2014年8月8日金曜日

このしるしと星々に満ちた夜を前にして、私ははじめて、世界の優しい無関心に、心をひらいた(Albert Camusの異邦人、窪田啓作訳、新潮文庫)の最後の節より

これほど世界を自分に近いものと感じ、自分の兄弟のように感じると、私は、自分が幸福だったし、今もなお幸福であることを悟った(「異邦人」、新潮文庫p127より)―


人には、ちょっとした運命のいたずらでどうしようもない状況に追い込まれていくことがあるようです。遠藤周作のいくつかの小説はそれを主なテーマにしていました。

少し前に、ある著名な学者が無念の死を迎えました。私はその方と知人ではありませんが、同年代で近隣在住の方だったようでもあり、真に残念でです。

それは神がサイコロをふった結果なのでしょうか。後に振り返ると、自分とはさほど関係のない他人の判断、行動が自分に大きな影響をもたらしてしまうようなことがあります。

その結果、大きな災禍にあってしまう人もいます。その災禍は、その人にはさほど責任のないことに由来しているかもしれません。

何であの人がそんなことに、と良く知っている人なら思わざるを得ないが、事情を知らない世間の人はそう思わない。自業自得だとみられてしまいがちです。

そんなとき、窮地に追い込まれた本人はどうやって苦境から脱すれば良いのでしょうか。Albert Camusは「異邦人」でその問いを読者に投げかけたのでしょう。

「異邦人」の主人公ムルソーはふとしたきっかけから死刑囚に―「それは太陽のせいだ」


「異邦人」の主人公、ムルソーは死刑を求刑され、処刑の日を待っている人物です。「異邦人」の最後の、ムルソーの内面を描いた部分は、心に残るものです。

ふとしたきっかけから、ムルソーは死刑囚となってしまいました。ムルソーは狡猾に身を処するようなことが全くできない人物なのです。

アラビア人を殺めた理由を裁判長に聞かれると、「それは太陽のせいだ」と答えるのですから。確かに、アルジェリアの焼けつく日射しは、人の判断と行動を歪めてしまうのかもしれません。

不幸な死に方を迎えることになってしまったムルソーの前から、恋人も友人も去っていきました。処刑の日を待つムルソーに、皆が無関心になってしまったのです。

「世界の優しい無関心に、心をひらいた」とは


そんなムルソーが語る「世界の優しい無関心に、心をひらいた」とは、どんな意味なのでしょうか。

誰しも最期は死ぬのですから、皆「死刑囚」です。自分が「死刑囚」であることに皆、気づいていないだけです。自分が死に直面するまで、他人の死にさほどの関心を抱きにくいものです。

あまり縁のない他人の死に無関心だからと言って、薄情な人間とは言えません。皆、自分が生きていくだけで精一杯なのですから。

死ぬときは誰しも一人なのですが、誰かに看取られながら死にたいものです。

それならば、処刑の日に大勢の見物人が集まり、憎悪の叫びをあげて自分を迎え入れてくれたら、愛しい人たちに看取られて死を迎えることはできなくてもまだよいかもしれません。

ムルソーは、どうしようもない運命の悪戯に抗いつつ、勇気をもって最後まで生き抜く気高い心を持つことができたのです。

「しるしと星々」が死んでいく自分を静かに見つめてくれればそれでよい、という心です。

「しるし」(仏語でsigne, 英語ではsigns)にCamusはどんな意味を込めたのでしょうか。じっくり考えたいものです。

「異邦人」の最後の部分は、マリー・アントワネットの死に方と重なってくるように思えます。

北朝鮮で公開処刑される「政治犯」の多くは、大勢の見物人の前で銃殺されます。「逆賊」とされた張成澤も最後は、大勢の見物人に死を見届けてもらいたかったかもしれません。

人の死を大きなテーマとしたAlbert Camusは、交通事故により若くして亡くなりました。

愛しい人に看取られるどころか、見物人に憎悪の叫びをあげてもらうという機会すら、Camusには訪れなかったのです。

以下は、「異邦人」の最後の部分を抜粋したものです。

新潮文庫p127より


あの大きな憤怒が、私の罪を洗い清め、希望をすべて空にしてしまったかのように、

このしるしと星々に満ちた夜を前にして、私ははじめて、世界の優しい無関心に、心をひらいた。

これほど世界を自分に近いものと感じ、自分の兄弟のように感じると、私は、自分が幸福だったし、今もなお幸福であることを悟った。

すべてが終わって、私がより孤独でないことを感じるために、この私に残された望みといっては、私の処刑の日に大勢の見物人が集まり、憎悪の叫びをあげて、私を迎えることだけだった。


仏語原文より


Comme si cette grande colère m’avait purge du mal, vidé d’espoir, devant cette nuit chargée de signe et d’etoile, je m’ouvrais pour la première fois à la tendre indifférence du monde.

De l’éprouver si pareil à moi, si fraternel enfin, j’ai senti que j’avais été hereuex, et que je l’étais encore.

 Pour que tout soit consommé, pour que je me sente moins seul, il me restait à souhaiter qu’il y ait beaucoup de spectateurs le jour de mon execution et qu’ils m’accueillent avec des cris de haine.


英訳(By Matthew Ward, The Strangerより)


As if that blind rage had washed me clean, rid me of hope, for the first time, in that night alive with signs and stars, I opened myself to the gentle indifference of the world.

Finding it so much like myself – so like a brother, really – I felt that I had been happy and that I was happy again.

For everything to be consummated, for me to feel less alone, I had only to wish that there be a large crowd of spectators the day of my execution and that they greet me with cries of hate.



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