2018年8月29日水曜日

宮本顕治「スパイ挑発との闘争―1933年の一記録―」(昭和20年12月執筆、「赤旗」昭和50年12月11日再掲載)と袴田里見氏の訊問調書より思う。

「1933年12月下旬、日本共産党中央委員会は、大泉兼藏・小畑達夫が天皇制権力のスパイ挑発者である事実を公表し、両名を党籍より除名した。


たまたまこの両名の査問中、小畑達夫が急死したことを材料として、当時官憲はこれを党内の派閥闘争に起因する殺害事件として大々的に逆宣伝をおこなった。そして、日本共産党にたいするあらゆる捏造と誹謗に終始した。」(宮本同論文の冒頭より抜粋)。


昔の日本共産党には、警察が送り込んだスパイが入り、日本共産党の活動状況を警察に通報している場合が少なくありませんでした。

当時の日本共産党は、ソ連から武器や資金を受け取り、「帝国主義戦争を内乱に転化せよ」などと主張する物騒な集団でした。

警察がスパイとなる人物を組織して、テロを未然に防ぐために日本共産党の内部情報をえようとしたのは当然です。

日本共産党側では、幹部が次から次へと逮捕されてしまうので、誰かから情報が警察に漏れているのではないかと疑心暗鬼になっていました。

スパイとされる人物へのリンチ、殺人疑惑として知られている事件が、東京市幡谷(今の渋谷区)で起こりました。

昭和8年12月24日昼間頃です。

宮本論文によれば日本共産党中央は、「白色テロル調査委員会」を設定しスパイの疑いのある人物を調査していました。

この委員会の責任者は逸見重雄氏。袴田里見氏、秋笹正乃輔氏が調査委員でした。

「宮本顕治の半世紀譜」(昭和58年新日本出版社編集部編、p20)によれば、逸見氏と秋笹氏は中央委員で、袴田氏は中央委員候補でした。

宮本顕治氏は党中央として、調査委員会の報告を受け、査問委員会をつくりました。

下記の袴田氏の訊問調書の記述を読むと、宮本氏が小畑達夫氏にかなりの苦痛を与えたのではないかと思えます。

「宮本顕治公判記録」(新日本出版社刊行)によれば、宮本氏はこの事件の二日後、12月26日に逮捕されます。

その後宮本氏は昭和9年11月30日、「治安維持法違反、殺人、同未遂、死体遺棄、不法監禁、鉄砲火薬類取締法施行規則違反」の罪名で起訴されました。

昭和19年12月5日、裁判所は「治安維持法違反、不法監禁致傷、不法監禁致死、不法監禁、傷害致死、死体遺棄、鉄砲火薬類取締法施行規則違反」の罪名を宮本氏に認定しました。

これらの罪により宮本氏は無期懲役を言い渡されます。

しかし昭和20年10月4日、連合軍最高司令官の覚書「政治的、市民的および宗教的自由にたいする制限の撤廃」が発せられ、政治犯釈放の措置が取られました。

宮本顕治氏は10月9日に網走刑務所から解放されました。

宮本顕治氏は「スパイ小畑は特異体質の持ち主で、ショック死した」と主張するが


宮本顕治氏は論文「スパイ挑発との闘争」で小畑達夫氏が異常体質の持ち主で査問の途中にショック死した旨、主張しています。

宮本氏は小畑達夫氏に対し私刑を加えたことは否定していますが、身体にあった傷については以下のように微妙な説明をしています。

「それは大部分かれが逃亡をこころみて頭そのほかで壁に穴をあけようと努力した自傷行為とみなされる」。

宮本氏のこの説明は奇妙です。

壁に頭突きをしたら、大穴が空いて脱出できるでしょうか。4人の査問委員監視下で小畑氏がそんな大暴れをできるでしょうか(木島氏を入れたら5人)。

小畑氏の頭部に、かなりの損傷があったから、宮本氏は苦しい言い訳をしているとしか私には思えません。

ともあ\れ、小畑達夫氏がどのようにして死亡するに至ったかについて、査問委員の説明を聞くのは大事です。

宮本顕治氏と袴田里見氏それぞれの説明をみておきましょう。

宮本氏は論文で下記のように説明しています。

私と木島は、小畑の手をそれぞれ両腕でかかえ袴田は脚をかかえて、みな小畑の暴れるのをとめようとしていた。


「査問が一段おちついたとろこで、前夜査問にあたっていたわれわれは、その部屋の炬燵に入って、うとうとしていた。

逸見と同志袴田が、両名に補足的な訊問をやっていたようであった。

時刻は午すぎであった。

突如私は浅い眠りから急な物音によってよびさまされた。

みると、小畑が拘束されていた手足の紐をたちきって、窓際にちかよろうとしているのに、同志袴田と逸見が気がついて小畑にとりつこうとしている。

二人は、大泉の訊問をしていて、小畑から少し目をはなしていたのだったらしい。事態の重大性を直感し、私もとびおきて木島とともに小畑の傍へよった。

小畑は、大声を上げ、猛然たる勢いでわれわれの手をふりきって、暴れようとする。私たちはそれを阻止しようとして、小畑の手足を制約しようとする。

逸見は小畑の大声が外へもれることをふせごうとしてか、小畑が仰向けになっている頭上から、風呂敷のようなものを小畑の顔にかぶせかけていた。

私と木島は、小畑の手をそれぞれ両腕でかかえ袴田は脚をかかえて、みな小畑の暴れるのをとめようとしていた。

すると、そのうち、小畑が騒がなくなったので、逃亡と暴行を断念したのだと思って、私たちは小畑からはなれ、事態が混乱におちいらなかったことをほっと一安心した状態であった。

そこへ、秋笹が階下からあがってきて、だまって小畑のおおいをとった。

すると、顔色がかわり、生気をうしなっている。

これはまったく予期しない事態であるので、ただちに秋笹が脈をとり、人口呼吸をはじめ、さらに私が柔道の「活」をこころみ、それを反復したが、小畑の意識はついに快復しなかった」。

宮本はその片手で小畑の右腕をつかんで後ろへねじ上げ、その片膝を小畑の背中に掛けて組み敷きました(袴田里見氏の説明)。


袴田里見氏の予審での訊問調書が、平野謙「『リンチ共産党事件』の思い出」(三一書房昭和51年刊行)に掲載されています。

昭和13年2月頃に作成された文書ですから、旧仮名遣いになっています。重要な部分を現代仮名遣いにしてみました。

小畑氏が査問会場から脱出しようとしたので、査問委員がおさえつけて阻止したという点では、宮本、袴田両氏の認識は同じです。

おさえつけ方についての記述が、宮本氏と袴田氏で異なっているので、袴田氏の主張を以下、紹介します(同書p239)。

「その時私は仰向けに小畑はうつ伏せして倒れたのでありますが、倒れた小畑の頭の傍には逸見が座っておりまたこの騒ぎに寝ていた宮本、木島の両名が起き上がってきました。

その瞬間小畑が起き上がろうとしたので木島はその両手で小畑の両足をつかんでまたうつ伏せに倒し、宮本はその片手を小畑の右腕をつかんで後ろへねじ上げその片膝を小畑の背中に掛けて組み敷きました。

逸見は前から座っていた位置に倒れた拍子に小畑の頭が行ったので、その頭越しにすなわち小畑の頭に被せてあったオーバーの上から両手で小畑ののどをおさえて、小畑が絶えず大声を張り上げて喚くのでその声を出させないためにその喉を締めました。

その時私は小畑の腰のところを両手で押さえつけていたのであります。

この出来事は話せば長いように思われますがごく瞬間の出来事で小畑は糞力を出して我々の押し付けている力を跳ね返そうと極力努力したのであります。

すると喉をオーバーの上から絞められたので苦しそうな声で呻いていた小畑が急に静かになりました。

そこで皆が期せずして押さえつけていた手を離し極度の緊張が突然緩んだのでちょっとの間ポカンとしておりました。

そこへ秋笹が階下から上がってきました」。

小畑氏が暴れないよう、袴田氏は脚ないしは腰をおさえていたということです。この点では、宮本氏と袴田氏の記述は大差ない。

小畑氏はうつ伏せの姿勢で押さえつけられていたと袴田氏は主張。しかし宮本氏は仰向けと主張。

逸見査問委員が、小畑氏の頭部に風呂敷ないしはオーバーを被せ、声が外に漏れないようにしていたという点でも、両氏は同じ認識です。

異なる点は以下です。

袴田氏は、逸見氏が小畑氏の喉を締めたと主張している。宮本氏は逸見氏が喉を締めたなどと言っていない。

さらに宮本顕治氏が、小畑氏の片腕をつかんで後ろにねじ上げ、片膝を小畑氏の背中に掛けて組み敷いたと袴田氏は主張している。

宮本顕治氏は、木島氏と一緒に小畑氏の両腕をかかえただけだと主張しています。小畑氏の倒され方が、仰向け(宮本氏)か、うつ伏せ(袴田氏)かで異なっています。

宮本氏、袴田氏の主張のどちらが信ぴょう性があるでしょうか。あるいは、二人とも大嘘をついているのか。御二人とも大嘘をついているとは考えられない。

御二人の説明に、共通する部分が相当あるからです。

仰向けにされて両手、両足をつかまれ、風呂敷で頭を包まれたら成人男性は動けなくなるか


ある人が密室から必死に逃げようとしたとき、仰向けにされて両手と両足をつかまれ、頭部を風呂敷で包まれているぐらいで動けなくなるでしょうか。

逃げようとしている方の体格が、おさえつける側のそれと比べて相当劣っているなら、動けなくなるでしょう。大人が、駄々をこねて暴れる幼児を抑えつけるのは簡単です。

格闘家に両手、両足を抑えられたら動けなくなります。しかし優れた格闘家ならもっと効率的なおさえ込みを瞬時にするでしょうね。

普通の大人同士なら仰向けにされてもすぐに起き上がれるはずです。足でおさえつけている人を蹴ったり、手を振りほどくこともできる。

この程度のことは、兄弟や友人と取っ組み合いの遊びをした経験のある男性ならすぐに想像できるはずです。

宮本顕治氏の説明に大きな無理があるように思えてならない。

宮本顕治氏は小畑達夫氏の親族になぜ死亡時の状況説明をしなかったのか

袴田氏の説明どおりなら、小畑氏は片腕をつかまれて後ろにねじ上げられ、背中に宮本氏の片膝で重圧をかけられています。

さらに逸見氏により小畑氏は喉を締められている。

前日からの長時間の査問で疲れ切っているとき、喉を締められ?、うつ伏せにされて背中に片膝を載せられ、片腕をつかまれてねじ上げられたら、窒息死ないしは別の要因で死亡してもおかしくない。

私は医師ではないので、小畑氏の正確な死因はわかりません。

喉を締められ、うつ伏せにされて背中に片膝をのせられ、片腕をつかまれてねじ上げられると相当な負荷が心臓や呼吸器、あるいは血管にかかりそうな気がしてならない。

そういう亡くなり方を医学的になんと表現するのでしょうか。

ところで宮本顕治氏はなぜ、平野謙氏の著書に詳細に反論しなかったのでしょうか。

宮本顕治氏は査問委員会の中心だったのですから、小畑達夫氏の死亡に大きな責任があるはずです。

査問委員が何の暴行も加えなかったのに小畑氏が突然亡くなってしまったのなら、異常事態です。

普通に暮らしていても、心不全で突然死する方はいます。

宮本氏は、このときの査問が査問委員と査問者の間でお茶を飲み、食事もし、談笑を交えながら行われた、などと言いたかったのでしょうか。

そういう状況で突然亡くなったのなら、心臓疾患から心不全で亡くなった可能性は十分にあるでしょう。

宮本氏の論文でも、査問委員3名が大暴れする小畑氏を渾身の力で押さえつけたことになっています。談笑の最中に急死したのではない。

戦後、獄中から出た後、宮本顕治氏らは小畑氏の親族に状況説明をするべきではなかったのか。

小畑氏が査問会場から逃げようとして壁に頭突きをしたから、頭部に傷ができたと親族になぜ説明しなかったのでしょうか。

過酷な査問から何としても逃げたいと、壁に頭突きをするまで人を追い詰めることは適切だったのでしょうか。

宮本顕治氏の説明を信じている方は、これを真剣に考えていただきたい。

私は精神医学を良く知らないのですが、何かに追い詰められて絶望した場合、突拍子もない行動をする方はいる。

宮本氏の説明が真実なら、被査問者の精神を徹底的に痛めつけ、追い詰める過酷な査問の存在を裏付けていることになりませんか。

小畑氏は特異体質だった、心不全などで突然亡くなる方はいるというように、なぜ宮本顕治氏は親族に説明しなかったのでしょうか。

疑惑は深まるばかりです。

立花隆「日本共産党の研究(三)講談社文庫、p108」掲載の逸見氏と秋笹氏の予審調書より


立花隆氏のこの本に、査問を行った逸見氏と秋笹氏の予審調書が引用されています。これも旧仮名遣いですので、現代仮名遣いに直してみます。

逸見重雄氏
「宮本が小畑の腕を捩じ上げるに従い、小畑の体の俯きとなり、『ウーウー』と外部に聞こゆるごとき声を発したゆえ、自分は外套を同人の頭にかけようとしていると小畑は

『オウ』と吠ゆるごとき声を立て、全身に力を入れて反身になるような恰好をし、すぐグッタリとなりたり」。

秋笹正之輔氏
「二階にて小畑が大声にてわめき立つる声が聞こえて、次いでそれを取り鎮めるためバタバタと非常にさわがしき物音が聞こえ、7、8分を経るや、小畑が虎の吼えるごとき断末魔的叫び声をあげたかと思うとあとはヒッソリとしたり」。

逸見氏は小畑氏ののどを締めていないのかもしれません。

この点は袴田氏の説明とことなっていますが、宮本顕治氏が小畑氏の腕をねじ上げたという点については袴田氏と同じです。

日本共産党は、立花氏の論考が「文藝春秋』「週刊文春」に掲載された昭和50年12月から翌年1月頃、何度も反論文を「赤旗」に掲載しています。

しかし、小畑達夫氏がどのようにして亡くなったのかという点について、袴田氏や逸見氏の説明を日本共産党が正面から批判した文章は見つかりませんでした。

これでは、宮本顕治氏が小畑氏の背中に片膝をのせて、片腕をねじ上げたという袴田氏の説明のほうが正しいと思えるのは当然ではないでしょうか。

逸見重雄氏は戦後、法政大学社会学部教授を務めた方です。立花隆氏の論考や著作が公にされた後も特に見解を表明されなかったそうです。

私は逸見氏が、予審で嘘をついたとはどうしても思えません。








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