細川ガラシャ(1563-1600年8月25日。細川忠興の妻で明智光秀の娘、お玉)は切支丹として死んだのではなく、日本人の宗教で亡くなった(新潮文庫p168)。
細川ガラシャといえば、典型的な聖女として知られています。
ガラシャは「関ヶ原の戦い」で石田三成側(西軍)から人質になって大阪城へ来るよう要求されましたが、徳川家康側(東軍)についた夫細川忠興の足かせとならぬよう「自害」しました。
細川ガラシャは切支丹でしたから、家来に自分を殺させたそうです。
遠藤周作はこれまでの日本の基督教徒による細川ガラシャ解釈にこの短編で疑問を提起しています。
「私」は戦国日本に基督教布教のため欧州から来た修道士
「日本の聖女」の語り手「私」は欧州から日本に訪れた、日本語に通じている修道士です。
恐らくイエズス会(Socistas Iesu)所属でしょう。「私」の心中の言葉に、遠藤周作の日本文化観、基督教観が出ています。
「私」はガラシャが夫細川忠興を信じられないから、教会に拠り所を探してきたのだと考えました。
「私」に対してパードレ(Padre、神父や司祭のこと)は「たとえどのような路から山に登るとも、いずれの路も頂きに達する。神への道も同じであることを忘れてはならぬ」としかります(同書p133)。
「私」は日本人が基督教的世界観、価値観を受け入れられないことを次のように語ります。
「日本人の多くは、世に生きぬくことの辛さに耐えかねると、逃げ場所を宗教に求める者が多いからだ。
私のようなヨーロッパの人間から見れば、それは人生の逃避であり、人生の苦しさを回避する弱い生き方のようにも思える。こうした弱い生き方を仏教では解脱とか遁世と呼ぶ。
だが遁世とは世俗の煩悩を捨てて生きる意味であり、決して切支丹の生き方ではないと私は考えている。
なぜなら主イエスは決して人生の苦しみの象徴である十字架を肩からお捨てにならなかったからである。つまり切支丹はこの人生のさまざまな苦悩から逃げてはならないのだ。
人生の苦悩の中で傷つき生きぬくことが切支丹のあり方だと思う」(同書p133-134)。
「私」は夫を愛さなくなった細川ガラシャをいさめなかったPadreに批判的です。
Padreの心には、細川忠興の奥方のような貴婦人が切支丹になれば布教の上で力になるという期待があったと「私」は考えます。
関白豊臣秀吉の「関白を選ぶか、切支丹を選ぶか」と小西行長、高山右近
「私」は関白秀吉の「関白を選ぶか、切支丹を選ぶか」という問いに表面では屈し、切支丹を捨てて関白秀吉を選んだ小西行長の心情を理解します。
おのれの弱さのため現世を回避するだけが切支丹の道ではなく、小西殿のように現世のなかで卑怯者と見られながらも、術策をこらして主のために生きるのも切支丹の道ではないか(同書p141)。
「私」によれば、仏教と切支丹の根本的な違いは、この世の十字架を捨ててそれを解脱とよぶか、それともこの現世の十字架を主と同じように死まで肩に背負って歩くかの相違にあります。
小西行長のような「鉄の首枷」をはめた生き方こそ切支丹らしい生き方で、高山右近や細川ガラシャが選択した生き方、死に方には切支丹信仰の美名を借りた異端の臭いがあります(同書p162)。
小西行長の生き方を理解するなら、Padreの現実妥協も理解すべきでは
しかし小西行長の生き方を理解するなら、権力者に擦り寄って布教の助けとしようとしたPadreの態度も正当化されるべきではないでしょうか。
切支丹信仰の美名を借りた異端の臭い、という「私」の語りは、遠藤周作の見解ではないでしょう。
これは遠藤周作が解釈した当時のイエズス会の日本観でしょう。
「日本の聖女」には遠藤周作が数々の小説を通して読者に問いかけたメッセージが凝縮されています。
遠藤周作は歴史上の人物の生き方、死に方の解釈を通して自分なりの解釈による基督教の世界観、価値観を示したのです。「沈黙」のフェレイラの生き様もそうでした。
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