「では、朝鮮労働党と共和国政府は、米日反動勢力と朴正ヒ一派が宣伝しているように、共和国北半部からいわゆる『ゲリラ』を南朝鮮におくりこんで、その力で朴正ヒかいらい政権を倒そうとしているのだろうか」(同書p167より抜粋。朴正ヒの「ヒ」は漢字で表記されている)
川越敬三氏は、昭和43年1月の「青瓦台事件」を主に想定しているものと考えられます。
この事件について、当時の「赤旗」には「朴かいらい一派との南朝鮮人民のたたかいの発展」などという「報道」がなされていました。
しかし、宮本顕治氏、不破哲三氏ら当時の日本共産党最高幹部は、北朝鮮の武装工作員が青瓦台(韓国の大統領府)を急襲して朴大統領殺害を策した事件であることを認識していました。
これは、赤旗編集局編「北朝鮮覇権主義への反撃」(新日本出版社1992年刊行)や、「不破哲三 時代の証言」(中央公論新社、p80-81)からも明らかです。
宮本顕治氏、不破哲三氏らは北朝鮮の武装工作員が韓国の朴大統領殺害を策した事実を川越敬三氏、新日本出版社の社員ら「赤旗」読者と下部党員に一切伝えなかったのです。
日本共産党最高指導部の北朝鮮認識を察知できなかった川越敬三氏や新日本出版社は、はからずも宮本顕治氏、不破哲三氏の認識と異なる宣伝を断行してしまいました。
「先進的な社会主義制度のもとで、人びとは生気に満ちて、たくましく前進をつづけている」(同書はしがきより)
この本の著者川越氏は、「38度線の北」を著した寺尾五郎氏とならび、最も北朝鮮を礼賛したジャーナリストの一人です。
一昔前の新日本出版社は、北朝鮮礼賛本を出版し全力で普及していました。
川越氏によれば、南北朝鮮人民の意思を結集しておこなわれた朝鮮民主主義人民共和国の創建は、南朝鮮におけるかいらい「国家」「政府」でっちあげにたいする全朝鮮人民の断固たる意志の表明です(p2)。
「社会主義朝鮮」を読むと、北朝鮮には悪いところなど一つもない。医療と教育は無料、住宅も水道料と光熱費を含めて格安です。
朝鮮民主主義人民共和国の社会主義建設は、千里馬のようなはやさで進んできたし、いまも進んでいます(同書p23 )。
労働者は国の主人公であり、誰も搾取されていません。人々は能力に応じて働き、労働量に応じて生産の分け前を受け取ります(p51)。
ところで、労働者の「能力」「労働量」をだれがどんな基準で評価するのでしょうか。
金日成が机に向かって1時間業務をするときに受け取る賃金と、労働者が建設工事や炭鉱で1時間働くときに受け取る賃金は異なっているのでしょうか。
金日成には「賃金」などなく、豪勢な生活を全て国費で賄っているのなら労働者は搾取されていませんか。
金日成の私生活の原資は労働者の労働の成果ではないでしょうか。この本を出版した新日本出版社の方にお尋ねしたいものです。
金日成に粉砕された反党分子はその後どうなったのか
内外の日和見主義者、大国主義者が妨害、干渉、陰謀をたくましくしていた時期がありました(同書p27-28)。
1956年8月の朝鮮労働党中央委員会は反党分子たち(副首相だった崔昌益と朴昌玉らのグループ)の陰謀を粉砕しました。
それでは、反党分子の方々が「粉砕」された後どうなったのか、この本は何も述べていません。川越氏の脳裏にはそんなことは微塵も浮かばなかったのでしょうか。
私見では、反党分子は裁判のような手続きもなく処刑された可能性が高い。北朝鮮では昔から、政治犯には裁判のような制度はありません。
「裁判」があっても、反党分子に弁護人がつくかどうか、極めて怪しい。弁護人も一緒になって反党分子を全力で弾劾してもおかしくない。
川越氏の脳裏には、二次大戦終了前にソ連軍が満州から朝鮮半島の北部まで侵攻し占領していった史実は思い浮かばなかったのでしょうか。
中国共産党と金日成の関係も、川越氏は想像すらできなかったのでしょうか。
北朝鮮の絶賛本としか言いようがないのですが、興味深い箇所について以下指摘します。
川越氏は上田耕一郎氏から「甲山派」の行方不明について情報を得られなかったのか
川越氏は昭和38年、44年と二度訪朝しています。この時期の日本共産党は、北朝鮮、在日本朝鮮人総連合会と親密な関係を維持していました。
川越氏は平壌国立大劇場で音楽舞踊叙事詩「栄えあるわが祖国」や創作オペラを観ました。
「栄えあるわが祖国」は金日成の父親の「朝鮮国民会」運動をとりあげていたそうです。
これには、金正日が何らかの役割を果たしていると考えられますが、この本には金正日の名は出ていません。この時期には金日成の妻、金聖愛がまだ権勢をふるっていました。
川越氏の二度目の訪朝時には、「甲山派」と呼ばれる労働党幹部らが追放、粛清されていたはずですが、川越氏はそれに気づかなかったのでしょうか。
不破哲三氏と上田耕一郎氏は当時からそれを察知していました。「北朝鮮 覇権主義への反撃」から明らかです(同書p20,p70)。川越氏は、上田兄弟と面識はなかったのでしょうか。
昭和45年の出版時なら、その前の朝鮮労働党の文献に「唯一思想体系の確立」という表現が出ていたはずですが、川越氏はその異様さに気づかなかったのでしょうか。
川越敬三氏は舞踊の崔承喜と声楽の永田弦次郎の現状について関心はなかったのか
川越氏は朝鮮人が優れた芸能の素質を持っている例として、舞踊の崔承喜と声楽の永田弦次郎(金栄吉)の名前をあげています(同書p133)。
二人とも昭和45年頃には既に消息不明になっていたはずですが、川越氏は訪朝時に北朝鮮当局に二人の現状について質問ぐらいはしなかったのでしょうか。
この本の「あとがき」によれば、昭和35年の夏、帰国協定の延長問題をめぐる日朝両国赤十字会談が約一か月にわたって新潟で行われました。
川越氏は報道陣の一人として、双方の記者会見を毎日聞きました。
川越氏によれば日本側の主張は、帰国事業を一日もはやく打ち切らせようとする自民党政府の方針に縛られたものでした(同書p214)。
朝鮮側の主張は、苦しい境遇にある在日朝鮮人への思いやりに満ちており、在日朝鮮人を激励する立場が貫かれていました。
川越氏はりっぱな政策をうちだしてくる朝鮮の社会主義について、ぜひ勉強したい思うようになりました。
川越氏の云うように、当時の自民党政府が帰国事業を一日もはやく打ち切らせようという方針を確立していたとは極めて考えにくい。
そういう方は政府内に少数ならいたかもしれませんが、多数派なら簡単に打ち切っていたはずです。
川越氏の主張通りなら、当時の自民党政府は北朝鮮当局が在日朝鮮人を奴隷として利用するために帰国事業を始めたことを察知していたことになります。
また、当時の日本政府が在日朝鮮人を厄介者扱いして皆帰国させようという方針を持っていたというような「研究」がありますが、それはありえない。
帰国事業を現場で見ていた川越氏の記述からもこれは明らかです。
昭和38年8月20日、川越氏、畑田重夫氏ら6人の訪朝団が金日成と会った
この本によれば、川越氏、畑田重夫氏ら6名が昭和38年8月20日に金日成と会いました(同書p174)。
会見場所は朝鮮労働党中央委員会本部でした。一行は1時間半、金日成と懇談しました。
金日成は日本の言論界が共和国北半部の社会主義建設についてとりあげると、その報道が南朝鮮にも伝えられ、南朝鮮人民に北半部の実情を知らせるのに役立っていると述べました。
金日成によれば、日本人民の闘争は朝鮮の自主的統一のかけ橋の役割をしています。
金日成は日本での北朝鮮宣伝が「南朝鮮革命」に重要な役割を果たすことを熟知していたのです。「朝・日両国人民の運命は一つです」と金日成は述べたそうです。
川越氏、畑田重夫氏らは深く感銘したことでしょう。「南朝鮮革命」すなわち大韓民国滅亡への協力こそ、日本人民の使命であると胸に刻んだことでしょう。
「社会主義朝鮮」を出版し、川越氏は金日成の期待に立派にこたえました。
53年も前のことですが、畑田重夫氏に当時の訪朝体験を語っていただきたいものです。北朝鮮による大韓民国滅亡策動を、国際政治学者畑田重夫氏はどう評価しているのでしょうか。
川越氏と大槻健早大教授(教育学)は、昭和44年訪朝時、両江道恵山にも行った(p41-42)
川越氏は共に訪朝した大槻健早大教授と、昭和44年訪朝時に平壌から両江道恵山に、北朝鮮の社会科学院幹部二人と列車で行ったそうです。
平壌からいったん南下して東に行き、ハムフン、新浦、北青、端川、金さくの各駅を経て吉州駅に到着。ここで列車が二つに切り離され、清津に向かう列車と恵山に向かう列車に分かれました。
恵山駅に着いた時には夜になっていました(p43)。この列車速度は、私が知っている北朝鮮のそれよりかなり速い。当時の北朝鮮は、90年代以降ほど電力、資源不足ではなかったのでしょう。
在日本朝鮮人が身内(帰国者)と会うために訪朝できる時期になると、「案内員」という監視役が常に同行するようになっていました。
川越氏と大槻健教授には「案内員」はついていなかったようです。川越氏らは恵山市の北側を流れる鴨緑江を見ました。川幅は渇水期のためせいぜい10メートル程度でした。
20数年後に、相当数の北朝鮮の人々がこの町から鴨緑江を越えて脱北します。渇水期なら川を渡ること自体は難しくない。警備隊を買収する外貨があれば大丈夫だったでしょう。
川越氏と大槻健早大教授が北朝鮮当局から聞いた金日成神話―普天堡戦闘はテロ行為、朝鮮人民革命軍は山賊
川越氏と大槻健教授は、車で普天の街まで行きました。普天には、かつて日本が警官の駐在所、面事務所(町役場)、郵便局、消防隊本部、金融組合などを設置しました。
川越氏によれば、これら機関の実態はみな朝鮮人民抑圧のための暴力装置で日本人たちが武器を持って集まっていたそうですが、荒唐無稽な話です。
町役場や郵便局、消防隊、金融組合に武器などあるはずがない。当時の日本では拳銃、鉄砲は貴重品でしたから、警察ですらいつも保有していたわけではない。
1920年生まれの川越氏には、その程度の推察力すらなかったのでしょうか。
川越氏によれば、1937年6月4日夜、金日成将軍が自ら引きいた朝鮮人民革命軍の一隊が鴨緑江と佳林川を越え、この町の日本の各機関をいっせいに襲撃しました(p43)。
敵を倒し、駐在所の留置場にとらえられていた朝鮮人を開放し、建物に放火したパルチザンは住民から歓声で迎えられました。
金日成将軍は群衆に向かって反日愛国勢力の団結を訴える演説をしました。
朝鮮人民革命軍の隊員たちは、「祖国光復会10大綱領」や朝鮮人あてのアピールを町中に張り出した後引き上げました。
「この町の日本の各機関をいっせいに襲撃」とありますがから、警察の駐在所はもちろん町役場や郵便局、消防隊も襲撃したのでしょう。
銃声が聞こえたでしょうから、役場や郵便局、消防隊の近くに住んでいた朝鮮人たちはどんなに恐ろしかったでしょう。
放火などしたら、普通の朝鮮人の家まで延焼してしまうかもしれません。消防隊も襲撃されたのでは、誰も消火できなくなってしまいます。
金日成の部隊が金融組合を襲撃したのなら、金品を強奪した可能性もあります。放火や金品強奪をして山中に逃げてしまう連中を、一般に山賊と呼びます。
川越氏らは遊撃隊の抗日スローガンがいまなお墨黒ぐろと読めるのを見た(p45)
川越氏らは金日成の指揮する遊撃隊の野営地と、隊員たちが樹の幹を削って書き記した抗日スローガンが今なお墨黒ぐろと読めるのを見ました。
「墨黒ぐろ」なら、その抗日スローガンはごく最近記されたのではないでしょうか。1930年代から、川越氏が訪朝した昭和44年(1969年)まで三十数年の歳月が流れています。
三十数年経てば、墨は雨で流れてしまうはずです。川越氏にはその程度の推察もできなかったのでしょうか。
この本を出版した新日本出版社の担当者は、川越氏の記述の奇妙さに気づかなかったのでしょうか。
川越氏らは恵山で普天堡戦闘勝利記念塔を参観しました。若き金日成将軍を先頭にたくましく前進する61人のパルチザン戦士と人民の彫像で、高さ38.7メートルの石とブロンズの塔です。
金日成の神格化が、川越氏の訪朝時でかなり進んでいたことがこの記述からもわかります。金日成の彫像など、無駄な公共事業の典型です。
川越敬三氏、国際政治学者畑田重夫氏は関貴星氏の「楽園の夢破れて」をどう評価していたのか
この本を執筆する際の資料として、訪朝した人の視察報告や、在日本朝鮮人総連合会のジャーナリスト、研究者の協力を得たそうです。
在日本朝鮮人総連合会関係者の中に、日本共産党や左翼人士の政治工作を担当する方がいらっしゃったのでしょう。「国際部」という部署の方がそういう仕事をする場合があるそうです。
在日本朝鮮人総連合会副議長だった金柄植氏もそういう仕事を担当していたはずです。上田耕一郎氏は、金柄植氏としばしば会っていました(「北朝鮮 覇権主義への反撃」p64)。
関貴星氏の「楽園の夢破れて」はすでに出版されていたのですが、川越氏は資料価値がなど全くないと判断したのではないでしょうか。
川越氏と共著を出している畑田重夫氏に、関貴星氏の「楽園の夢破れて」をどう考えていたのか、お尋ねしたいものです。
「社会主義朝鮮」と、関貴星氏の「楽園の夢破れて」のどちらが北朝鮮の現実を適切に認識していたのか。今日ではあまりにも明らかではないでしょうか。
川越敬三氏が礼賛した「主体思想」の文献を黄長ヨップ氏が主に執筆した―国際政治学者畑田重夫氏に問う
吉良よし子議員、池内さおり議員ら若い共産党員の皆さんは、川越敬三氏の「社会主義朝鮮」を読んだことがないかもしれません。絶版になっているのは残念です。
川越氏によれば、主体思想こそ朝鮮が世界に誇る指導理念です。
「チュチェ」という朝鮮語は、最近では西側諸国の進歩的な思想家のあいだでもそのまま新しい用語として使われ始めているそうです(同書p194)。
ところで、川越氏が礼賛した「主体思想」に関する当時の文献を主に執筆したのは、のちに亡命した黄長ヨップ氏です。
国際政治学者畑田重夫氏は、川越氏の「社会主義朝鮮」と黄長ヨップ氏による主体思想批判の数々の文献を、今日どう分析しているのでしょうか。
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