2013年8月21日水曜日

朝鮮民主主義人民共和国の人民生活は日ごとによくなっています―「赤旗」日曜版昭和43年(1968)9月15日記事より思う―

テロ国家北朝鮮を礼賛した日本共産党



ある人がありえない話を次から次へと流布してきたのなら、その人の人格が疑われても仕方がないでしょう。

現代では次から次へと情報が流れ、消えていきますから、ある人や集団の昔の言辞など誰しも忘れがちです。些細なことならば、水に流し忘れてしまって良いのでしょう。

しかし、政党や政治家が確信をもって流布、宣伝した言辞には責任をとってもらいたいものです。不良品を生産し消費者に販売してきた悪徳企業は、製品を引き取って消費者に換金すべきでしょう。

政治家や政党、あるいは報道機関の出鱈目な言辞、宣伝にも同様の制裁があってしかるべきではないでしょうか。

日本共産党の「赤旗」や「前衛」の昔の記事や論文を見るとつくづくそう思います。

昔の「赤旗」や「前衛」は何の実証的根拠もなく、単に共産主義国の政府や共産党の宣伝を垂れ流しにしていただけです。

北朝鮮に関する昔の「赤旗」の報道など、酷いものです。ソ連礼賛だけではありません。以下、例をあげておきます。

農民は1966年以来、いっさいの税金を免除されています




国民が税金を払わなくても良い暮らしが出来る体制とは、一体どんな体制なのでしょうか。

国家財政は中央銀行が紙幣を専ら増刷して賄われているのでしょうか。そうであるなら、慢性的なインフレになりそうです。

「赤旗」日曜版記事(昭和43年9月15日 朝鮮民主主義人民共和国創建20周年を祝う)によれば、朝鮮民主主義人民共和国の人民生活は日ごとによくなっています。

日用品は豊かで、去年は大洪水ことしは七十年来の干ばつに見舞われたというのに、豊作は確実だといわれているそうです。

高物価、重税はこの国の人びとには無縁で、医療費は入院した場合の食費をふくめていっさい無料だそうです。

教育費も保育所、小学校から大学にいたるまですべてが無料だそうです。

税金もないのと同じです、と「赤旗」記事は断言しています。農民は1966年以来、いっさいの税金を免除されているそうです。

税金がない、ということは国営企業からの収益などで国家財政がまかなわれているということでしょう。国営企業には法人税があるのでしょう。

北朝鮮では国民は皆、何らかの国営企業や国家機関に所属しています。国民は国営企業の収益に何らかの形で貢献しているのでしょうから、実際には法人税という形で税を払っているのです。

所得税がないなら、各国民が国営企業の収益にどれだけ貢献したかが不明になっているだけでしょう。

医療が無料、と言いますが、病院に薬はどの程度あったのでしょうか。治療のための設備はあったのでしょうか。

北朝鮮の学校の教育内容とは、主体思想を教え込まれるのでしょうから、「ただほど高いものはない」という水準と内容ではないですか。

「千里馬」の勢いで、国を発展した社会主義的な工業・農業国にかえた朝鮮人民


一昔前の「赤旗」「前衛」には、吉良よし子参議院議員のような若い共産党員なら仰天してしまうような共産主義国礼賛論が次から次へと掲載されています。こんなことありえない、と吉良よし子参議院議員なら思うかもれませんが、一昔前の日本共産党員は大真面目に「赤旗」記事や「前衛」掲載論文を信じていたのです。

ひょっとしたら聴濤弘ら当時の若い日本共産党員は内心では、共産主義国の実情について何か疑問をもっていたかもしれません。

確かなことは、昭和43年9月(1968年9月)でも日本共産党は北朝鮮を礼賛していたという史実です。

以下は日本共産党中央委員会の「朝鮮民主主義人民共和国創建二十周年にあたって祝電」(「赤旗」昭和43年9月9日掲載)よりの抜粋です。


「この二十年間に、朝鮮労働党と朝鮮人民は、金日成同志を先頭とする朝鮮労働党中央委員会のマルクス・レーニン主義的指導のもとに、社会主義革命と社会主義建設ですばらしい成功をおさめました。」

「さらに朝鮮人民は、過去の植民地経済の遺産やアメリカ帝国主義の侵略戦争による破壊を短期間に克服し、『千里馬』の勢いで、国を発展した工業・農業国にかえることに成功しました。」

「とくに今日、一連の社会主義諸国がさまざまな困難に直面しているなかで、朝鮮人民が、工業、農業をはじめ社会主義建設のあらゆる分野で大きな高揚をかちとり、そのなかで共和国創建二十周年をむかえたことは、社会主義制度の優越性をうちかちがたい事業をもってしめしたものであり、社会主義、共産主義の勝利をめざす国際的な共通の事業への貴重な貢献をなすものであります。」

「朝鮮民主主義人民共和国におけるこれらのかがやかしい達成は、朝鮮労働党と朝鮮人民が、金日成同志を先頭とする党中央委員会の指導のもとに、確固として、マルクス・レーニン主義とプロレタリア国際主義の道、なかんずく、思想、政治、経済、国防の全般にわたって自主、自立、自衛の路線を歩んできた成果であります」


大言壮語そのものですね。

一体全体、当時の日本共産党は何を実証的根拠として北朝鮮がこれほど素晴らしいと考えたのでしょうか。

北朝鮮の現実が、社会主義制度の優越性を示していると断言しています。勿論、朝鮮労働党はそのように宣伝していたでしょう。

「労働新聞」にある宣伝文章が掲載されたからといって、それが北朝鮮の現実であるという保証はとこにもないはずですけれどね。

共産党や労働党の宣伝文書は、いつの時代でもどこでも、大言壮語の羅列なのです。悪徳商法常習犯業者の宣伝広告のようなものです。

相当数の日本人妻や元在日朝鮮人が行方不明になっていた



この祝電や「赤旗」の北朝鮮礼賛記事が出されたのは昭和43年9月ですから、在日朝鮮人による北朝鮮への帰国事業が始まって9年程度経過しています。


この頃には、北朝鮮に渡った日本人妻や元在日朝鮮人の相当数が行方不明になっていました。日本の親族との連絡が一切取れなくなっていたのです。

当然、日本の親族は北朝鮮当局と連絡できる在日本朝鮮人総連合会に問合せをしたことでしょう。しかし在日本朝鮮人総連合会が、そんな問い合わせにまともに対応するとは考えにくい。

今日では、行方不明になった日本人妻や元在日朝鮮人が政治犯収容所に連行されたり、山奥の僻地に強制移住させられていったことがわかっています。

何らかの形で、北朝鮮の体制に不満を漏らすとそうされてしまうのです。北朝鮮は昔から、国の内外で人さらい、拉致を次から次へとやってきたのです。

勿論、昭和43年当時、日本の親族にそんなことがわかろうはずもありません。

推測ですが、日本の親族の中には、朝鮮労働党と大変友好的な関係を保持している日本共産党に、行方不明になっている日本人妻や元在日朝鮮人の安否確認を要請した方々がかなりいたのではないでしょうか。

当時の日本共産党と在日朝鮮人は、大変親密な関係でした。昭和30年まで在日朝鮮人の共産主義者は、日本共産党の一員だったのです。

極めて自然に、在日朝鮮人らは日本共産党に親族の安否確認を要請したはずです。

聴濤弘らの世代の日本共産党員なら、何か心当たりがあるはずです。京都の寺前巌元衆議院議員なら、何かご存知かもしれません。

要請を、当時の宮本顕治ら日本共産党最高幹部が拒否する理由はないと私には思えます。

宮本顕治らは、この頃の朝鮮労働党との会談(昭和43年8月)で行方不明になっていた日本人妻や元在日朝鮮人の安否確認や調査依頼をしたのではないでしょうか。

金日成がどう答えたかまではわかりません。

「余計なことを聞くな」という調子だったかもしれません。「奴らは反革命分子、民族反逆者だ」というような答えだったかもしれません。

安否確認、調査依頼は日本共産党にとって恥ずべきことではありません。


昭和43年当時、不破哲三(38歳くらい)は北朝鮮が人間抑圧社会であることを熟知していた




日本共産党大幹部は随分昔から北朝鮮がとんでもない抑圧体制であることを熟知していました。

不破哲三は昭和43年の北朝鮮訪問中に、金日成への個人崇拝の体制化がはじまったという強い印象を受けた、と述べています(「赤旗編集局編「北朝鮮 覇権主義への反撃」1992年、p37)。

朴金喆と李孝淳という二人の朝鮮労働党最高幹部がいつの間にか党指導部から姿を消していたから、北朝鮮の党の内部に何か異常な状態が起こっていることを推察させたと不破哲三は述べています(前掲書p20)。

私は、不破哲三のこの記述から、宮本顕治らが行方不明になっていた日本人妻や元在日朝鮮人の安否確認をしたと推測しました。

そんな酷い体制であることを昭和43年8月頃からわかっていたなら、9月に北朝鮮礼賛電報を送らないでも良さそうなものです。

9月の「赤旗」礼賛記事を指導部の権限で差し止めるべきだったのではないでしょうか。まあ、ありえぬ話なのでしょうね。

日本共産党最高幹部は本音では共産主義国は酷いところだと思っていても、下部党員や「赤旗」読者、若い後輩にはそれを隠蔽するものなのです。


ベネズエラ共産党員で詩人のアリ・ラメダが1967年9月27日(昭和42年)、平壌の宿舎から公安に連行された



不破哲三ら当時の日本共産党幹部が、北朝鮮のひどい人権抑圧体制を熟知していたと私が考える根拠をもう一つあげておきましょう。

萩原遼「ソウルと平壌」(大月書店1989年刊、p145-146)によれば、ベネズエラ共産党員で詩人のアリ・ラメダは、平壌の外国文出版社で金日成の著作のスペイン語訳などのために北朝鮮当局に請われて66年半ばに平壌入りしていました。

しかし翌1967年9月27日、宿舎から9人の公安に連行されました。アリ・ラメダの住んでいた宿舎が、萩原遼の住んでいた宿舎だったそうです。

萩原遼が平壌に着任する5年前にこの事件が起きました。萩原遼は、事件の目撃者から鬼気迫る状況を聞いたと記しています。

目撃者が誰だかわかりませんが、1967年9月当時の赤旗平壌特派員高杉和男ではないですか。同じ宿舎というのですから、他に考えようがありません。

外国人専用のアパートは当時、いくつもなかったはずです。

高杉和男は日本に帰国後、アリ・ラメダの連行事件について上部に報告したはずです。この人は平壌滞在が長かったですから、いろいろな情報を入手できたはずなのです。

宮本顕治ら日本共産党最高幹部はそれを、表に出さなかったのでしょう。そんなひどい国に、なぜ日本共産党は在日朝鮮人が帰国していくのを奨励したのだ、という話になってしまいますから。

不破哲三(1930年生まれ)や聴濤弘(1935年生まれ)の世代の日本共産党員には、吉良よし子参議院議員ら(1982年生まれ)若い日本共産党員に決して話せない「心の秘密」がいろいろありそうですね(文中敬称略)。





















0 件のコメント:

コメントを投稿