2012年11月3日土曜日

心の試練と先人への思い、中島敦「李陵」

心の試練と先人への思い



 年を取れば誰しも、生きていく中でいろいろな壁にぶちあたりますよね。仕事のこと、人間関係のこと、思いもよらなかった苦しみと挫折...。これを何とかしないとどうにも前に進めないのだけれど、いったいどうすればよいのかわからない。

どんな道を選んでも、苦しく、大変な結果しか得られないかもしれない...。

自分が泥沼にはまり込んでいるような気分、そうした経験は多かれ少なかれ、誰でもあることでしょう。

そんなときこそ、心の試練のときなのでしょうね。たましいが試されているようなときなのでしょう。

先人への思いと中島敦「李陵」


泥沼からの脱出策として、特効薬のようなものはないと思います。でも、誰しもそうした経験はあるはずですから、先人の経験に思いをはせることは大事ではないでしょうか。

古代中国、漢の時代の歴史家司馬遷は、匈奴に投降した李陵将軍を擁護して、ときの皇帝武帝の怒りをかい、宮刑にされてしまったそうです。宮刑とは、男子の性器を切除するという、残酷なことこの上ない刑罰です。中国には古代から清の時代までありました。

自らこの手術をする人もいました。その人たちは皇帝の近くで働きます。宦官と言います。

司馬遷は李陵将軍を擁護すれば、武帝が激高することを十分に予想していたはずですね。死刑も予想していたはずです。ではなぜ司馬遷は、李陵を擁護したのでしょうか。

司馬遷は日々,過去の英雄の話を聞き集めて英雄とは何か、いかに人は生きるべきかを考えていたはずです。あるいは、李陵の投稿を許容せねば何らかの形で他の要因が働き、漢王朝の存続が困難になる、という判断もあったのかもしれません。

司馬遷としては、自分がこの局面でどのような主張と態度をとるかが、後世の歴史家に評されることになると思ったのではないでしょうか。

英雄も凡人も富者も貧者も結局死ぬのです。生き方も大事ですが、死に方も等しく大事な場合がある。そう判断した司馬遷は、先人と後世をみつめて李陵擁護論を展開したのではないでしょうか。

中島敦の傑作「李陵」はそんな風に、司馬遷を描いていたと思います。

泥沼に浸かってもいつかは這い上がる

司馬遷が直面したほどの苦しみに、現代の我々がぶち当たることは少ないはずです。いろいろ考えても、うまい解決策が見つからない場合は、先人と後世に思いをはせて決断するしかないのでしょう。

その結果、さらに泥沼に浸かるようなことになっても、それは自分なりの選択なのですから、いつかは泥沼から這い上がれるはずです。

良い音楽を聴くと、泥沼と思っていた自分の状態がそうでもないな、と思えてくることもありますね。The Sound of Silenceをじっくり聞いてから、The Immigrant Songを聴くと、何となく力が湧いてくるような気がしませんか。






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