三浦綾子(1922-1999)が昭和21年、24歳の頃からの「心の歴史」を語った書。若くして世を去った最愛の恋人前川正が残した言葉が胸をうつ。
三浦綾子による聖書の解釈は聖書に記載されている奇跡物語を全て真実として受けとめるものです。私は正直言って、これにはついていけない。
奇跡物語の真偽はどうであれ、作家三浦綾子は自らの心の歴史をどのように語ったのでしょうか。そう思い、この本を読みました。
社会経済の歴史は、把握手法と概念によりまとめ方、記述が異なってきます。
ましてや心の歴史となれば、人の数だけある。心の歴史で共通する点といえば、愛情の履歴でしょうか。「道ありき」は青春編、結婚編、信仰入門編と三部作になっています。
愛し合う二人は結核に体を蝕まれていた
「青春編」では、青春期の最愛の恋人とも言うべき前川正の純真な愛が描き出されています。青春期の恋人の声や姿を、たまに思い起こす人は少なくない。
三浦綾子は幼なじみで、二つ上の前川正と昭和23年に再会しました。この頃すでに、前川正は体を結核に蝕まれていたようです。
前川正は北大医学部の学生ですから、自らの余命が長くないかもしれないことを十二分に意識していたのでしょう。
この本によれば、肺結核という病気は各人各様の病状を表します(同書p106)。三浦綾子(旧姓堀田綾子)は微熱と盗汗があり、痩せていましたが咳をしなかった。
前川正は道を歩いていても、立ち止まって体を屈めなければいけないほどのひどい咳をしていました(p107)。昭和20年代では、結核は殆ど死病だったのです。今の癌より、深刻かもしれない。
「青い山脈」の時代の若者たちは濃密な人間関係を築いていた―戦死した仲間の声と姿
映画「青い山脈」(昭和24年東宝。原節子主演、石坂洋次郎原作)とその主題歌が流行していた頃です。
当時の若者、つまり大正から昭和一桁生まれの人々の愛情観、人間観は今日の若者のそれとは大きく異なっていそうです。若者からみれば祖父母の世代ですから。
この時代の若者の心中には、戦死した仲間の声や姿が常にあったのでしょう。
インターネットどころか、テレビすらない時代です。人の行き来が今と比べると実に少ない。従って昭和20年代の若者たちは、濃密な人間関係を築くことになった。
前川正と綾子がはじめてくちづけを交わした日、前川正は旭川の春光台という丘の若草の上にひざまずき、祈りました。
「父なる御神。わたしたちはご存知のとおり、共に病身の身でございます。しかし、この短い生涯を、真実に、真剣に生き通すことができますようにお守りください。
どうか最後の日に至るまで、神とお互いとに真実でありえますように、お導きください」(同書p141)。
通信手段の発展と企業間競争の激化により、人間関係が淡泊になった
メールやラインで気軽に交流し、愛を語り合っている現代の若者の間では、純愛が成立しにくくなっているのかもしれません。気分が合わなければ、別の恋人を探すのは難しくない。
齢を経た中年には仮面夫婦や不倫関係がいくらでもあります。
中高年になれば、純愛どころか利害計算が恋愛関係の必要条件となってしまいかねない。
「金の切れ目は縁の切れ目」のような人間関係に疲れ、孤独感にさいなまされている現代人は少なくない。通信手段の発展により、淡泊な人間関係が支配的になってしまいました。
経営者や会社員が多数の人々と濃密な人間関係を構築するような「暇なこと」をやっていたら厳しい企業間競争で敗退してしまうのです。
35歳で逝った前川正が綾子に残した数々の貴重な言葉
前川正は八本もの肋骨を切除して、肺の空洞を潰そうとしましたが駄目でした。血痰が出ていたとあります(p254)。
前川正は昭和29年5月1日の夜7時半頃、食事中に意識不明となり、そのまま意識が戻らずに午前1時14分に亡くなりました。35歳の若さでした。
前川正が聖人とまで言えるのかどうか、わかりようもありませんが、この本には彼の貴重な言葉がいくつも残されています。
結核の治療には相当な費用がかかります。かなりの経済的負担を父母にかけてまで、生きるのはずうずうしいと思っていた綾子に前川は語っています。
「綾ちゃん、生きるということは、ぼくたち人間の権利ではなくて、義務なのですよ。義務というのは、読んで字のとおり、ただしいつとめなのですよ」(同書p184)。
熾烈な企業間競争を止めることはできませんが、ときには前川正の言葉を思い起こしたいものです。
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