2013年7月13日土曜日

一本の小さな万年筆が戻ってきた―遠藤周作「口笛をふく時」(講談社文庫)より思う―

あの時この道を左に曲がらず、真っ直ぐ歩いていたら


あの時この道を左に曲がらず、真っ直ぐ歩いていたら自分は別の生き方、別の道をあゆんでいただろう。

人生のある時点では、さほどの考えはなくある道を選択したことが、ずっと後になって大きな選択であることがわかってくる。

そんな経験を誰しも持っているものでしょう。軽い気分で行ったある選択行為が、自分だけでなく他人の人生に極めて重大な影響を及ぼした。

それはその他人が、自分の人生の「傍役」だったからなのでしょう。

道を歩みつつ偶然、人は様々な人生の「傍役」に出会うのでしょう。その偶然に、人生の意味が隠されている。神は偶然を通じて、その存在を人間に垣間見せる。

遠藤周作のメッセージのひとつがこれなのでしょう。


たった一度の触れ合いでも忘れられない人



「口笛をふく時」(講談社文庫)の主人公は、小津という大正11年生まれくらいで、50歳前後の人物です。小津は灘中出身です。灘中の頃の友人、平目は小津の人生の極めて大事な脇役です。

昭和21年3月(1946年3月)くらいに、小津は24歳とありますから、小津や平目は大正11年(1922年)生まれくらいでしょう。

この時代の日本人の人生には、戦争が大きく影を落としています。小津も平目も徴兵され、小津は大連、平目は朝鮮に派遣されます。平目は若くして朝鮮で亡くなってしまいます。

若くして亡くなった平目にとって、終生憧れの存在だったのが甲南女子中学の東愛子でした。平目が愛子を好きになったきっかけは、灘中学の近くのK中学の学生による暴力です。

平目と小津が灘中時代に在学していた頃のことです。西宮の戎神社に出ている屋台で串カツを食べようと、小津と平目は国電に乗りました。

そこで二人はK中学の学生から喧嘩を売られ、芦屋川の川原で喧嘩をする羽目になってしまいました。二人はK中学の学生に殴られてしまい、血を流したまま再び電車に乗ろうと川原を歩いていました。

そこをたまたま通りかかった愛子ら甲南中学の女学生たちが、たまたまその日医務室でもらったガーゼで平目の血を拭いてくれたのです。

「あれがすべての始まりだった」...。三十数年後の小津は振り返ります。平目にとって、この日の優しい愛子が、終生忘れられなかったのです。

もし、K中学の学生が平目と小津に暴力をふるわなかったら、平目が血を流すことはなかったでしょうから、愛子と平目、小津はその後一切関わりを持たなかったことでしょう。

愛子は海軍兵学校の生徒と、既にこの頃婚約していたようです。平目も愛子の心を射止めるべく、海軍兵学校に入学しようと努力しますが、それはかないませんでした。


愛子が平目に渡した万年筆だけが戻ってきた



愛子は平目のことなど、全く記憶していませんでした(p191)。しかし愛子は、小津を通して平目から受け取った10円為替のお返しとして、平目に自分が使っていた万年筆を渡します(p194)。

平目にはこの万年筆を朝鮮に持って行きました。平目は万年筆を使うたびに、愛子を想っていたことでしょう。平目は派遣された朝鮮で肺炎により亡くなります。

戦後に小津は平目の形見として、平目の親から万年筆と手帖を受け取りました。平目はこの万年筆を、疎開先に戦後も住んでいた愛子のもとに届けました。

愛子の夫も戦死していました。赤ん坊は肺炎で病死です。小津は万年筆を愛子に渡した後、もう二度と会うことはないだろうと思いましたが、不思議な縁で愛子の遺体と病院の霊安室で再会します。

愛子は50歳前後で亡くなったのでしょう。夫も子供もいないのですから、寂しいことこのうえない死に方でした。愛子は最期まで、亡くなった主人を想っていました。


哀しい亡くなり方をした友人のために口笛を



愛子は平目や小津に殆ど関心はなかったのですが、亡くなってすぐ後の愛子を小津は見守ることになりました。小津は病院で愛子の昔の友人とも再会します。

何かのご縁があったということでしょう。愛子が万年筆を平目に渡さなかったら、これほどのご縁はなかったかもしれません。

偶然の中に、人生の意味が隠されているということなのでしょう。

誰しも、改めて自分の来し方を振り返ってみれば、偶然により自分なりの選択をする瞬間があったのではないでしょうか。

私には偶然とは神がサイコロを振った結果かどうか、わかりません。しかし、哀しい亡くなり方をした友人のためには、小津が平目や愛子にしたように、口笛を吹いてあげたいものです。













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