2019年1月7日月曜日

飯山陽「イスラム教の論理」(新潮新書)と井筒俊彦「『コーラン』を読む」(岩波現代文庫)より思う

「イスラム教はおそらく、『今』『この世界』が嫌だという人にとって最強のオルタナティヴです。信じることさえできれば、すべての人が救われるのです」(同書まえがき、p10より抜粋)。


人生、大過なく着実に生きていくのは本当に大変です。

順風満帆と自他ともに認めていた方が思わぬ失敗をすることがある。

自分の力ではどうしようもない事により、運命が大きく変わってしまうこともある。

自分の何気ない言動が、他人に大きな影響を与えてしまい、自分にも跳ね返ってくることもある。

遠藤周作はそれを、神がさいころを振ったといいました。

「コーラン」の存在感覚、世界像ではあらゆるものが神を讃美している


飯山さんの上記の言葉が、私は気になっていました。

なぜ「今」「この世界」が嫌だという人にとって、イスラム教が最強の対案なのでしょうか。

この問題を井筒俊彦「『コーラン』を読む」(岩波現代文庫、第三講「神の讃美」)により、考えてみます。

人間には神への讃美を拒否する自由があるが―天国へ行く者と地獄に行く者の区別は


井筒によれば、「コーラン」の世界像はあらゆるもの、天にあるもの、地にあるもの、全てがただそこにあるということで神を讃美している。

アッラーに対する人間の、最も優れたあり方は、いちばんよく神を讃美するような仕方で存在する事です。

人間以外の存在者は、天使と悪魔を別として、存在する事により神を讃美していながらそのことを知らない。

しかし人間には神への讃美を拒否する自由がある。

天国に行ったものだけが、心ゆくまで神を讃美する。

地獄に落ちた者は神を讃美できない。

では、天国に行く人と地獄に行く人の区別はどうやってなされるのでしょうか。

井筒俊彦訳の「コーラン」を私なりに読むと、この区別は次のようになされます。

天使が人々のなした行いの点数をつけている


アッラーが預言者ムハンマドに伝えた言葉は、「コーラン」に示されている。

「コーラン」に示されている生き方、存在の仕方で神を生前に讃美したものは、天使がそれを良い点数としてつけている。

アッラーを讃美せず、多神教を信じた者には天使が悪い点数をつけている。

世界の終りの日に、全ての死者は蘇り、神の前でその点数を天使により示され、天国へ行くか、地獄へ行くかが決まる。

従って大切なのは現世ではなく、永遠に続く来世である。

この視点なら、現世でうまく身を処すことができず、社会的に成功できなかった人でも「コーラン」が教えるように神を讃えて生きれば天国に行ける。

「この世界」が嫌でも、「コーラン」に従って神を讃美していれば天使が良い点数をつけて下さり、世界の終りの日に蘇って天国へ行ける。

天国では清浄な妻が何人もあてがわれる


井筒俊彦訳「コーラン 上の四、女」(p142)は天国について次のように記しています。

「だが信仰を抱き、義しい道を踏み行う者、そういう人たちはせんせんと河川流れる楽園に入れて、そこに永久に住みつかせてやろう。

そこでは清浄な妻(前出、天女フーリーの事)を何人もあてがおう。そして影濃き木影に入らせよう」。

聖戦に出征すると良い点数-汝らの身近にいる無信仰者たちに戦いを挑みかけよ


良い点数は、「聖戦」に出征してもつけてもらえるようです。「コーラン 九 改悛」(井筒訳、p328)は聖戦参加者への点数についての部分を抜き書きします。

「そういう人たち(聖戦に出征した人々)は、何か大なり小なりの費をしたといっては記録され、ちょっと谷を越したと記録され、それで(後日)アッラーから自分たちが(現世で)してきた最善の行いを御嘉賞して戴ける」

「これ、信徒の者よ、汝らの身近にいる無信仰者たちに戦いを挑みかけよ。彼らにおそろしく手ごわい相手だと思い知らせてやるがよい。

アッラーは常に敬神の念敦き者とともにいますことを忘れるでないぞ。」

飯山陽「イスラム教の論理」(p44)によれば、コーランで命じられているのだから喜捨もジハード(聖戦)もヒジュラも全部やるという「イスラム国」のありかたの方が、イスラム教の理ではより強力で正統です。

飯山氏によれば世界には「多様性」を否定的にとらえ、世界はひとつの価値観に収れんされなければならないと考える人もいる(同書p5)。

イスラム教はこれに属する。

私はインドネシアやイラン、トルコと日本は交流関係を深めるべきと考えていますが、距離の取り方が難しいと思えてなりません。





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