『ブラームスはお好きですか?』いったい彼女は自分自身以外のものを、自分自身の存在をまだ愛しているのだろうか?もちろん、彼女は自分がスタンダールを好きだと人にもいい、自分でもそう思いこんでいた。そこが問題なのだ。そう「思い込んで」いる...。(新潮文庫p55より)。
この本の解説によれば、サガンは自分の属している中流階級以外の人たちを描いたことはありません。
彼女の小説の主人公たちは左翼の闘士でも、社会改革や思想についてとうとうと議論する人たちでもない。
サガンは自分の階層の、女性の繊細な心理を描いています。心理を描くとは、心の中に浮かんでは消えていく言葉を描き出すことでしょう。
サガンの小説の魅力のひとつはそこにあるのでしょう。
39歳の離婚経験のある女性ポールに25歳のシモンが恋した
上記の「ブラームスはお好きですか」は、主人公のポールという39歳の離婚経験のある独身女性への、14歳下の求愛者シモンからの手紙の一節です。
ポールにはロジェという同年代の恋人が居るのですが、浮気を繰り返すロジェに物足りなさを感じていました。
そんなポールには、シモンの手紙の何でもない一文が自らの存在を問い直すきっかけになったのです。勿論、ポールはすぐにシモンに心を許すわけではありません。
音楽会の後、愛を告白したシモンに対しポールは「私はロジェを愛している」とそっけなく告げます。このときポールの心中には次の言葉が浮かびます。
「このちんぴらの女たらしにどうして自分の恋愛がわかるものか、自分たちの恋愛が...。快楽と猜疑心と、肉体のぬくもりと苦痛のまざりあったこの五年間を?誰も自分をロジェから引きはなすことはできない」。
なぜポールは同年代の浮気者ロジェを愛しているのか
私には、ロジェという浮気者のどこにポールがそれほどひかれているのか不可解です。本文を引用しながら、考えてみます。ポールの心は徐々にシモンになびいていきます。
「シモンのはげしい求愛に、屈服するよりほかになかったのだ」(p103)。
しかしポールは、シモンに夢中になったわけではありません。
「これから入っていこうとしているシモンとの関係の、そもそものはじまりから、たとえばロジェとの場合のように、関係がはじまる前にかならずあった、なにか情感をかきたてられるような、生命の躍動といったようなものが感じられるかわりに、なにかしら歩くのさえおっくうなような、深くやさしい倦怠感だけしか感じられない」(p104)。
ポールはロジェへの想いを残したまま、シモンの恋人になりますが、このときの気持ちは次のように描かれています。
「恋人をかえるだけにしておこうと考えていた」「その方がずっと面倒でなく、もっとパリ的で、ざらにあることだったから...」(p104)。
ロジェへの想いを断ちきれないポールの心中は、次です。
「なぜなら、彼女には、ロジェと自分の人生とを切りはなして考えることができなかったからである。なぜだかわからなかった。きっと、彼女が六年ごしに苦労してきたかれらの恋、その絶えまない、苦しい努力が、ついに幸福よりも貴重なものとなったためだろうか。もしかしたら、それが無益だったということが、彼女の自尊心にとって耐えられないのかもしれない」(p149)。
無益だったことに耐えられないからという気持ちも幾分かあるのでしょうが、それだけではない。
浮気癖のあるロジェの心を何とかしてつかもうとする「あやふやな戦い」がポールの存在理由になっていたようです(p149)。
ポールはもう十年ロジェの恋人でいられるのか
ポールとロジェの関係はいつまで続くのでしょうか。
ポールは別れた夫マルクとの間に子どもがあったらよかったのに、という気持ちを持っていますが、今はそうした普通の生活をさほど望んでいないようです(p151)。
もう五年、十年と今のような暮らしを続けられるとポールは思っているのでしょうか。小説の最後は、ロジェが早速次の浮気相手を見つけていることを示唆しています。
サガンの小説の登場人物、主人公は、長い視野で物事を考えることが苦手なのかもしれません。
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