三年前、夫を交通事故で失った若きナタリー(Nathalie)が、衝動的にさえない部下Markusにキスをした。それが二人の恋の始まり。-
純愛物語です。気軽にジョギングに出た夫が突如交通事故で亡くなってしまいました。子供を産み育てることを二人で楽しみにしていたのに。これでは若妻は立ち直れないでしょう。
茫然自失したNathalieがParisの街を歩くシーンの挿入歌が、どことなくParisの雰囲気を醸し出しています。亡き夫への想いを連想させる歌詞です。
夫はもう死んだのだから、忘れなくてはいけないとNathalieは必死です。携帯から、夫のアドレスを消そうとしたが消せない。
内向的になり3年間仕事に専心するNathalieに、勤務先の社長( Bruno Todeschini)が声をかけます。Parisの洒落たレストランで二人は夕食を共にします。
社長はNathalieに愛を告白します。当惑しますがNathalieはきっぱり社長を拒否します。
社長はNathalieにかなり入れ込んでいますが、妻帯者です。「すぐに離婚する」と言いますが、こんな約束は当てにならない。
Nathalieの心の奥には3年前に亡くなった亡父がまだ生きていたのです。「一生、誰も愛さないかもしれない。愛するとしても、それは貴方ではない」とNathalieは社長に告げます。
若い二人の関係がなかなか進展しないのは―Nathalieの心中に亡き夫の面影か
なぜナタリーが突然部下のMarkusにキスをしたのかはよくわからない。仕事に打ち込んでいる女性が寂しさを紛らわすためにそんなことをするでしょうか。
そのあと、若い二人の関係がなかなか進展しないのも少し奇妙に思えます。
スウェーデン人のMarkusが、素敵な上司との恋の進展にとまどうものでしょうか?Nathalieの心中には亡き夫の面影が浮かんでは消えていたのでしょう。
それをMarkusは感じ取っていたのかもしれない。観劇の後エッフェル塔の近くで、二人で夜景を見ながら少し話をするシーンがあります。
Markusは「君は美しい。でもありえない」と言い、走って逃げてしまいます。そのあともMarukusは、Nathalieの顔を見ないようにします。
二人は中高生ではないのですから、これは考えられない。このあたりが、現代フランスには稀な純愛物語ということなのでしょう。
映画の最後のほうで、NathalieとMarkusが祖母の家に行きます。祖母の家の庭で、幼いNathalieが隠れん坊などをして遊びました。
その後Nathalieは亡夫と出逢い、哀しい別れをすることになったのですが、これまでの全ての彼女をMarkusは愛する決意をします。現実にはこれが難しいでしょう。
仏映画を観るたびに思うことの一つは、家が広い。一人暮らしでも、何部屋もあるアパートに住んでいて当たり前のようです。
フランス人の伝統的食文化がフランスの競争力を支えている
友人を招いてパーティを催すのはフランス人家庭のしきたりです。ワインを片手に友人同士いろいろ語り合う場面が、必ずと言って良いほど映画に出てきます。
フランス映画の魅力のひとつは、フランスの伝統的食文化を垣間見られることでしょう。フランス人は毎夕、ワインを飲むのでしょうか。
この映画には、英語の歌に合わせてNathalieがダンスをする場面があります。一昔前のフランス人には、英語を嫌う人が少なくなかった。これは30年前の私の学生時代の話です。
Nathalieのダンスを見て、フランスも米国化が少し進んでいるのかなと思いました。米国化というより、イスラム化が進んでいるという政党もあります。
映画と関係ないのですが、少し書き留めます。
フランスはフランス語圏からの移民を拒否できるか
イスラム化が進めば、伝統文化が衰えてフランス経済の競争力が弱体化してしまうかもしれません。
しかし移民としParisに来ている人々の多くは、父母や祖父母がフランス人だった方々です。フランス語圏の人々の殆どが、独立前にはフランス人だった。
フランス語圏の人々が親戚や友人を頼ってフランスに移住してくるのはおかしなことではない。豊かなフランスに渡って運命を切り開こうという気持ちでしょう。
フランス語圏からの移民を、イスラム教徒だからといって現在のフランスは拒否できるのでしょうか。かなりの難問でしょう。
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