2014年12月21日日曜日

Françoise Saganの「ジゴロ」(朝吹登水子訳、新潮文庫「絹の瞳」所収。Gigolo)を読みました。

彼女は彼の生活費を全部出していて、衣類から宝石類まで買ってやり、彼はそれを拒みはしなかったのだ。彼はほかの連中のように愚かで厚かましい術策を弄することはなかった(前掲著p31)。-


Gigoloとは若いツバメ、富裕な女性の恋人に生活の面倒をみてもらっているような若い男性のことです。

Saaganの「絹の瞳」に掲載されている文庫本で12ページほどのこの短編は、50を過ぎた富裕な女性と20歳年下のジゴロ、ニコラの物語です。

ニコラは毎日彼女の家で過ごし、一緒に外出しても、人々が二人に投げかける意味ありげな視線に気づきません。ニコラは愛想がよく、礼儀正しく、良い情人(amant)です。

ジゴロは時折、Patronに人を見下すような皮肉な薄笑いをする


ジゴロを職業とする若者は、パトロン(Patron)である女性に対し時折、人を見下すような皮肉な薄笑いを浮かべます(前掲著P31)。

この薄笑いは「まあいいさ、あなたが喜ぶことだから...。でも知っているでしょうがぼくはまったく自由なんですよ、ぼくを憤らせない方があなたの身のためだ」という心中の呟きを示しています。

「彼女」は以前ジゴロだったミッシェルのときに初めてこの薄笑いに気づきました。

その後彼女は自分のジゴロがこの薄笑いを見せると、相手を傷つけてやりたい気持ちになり、手を切ってきました。しかし現在のジゴロであるニコラはこの薄笑いを浮かべません。

ニコラが彼女にくれた「むさぼるような、悲しいキス」


彼女が「ニコラ、私にキスをして」と彼女が言えばニコラはすぐにキスをしてくれます。ジゴロとして非の打ちどころがないニコラですが、彼女はこの時のキスが気にいあらなかったようです。

ニコラが彼女にしてくれたキスは、本当に彼女を愛しているみたいな、むさぼるような、悲しいキスでした(前掲著P35)。彼女は「危険だ」と思いました。

「危険」とは、ニコラが自分が彼女のジゴロであるという事実を忘れて、本当に彼女を好きになってしまうことでしょう。

彼女は半年間彼女の家で暮らしたニコラを、エシーニ夫人にあげる決意をしました。彼女がニコラと初めて会ったのはエシーニ夫人の家のカクテル・パーティでした。

こうしたカクテル・パーティは文字通り市場、展示会で、爛熟した女性たちがいまにも青年の上唇をまくりあげて犬歯を調べ始めるのではないかとさえ思われるとあります(前掲著P37)。

Parisの富裕層間では、実際にこのようなカクテル・パーティが彼らの家で開催されるのでしょうか。

ニコラを棄てて南仏に行く彼女「もうずるはできないの。さあ、去ってちょうだい」


彼女はニコラを棄てて南仏に行く決意をします。

ニコラに彼女は「あなたはずるをしてるわ」「私はずるをしたくてもできないの。もうずるはできないの。さあ、入って去ってちょうだい」という言葉を投げつけます。

「ずる」とは、ニコラが彼女を愛しているという芝居を演じ続けていると考えたのでしょうか。

50すぎの彼女の鏡に映る自分の顔は取り返しようもなくおいているのですから、30代前半であろうニコラが彼女を本気で愛するはずがないということでしょうか。

ニコラがほかの青年と同様に、彼女に対し時々皮肉な薄笑いを浮かべていたら、彼女はニコラをジゴロにし続けたのでしょうか。

その場合には半年どころでなくもっと早く彼女はニコラを捨ててほかの富裕な婦人に譲渡していたでしょう。

Saganの小説は登場人物の心の中の呟きを、読者が読み込み、解釈を与えることができます。

そこがSaganに多くの人が魅せられてきた理由の一つなのでしょう。

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