2012年11月7日水曜日

井上靖「天平の甍」より-時代と運命の大波の中で-

若い頃の夢と今の自分


若い頃に、これこそが自分に与えられた使命だと思っていたことが、降り注ぐ歳月の中で実現できた人は幸せなのでしょうね。

しかし、自分の使命と思って数十年かかってやったことが、荒ぶる自然により雲散霧消してしまう人もいるかもしれませんね。それも運命なのでしょうか。予想もしなかった出来事が私たちの生き方、その後の生きる道を大きく変えてしまう。それはさほど珍しいことではないかもしれません。

私の好きな小説の一つ、井上靖の「天平の甍」(新潮文庫)は、運命と自然の力に翻弄されつつも自分なりに生き抜いていった僧侶たちの姿を描いています。

伝戒の師を招くために


井上靖の「天平の甍」の時代は、聖武天皇の天平四年、西暦でいうと732年とあります。遣唐使が送られていた時代の物語です。

この本によれば、当時の日本にはまだ戒律が備わっていませんでした。そこで伝戒の師を招いて、日本に戒律を施行すべく、二人の若い僧侶、大安寺の僧普照と興福寺の僧栄叡が唐に送られました。

同じ船に筑紫の僧侶戒融と紀州の僧玄朗がいました。この4人の若い僧侶が、大波に揺らされつつも進んでいった遣唐使船のように、運命とたたかいつつも生き抜いていく姿が描かれています。

私はこの時代の船の模型を見たことがありますが、どうやってこれで大海原を渡ったのだろうと思いました。信じられないくらい小さいのです。多少の波で大揺れになってしまうでしょう。


物語では、4人の青年僧侶が乗った船は筑紫の大津浦を出てから三か月以上経って漸く蘇州に漂着します。唐では、玄宗の治世でした。玄宗の愛妃は楊貴妃です。唐の最盛期でしょうね。

分かれていく4人~具足戒を得て出奔、妻帯した僧侶たち


唐に渡った4人はその後どうなったのか。詳しくは物語を読んでいただくとして、到着して二年後に4人は「具足戒」を受けます。これが仏教の中でどういう意味なのか、私にはよくわかりませんが、本の脚注20によれば、比丘・比丘尼の具えなければならない戒律で、この戒を持すれば、徳はおのずから具足するとあります。

しかし受戒後まもなく、戒融は広い唐の地を歩いて何かを見つけるべく、出奔してしまいます。暫く後に玄朗は僧侶としての地位を放棄し、中国人の妻をめとり2人の子供を得ます。当時の仏教界の常識ではこの人たちは、堕落したことになるのでしょうね。

高僧鑑真を日本に招く


伝戒の師を日本に招くという使命を背負っていた栄叡と普照は、ときの高僧鑑真と出会います。栄叡は韓進に伝戒の師の推薦を要望します。鑑真は弟子たちに誰か行くものはないかと問いますが、誰も行こうとしません。

仏法興隆のためなら何も惜しまない、強力な意思を持つ高僧鑑真は、「お前たちが行かないなら私が行くことにしよう」と渡日を決意します。
鑑真と、十七名の高弟が日本へ渡ることが須臾の間に決まったとあります(p70)。

そうはいっても、渡日は簡単ではありません。荒波に船は何度も押し戻されてしまいます。その過程で栄叡は病に伏せり、亡くなってしまいます。

異彩の僧、業行


物語には4人の僧侶のほかに、生涯を写経に捧げた僧侶、業行が登場します。業行は在唐20数年で、寺を渡り歩いては経論を写しました。五十歳近く、小柄で脆弱な体とあります(p42)。業行によれば、今の日本で一番必要なものは一字の間違いもなく写された経典です。業行は次のように語ります(p169)。

私の写したあの経典は日本の土を踏むと、自分で歩き出しますよ。私を棄ててどんどん方々へ歩いて行きますよ。..。

業行は生涯をかけて写した経典を日本に運ぶべく、帰りの遣唐使船に乗りますが、本土到着を目前にして自分も経典も海の藻屑となってしまいます。屋久島のあたりでしょうか(p171)。

別の船に乗っていた普照には、夢の中で業行の悲痛な絶叫が聞こえました。普照は青く透き通った潮の中、海底に次々と沈んでいく経典が見えました。

日本に着いた鑑真と普照、そして戒融


幾多の困難を乗り越えて、鑑真とその一行日本に来ました。4人の青年僧のうち、このとき帰国できたのは普照だけでした。その後戒融も優婆塞一人を伴って唐から渤海国を経て帰国したが、途中暴風雨に会い、船師は優婆塞を運に投じたということが古い記録に載っているとあります(p187)。戒融の愛妻が海の藻屑となったということなのかもしれません。

時代と運命の大波の中で~業行の生涯


誰しも、時代と運命の大波には逆らえないのでしょうね。この物語の登場人物の世界観、価値観では、経典をもっぱら写しまくるなど殆ど意味のないことでした。しかし、その後の日本と仏教の歴史を考えれば、徹底的な写経こそが最も貴重なものだったはずです。私の知る限り、中国の仏教者たちは印度から持ち帰った経典を漢語に翻訳すると廃棄してしまいます。古代の経典は中国や印度よりもむしろ、日本に残されている場合が少なくないはずです。業行が写したという諸経典が日本にわたっていれば、その後の仏教界は大きく変わっていたかもしれないということになります。

しかし、当時の最高の秀才とされていた高僧の智慧をもっても、そのような歴史の流れを見通すことはできませんでした。凡僧とみなされていた業行のほうが、遥かなる時の流れを見通していたのです。

異彩の僧業行の姿は、人は誰しも時代と運命の大波には誰しも逆らえないこと、その中で自分なりに生き抜いた人々の気高さを感じさせますね。私は「天平の甍」の登場人物の中でこの業行が最も好きです。

写した経典は業行とともに全部海中に消えたのですから、ある意味では業行の生涯は全くの無駄だったということになります。遣唐使の時代には沈んでしまう船は少なくなかったのですから、海中に絶叫とともに沈んでいった僧侶はいくらでもいたでしょう。彼らが写したであろう経典がどれだけ沈んだか、誰にもわかりません

「天平の甍」の解説では、業行の事業はより壮大な規模で時代の空海に受け継がれていったことになると記されています(p212)。先人の思いを受け継ぐものがいれば、その時代の人たちには達成できなかった夢や事業が実現できるということでしょうね。

今の私たちは、無数の先人の事業の上に立っていることを忘れないようにしたいですね。古来より何千万、何億人もの業行がいるのでしょう。




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