「高校を卒業して、東京にあこがれて短大に入ったのは、ちょうど沖縄返還運動がたけなわだった1970年だった。あれ以来いろんなことがあったが、その青春の九年間があっという間に過ぎた感じである。」(同書p8より抜粋)。
最近、沖縄についていろいろな本を読んでいます。
沖縄生まれの作家霜多正次は、故郷沖縄の現状について、生涯書き続けました。
霜多の「ちゅらかさ」(「四月号」問題、以下は同書p209-215による)によれば、「南の風」は日本共産党幹部会員(当時)の津田孝氏により次のように批判されました。
共産主義者たちの先駆的なたたかいの意義を歴史的、発展的に見ていない。
これは「民主文学」という雑誌の座談会での事です。
日本共産党とプロレタリア文学運動(民主主義文学運動とも呼ばれる)の関係についてよく知らない方は、政党の一職員が小説を批判したからといってどうなんだ、と思うでしょう。
良かれあしかれ、プロレタリア文学運動は日本共産党の強い影響下にある文学者の社会運動です。
自民党や公明党の議員が、プロレタリア文学作家の小説についてつまらない、設定に無理がある等とどこかの雑誌で言っても、その小説の著者は苦笑いするだけでしょう。
日本共産党幹部会員である津田孝から批判されるという事は、民主主義文学運動から何かの理由で排除されてしまうかもしれないという事を意味しています。
津田孝論文と、座談会が載った「民主文学」5月号が書店に出た昭和58年4月初めには、民主主義文学同盟は異常な事態に追い込まれたそうです。
この件については別の機会に考えます。
プロレタリア文学をなぜ私が読むのか
日本共産党、左翼を批判している私がプロレタリア文学をなぜ読むのか、という方がいるかもしれません。
民主主義文学同盟とは小林多喜二、宮本百合子らプロレタリア文学運動の後継者を自認する人々が作っている団体です。
私は、プロレタリア文学運動の政治観には到底同意できません。
プロレタリア文学、評論というより、単なるソ連礼賛論ではないか、と思えるものもあります。
しかしその小説が左翼運動に参加している人々がどういう価値観、世界観あるいは人間観を持ち、様々な課題にぶつかりながら、苦悩しているかを描いているなら、存在意義がある。
平和と民主主義のために戦うと称するなら、戦争はなぜ生じるかを自分なりに理論と歴史から考えねばならないはずです。
これについては、左翼の中でも一致しているわけではない。左翼の中で必ず衝突が生じます。衝突の真っ只中にいる方々は深く苦しまざるを得ない。
その内心の苦しみを描く事も、プロレタリア文学の使命ではないでしょうか。
「南の風」は沖縄左翼の視点がよくわかる
津田孝氏が酷評した「南の風」ですが、昭和54年頃の左翼運動家から見た沖縄の実情がよくわかります。
沖縄は日本共産党だけでなく、新左翼の運動家が多いことでも知られています。「南の風」には新左翼の教員たちの論理も描かれています。
主人公の田港和子は昭和45年に高校を卒業したのでしょうから、昭和26年頃の生まれです。
物語は昭和54年ですから、28歳くらいです。平成30年の今、67歳くらいになっている沖縄の女性の物語です。
和子は東京の短大を卒業後、全共闘の運動に参加していた男性と知り合い結婚しますが、彼の世界観についていけず離婚し、故郷の沖縄に飛行機で帰ってきます。
機内で、後に魅かれていく福地国生と会います。
福地は30代前半で、那覇の中学の社会科教師です。中学の国語教師の妻、京子と二人の子供がいます。上の子はもうすぐ小学校一年生です。
国生は「団塊の世代」に属していることになります。この世代には、若い頃左翼運動に参加した方が実に多い。
ベトナム戦争の頃に、大学生だった世代ですから。
70年安保改定反対!を叫んだ方の中には、その後各地で中高の教員あるいは塾の教師になった方が多かったことでしょう。
その方々は今は70歳くらいになっています。日本各地で、左翼運動に参加した方々の人生模様はどうだったのでしょうね。
プロレタリア文学運動の小説を読むと、そんな想像を膨らませることができます。
プロレタリア文学は、日本社会を左翼運動史という角度から見ることができるという点で面白い。
霜多正次は沖縄の軍用地料が高すぎることを指摘していた
機内で国生は、和子に沖縄の現状についていろいろ力説します。
国生によれば沖縄経済は政府の行政投資と観光収入で持っている「他立経済」で、利益は本土に持っていかれるから「ザル経済」。
しかし行政投資と観光収入の額が大きいので、その落ちこぼれにより復帰後に県民所得は三倍になった。「他立経済」の落ちこぼれで甘い汁を吸っている人もいる(p14)。
軍用地料が十倍にはね上がると、多くの地主が基地返還を言わなくなった。
中には、米軍から返還された土地も、引き続き防衛施設局が借りてくれるように要請する地主もいる(p160)。
軍用地料については、来間泰男教授の実証的な研究が知られています(「沖縄経済の幻想と現実」平成10年日本経済評論社刊行)。
霜多正次も早くから問題点を指摘していたのです。
沖縄の方ならこれは常識だったのかもしれませんが、今でもこれはタブーのようです。
「南の風」は二人の物語はこれから、というところで終わっている
国生は和子と繰り返し会い、北部にある故郷のN村での村づくり、農業振興による故郷の経済発展に従事しつつある和子に魅かれていきます。
小説は愛情を抱き始めた二人が今後どうするか、真剣に考えだしたところで終わってしまいます。この終わり方が、私は気に入らない。
和子との仲を国生の妻、京子が知ったら黙って身を引くでしょうか。
沖縄は親族間の紐帯が強いそうですが、二人の親族はそれぞれ二人の今後についてどういうでしょうか。
国生は可愛い盛りの子供達を置いて和子の元に行けるのでしょうか。
和子の元に行ったとしても、国生の子供達への思いが消えるとは考えられない。和子はそれを許容できるでしょうか。
作者としてはまだまだ構想があったのではないでしょうか。
酷評になってしまいますが、この終わり方では小説というより、マルクス主義から見た沖縄政治経済論の作品だ、と言えないこともないように感じました。
国生の沖縄経済論だけでなく、N村を訪れている大学教授による農村の発展構想も面白い。
津田孝氏の批判と、小田実氏が「民主文学」昭和58年4月号に寄稿した文章より派生した民主主義文学同盟の大騒動を思うと、続きを書きづらかったのかもしれません。
津田孝氏による「南の風」批判については、またの機会に論じます。
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