2013年7月23日火曜日

神は存在というより、働きです―遠藤周作「深い河」(講談社文庫)より思う―

神は存在というより、働きです。玉ねぎは愛の働く塊りなんです。



人生に失敗や躓きは付き物です。現在、立身出世し財を成している人も、思わぬことで大きく躓いてしまい、人々から嘲笑されるような立場に陥ってしまうかもしれません。

政治家や芸能人で、そんな例はいくらでもありますね。躓きを乗り越えることができず、さらにどうしようもない境遇に陥ってしまう人もいれば、躓きをきっかけに新たな自分、別の自分を見出す人もいます。

躓きが次の生き方の出発点になる場合もあるのでしょう。

偶然からある人に訪れた躓き、それはその人の力ではどうにもしようのないことだったとしても、偶然が神がふる骰子(サイコロ、dice)であるなら、運命なのかもしれません。

人はその運命を受け入れて、新たな自分を探し、創造していくしかないのです。偶然が作った運命という形で、その人に神が働きかけているのかもしれません。

遠藤周作の「深い河」(新潮文庫)のメッセージの一つである「神は存在というより、働きです」(p104)の意味はこういうことではないでしょうか。


聖人も、惨めでちっぽけな死に方をする



生きとし生けるものは皆、死を迎えます。数々の善行を成してきた聖人であれば、万人に惜しまれるような安らかな死に方を出来るかというと、必ずしもそうではない。

聖人は、そのときには誰からも称えられないような、惨めでちっぽけな死に方をしてしまう場合もあるのです。

むしろ聖なる人であるからこそ、惨めな死に方を迎えることがふさわしいのかもしれません。

聖なる人は惨めな死に方をすることにより、自分たちがちっぽけな存在であることを改めて人々に認識させて下さったのかもしれません。

誰しも所詮は死ぬのですから、虚栄心を満足させるために権力や富を求めて闘争するのは無益だということを、惨めな死に方により伝えようとしているのかもしれません。

「深い河」の重要な登場人物、大津の死に方をこのように考えたらどうでしょうか。遠藤周作の小説に出てくる聖なる人は、惨めな死に方を迎えます。


愛の河はどんな醜い人間もどんなよごれた人間もすべて拒まず受け入れて流れる



遠藤周作「深い河」の中で、私の印象に残った部分を書き留めておきます。

以下は、基督教神父であるのに、ヒンズー教徒のバラモンのごとく、アウト・カースト(Out Caste)の貧民が息を引きとったときにヒンズー教の火葬場に運ぶ仕事をしている大津が、学生時代のガールフレンド美津子にする話の一部です。

玉ねぎとは、神を意味しています。美津子は「神」という言葉の実感がないと大津に言ったとき、その言葉が嫌なら玉ねぎでも良いと大津が言ったことに由来します(p103)。

大津によれば、神は存在というより、働きです(p104)。

美津子が宿泊しているインドのホテルの庭園で、大津は次のように述べます(p302-303)。


「ガンジス河を見るたび、ぼくは玉ねぎを考えます。ガンジス河は指の腐った手を差し出す物乞いの女も殺されたガンジー首相も同じように拒まず一人一人の灰をのみこんで流れていきます。

たまねぎという愛の河はどんな醜い人間もどんなよごれた人間もすべて拒まず受け入れて流れます。」


玉ねぎこと神は、どこにでもいるということなのでしょうか。「深い河」の中にも出てきますが、これは汎神論(panpsychism)的な見方かもしれません(p191)。


The river of love that is my Onion flows past,  accepting all, rejecting neither the uglist of men nor the filthiest.



この部分の英語訳をDeep River, translated by VAN C. Gessel, A New Direction Book, p185から抜粋します。

Every time I look at the River Ganges, I think of my Onion. The Ganges swallows up the ashes of every person as it flows along, rejecting neither the begger woman who stretches out her fingerless hands nor the murdered prime minister, Gandhi.

The river of love that is my Onion flows past, accepting all, rejecting neither the uglist of men nor the filthiest.

大津による美津子への話の韓国語訳は次からの抜粋です。

깊은 강 유숙자 옮김, 민음사 (p280)


양파라는 사랑의 강은 아무리 추한 인간도 아무리 지저분한 인간도 모두 거절하지 않고 받아들이고 흘러갑니다.




갠지스 강을 볼 때마다 저는 양파를 생각합니다. 갠지스 강은 썩은 손가락을 내밀어 구걸하는 여자도, 암살당한 간디 수상도 똑같이 거절하지 않고 한 사람 한 사람의 재를 삼키고 흘러갑니다.

양파라는 사랑의 강은 아무리 추한 인간도 아무리 지저분한 인간도 모두 거절하지 않고 받아들이고 흘러갑니다.

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