「1918年8月9日 同志フョードロフ!ニジニでは明らかに白衛軍の反乱が準備中だ。
全力をあげて、独裁官の三人委員会(君、マルキンその他)をつくり、即刻大衆的テロルをくわえ、兵士を泥酔させる何百という売春婦や、旧将校などを銃殺するか、町から追い出すべきである。
一刻も猶予してはならない」(レーニン全集第44巻、p124の「ゲ・エフ・フョードロフへ」より抜粋)
共産主義思想では売春婦や、旧将校という方々は銃殺されてしかるべき存在なのでしょうか。
売春婦とは、性産業で働く労働者です。兵士に酒を飲ませて春を売る店があったのでしょう。
性産業で仕事をしていることを理由に銃殺ないしは追放ではあまりにひどい。この指令は、レーニンの残虐性を示しています。
レーニンがフョードロフという共産党員に、どういう意図から売春婦と旧将校殺人指令を出したのか不明です。
指令を受け取ったフョードロフは実際に売春婦と旧将校殺人を断行するか、町から追放したのでしょうか。
この指令が当時のロシアで実際に実行されていたのなら、ボリシェヴィキのロシアは世界最悪の人権抑圧国家です。
1918年(大正7年)の日本にも性産業はありましたが、労働者の銃殺などありえない。
この指令の少し後のほうには次の記述もあります。
武器保有の罪は銃殺にすること。メンシェヴィキやいかがわしい奴はどしどし追放すること
「全力をあげて行動しおおがかりな家宅捜索をすること。武器保有の罪は銃殺にすること。メンシェヴィキやいかがわしい奴はどしどし追放すること。」
「家宅捜索」とは、「富農」の方々の家をくまなく捜索し、余剰穀物を取り上げろということでしょう。
武器を保有していたらその場で銃殺せよという指令がそのまま実行されていたのなら、ボリシェヴィキに親兄弟を銃殺された人は「反革命」「白衛軍」に参加するようになって当然です。
レーニン全集第44巻を読むと、1918年8月頃からのロシアでボリシェヴィキに「富農」とレッテルを貼られた農民は地獄に落とされたたとしか思えません。
金持ちを人質にとって彼らに余剰穀物の収集と収納の責任をとらせろ
「ア・デ・ツュルーパへ」と題した次の指令も注目すべきです(レーニン全集第44巻、p126-127)。
「(1)サラトフに穀物があるというのにわれわれがそれを運び出せないのは、はなはだしい醜態、とんでもない醜態だ。各接続駅に食糧活動家を一、二名ずつ派遣すべきではないだろうか?
それ以外何をすればいいだろうか?
(2)布告の原案―穀物の豊富な各郷で金持ちの人質を二五名ないし三〇名とり、彼らに全余剰穀物の収集と収納の責任を生命をかけてとらせること。」
この指令は1918年8月10日に執筆されています。
穀物の豊富なこの地域で金持ちだった方々は、余剰穀物の収集、収納にぬかりがあったら銃殺されてしまったのでしょうか。
「金持ち」であることは「搾取者」であるから、その存在自体が「罪」であり死に値する。これがレーニンの「思想」「理論」なのです。
「富農」の暴動を利用してさらに「穀物投機者」「大金持ち」をさらに弾圧
「ア・イェ・ミンキンへの電報」と題した指令は「富農」が暴動を起こしたことを示唆しています。
次です(レーニン全集第44巻、p130掲載)。
「ペンザ県執行委員会、ミンキンへ。富農の暴動の弾圧を知らせた君の電報を受け取った。
鉄は熱いうちに鍛えなければならないから、富農の弾圧を利用して、穀物の投機者どもを各所で弾圧し、大金持ちから穀物を没収し、貧農を大衆動員して彼らに穀物を分与する必要がある。
実行状況を打電すること。戦線地帯の貧農の権力を最終的に強化する必要がある。」
「穀物の投機者」とは、農民から穀物を仕入れ、都市の闇市で売る「担ぎ屋」のような人々を指すと考えられます。
「担ぎ屋」は国家による穀物専売制を破壊しますから、ボリシェヴィキは弾圧せねばなりません。
都市に穀物を運ぶ人を「弾圧」してしまえば、都市の飢餓がより深刻になってしまいます。
穀物を問答無用で徴発された「富農」は暴動を起こしてボリシェヴィキに必死の抵抗を試みたのでしょうが、簡単に弾圧されてしまったようです。
富農を容赦なく弾圧し、暴徒の穀物を全部没収することが全共産党員の任務
「ア・イェ・ミンキンへの電報」はもう一つあります(「全集」第44巻、p136-137)。
「もし、この命令が実行されなければ、私は責任者を法廷に引き渡す。ラトヴィア中隊は、チェンバルの制圧まで当分ペンザに止めておいてもらいたい。
富農を容赦なく弾圧し、暴徒の穀物を全部没収することが、執行委員全員と全共産党員の責務であることを、彼らに伝えてもらいたい。
私はあなたの無為無策と弱腰に憤慨している。私のすべての命令の実行状況、とくに弾圧と没収の措置について詳しい報告を要求する。」
ミンキンという人物が、レーニンのこの類の指令執行に弱腰で無為無策だったのなら、良心のかけらが残っていたのでしょう。
容赦なく弾圧、ですからその場で銃殺された「富農」はいくらでもいたのでしょう。財産を没収され追放された「富農」はその後どこへ行ったのでしょうか。
1918年8月頃のロシアで、鉄道がどの程度開通していたのでしょうか。栄養失調から病死した「富農」とその家族がいくらでもいたとしか私には思えない。
不破哲三氏の「レーニンと『資本論』」にはレーニンによる富農弾圧指令の話は全く出てきません。下部党員や「赤旗」読者にこれが知られたらまずい、という判断なのでしょう。
共産主義者にとって、歴史は宣伝材料なのです。不破哲三氏は真の共産主義者です。
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