「人間性の回復をはかろうとする人びと自身の間にしばしばみられる人間性喪失―これを克服するためには、弁証法という名前の図式主義からの解放が必要だと思われる」(堀江忠男「マルクス経済学と現実 否定的役割を果たした弁証法」昭和40年学文社刊、p44より)。
故堀江忠男早稲田大学政治経済学部教授は、マルクス主義を批判する数々の著作と論考を執筆された方です。早大では、社会主義経済学を担当されていました。
私が早大政治経済学部に在籍していた80年代前半頃、堀江先生は60代後半だったはずですが、キャンパスを早足で歩く御姿を何度か見掛けました。
生意気な左翼学生だった私は、堀江先生の著作や論文を読んでもいないのに、心中で堀江先生を「反動学者だ」などとレッテルを貼っていたような記憶があります。真に浅薄でした。
元気のよい某親友が、堀江先生の演習に参加しマルクス主義と弁証法について堀江先生に議論を挑みました。堀江先生は暖かく受け止めて下さったそうです。
某親友によれば、70歳近い堀江先生は演習に参加していた学生間のサッカーの試合で審判をされ、グラウンド狭しとばかり走られたそうです。
信じられない体力の持ち主だと某親友は驚嘆していました。その頃から30数年の歳月が流れました。
北朝鮮の凄惨な現実を文献を通して知り、それを傍観する左翼勢力を批判するようになった私は、左翼が依拠してきたマルクス主義を批判する雑文を本ブログ等で生意気にも書いています。
中高年になれば時折、若い頃が懐かしく思い出されるものです。ななめ読みで恐縮ですが、最近堀江先生の著作と論文を少し読みました。
「彼は、肯定、否定、否定の否定という弁証法の法則は社会に内在しているのだという前提から出発して、資本主義の発生・発展・死滅を調べてみたら、やっぱり、歴史はそのとおりに進行している。だからこの弁証法の運動法則は、歴史的に証明された!もともと正しいと思っていたが、やはり正しかったのだ。こう結論したのである」(堀江忠男「経済体制を超えて」(潮新書昭和46年刊行、p90より)。
彼とは、マルクスのことです。天才マルクスにも、若気の至りはあったのでしょう。
堀江先生によるマルクス主義批判の論点は経済学だけでなく哲学、体制論と多岐にわたっています。生意気を許していただけるなら、堀江先生によるマルクス主義批判の核心はこれです。
マルクスは、人間の社会には自然と同じように内在する運動法則があると思い込んでいました。マルクスは弁証法の「否定の否定」を、次のように社会に適用します。
資本主義は労働者階級を作り出すことにより、没落せねばならない物質的条件を自ら生み出した。資本主義から共産主義社会に移行するのは必然だ、ということです。
堀江先生はこれを図式主義と喝破しました。
旧ソ連、東欧の社会主義体制が崩壊した今なら、この程度のことは常識です。
しかし昭和40年(1965年)にこれだけのことを言った勇気ある研究者といえば、堀江先生の他には小泉信三(慶応大)、猪木正道(京都大)くらいでしょうか。
当時の日本の大学や出版界、言論空間では、マルクス主義が大きな影響力を持っていたのです。
マルクス主義を正面から批判すると、「反動」と陰口をたたかれるか、「変わり者」として白眼視されるという風潮が大学のみならず、出版会、言論界にも少なからずありました。
反戦平和運動、左翼学生運動に同調、参加することが進歩的知識人の証とみなされる時代でしたから。60年代から70年代の日本では、左翼が知識世界、言論界の権威だったのです。
「反動」の堀江先生こそ、実は時代の風潮と権威に正面から逆らった「反逆児」だったのです。
「現代のマルクス主義者の人間性喪失、自覚症状のないマルクス・レーニン信仰は、まず一方では、心の底からの人間的反省を進めることによって治されなければならない」(「マルクスにも間違いはあった」(「中央公論」昭和32年3月臨時増刊p253より)
堀江先生はこの論考を朝日新聞社を退社し、早大講師に就任されたころ執筆されました。堀江先生は当時43歳くらいです。
昭和32年(1957年)ですから、フルシチョフによるスターリン批判から1年くらい後です。
堀江先生が主張された「人間性の回復をはかろうとする人びと自身の間にしばしばみられる人間性喪失」とは、ソ連や中国で断行された「富農」「人民の敵」「反革命」「右派分子」らの大量殺戮を正当化していた共産党員の冷酷さを指しているのでしょう。
狂信的にソ連を信奉し礼賛していた共産党員に「自覚症状」などあるはずもない。この少し前にソ連が断行したハンガリー侵攻を、宮本顕治氏ら日本共産党員は熱烈に支持しました。
ソ連軍による殺人を奇奇怪怪な理屈で支持するのですから、人間性喪失そのものです。
マルクスに由来する独特の思考方式である弁証法こそ、共産党員が人間性を喪失した原因であることを、共産主義国の現実を観察してきた若き堀江先生は見抜いていたのです。
共産党員の人としての在り方、生き方にまで学術論文で指摘した知識人は稀有です。
関貴星「楽園の夢破れて」(当初は昭和37年全貌社刊)を思い出しました。
関貴星氏は在日本朝鮮人総連合会の一員として昭和30年代に北朝鮮を訪れ、帰国した元在日朝鮮人や日本人妻がおかれた悲惨な現実を知りました。
「楽園の夢破れて」は北朝鮮の凄惨な現実を最も早く訴えた傑作です。
関貴星氏は在日本朝鮮人総連合会関係者から「民族反逆者」などと罵られたことでしょう。「反動学者」「民族反逆者」こそ、真の人間解放を訴えた方々だったのです。
今日でも在日本朝鮮人総連合会関係者は金日成、金正日そして金正恩を礼賛し、張成澤ら「反党反革命宗派分子」の処刑を支持しています。
「主体革命偉業」「唯一指導体系の確立」は人間性喪失そのものとしか私には思えません。
そんな在日本朝鮮人総連合会関係者の実態に目を背け、「ヘイトスピーチ反対」とやらで協力・共闘している左翼知識人、政治家は張成澤ら「反党反革命宗派分子」の処刑を支持しているのでしょうか。
追記
堀江先生が早大を定年される頃に演習に参加していた友人によれば、演習の合宿では必ずサッカーをやっていたそうです。あるとき、堀江先生のコーナーキックが見事にゴールに入ったそうです。
当時堀江先生は69歳くらいのはずです(堀江先生は1913年生)。60代にどういうトレーニングをされていたのでしょうか。
合宿でサッカーをやった翌日の朝、演習生は足が痛くて唸っていたいたそうですが堀江先生はかなりの速さで腿上げをなさっていたとのことです。鉄人ですね。
凡人の私も、ジョギングと縄跳び、腕立て伏せと腹筋で体を鍛えまねばなりませんね。
堀江先生は、御自身の学説に批判的な学生も演習に迎え、あたたかく接して下さったそうです。当時のマンモス私立大学には、こういう教員は少数でした。
以下は、中央公論昭和32年3月号掲載の堀江先生論考の末尾からの抜き書きです(同誌p253)。早大の教員になりたての、若き堀江先生の決意が良く出ています。
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