2018年11月4日日曜日

霜多正次「ちゅらかさ 民主主義文学運動と私」(こうち書房平成5年刊行)より思う。

(日本共産党では)「支部以いがいの他の支部や地区委員会などヨコの党組織に同志をつのることは分派とみなされ、また党内問題を党の外にもちだすことも厳禁されているから、党中央への批判は実質的にないにひとしい。したがって、中央の独裁権力をうみやすいはずであった」(同書p193より抜粋)。


最近、沖縄の問題に関する本をいろいろ読んでいます。霜多正次は沖縄生まれの作家です。

萩原遼氏も、「朝鮮と私 旅のノート」(文春文庫第五章)で霜多と同様の主張をしています。

「ちゅらかさ」によれば、ラバウルから復員した霜多は、都立高校の教師をしていました。昭和23年9月に教師を辞め、新日本文学界の事務局に入りました。

以降、日本共産党の影響下にある文学運動の真っただ中にいた一人として、御自分の文学運動での歩みをこの本で述懐しています。

ちゅらかさ、とはどんな意味なのでしょうか。昔の旅人がかぶる編み笠を想像します。御自分の文学運動の半生を、旅人に喩えてつけたのかもしれません。

日本共産党の影響下にある文学運動を、プロレタリア文学運動、民主主義文学運動と言います。

太宰治はプロレタリア文学に敬意を持っていたように思います。

今日の日本では、プロレタリア文学の社会的影響力はほとんどない。

プロレタリア文学衰退の理由の一つは、プロレタリア文学団体が社会主義国の動向や日本共産党の路線の強い影響下にあったので、内部抗争、離散を繰り返してきたことではないでしょうか。

霜多正次は著作の登場人物の発言が日本共産党の路線から外れていると批判された


霜多正次は「民主文学」という雑誌の昭和58年5月号で、日本共産党幹部会員の津田孝氏に著作「南の風」(新日本出版社昭和57年刊行)を強く批判されました。

「南の風」の登場人物の発言が、日本共産党の路線から外れたものになっている、という趣旨の批判です。

日本共産党の影響下にある文学者の作品は、日本共産党の路線を普及し社会進歩に貢献するように努めねばならない、という宮本顕治氏の文学論に基づく批判でした。

こんなようでは、作家は日本共産党幹部に嫌気がさしてしまうでしょう。小説は日本共産党の路線の宣伝物ではないはずですから。

そうは言っても、プロレタリア文学運動(民主主義文学運動)を指導すると称する日本共産党幹部にも言い分はあります。

小説家が社会進歩に貢献できないとは何だ。マキシム・ゴーリキー、小林多喜二、宮本百合子に見習え、という話になります。

それでは社会進歩とは何なのでしょう。

ロシア文学なら、トルストイやドストエフスキー、チェホフはプロレタリア文学ではありえませんが、社会進歩に寄与していないのか。

仏文学なら、「レ・ミゼラブル」は社会進歩に無縁なのか。これは基督教文学ともいえますから、日本共産党の文学運動担当者なら社会進歩には無縁と答えそうです。

ブルジョア文学を批判的に吸収せよ、とかいう話になるのでしょうか。文学を進歩云々で測定されたら、読書好きの人はたいてい、嫌になります。

社会進歩に貢献せよ、などと言われたら、文学者は何も書けなくなりそうです。そんなことを他人に押し付ける人物の内面が想像されてきてしまいます。

小田実氏が「民主主義文学」昭和58年4月号に載せた文章に、「反党分子」の訪中が記載されていた


「ちゅらかさ」によれば日本共産党の文学運動担当者は霜多正次への批判と同時期に、「民主文学4月号問題』と呼ばれる、民主主義文学運動への強烈な批判を展開しました。

「民主主義文学」(新日本出版社刊行)4月号掲載の小田実氏がよせた文章に、「反党分子」である野間宏の訪中についての記述がありました。

日本共産党についてよく知らない方はそれがどうした、と思うでしょう。

「反党分子」とは、日本共産党員が日本共産党を批判するようになって規約を破り、除名された方をさす言葉です。

在日本朝鮮人総連合会では同様の方を、「民族反逆者」と呼びます。

日本共産党員が「野党と市民の共闘」を訴えるなら、「反党分子」批判を再検討すべきだ


霜多は、「反党分子」の方々を次のように評しています。

「党を除名されるのは、多くのばあい、党中央と意見が会わず、自分の意見を発表する自由をもとめて、規律違反をあえてするのであったが、そういう人間は『反党分子』『脱落分子』と刻印されて、党員のまえからは全人間的存在が抹殺されるのだった」。

霜多によれば、日本共産党員は「反党分子」と親しく付き合った時期があっても、葬儀にも出てはならないとされています(同書p201)。

昭和54年8月、プロレタリア文学作家として有名だった中野重治の葬儀に霜多は参列しましたが日本共産党員はみかけなかった。

佐多稲子が、おどろいたように「よくきてくれたね」とやさしい表情をしてくれたのが、わたしはいまでも忘れられない、と霜多は記しています(同書p201)。

親しかった先輩、友人の葬儀には出るなという話です。日本共産党員が「反党分子」の葬儀に出たら規約違反として処分されるのでしょうか。

「反党分子」に対する「赤旗」、日本共産党最高指導部の対応の件は、「反党分子」の方が亡くなったときにかなり議論されてきたようです。

哲学者古在由重氏が亡くなったとき、「赤旗」には死亡記事が出ませんでした。古在氏は平和運動の進め方で、日本共産党を辞めたようです。

古在氏は「反党分子」だったのかもしれません。死亡記事を出さなかった事について、「赤旗」に説明記事が出た記憶があります。

野坂参三氏の死亡記事は「赤旗」に出たと記憶しています。

日本共産党が「野党と市民の共闘」を訴えるのなら。「反党分子」に対するこれまでの言動を再検討すべきではないでしょうか。

霜多正次、萩原遼の両氏は日本共産党を除籍となりました。両氏は「反党分子」だったのでしょうか。

霜多によれば「反党分子」はスターリン時代に処刑あるいはシベリア流刑となりました。「反党分子」は党員の頭から抹殺されねばならないから、葬儀にも出てはならない(同書p201)。

あまりにも異様です。日本共産党と在日本朝鮮人総連合会はよく似ていますね。

日本共産党幹部が唯物論者なら、霊魂などないと考えているはずです。

日本共産党員はどんな方の葬儀にも出てはならない、と主張するのが理屈にあいそうです。

萩原遼氏を「しのぶ集い」は東京、大阪で開催されました。私は大阪で参加しましたが、日本共産党員の方も出席されていました。










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