2013年1月4日金曜日

米原万里「嘘つきアーニャの真っ赤な真実」より-生きのびるための嘘と誇張-

米原万里著「嘘つきアーニャの真っ赤な真実」(角川文庫)



あけましておめでとうございます。今年も少しずつ、思ったこと、感じたことをこちらに書き留めていくつもりなので、何卒宜しくお願いします。

正月に、米原万里著「嘘つきアーニャの真っ赤な真実」(角川文庫)を読みました。米原さんは日本でも屈指のロシア語通訳だった方ですが、惜しくも6年ほど前に癌でお亡くなりです。

米原さんのお父さんは米原昶さんという、日本共産党の大幹部だった方で、「平和と社会主義の諸問題」という国際共産主義運動の雑誌の編集の仕事のため、日本共産党の任務としてプラハに派遣されました。そのため米原さんは、1960年から64年までプラハのソビエト学校で多感な少女時代を送ることになりました。ソビエト学校には各国の共産党や労働者党から派遣された人たちの子供たちが学んでいました。共通語はロシア語でしたから、米原さんも最初は随分とまどったそうです。

大人を「同志」と呼ぶルーマニア人の娘アーニャ


「嘘つきアーニャ」とは、お父さんがルーマニア労働者党の代表として同じ雑誌に勤務していたルーマニア人、アーニャのことです。生まれたのはインドのデリーで、育ったのは北京です。5歳のときに、国慶節の祝賀行進のとき天安門広場の雛壇で毛沢東に抱っこしてもらったという、共産主義運動の申し子のような女の子でした。

5歳のときということですから、恐らく1955年でしょうね。「大躍進」の前ですが、この頃でも毛沢東の権威は絶大なるものがあったでしょうね。

アーニャは祖国ルーマニアへの思いが人一倍強い子でしたが、ソビエト学校の悪童たちが、アーニャにつけたあだ名は「雌牛のアーニャ」でした。アーニャはなぜかソビエト学校のスクール・バスに乗り遅れないよう、走ってくることが多かったのです。

そのときのアーニャの走り方が無様だったこととからそういうあだ名になったと当時の米原さんは思っていたそうですが、今考えてみると悪童たちはアーニャの性格をからかってやりたかったのではなかったかと米原さんは述懐しています。

ソビエト学校の子供たちはスクール・バスの運転手さんの名前の前に「Mr.」に該当する「パン」をつけて呼んでいましたが、アーニャはロシア語で「同志」を意味する「ソードルフ」を付けて呼んでいました。

運転手さんは嫌がっていましたが、アーニャは「パンは、『旦那』という意味であり、他人の労働を搾取して生きた恥ずべき支配階級の人間の指した言葉だから、それを尊称に使うべきではない。労働者階級に属することに誇りをもってほしい」と小理屈を並べ立て、「同志」と呼び続けていました。

アーニャは誰に対しても「同志」と呼んでいたのですが、それが最も正しい言い方であると確信を抱いていたのです。共産主義こそ、人類最高の目的であり、手段であるからして、共産主義に関係付けることこそ相手に対する最高の敬意の表明(p93)という発想でした。

共産主義者の宣伝文句のような言辞を何かにつけて級友に吐いていたアーニャですが、「労働者階級」とは程遠い、ブルジョア階級そのもののような生活をしていました。総ガラス張りの温室に面した居間の天井には、巨大なシャンデリアがぶら下がり、食堂のテーブルはなんと二四人掛け。アーニャの家には使用人がいたそうです(p98-99)。

愛すべき嘘つきの親友アーニャとの再会
 

アーニャの嘘とは、例えば横幅の広い、黄色いノートがアーニャの家の近くの文房具店に売っていたというが、実はフランスから送られてきたものだった、というものです。ソビエト学校の子供たちの間で評判になっていたこのノートにも、実はアーニャの家族の悲しい歴史が刻まれていたのですが、米原さんがそれを知るのはずっとあとのことです(p167)。

 アーニャには話を大げさにする、誇張癖がありました。なんでそんな嘘をつくのか、頭を捻るようなものばかりでした。嘘をつくときのアーニャは、丸い目を見開いて真っ直ぐ相手の目をみつめます。アーニャには一度ついた嘘を本人も信じきってしまっているような節がありました(p118)。

このあたりには、少女時代の米原さんの鋭い人間観察眼を思わせませるものですね。でもアーニャは、優しくて友達をとても大切にするところがあり、皆に愛されていました。

アーニャが一度だけひどく逆上したのは、ギリシャ人のリッツアに「あなたはチースタヤ・ルーマニア人「とからかわれたときです。「チースタヤ」とはロシア語で、「純潔」「生粋」あるいは清潔」という意味です。この一言に、アーニャは激怒してしまったのですが、ずっと後にその理由を米原さんは知ることになります。

 米原さんは愛すべき嘘つきの親友アーニャを探すべく、95年暮れにブカレストを訪れたとあります(p139)。およそ30年ぶりに二人は再会しますが、米原さんはアーニャがなぜ「嘘つき」だったのか、なぜ友達を限りなく大事にしていたアーニャが「チースタヤ・ルーマニア人?」の一言に激怒したのかを少しずつ「理解」していきます...。
 

チャウシェスクのルーマニア-民族が生きのびるために嘘と誇張


アーニャとその家族に大きな影響を及ぼしたのは、ルーマニアという祖国が直面していた国際政治の厳しい現実でした。ソ連の軍事的脅威ということです。56年のハンガリー動乱や、68年の「プラハの春」はルーマニア人にとって衝撃だったことでしょう。

ソ連の命令に反抗すれば、軍事侵攻され弾圧されてしまうということですから。これを回避しつつ、自分たちなりの主張と体制づくりを貫かねばならないが、どうするか?

この回答が、チャウシェスクという狡猾な政治家を支持して、全国民が労働党の最高幹部に忠誠を誓っているのだから共産主義の理論に照らして何も問題はない、あえて侵攻する必要はない、とソ連に誇張宣伝するという手法だったのではないでしょうか。

チャウシェスクへの個人崇拝と不満を表明する政治犯に対する弾圧を正当化することは適切ではありませんが、民族が生きのびるための嘘と誇張、という側面もあったのではないでしょうか。

ルーマニアは本当に激動の現代史を経たお国ですね。チャウシェスク政権についての評価も、単なる独裁者というだけでなく、ソ連の軍事的脅威に対する抵抗のためという点も考慮せねばならないでしょうね。

ルーマニア労働党は腐敗しきっていたようです。政権がどうしようもなく腐敗すると、最高のエリート層の子供たちまで、いろいろと悪い影響を受けてしまうのでしょうね。私はルーマニアに行ったことはありませんが、学生時代のロシア語の先生の一人にルーマニアの傍のモルダビア出身の方がいらっしゃったので、ルーマニアについて多少、悪い話を聞いていました。

この先生の親族の一人が、ルーマニアの労働党員と結婚していたのです。この先生ももうお亡くなりのようですが、とても幅広い学識と経験をお持ちの方でした。先生は時折、ロシア革命など不要だった、その前に資本主義の枠内で必要な改革がなされつつあったのだからと力説されました。

30年ぶりのアーニャの表情-昔と同じ


およそ30年ぶりに会ったアーニャは、かつての強烈な民族主義を棄てたような話を米原さんにしますが、そのときの表情は30年前と同じ、丸い栗色の瞳をさらに大きく見開いて真っ直ぐ米原さんを見つめるものだったそうです。

私は米原さんと面識は全くなかったのですが、早稲田大学に通っていた頃私も多少ロシア語をかじっていたので、当時から「東大に米原さんという、ものすごくロシア語の出来る方がいる」という噂を耳にしていました。

若くしてお亡くなりになった米原さん、どんなにかもっと生きて、世の中の成り行きを観察し、思うことを訴えていきたかったかろうかと思うと、残念でなりません。

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