2013年8月4日日曜日

悪魔は埃(ほこり)に似ています―遠藤周作「真昼の悪魔」(新潮文庫)より思う―

悪魔なんて実在しないと人々が考えることを、悪魔は望んでいる



私の世代(昭和36年、1961年生まれ)なら、悪魔といえばテレビドラマ「悪魔くん」を思い出す方は少なくないでしょう。

あるいは、米国映画エクソシスト(The Exorcist)や、オーメン(The Omen)を思い出す方もいるでしょう。

遠藤周作「真昼の悪魔」(新潮文庫)が描き出す悪魔とは、怪物のような姿形をしていません。

この小説の冒頭は、上智大学の近くにある教会の老神父による、悪魔の話です。老神父によれば、悪魔は人々に、実在しないと思われることを望んでいます(p8)。

悪魔は人々のそういう心のなかに、目だたぬ埃(ほこり、dust)のように、そっと忍び込むのです(p8)。

埃は目だたず、わからぬように部屋に溜まっていきます。悪魔もまたそうです。

遠藤周作がこの小説で描きたかったのは、激しい闘争心、嫉妬と情熱、あるいは貧しさのゆえに凶悪犯罪を行ってしまうような人間の心の真底ではありません(p267)。

何もかもが空虚で白けて、何事にも無感動な毎日をおくっている現代人の心から、悪が生じうるのだということを、遠藤周作は描いたのではないでしょうか。


虚ろな心をもつ美貌の女医、大河内




この小説にも、ひからびた虚ろな心をもつ若い女医大河内が登場します。

大河内は、恋愛にも結婚にも期待や信頼感を毫も持っておらず、もし結婚するなら俗物でも、自分の自由を保証してくれる相手を選ぼうと学生時代から考えていました(p81)。


大河内は、ホテルで行きずりの男と寝るのが悪だの破廉恥だのとはどうしても思えません(p14)。

大河内の心中には、次のような疑問があります(p13)。

悪とは一体、なんだろう。

何かを盗むことや人をだますことは、相手には迷惑をかけるだろうが、それ以上の何者でもない。

人を殺すのは貧しさや憎しみが伴っており、それ相応の理由がある。それ相応の理由があって人を殺すことが悪だとは思えない。

そんな大河内は、精薄の子供に実験用の二十日鼠を手で窒息死させます。二十日鼠の死に快感を感じさせて、喜ぶような人間です(p36-38)。

大河内は、貧しさのための盗みや嫉妬による暴力など、人間的な事情のある悪は本当の悪ではないと考えています(p60)。

そんなみみっちい悪ではなく、本当に自己弁護の余地のない動機のない悪をやってみようと大河内は心中で考えています。

いやらしい悪。大河内が目指すのはこれです。

いやらしい悪とは、智慧おくれの子供に鼠を殺すのを教えることではありません。その子はいつかこの訓練から、何かをするでしょう。

その何かが起こった日に自分がまったく無関係な顔をして、いつものように病院を歩きまわり、病人を治療し、全快した患者と共に悦ぶことができるこの心こそ、いやらしきものです(p61)。

小説は大河内と、悪事の真相を突き止めるべく立ち向かう結核患者で大学生の難波それぞれの視点から展開していきます。

悪事の犯人は読者にはわかっているので、推理小説ではありません。


古代人は霊魂を感知できたのでは



私は、霊魂は存在すると思っています。そうであるなら、聖なる境地に達した霊魂も存在するでしょうし、邪悪な窪みに落ち込んだ霊魂も存在するのではないでしょうか。

それらが、何らかの形で生きている人間に働きかけることもありうるでしょう。勿論全ての霊能者が言うことが、すべからく真実であるとは思えません。

しかし普通の人には見えないもの、感知できないものがわかる霊能者はいるのではないでしょうか。聖人と言われる人たちの中には、霊能者もいたのでしょう。

毎日厳しい自然と戦っていた古代人は、現代人が失ってしまった様々な能力を持っていたはずです。古代人の中には、優れた霊能者は少なからず存在したのではないでしょうか。

聖書は悪魔の存在を記しているそうですが、古代人には邪悪な霊魂の存在を感知できる人は少なくなかったのではないでしょうか。



悪魔は現代人の虚無主義(Nihilisim)につけこむ―無秩序は精神の疲れと空しさをつくる―




自然とのたたかいを半ば忘れてしまった現代人は、豊かになりすぎてしまったのかもしれません。現代人は多少の資産があれば、あくせく働かなくても食べていけますから。

自分のなすべきことなど、何も見えなくなっている人は少なくないのではと感じます。

そんなとき邪悪な霊魂は、何らかの形で現代人に悪をなさせるべく、働きかけるのでしょう。「真昼の悪魔」の最後の章で、老神父は次のように語ります(p263)。


「悪魔が今、最もやろうとしているのは現代人の心のくたびれ、空虚感、なにも信ずることのできない疲労した気持―それを利用して悪をさせることです。

現代人のほとんどはもう何が善で何が悪かわからなくなっている。...

そしてその結果、どんな価値も素直に信用できなくなり、心は乱雑な部屋のように無秩序になり、無秩序は精神の疲れと空しさをつくっている。

悪魔はそこを狙ってやってくるのです。」


老神父のこの話は、遠藤周作の読者に対するメッセージなのでしょう。

無秩序が精神の疲れと空しさをつくっている。

この言葉を噛みしめておきたいものです。

現代人は、古代人より遥かに便利な生活を行い、自然に関する豊かな知識を持っています。

しかし私たちの中には古代人が感知できたものを感知できなくなり、空虚感に落ち込んでしまっている人が少なくない。

本書の中にも出てきますが(p59)、読んでいるうち私はアルベール・カミュ(Albert Camus)の「異邦人」や「シーシュポスの神話」を思い出しました。

アルベール・カミュについては、またの機会に論じましょう。































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