ユダヤ教は数多くの宗派に分かれていた。エッセネ派、サドカイ派、ファリサイ派などである(同書p24)より―
欧米社会を知るためには、基督教について基礎的な知識が必要と思います。私にはこれが不足しているので、同書などにより少しずつ知識を蓄積していくつもりです。
そのため、基督教に関するメモを本ブログに少しずつ書き留めていきますので、宜しく。
イエスが現れた頃、ユダヤ教は数多くの宗派があったそうです。エッセネ派は修道士のような生活をし、村で共同生活を営んでいました。
祈りと農作業を日課とし、朝晩の食事を皆でとりました。食事は椀一杯のおかずと、パン1切れだけでした(同書p24)。
共同の食事、友愛精神、財産の共有など「使徒言行録」に述べられている原始きリスト教の特徴は、エッセネ派の戒律を思わせるものが多いとあります(同書p25-28)。
しかしエッセネ派や死海のほとりの地、クムランの遺跡を残した宗教団体(エッセネ派らしい)は異邦人や他のユダヤ人と接触を持ちませんでした。
サドカイ派と呼ばれる貴族出身の高位聖職者たちは、イエスの弟子たちに不信感を持っていました(同書p28-29)。ファリサイ派は中産階級出身の人たちによる宗派でした。
ファリサイ派はローマ帝国内に多くの会堂を持っていた
ファリサイ派の人たちによれば、モーセの律法は神からの奇跡の賜物で、下層階級も含めたあらゆる人々に教え伝えるべきものでした。
ファリサイ派はローマ帝国内に多くの会堂をもち、宣教活動を行うことを許されていました。ファリサイ派により多くの異邦人が、会堂に集まってユダヤの神を知るようになりました(同書p29)。
地図を見ると、エルサレムのあるユダヤの地の北にはサマリア、その北がガリラヤです。ガリラヤにイエスの出身地、ナザレがあります。
サマリアに住んでいたサマリア人はユダヤ人の隣人ということになります。
サマリア人はゲリジム山というところに神殿を建て、エルサレムの神殿と張り合っていましたが紀元前108年にユダヤの王によりこの神殿は破壊されてしまいました。
エルサレムの住民とサマリアの住民には根深い敵対感情がありました。ユダヤ人たちはサマリア人を異端呼ばわりしていました。
サマリア人の中に、ヨハネやイエスの教えに耳を傾ける人がいました(同書p31)。
原始キリスト教団には社会から疎外されて生きる人々が集まってきた
イエスの説いた教えが、人を差別したり、罪びとと呼んだり、社会的・宗教的な分類をすることに疑問を呈していたので、原始キリスト教団には社会から疎外されて生きる人々が集まりました(同書p31)。
原始キリスト教団に属した誰もが、イエスこそ神に遣わされたキリスト(ヘブライ語でメシア、救世主をギリシア語に訳した)であると信じていました。
「使徒言行録」の著者ルカによれば、原始キリスト教団が最初に成立したのはエルサレムです(同書p33)。
旧約聖書によればいつの日にかエルサレムに、全ての民が結集することが預言されているそうです。この地域の当時の人々にとって、エルサレムこそ聖なる都だったのでしょう。
原始キリスト教団の人々は食事をともにし、パンと葡萄酒を前にしてイエスが語ったことや、行ったことを真似た
原始キリスト教団の人々は信者の家に集まり、賛美歌を歌い、イエスから教わった「主の祈り」を唱え、旧約聖書の律法書や預言書を読み返しました。
原始キリスト教団の活動はエルサレム中心でしたが、教団は次第に成長し、生前のイエスを知る人々が指導的立場となり、十二使徒と呼ばれるようになりました。
その中の中心はペテロでした。ペテロは、「開明的なユダヤ人主義」を代表する人物でした。モーセの律法は守るが、異邦人を排除することはしないということです(同書p31)。
紀元30年から70年にかけて、原始キリスト教内部に深刻な対立が生じます。ペテロとパウロの対立です。
争点は、ユダヤ教の戒律を異邦人の信徒に強制すべきか否かでした(同書p37)。
紀元1世紀に、エルサレムでは後の欧米世界に大きな影響を与えることになる人々がこのような暮らしをしていたということですね。
この本には、カタコンベ(地下墓地)内に描かれた絵が冒頭に掲載されています。ローマ帝国による過酷な弾圧下での、信者たちの思いが伝わってくるような絵です。
後世の、権力そのものになったころの絵画は技術上はずっと上なのでしょうが、私にはカタコンベの絵のほうが訴えるものがあるように感じられます。
今回のメモはこれぐらいにします。次には、ペテロとパウロの対立やパウロの布教について要約するつもりです。
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