「資本主義の後に来るべき社会体制(その名は何であれ)がどのようなものであるかは、さまざまな環境におかれた99%の人々の生存権を脅かす現実的な問題を一つずつ取り除く運動を展開し、積み重ねることによって初めて明らかになるであろう。
共産主義の命題を日本のマルクス主義者がこのように扱っていることを200歳のマルクスが知ったら、もっともなことだと思うか、困ったものだと思うか、どうであろうか」(同書p57-58より抜粋)。
聴濤弘氏(日本共産党元参議院議員)の前掲著で私が、おや、と思ったのはこの文章でした。
この文章は、日本共産党の「わが党は社会主義の青写真は作らない」論への批判です。
聴濤氏は自ら発したこの問いに大略、次のように答えています。
これでは眼前の運動をやっていくことがすべてであり、どういう未来を目指すのかを考えたり描いたりすることは誤りなのか。
それならマルクスが未来社会を追及したこと自体、誤りという事になる。
そのとおりでしょう。
日本共産党や共産主義者には未来社会の青写真どころか、下絵すらないと私には思えます。
不破哲三氏の「党綱領の未来社会論を読む」と聴濤氏の違いは、社会主義の下絵を描こうとするか否か
共産主義者が搾取制度の廃止を訴えるのなら、搾取制度の廃止とやらによりなぜ労働者の生活が豊かになるのかを、現実の企業経営や経済運営方式との関係で説明すべきです。
不破哲三氏によれば搾取制度の廃止とは生産手段を社会化することだそうですが、それは一体どんな企業経営、経済運営を想定しているのか。
これの内容が全く説明できず、マルクスの抽象的な文言の引用でそれに代える、というだけなら共産主義理論はマルクス教です。
勿論、日本共産党がマルクス教を広める団体を自認しているのならそれでよい。
マルクス、エンゲルスやレーニンの主張が非現実的でも、彼らが残した言葉を信じる人が増えれば良い、という団体ということです。
不破哲三氏の前掲著の基本的な立場は、マルクス教と私は思いました。
この点で、聴濤氏のこの著書は、不破哲三氏の近著「党綱領の未来社会論を読む」より、随分ましです。
聴濤氏のこの本を、マルクス教の著作と評したら言いすぎです。聴濤氏は社会主義の下絵を描こうと努力している。
しかし、不可解な点は多かった。例えば次です。
マルクス、エンゲルス、レーニンの農業社会主義政策(集団化と機械化)は農民から支持されなかった(同書p88-89)と聴濤氏は述べているが...
聴濤氏はこのように述べ、その矛盾が後のスターリンの暴力的農業集団化という暴挙になり、スターリン体制が作られる要因となったと主張します。
スターリン体制を生み出したのはマルクス、エンゲルス、レーニンの理論であるという話です。
スターリンが断行した、「階級としての富農の撲滅」という大量殺人はレーニンの「富農は人民の敵だ」論だけでなくマルクス、エンゲルスにも遠因があるという主張になります。
これは首肯できますが、この件は共産主義者にとって重大問題のはずです。
農業経営を集団化すれば、収穫された農産物をどう分配するかが確定できない。
自分が汗水流して生産した農産物が、自分のものにならない。
農産物が国ないしは協同企業のものになってしまい、自分は所定の収入を受け取るだけなら汗水を流す必要はない。
農作業を適当にサボタージュし、所定の収入を受け取れば良い。サボタージュしたことが暴露しても、大した罰則がないなら怠けて当然です。
汗水を流して農産物を沢山作ったら、次年度の生産ノルマが増えてしまうならさぼれば良い。
こんな話になってしまう。これは農業だけでなく、製造業や各種サービス業についても同じです。
農産物や製品の売り上げを誰がどのように配分するかを確定できないのなら、「偉大な党」が決めることになる。
結局、労働者は生産物を自分のものにできない。適当なところで仕事を怠業してしまえ、という話になる。
資本家が利潤を取得しても良いと皆が思う理由-資本家は生産に必要な原資を提供し、消費者に受け入れられそうな製品の生産、そのための設備投資を主導する
エンゲルスのいう資本主義の基本矛盾とは、生産の社会的性格と取得の資本主義的形態の矛盾です。
労働者が皆で生産した生産物を、資本家が労働者に賃金を支払うだけで取得してしまうから、利潤が生まれ搾取があるという話です。
それでは、なぜ利潤を資本家が取得する事が正当化されてきたのでしょうか。
マルクス主義経済学者は、「正当化」という点にもっと着目すべきではなかったのか。
私見では、これは資本家が生産に必要な原資を負担し、消費者に受け入れられる製品の生産、そのための設備投資を主導しているからです。
市場経済ではどんな設備投資でも、失敗する可能性が常にある。
消費者は気まぐれですから、新しい機械や設備により生産された財を必ず買う保証など全くない。
消費者が新設備により生産された財を十分購入してくれなければ、設備投資の元手を回収できないこともありえる。
この元手をA円とします。以下、資本家と労働者の資産格差がなぜ生じるかをたとえ話で説明してみます。
資本家と労働者の資産格差はなぜ生じるか―一つのたとえ話による説明―
簡単化し、設備投資には失敗するか、成功するかの2通りしかないとします。失敗すればゼロ円、成功すればA円+アルファ円が得られるとします。
失敗、成功はそれぞれ50パーセントの確率で生じるとします。
設備投資が成功したときのA円+アルファ円から得られる期待効用は、0.5×(A円+アルファ円の効用)です。ゼロ円からの期待効用は、効用がゼロですからゼロです。
一方、設備投資をしなければ確実にA円が残り、それから満足(効用)が得られるとします。
前者を後者より高く評価する人は、設備投資に手持ち資金A円を投入するでしょう。彼は資本家です。
彼に才能があるのなら、成功確率は高いでしょう。彼は設備投資をしやすい。資本家として生き残り、手持ち資産を増やしていける。
確実にA円が手元に残ることを好む人は、設備投資をしません。彼は労働者です。
才能のある人は、毎期アルファ円を得られますから資産を拡大できる。労働者との資産格差は拡大していくでしょう。
労働者はそれが、彼の才能と度胸(危険を負担)に起因していると知っていれば、正当な報酬と評価する。
Joseph. A. Schumpeterの「経済発展の理論」は難解ですが、第四章「企業者利潤あるいは余剰価値」の以下の部分を私はこのように理解しました。
「発展なしには企業者利潤はなく、企業者利潤なしには発展はない。資本主義経済においては、企業者利潤なしには財産形成もないということをさらに付け加えなければならない」(「経済発展の理論 下」(岩波文庫、p53)より。
共産主義理論、マルクス主義経済学は、Schumpeterが主張した企業者機能を全く評価していない。
これでは、経済の持続的成長を達成することができなくなり、労働者の生活も改善できないでしょう。
ブルスとかいう学者の本にも、こんな話がありました。名前を忘れてしまいました。思い出したら記します。
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