2013年9月17日火曜日

きょう、ママンが死んだ。もしかすると、昨日かも知れないが、私にはわからない-カミュ(Albert Camus)「異邦人」(新潮文庫)より思う-

空洞の心を持つ男、ムルソー



やりきれない虚しさ、虚無感(nihilism)にとらわれてしまった経験は、誰しもあるでしょう。

自分が精魂を傾けて実現しようとしていたことが、ふとしたきっかけから無と化してしまった。一体、自分のこれまでは何だったのか。

そんなことを手がけたこと自体が間違いだったのか。もっと別の路があったのではないか。

この路を選択したのはあのことがきっかけだったが、些細なことで間違った選択をしてしまったのかもしれない...

いろいろ思案していくと、際限がないものです。やり直していくしかないのですが、そのときには取り返しのつかない失敗をしてしまったと思えているかもしれません。

絶望に陥らないことがとても大事だと思いますが、そもそも人は、生きるに値するのか。この問いかけは厳しいものです。

簡単にYesと答えるようでは、何かの失敗により途方もない虚無感に陥ってしまうかもしれません。

Albert Camusの傑作「異邦人」のメッセージ(message)のひとつは、心の深淵に潜む虚無感を見つめ、各自がそれを克服していくことではないでしょうか。

哲学用語では不条理(absuridity)とは、人間存在のどうしようもない不安定性、頼りなさを示しているということだったかと思いますが、私は詳しくありません。

「異邦人」の主人公ムルソーは母親の死にすら、さしたる感情の揺れを持たない男です。アルジェから80キロの、マランゴにある養老院で母親は亡くなりました。

上述の「異邦人」の冒頭文は、空洞の心を持つ男、ムルソーをよく表現しています。



私は深くママンを愛していたが、しかし、それは何ものも意味していない。健康なひとは誰でも、多少とも、愛する者の死を期待するものだ(p68)。



小説の舞台は、灼熱の太陽のアルジェリアです。あらすじはあまりにも有名なので、私が思ったこと、感じたことを書き留めておきます。

ムルソーは普通の意味では、母親や恋人に対する愛情を持っていないのでしょう。

マリイからの、「自分と結婚したいか」という問いに対しムルソーは「それはどっちでもいいことだが、マリイの方でそう望むなら、結婚してもいい」と答えます(p45)。

上述のようにママンへの愛は何ものも意味していない、とムルソーは述べています(p68)。

公判で検事は「あの男には魂というものはひとかけらもない、人間らしいものは何ひとつない、人間の心を守る道徳原理は一つとしてあの男には受けいれられなかった」と述べます(p105)。

ムルソーには、普通の人間なら持つであろう肉親や恋人への愛情、友への友情が欠けていることは明らかでしょう。

健康なひとは誰でも、多少とも愛する者の死を期待するものなのでしょうか。

愛する者が長生きすることを願うのは、病弱で健康を害しているひとである、という言い方なら、頷けます。元の文章を言い換えただけのつもりです。

カミュは空洞のような心を持つ人物を描き出すことにより、人間らしさとは何かということを読者に問いかけているのではないでしょうか。



ムルソーへの死刑求刑理由-「精神的に母を殺害した」(p105)





ムルソーがアラビア人を射殺したことは間違いありません。

しかしアラビア人が最初に匕首を抜き、ムルソーの眼を切りつけたのですから(p63)、ムルソーが拳銃で反撃しても正当防衛になりうるのでは、と思えます。

殺害の場面を見ていた第三者はいないのですが、ムルソーの眼は匕首で傷つけられていたはずです。弁護士がこれに着目し、正当防衛を主張すれば、判決はどうなったでしょうか。

ムルソーはアラビア人殺人の罪を問われたというよりはむしろ、「母殺し」の罪を負わされてしまっています。

検事は「精神的に母を殺害した男は、その父に対し自ら凶行の手を下した男と同じ意味において、人間社会から抹殺されるべきだった」(p105)と述べています。

「精神的に母を殺害した」というのは、ムルソーが母の死にさしたる感情を示さなかったということなのですが、これが死刑の求刑理由にされてしまっているのです。

この時代のフランスでは、陪審員が検察のこんな求刑理由に同意してしまえば、死刑判決が確定してしまったのでしょうか。これでは、罪刑法定主義ではありません。

まさに人民裁判ですね。


他のひとたちもまた、いつか処刑されるだろう。君もまた、処刑されるだろう(p120)




Camusは、絶望的な状況におかれても、人には希望を見出しうる特権があると言いたいのでしょう。

人は些細な理由あるいは偶然で、突発的な死に方を余儀なくされうるのです。そんなとき、誰しも自分の人生にどんな意味があったのだろうと虚無感に浸ってしまうことでしょう。

特赦請願をしても却下されるであろうことを悟ったムルソーは、死ぬときのことを、いつとか、いかにしてとかいうのは、意味がないと考えます(p118)。

ムルソーは自分の最期について、次のように心中で叫びます。


他のひとたちもまた、いつか処刑されるだろう。君もまた処刑されるだろう。

人殺しとして告発され、その男が、母の埋葬に際して涙を流さなかったために処刑されたとしても、それは何の意味があろう(p126)。



病気で亡くなる方は、その病魔により処刑される、という解釈もできます。人は皆、いずれ処刑されるのですから、大差ないということが、「意味がない」の意味なのでしょう。


殆どの人にとって、ムルソーの死に方などどうでも良いことです。「世界の優しい無関心」(p127)とはそういうことでしょう。



これほど世界を自分に近いものと感じ、自分の兄弟のように感じると、私は、自分が幸福だったし、今もなお幸福であることを悟った(p127)




他人には全く意味がないとしても、自分の悲惨な宿命を特権として受け入れるという心境に至ることができれば、「世界の優しい無関心に心をひらいた」と言い切れるのでしょう。

ムルソーの残された望みは、処刑の日に大勢の見物人が集まり、憎悪の叫びをあげて自分を迎えることです。

そういう死に方なら、ムルソーは孤独でないことを感じることができるのです。

憎悪の叫びは、見方を変えれば、斬首台に近づいていかねばならない自分を励ましてくれる声と解釈しうるということなのでしょう。

憎悪の叫びを励ましの声とみなすことが出来れば、虚無感を克服しうるのでしょう。

自分の死を自分の価値観で解釈するという特権を、いずれは処刑される立場である人間は皆持っているのかもしれません。





























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