデオ屋で借り狭い部屋で観た記憶があります。

昭和61年(1986年)頃だったでしょうか。ある老人が元気になって華麗なダンスをするシーンがとてもおかしかったのを覚えています。

光り輝く姿を持つ宇宙人が、海底に繭(Cocoon)のようになって残っていた仲間を連れ戻すためにやってきて、知り合った若者や養老院で暮らしている米国の老人たちと交流をします。

繭には生命エネルギーのようなものがあり、海底から取り出した繭を一時保存しているプールに入るとそのエネルギーの恩恵を受けることができます。

老人たちはそのエネルギーの恩恵を受け、中には死の病が寛解する人も出ます。しかし老人たちの言い争いから秘密がばれてしまいます。

宇宙人たちを助ける若者が、映画の最後に宇宙人と老人たちが遥かなる星へ旅立つ時、「May force be with you」というStar Warsの台詞を叫んだのが印象に残っていました。

死が遠くないことを予見できる時期をどう過ごすか-その前にもやるべきことがある-


約28年ぶりにこの映画を観ました。20代半ばの私にはわからなかったことが多少、見えてきました。

この映画の主題の一つは、誰にもやってくる老いをどう迎えるかということなのです。

自分の死が遠くないことを予見できる時期をどう過ごすか。いずれその問題に皆直面するのです。28年前の私には老いなど全く実感できなかった。

映画に出てくる4組の高齢者たちは残りの人生をどう生きるかという問題に直面しています。

高齢者たちは自分が生きてきた道を時折ふり返りながら、新たな道あるいは死を選択していくのです。祖父母と離婚した娘、孫との交流も心をうちます。

離婚は当人たちだけでなく、子供にも深い傷跡を残してしまいます。そんな子供には暖かく自分を見守ってくれる祖父母の存在は貴重です。

祖父母としても、孫の成長を見ていくのが何よりの楽しみなのです。祖父母が離婚している場合もいくらでもあるでしょうが、孫への思いは同じでしょう。

若い私にはこれらはわからなかった。

Knowledge is silver. Experience is gold. という格言をふと思い出しました。

もう20年もすれば、私もこの映画の高齢者たちとさほど変わらないような年齢になると思うと、いろいろやらねばならないことがあるように思えてきました。

Tahnee WelchはRaquel Welchの娘


ヒロインのTahnee Welchの美しさも心に残りました。インターネットで調べると私と同じ年齢(1961年生まれ)で、RaquelWelchの娘です。

Raquel Welchは「恐竜百万年」(One Million Years B.C.)に出ています。

Tahnee Welchは日本人の私から見れば、異国情緒を感じさせる女優と思えますが、西洋人から見るとどうなのでしょうか。

ところで、米国映画をみるとSlang(俗語)がよく出てきます。これは英語というより、米語なのでしょうか。この映画にも、卑猥な表現が出ていました。辞書を引かないとわかりません。

いくつかメモしておきます。Pain in the assはslangなのかどうかもわかりません。

nail you, boner, pain in the ass


2014年10月4日土曜日

Léa Seydoux主演「マリー・アントワネットに別れをつげて」(原題Les adieux á la reine)を観てー王妃の朗読係から見たフランス革命時のヴェルサイユ宮殿-

1789年7月14日パリ市民はバスティーユ牢獄を襲撃し、牢獄の司令官、兵士たちそしてパリ市長らを虐殺した。


事実とはそれを観察する人の立場、視点によって随分異なってくるものです。史実もそうです。

Léa Seydoux主演のこの映画の面白さは、マリー・アントワネットの本の朗読係である若い女性の視点からフランス革命時のマリー・アントワネットそしてヴェルサイユ宮殿の人々を描いた点でしょう。

マリー・アントワネットに信頼されている側近の一人だった彼女から見れば、フランス革命など平穏な生活を破壊した蛮行でしかなかった。

ルイ16世のお人好しぶりも描かれています。ルイ16世は、決断と素早い行動ができなかった。判断力、実践力が著しく欠落していた人物だったようです。

ルイ16世やマリー・アントワネットが住んでいたヴェルサイユ宮殿はお城ではありません。フランス王家は敵が攻めてくるということが想定していなかったのでしょう。

日本の城のような堀や頑丈な壁がありません。王を守る近衛兵もさほどいなかったようです。ブルボン王朝は国民の敬愛心により存続していたのでしょう。

さして武装しておらず、軍事上の知識もない暴徒にヴェルサイユ宮殿は簡単に制圧されてしまいました。

映画では、マリー・アントワネットが野蛮な民衆に対抗できる防御力のある城に移りたいと述べています。ルイ16世が決断できなかった。そんな史実はあったのでしょうか。

絶対王政という世界史の教科書用語からは、フランスの国王が現在の北朝鮮のように強力な常備軍や国民を弾圧する治安警察網を持っていたかのように思えてしまいますが、史実とかけ離れています。

新聞が普及し王家に対する罵詈雑言が流布された-奢侈生活は真実だが-


フランス革命の時代には、新聞が発普及し王家に対する罵詈雑言が流布されていました。この映画にも出てきます。

罵詈雑言が広範囲に流布されると、信頼関係が揺らぎ社会が荒れていくのでしょう。

マリー・アントワネットが周囲の人物、ランバル公爵夫人、ポリニャック伯爵夫人(Comtesse de Polignac)らとともに相当な奢侈生活をしていたことは史実です。

奢侈生活の財源は国民の税金です。不作とインフレによりパンが食べられなくなったパリ市民が、贅沢三昧をしている貴族に不満を抱いたのは当然でしょう。

しかし、ルイ16世やマリー・アントワネットを殺害してもパンが食べられるようになるわけではありません。パンの生産を増やすために小麦を増産せねばならない。

当面は、民衆の怒りを抑えるためにパンを輸入せねばならなかったはずです。そのためには奢侈品購入を差し控えねばならなかった。小麦の増産には時間がかかります。

ルイ16世やマリー・アントワネットにこんな政策判断ができようはずもない。経済政策的な視点がなければできない。老獪な貴族が財政を任されていればわかりそうです。

ランバル侯爵夫人とポリニャク伯爵夫人はマりー・アントワネットから寵愛された


ポリニャック伯爵夫人(Comtesse de Polignac)は、マリー・アントワネットの寵愛を受けながらもフランス革命が始まるとヴェルサイユ宮殿からウィーンに逃げ出しました。

この映画はこの逃亡劇とその背景を描いています。マリー・アントワネットがポリニャック伯爵夫人を愛していたと映画ではなっていますが、これは史実とは言い難いようです。

エブリーヌ・ルヴェの「王妃マリー・アントワネット」(知の再発見双書、原題La dernière reine, par Evelyne Lever, p37)にはポリニャック伯爵夫人の絵が掲載されています。美人です。

マリー・アントワネットの周囲にいた人物に対する多少の知識がないと、この映画はわかりにくい。これは江戸時代や戦国時代を舞台にした日本の映画が外国人にはわかりにくいのと同様です。

この映画を通じて私たちは、フランス革命時の貴族の生活や思考方式を垣間見ることができます。

民衆の現状を把握し、民衆が暴徒と化す前に妥協案を提示するような人物はあまりいなかったのでしょう。

シュテファン・ツヴァイクによればミラボーが「王政と民衆を調停できたかもしれない最後の人物」でした。この時代のフランスの貴族は経済運営、行政や軍事とは無関係だったのでしょうか。

日本の武士のように常時武装し、百姓の反抗にも備えているような人物は当時のフランスには稀有だったのでしょうか。

ナポレオン・ボナパルトのような優秀な軍人がなぜ当時のフランスに存在しえたのか、これをいずれ考えてみたいと思っています。