2018年10月28日日曜日

井筒俊彦「イスラーム文化 その根底にあるもの」(岩波文庫。昭和56年に底本)より思う。

「いかなる意味においても神の啓示に関係のない邪宗徒の場合は、イスラームに改宗するのが生命を保持するための唯一の生きる道であり、そうでなければ剣で斬られるほかはない。そういう状況が、少なくとも昔は、事実上存在していたのであります」(同書p131より抜粋)。


少し前に、ジャーナリストの安田純平さんがシリアから帰国されました。

安田さんは内戦で危険とわかっているシリアに御自分の判断で入国したので、勝手すぎる、自己責任だという声がかなりあります。

今の安田さんは肉体的、精神的に大変な状況でしょうから、あまり追及すべきではないでしょう。

安田さんを捕らえて虐待していた連中は、ジハード、聖戦をやっているつもりなのでしょうか。

インターネットで公開された映像を見ると安田さんは「私はウマルです」と言わされていました。

察するに安田さんは改宗を強要されたのでしょう。イスラム教の教義はこんな蛮行を、許容するのでしょうか。

誰でもこう問いかけたくなります。この問いはあまりにも重い。

飯山陽「イスラム教の論理」(新潮新書)は、聖典「コーラン」に依拠してイスラム国、イスラム教徒の言動を考えるべきと繰り返し主張しています。

飯山さんの本を読んだかぎりでは、この問いにはイエス、と答えるしかなさそうです。

しかし果たしてそれで良いのだろうか。

イスラム研究の大家、井筒俊彦氏の本をまた読みたくなりました。

以下、私なりに大事と思った点を抜き書きします。

イスラーム文化は究極的には「コーラン」の自己展開なのであります(同書p33)。


聖典「コーラン」は、預言者ムハンマドが神の啓示を受けて、その神の言葉が記録されている事によって成立したと言われる1冊の書物(同書p32)。

イスラーム文化、イスラーム社会を考えるとき、聖典「コーラン」が第一級の価値を持つことは明らかです。

「コーラン」の自己展開とは、同書p36の記述を私なりに考えますと次の意味です。

「コーラン」に記されている神の言葉を理解するとは、それがどんな状況で、どのように適用できるのかを読み手が解釈することです。

テキストは一つでも、文字通りにしか解釈しない人もいれば、自分なりに神の言葉の背後にあるう意味を解釈して理解する人もいる。

「コーラン」というテキストをどう読むかという解釈は各人各様で、イスラーム文化は多様化した。しかし解釈が違っても、究極的には統一されている。

イスラーム文化は「コーラン」をもとにして、それの解釈学的展開として出来上がった文化である、と井筒は述べています(p37)。

このあたりは、社会の在り方を規定するのは経済、財とサービスの交換方式などではないという見方です。

本書の社会観は、社会の在り方は人々が世界とその中での自分の位置、役割をどう把握、解釈しているかに依存するという話ですから、マルクス主義と根本的に違います。

マルクス主義経済学者や哲学者は、この本を観念論者の書とみるのでしょうか。

ところで、預言者ムハンマドが生きている間は、どんな問題が起きても預言者本人にきけば、答えが直ちに神の意志です。これで終わり、ですが死後はそうはいかない。

そこで預言者ムハンマドの言行録、「ハディース」が第二の聖典となりました。

「コーラン」と「ハディース」を根拠にしてイスラム法が形成されていきます。

ここで、テキストをどう解釈するかについて、学者の間で違いが生じ、学派が形成されます。学派により異なるイスラーム法ができます。

イスラーム法は、イスラム教徒の全生活を規定します。イスラーム法でいう現世を正しく構築する、人生を正しく生きるとは神の指示通りにする事です(同書p147)。

現世が神の世界として正しい形で実現していないならば、それを正しい形に向かって建て直していかねばならない(同書p144)。

これが聖戦、ジハードなのでしょう。

殆どの日本人は仏教徒ですから、「啓典の民」ではありません。邪宗徒、です。安田酸が生き延びるためには、改宗しかなかったのでしょう。

個人による二大聖典の法的判断「イジュティハード」が禁止された


井筒によれば、イスラーム法は人間の在り方が、社会生活から家庭生活の細部に至るまでう際に規定されています。

この法規は、解釈の自由が認められるのなら、人は適切に解釈して、諸問題に対する自分なりの解決策を見いだせる。

しかし、9世紀の中頃に法律に関する限り、聖典解釈はしてはいけないと禁止されてしまいました。

個人が自由に「コーラン」「ハディース」を解釈して法的判断を下すことを「いじゅてぃハード」と言います(同書p162)。

井筒は、「イジュティハード」の禁止が近世におけるイスラーム文化凋落の大きな原因の一つと述べています(同書p163)。

イランのシーア派はこれを初めからしなかった。

アラブとイラン(ペルシア人)、イスラーム文化を代表するこの二つの民族は対蹠的です(同書p31)。

その世界観、人生観、存在感、思惟形態においてアラブとイラン人は多くの場合、正反対だそうです。

中東地域で有力な民族といえば、アラブとペルシア人、トルコ人でしょう。

イスラーム教徒という点では共通していますが、その背景はかなり違う。

その程度なら私にもわかりますが、中東に平和が訪れる日は一体いつになるのでしょうか。イスラーム教徒の流入が続く欧州はどうなるのでしょうか。

イスラーム教徒の大量流入にフランスと欧州はどう対応するのか―欧州は大きく変容していく


イスラーム文化の勉強と少しでもすると、イスラーム教徒が大量流入している欧州はどうなるのだろう、と思わずにいられません。

北欧でも議論になっているようです。

聖なる世界と世俗的世界を区別しないイスラーム教は、仏社会の伝統、世俗主義と正面から衝突します。

仏の知識層は、イスラーム文化をどう見ているのでしょうか。北アフリカのイスラム諸国からの流入は今後も続くでしょう。

外人が欧州のどこかの国にいったん入れば、簡単に移動できます。

中国共産党はウイグルの人々を収容所に連行し、洗脳させるべく策しています。中国の知識層は、これを本音で支持しているのでしょうか。

解決策の糸口すら見いだせない難題に、欧州が直面しているように思えてなりません。

聴濤弘氏(日本共産党元参議院議員)は、二百歳のマルクスなら今の世界をどう論じたかという問題を提起しました。

マルクスは、「資本論」などで記されている史的唯物論の手法のみでイスラム社会を把握したでしょうか。

そうではないでしょう。マルクスにはユダヤ教の素養がありました。

マルクスなら、イスラム教に関する文献をすぐに読みこなし、イスラム教が欧州を大きく変容させてしまうと直感したのではないでしょうか。




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