「8月23日、私たちはマリノフスキー将軍の命令でハルビン市内を去り、武器を棄て、ソ連側の指定した集結地海林に行った。私たちはこのまままっすぐに祖国へ帰れるものだとばかり信じこんでいたのだった。」
「野盗のような赤軍兵士になやまされながら、長蛇のようなソ連の貨車が満州での戦利品を運び去っていくのを眺めて暮らす毎日だった」(同書p24より抜粋。昭和20年8,9月の話)。
高杉一郎氏は、シベリア抑留体験者です。「極光のかげに」(岩波文庫)という体験記を、復員後早く著しています。
高杉氏はシベリア各地で強制労働をさせられました。以下、高杉氏の体験と、帰国後高杉氏が会った人物との対話について、同書より記します。
高杉氏らシベリア抑留者はバイカル・アムール幹線鉄道建設に従事させられた
高杉氏がハルビンから初めに連行されたのはバイカル湖よりはるかに北の、雪に覆われた山の中、ニューヴェルスカヤという部落でした。
バイカル・アムール幹線鉄道建設の西側起点です。
密林をきりひらいたと思われる広い窪地の上に、丈の高い有刺鉄線の塀が大まかな方形に二重にはりめうぐらされていました(同書p31)。
バイカル湖、モンゴル共和国よりずっと北の地で大した冬着も与えられず重労働をさせられて、どうして生きのびられたのでしょうか。
高杉氏は各地を引き回された結果、昭和24年8月終わりごろに、港町ナホトカに連行されました。
ナホトカから恵山丸で8月30日に舞鶴港に入り、9月1日に伊豆天城山麓にある故郷に帰還しました。
高杉氏は雑誌「文藝」の編集者として、宮本百合子、中野重治らと付き合いがあった
戦前から宮本百合子や中野重治と交際のあった高杉氏は、昭和25年4月中頃に中野重治宅を尋ね、シベリア抑留体験について話しました。
中野重治は辛抱強く高杉氏の話を聞いて、「やっぱり、スターリンは偉大な政治家だよ」と言いました。
この後、高杉氏はシベリア俘虜の記録を書こうと思い立ちます。
雑誌「人間」に掲載された「極光のかげに」と題した手記が、昭和25年10月半ばには出回りました。
同年12月に、目黒書店から同書は出版されました。出版後、高杉氏は旧知の宮本百合子宅を訪問しました。
宮本百合子は既に「極光のかげに」を線を引いて読んでおり、そこに書かれているシベリアのことを次から次へと聞きました。
彼女が最後に口にしたことばは、「やっぱり、こういうことはあるのねえ」という呟きでした。
宮本顕治氏はマルクス・レーニン・スターリン主義者だった―在日本朝鮮人総連合会の皆さんは金日成民族
宮本百合子が高杉氏の話を聞き終わった頃、宮本顕治氏が出てきました。宮本百合子は夫に高杉氏を紹介しました。
宮本顕治氏も既に「極光のかげに」を読んでおり、いきなり次のように言いました。
「あの本は偉大な政治家スターリンをけがすものだ」「こんどだけは見のがしてやるか」(同書p188より)。
高杉氏はこの言葉が、「敗北の文学」の筆者の言葉とは信じられなかったそうです。
宮本百合子はこの後、宮本顕治氏にソ連の実態について何か話をしたのでしょうか。
マルクス・レーニン・スターリン主義者を自認していた宮本顕治氏のソ連信仰は、「極光のかげに」を読んだくらいではびくともしなかったのです。
宮本氏の言動は、北朝鮮の惨状を直視できない在日本朝鮮人総連合会の皆さんのそれとよく似ています。
在日本朝鮮人総連合会の皆さんの、金日成、金正日、金正恩への信頼と尊敬は本やテレビ番組くらいでは揺るがない。金日成民族の一員ですから。
しかし、中野重治はこれから十数年後には高杉氏の著作を熱心に読んだのではないでしょうか。
宮本百合子がもう少し長生きしていたら、昭和31年のハンガリー事件についてどう発言したでしょうか。宮本顕治氏はこのとき、ソ連軍の介入を支持しています。
誰しも、先を見通すのは難しいものです。
この四十年ほど後、ソ連が崩壊して宮本顕治氏が万歳を叫ぶとは、宮本百合子も予想できなかったでしょう。
現在日本共産党で、シベリア抑留問題を担当している小池晃議員に、高杉一郎氏の著作を読んでいただきたいものですね。
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