2015年2月16日月曜日

Françoise Saganの「愛と同じくらい孤独」(朝吹由紀子訳、新潮文庫。原題はRÉPONSES)を読みました。

私の作品にはテーマが二つあります。たしかにいつも同じです。恋愛と孤独。孤独と恋愛という順で言ったほうが正しいかもしれません。主要テーマは孤独のほうですから(同書p73より)。


この本は「悲しみよ こんにちは」より20年後、Saganが39歳くらいの頃に出ています。二十年間の様々なインタビューを編者が集め、Saganが最後に目を通しています。

Saganの生い立ち、「悲しみよ こんにちは」が爆発的に売れた後の暮らしと交通事故による重傷をSaganは淡々と語っています。Saganの文学観、社会観を窺い知ることができます。

Saganは日々の暮らしに劇的なものを見出す。「日常生活がドラマなのです」(p74)。


Saganによれば、自分の本の中ではドラマチックな事件が少ない。これは日々の暮らしの全てがドラマチックだからです。

ある人に出会い、恋愛し、一緒に暮らし、その人が自分のすべてとなり、なのに三年のちには心を痛めて別れることになる(同書p73)。

Saganは日々の暮らしに劇的なものがいくらでも見出せると言いたいのでしょう。

人の存在の基盤は、自分の夫や恋人、情人がどういう人間かを知ること...。


「わたしが興味を持つものは、念を押して言うと、人間と孤独、あるいは恋との関係です。それが人間の存在の基盤になっていることは確かです。

人の存在の基盤は、宇宙飛行士や空中ぶらんこ乗りとはどういう人かというより、自分の夫や恋人や情人がどういう人間かを知ることです」(同書p76)。

「人は一人孤独に生まれてきて、一人孤独に死ぬのです」(p130)。

孤独をまぎらすために、人は恋愛をします。Saganによれば、愛はお互いに相手をとらえようとする戦いです。

愛は嫉妬や所有や誰々のものという感情からなり、戦いであるから犠牲も出ます(p140)。

殆どの人は自分の地位、あるいは経済的生活環境に不満だから、その不満を恋愛関係の中で取り戻そうとします。

確かに、社会的な上昇志向の強い人、エネルギッシュな人、自己顕示欲の強い人は幾つになっても恋をします。婚姻関係など関係ない。

芸能人や、企業経営者にそういうタイプが多い。

二人の関係の終わりはどちらかが退屈しだすとき


しかし始まりがあるものには、途中と終わりがあります。Saganによれば、恋愛の終わりはどっちが先に飽きるかによります(p149)。

二人の関係が終わりだと感じるのは、退屈しだすときです(p157)。これは単純な答えですが、まぎれもなく真実です。

人は孤独をまぎらわすために恋をし、愛し合って安心感を得ます。結婚により大きな安心感を得られますが、結婚は終着駅ではありえない。

人は寝る場所や、愛している、と言ってくれる人を求めていて、孤独や恐怖や額に汗をかいて目覚めることを味わいたくないと思っている(p96)。

孤独から逃れるためには、額に汗をかいて日々努力せねばならない。

Saganの小説の登場人物たちは、生活の糧を得るためにあくせく働いているようなタイプは少ない。彼らは孤独から逃れるために日々苦闘しています。

「乱れたベッド」のベアトリスはそんな美女でした。

恋に生きるベアトリスのような美女と彼女に群がる男性たちの心中を、想像力を駆使して描くことが、Saganのライフワークだったのでしょう。

人の典型化、モデル化は社会科学だけでなく、文学でも重要なテーマです。Saganによる人間の典型化は、次の一文にも表れています。

「面白いのは、私の描く人たちの心理的な関係は、どんな環境の人たちにも当てはまることです。嫉妬はパリのインテリであろうとジロンド地方の農夫であろうと変わりはないわけです」(p76)。


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