2012年11月27日火曜日

パチンコの球が落ちていくように

資本主義経済を生きる~激烈な競争社会


資本主義経済では、人々は企業や公共団体などの組織に所属し、財やサービスを所属組織を通じて提供して所得を得ねばなりません。自分たちが提供する財やサービスが市場で評価されなければ所属組織は存続できなくなリ、所属していた経営者、労働者は失業してしまいます。

同種の財やサービスを供給する各企業、組織は競合していますから、資本主義経済は弱肉強食の世界という面があります。各企業や組織内でも、職階や地位がありますから、労働者間で激烈な競争があります。

この程度のことは、資本主義経済で暮らしてきた人間であれば分かりきったことです。資本主義経済で生活していくためには、自分が常に激烈な競争に直面していることを意識せざるをえない。

資本主義以前の社会、例えば江戸時代の日本でも江戸や大阪には商業が発展していましたし、武士の世界にも競争はあったでしょう。農民であれば自然とたたかうために過酷な労働を強いられたでしょう。

江戸時代の日本人と現代の我々のどちらが、生き抜いていくために過酷であったかという点について単純な比較はできませんが、現代のほうがより多くの人間にいろいろな形で接さねばならず、人間同士の競争が多様な形態で行われていることは明らかではないでしょうか。

競争に敗れた組織や人は没落し、冷遇される。勝利した人や組織は豊かになり、称賛される。芸能界ではこれは明らかですね。企業社会も同じようなものでしょう。

泡のごとく浮かんでは消える人間関係〜人は役割を演じる存在


成功して財をなし、最高の人間だと絶賛されていた人が、ちょっとした失敗をきっかけに没落し世の罵詈雑言を浴びるようになる。「手のひらを返す」という言葉がありますが、こんなこと、現代の我々はいくらでも見聞していますね。

源平の昔、源氏と平家が激しく争って興亡を繰り広げましたが、現代人は競争相手から殺されはしないまでも昔よりもっと速い速度で興亡を繰り広げているのではないでしょうか。
「猿は木から落ちても猿だが、政治家は落ちたら何もなくなる」という言葉をどこかで聞いたことがあります。

現代は、人間関係の移り変わりが激しすぎるのです。次から次へと別の人が現れては、消えていく。これがお互い様になっているのです。濃密な人間関係を築くことなど、至難の技ともいえます。泡のごとく浮かんでは消えてしまうような人間関係。これでは誰しも、不安になってしまいます。少なくないビジネスマンが精神にいろいろな支障をきたすのも無理はありません。

社会学には、人間は社会の中での役割を演じる存在である、といった人間観があります。他人が次から次へと現れ、泡のごとく浮かんで消えていくようでは、自分の役割を確定することが難しくなってしまいます。

昔から人は圧迫感と不安感を抱いて生きている


激烈な競争に、自分はいつ破れ脱落してしまうかもしれない。そんな圧迫感、不安感を抱いて多くの現代人は生活せざるをえないのですが、圧迫感や不安感という点では昔も同じです。

江戸時代の農民なら、自然とのたたかいに敗北して凶作となり、飢餓に直面してしまうかもしれないという圧迫感を抱いて生活していたかもしれない。武士であれば幕府の締め付けにより自分の所属する藩が取り潰されてしまうのではないかという圧迫感を抱いて生きていたかもしれない。

幕府で政道を預かる老中らも、関ヶ原あるいは島原の乱のような大乱にいつ見舞われるかもしれないといった圧迫感を抱いて生きていたかもしれませんね。

大名ならば江戸城で何らかの職にある間、自分の担当範囲で不祥事が起きれば切腹もありうるというのは、当時の常識かもしれませんね。

しかし、江戸時代の人間関係は身分制度ですから、現代よりずっと固定的です。次から次へと人が現れては消えていく、というほどのことではありません。人の流れはずっと固定的で穏やかだったはずです。

昔も今もより良く生きよう、立身出世しようとするならば、人は常に、ある種の圧迫感そして捉えようのない不安感を抱いて生きていくことになるのでしょう。

パチンコの球が釘にぶつかり、はねかえり、次第に落ちていくように


遠藤周作「わたしが・棄てた・女」(講談社文庫)に登場する人物も、資本主義経済すなわち激烈な競争社会に生きているのですから、ある種の圧迫感を抱いて生きています。競争に敗れて行く人々を時折多少の軽蔑感をもってみつめて感傷に浸り、自分はそんな生き方をしまい、と思います。

そしてときには「自分もいつかそうなるのでは」という圧迫感から生まれる絶望感にさいなまされています。例えば、語り部のぼくこと吉岡努の場合は森田ミツを次のように見ています(p148)。

「パチンコの球が釘にぶつかり、はねかえり、次第に落ちていくようにあいつも堕ちてったんだ。なぜ、もう少しうまく俺のように毎日を渡れないんだろう。他人のやった罪までひっかぶって、わざわざ自分の運命を狂わしてやがる」


「堕ちていく人間」であるミツが吉岡にはパチンコの球のように見えたのですね。でも、競争に勝利して立身出世していく人間も、同じ人間なら所詮はパチンコの球なのかもしれません。誰がパチンコを弾いているのでしょうか。

大当たりの穴に入れる球もあれば、外れてただ落ちていく球もありますね。その違いは球を弾く存在によるちょっとした力加減の違いでしかないのかもしれません。飛んでいく球にとっては、この力加減が大きな違いとなって具現してしまう。運命とはそういうものなのかもしれません。

このあたりの記述で、遠藤周作は「神」の存在を示唆しているのかもしれません。

吉岡は昼休みに洗面所に入り、鏡の前で「俺は出世する。断じて出世する」と呟きます(p99)。針問屋に入社したばかりの若者ですからね。呟くことにより、自分を暗示にかけ、圧迫感と不安感から逃れようとしているのでしょう。

人生とよぶ路の中で、全くひとりぼっちである自分


ハンセン病であると告げられた森田ミツも、新宿駅でどうしようもない悲しみにつつまれます。

この霧雨の降る新宿の人ごみの中で、―いや、人生とよぶ路の中で、自分が全くひとりぼっちであり、ひとりぼっちであるだけでなく、病んだ犬よりももっとみじめで見捨てられていることを彼女ははっきりと知った。(p175)

ハンセン病という過酷な運命に直面してしまえば、誰でもこんな気持ちになってしまうことでしょう。しかし現実には、激烈な競争に勝利して立身出世していった人物でも、ちょっとした偶然をきっかけにして全てを失い、世の人々から罵詈雑言を浴びることはいくらでもありますね。

ミツは「あたしだって三浦さんのように生まれたかった。あたしだって、もう少し綺麗で可愛いくて、吉岡さんの気にいられて、それからみんなにもやさしくしてあげたかった」(p175)と悩みますが、美人の三浦さんの人生も実は前途多難なものなのです。

どれだけ美しい方でも、パチンコの球を弾く存在が定める大きな運命には逆らえないのかもしれません。芸能人でそんな方はいくらでもいますよね。

ハンセン病の病院で働く決意をしたミツは、自分がひとりぼっちではないことを知ったと思います。そうであるなら、ハンセン病と誤診されたことは、ミツの心境の変化のきっかけになっていたのかもしれません。

誤診されなければ、いかがわしい酒場で働き続けていたのでしょうから、全くのひとりぼっちだ、見捨てられているという心境に何かのきっかけではまりこんでいってしまったかもしれませんね。

パチンコの球の行く末


吉岡が述懐するように、人生をたった一度でも横切るものは、そこに消すことのできぬ痕跡を残すのでしょう(p254)。厳しい競争社会を生きる現代人はお互いの人生で次から次へと横切っていますから、痕跡は限りなく多く、深くなっているのかもしれません。

社会がそのように変容していったのが、パチンコの球を弾く存在の意思であるのかどうか、私にはわかりようもありません。

「大当たり」の穴に入ろうと、外れて落ちてしまおうと、パチンコの球は最後には消えていきます。大金持ちも貧乏人も、聖者も悪人も最後には誰もが死を迎え、後世にとっては先祖となる存在であることを見つめていきたいですね。












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