「『核抑止力』論や『力の均衡』論などへの批判は必要であるとしても、帝国主義戦力の包囲のなかで、遅れた歴史的条件に制約されつつ、社会主義を発展させた防衛力強化の政策を、資本主義国家の『富国強兵策』と同列視するのも、山里教授の試論が含む問題点である」(津田孝「民主主義文学とは何か」昭和62年新日本出版社刊行、p195より抜粋)。
昭和62年頃の日本共産党は上記のように、ソ連や中国の核軍事力保有を「社会主義を発展させた防衛力強化の政策」と把握していました。
これは、レーニンの帝国主義論や当時の日本共産党綱領から導かれる当然の結論です。
上田耕一郎「マルクス主義と平和運動」(大月書店刊行)の見地と同じです。山里教授とは、「南の風」に登場する人物です。
「南の風」が執筆された頃の中国は、「改革・開放」開始以降4年くらいです。
「新中国」は昔から富国強兵策をとっていたとみなすべきでしょう。朝鮮戦争への参戦は大韓民国への侵略です。
津田孝氏は日本共産党でプロレタリア文学運動の指導を担当していた
津田孝氏は、日本共産党でプロレタリア文学運動(民主主義文学運動ともいう)の指導を担当なさっていた方です。
津田孝氏は、「民主文学」昭和58年5月号で霜多正次の「南の風」を批判する評論「現代の危機をどうとらえるか―霜多正次『南の風』を中心にー」を発表しました。
この文章は、昭和62年発行の「民主主義文学とは何か」にも掲載されています。
「民主主義文学とは何か」には、「『南の風』再論―批判者への回答として」という評論も掲載されています。
津田氏に対して、霜多氏だけでなく民主主義文学同盟の会員からかなりの批判があったようです。
後者の論考で津田氏は、「南の風」登場人物の数々の発言を取り上げ、それらが作者の霜多正次の思想の現れとみなし例えば次のように論じています。
・主人公の田港和子の故郷であるN村の「住民本位の自主的なムラづくり」については、その推進力となっているはずのN村における共産党をはじめとする革新的な政治勢力を、
作者は文学的形象として描かず、農業経済学者である塚本恒夫に、「農村の共同体」見直し論を語らせることで具体的描写にかえている。
・作者が今日の革新的な運動に対する懐疑的な態度を深め、その生彩あるリアルな描写ができなくなっていることを意味している。
その原因は、世界政治の問題では、とくに社会主義大国にあらわれた否定的現象から、作者自身が社会主義への復元力への核心と展望を失っていることである。
プロレタリア文学運動に参加する作家は、作品を通じて日本革命に貢献すべきである
日本共産党、日本革命理論の視点からみれば、プロレタリア文学運動に参加している作家は作品を通じて日本革命に貢献すべきです。
津田氏から見れば、霜多正次氏が何かの理由で日本共産党の日本革命論に疑問を持ち始めた。
そこで霜多氏の作品では、登場する日本共産党員が日本共産党の政策や平和運動の意義を十分に語れなくなった。
だからこの小説は駄目だ、という話です。
津田氏の主張は、日本共産党の日本革命理論から見れば当然なのでしょう。
しかしその日本革命理論そのものが現実から遊離した内容だったら、プロレタリア文学運動参加者はどうするのでしょうか。
社会主義国の核軍事力が防衛的だ、社会主義には復元力があるなどという津田氏の主張は、ソ連や中国、北朝鮮による核軍拡と侵略の歴史を考えればあまりにも非現実的です。
レーニンの帝国主義論では、戦争は金融資本、帝国主義が起こすことになっています。
金融資本がないはずの社会主義国が日本への侵略を策しているなど荒唐無稽だ、と日本共産党員は今でも考えている。
これでは、プロレタリア文学運動が徐々に影響力を失っていくのも当然です。
日本革命、世界革命はない―日本共産党の社会主義論、日本革命論は荒唐無稽―
日本共産党員としてプロレタリア文学運動、民主主義文学運動に参加している方々には、津田氏の非現実的な社会主義論が、運動に破滅的な影響を与えた事を考えて頂きたい。
小説の登場人物がどんな政治的見解を持っていようと、それは大した問題ではない。
日本革命、世界革命などありえないのですから。
生産手段は私的に所有されてこそ、資源が効率的に運営され、経済厚生が高まる。
資本主義経済で完全雇用を常に達成するのは困難ですが、適切な財政・金融政策の実行や経済成長政策で努力するしかない。
経済成長が徐々にでも実現できれば、人々の暮らしは少しずつでも改善されていきます。
社会運動に参加する人々の内面の葛藤や、論理の衝突などの人間模様が描かれているなら良いと私は考えますが、いかがでしょうか。
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