2013年10月13日日曜日

おそらく神にとって、人々が自分を信じてくれないほうがいいかもしれないんです。―Albert Camus,ペスト(The Plague、 新潮文庫p151)より思う―

 そうしてあらんかぎりの力で死と戦ったほうがいいんです、神が黙している天上の世界に眼を向けたりしないで(新潮文庫p151)




世界史の本を見ると、ペスト(The Plague, La Peste)は元の末期、14世紀初め頃から流行していたようです。

中央アジアからビザンツ帝国を経てイタリア、フランスやエジプトに伝わっていったようです。

1347年から50年にかけて、黒死病により欧州の総人口1億のうち、2500万人以上が死亡したとあります。4人に1人が亡くなったということは、地域によってはほぼ全滅ということでしょうね。

Albert Camusの「ペスト」の舞台は1940年代のオランという、アルジェリアの港町です。

オランとは、鳩もおらず、樹木も庭園もない、鳥の羽ばたきにも木の葉のそよびにも接することのない町です(p5)。

Albert Camusの文章は、簡明ですね。次など、どうでしょうか。


「ある町を知るのに手頃な一つの方法は、人々がいかに働き、いかに愛し、いかに死ぬかを調べることである。」(新潮文庫、p6)


人生はこれに尽きるのかもしれません。

人は食べるために働き、愛して子孫を残し、老いて死んでいくのでしょう。生きとし生けるものみなそうでしょう。


しかし、最期の死をどう迎えるのか。

どうしようもない運命により、思いもよらない死に方をすることになったとき、人はどう行動し、どう心の中で受けとめるべきなのか。

ペストの蔓延に直面したオランの住民は、嫌でもこの問題に答えを出さざるをえなかった。



まったく、ほとんど信じられないことです。しかし、どうもこれはペストのようですね(p44)




これは医師ベルナール・リウーと老医師カステルの会話です。

ペストは大量死を招くという点で、天災や戦争にひとしい。しかし、普段の暮らしで人はそんなことを予想できないものです。

「ペストや戦争がやってきたとき、人々はいつも同じくらい無用意な状態にあった」(p45)。

「ペストという、未来も、移動も、議論も封じてしまうものなど、どうして考えられただろうか。彼らはみずからは自由であると信じていたし、しかも、天災というものがあるかぎり、何びとも決して自由ではありえないのである」(p46)。


私たちの普段の暮らしは、同じような毎日がいつまでも続いていくであろうということを何となく心中で前提にして成り立っています。いつまでも続くことなど、ありえないのですが。



あなたは抽象の世界で暮らしているんです(p102)




今は健康でも、数日後に死んでしまう可能性が十分にある。そんな状況におかれたら、自分はどうするだろうか。

その場から逃げ出すか。しかし逃げ出しても、すでに病原菌に感染しているかもしれないし、街は封鎖されてしまった。時すでに遅し。


たまたまオランに滞在していて、町が閉鎖されたことにより出られなくなった人もいました。恋人と離れ離れになってしまった新聞記者ランベールは、その一人です。

ランベールは医師リウーにペストにかかっていないことを示す証明書を書く事を依頼しますが、リウーは布告と法律があるからと拒否します。

リウーに対しランベールは「あなたが言っているのは理性の言葉だ。あなたは抽象の世界にいるんです」と批判します。

現実には、医師リウーは猛威を倍加して週500に達している病院でペストとたたかっていました。

「抽象がこっちを殺しにかかってきたら、抽象だって相手にせねばならぬのだ」(p104)


医師りウーの選択肢はペストとたたかうことだけでした。私たちも同じような状況におかれたとき、こうありたいものですが、実際にできるでしょうか。


自らの現状に焦燥し、過去に恨みをいだき、しかも未来を奪い去られた、そういう我々の姿は、人類の正義あるいは憎しみによって鉄格子のなかに暮らさせられている人びとによく似ていた(p85)





絶望的な状況に追い込まれ、未来と言えるようなものを失ってしまったとき、人は焦燥して過去に恨みを抱くのかもしれません。

「人類の正義ないしは憎しみによって鉄格子の中にくらさせられている人びと」とは、例えば「異邦人」のムルソーでしょう。


中国や北朝鮮で、政治犯とされ囚人労働を強制されている人々もそうでしょう。政治犯収容所からの脱出はほぼ不可能です。

北朝鮮に拉致されてしまった日本人や韓国人たちは、どう生きるべきなのでしょうか。

囚人労働を強いられている人びと。拉致されてしまった日本人や韓国人。残された家族と友人。

そんな状況で、医師りウーのように献身的にたたかうとは一体どういうことなのでしょうか。

これは現在進行中のことですから、我々が真剣に考えるべきことです。

ペストと全力でたたかう医師リウーに対し、友人タルーは次のように問いかけます。


「なぜ、あなた自身は、そんなに献身的にやるんですか、神を信じていないといわれるのに?」(p149)。

リウーは次のように答えます。



もし自分が全能の神というものを信じていたら、人々を治療することはやめて、そんな心配はそうなれば神にまかせてしまうだろう。




しかし、神を信じていると信じているパヌルー神父(イエズス会)といえども、かかる種類の神を信じていない。

何びとも完全に自分をうち任せてしまうことはしないし、そして少なくともこの点においては、彼リウーも、あるがままの被造世界と戦うことによって、真理への路上にあると信じているのだ(p150)。

とにかく、この世の秩序が死の掟に支配されている以上は、おそらく神にとって、人々が自分を信じてくれないほうがいいかもしれないんです(p151)。

そうしてあらんかぎりの力で死と戦ったほうがいいんです、神が黙している天上の世界に眼を向けたりしないで(p151)。


リウーのこの言葉は、人はいかに生きるべきかという問いに対するCamusの答えでもあるのでしょう。


友人タルーはさらに、言われることはわかるが、あなたの勝利はつねに一時的なものであり、それだけだと問いかけます(p151-152)。

リウーはそれだからって、戦いをやめる理由にはならないと答えます。

タルーも、リウーも、問題のすべては、できるだけ多くの人々をして、死んだり終局の別離を味わったりさせないようにすることであったと考えました(p157)。

そのためには、ただ一つ、ペストと格闘する方法以外になかったのである(p158)。

オランの人々が生きていくためには、ペスト防止のための絶望的なたたかいをすることしかなかったのです。



しかし、彼、リウーは、いったい何を勝負にかちえたであろうか?(p347)




ペストは膨大な犠牲者を出しつつも徐々に衰退し、終息します。貴重な友を失いつつも生き残った医師リウーは上のように自分に問いかけ、次のように答えます。


リウーがかちえたところは、ただ、ペストを知ったこと、そしてそれを思い出すということ、友情を知ったこと、そしてそれを思い出すということ、愛情を知り、そしていつの日にかそれを思い出すことになるということである(p347)。


人はおたがい、思い出なのかもしれません。

ペストとのかけにおいて、人間がかちうることのできたのは知識と記憶であった(p347)。

リウーはこのように述懐します。

同様のことが、私たちの社会にもいろいろありそうです。

どうしようもない運命の悪戯により、亡くなってしまった友人、親族の姿は、消そうとしても心中から消せるものではありません。

それではあの人の死には一体どんな意味があったのか。

それは知識と記憶だけなのかもしれませんが、せめてその問いかけだけでも、行っていきたいものです。





























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