2014年9月10日水曜日

他人の人生を横切るとき(遠藤周作「わたしのイエス」祥伝社黄金文庫)より思う

われわれが善意でやったことが、われわれの知らぬうちに、その人に傷を与えたり、不幸をもたらしている―


きな作家の文章を何度も読み返し意味を考えたいものです。ときには、自分のこれまでの歩んできた道を見つめなおすことが大事でしょう。

人生の節目で、自分はいろいろな決断をしてきた。あのとき、自分はこの道を選択したがもし別の道を選んでいたらどうなっていただろうか。

あのとき、自分がその決断をした背景には、誰かのちょっとした言葉や行動が実は大きな影響を与えていたのではないか。その人は熟慮の結果そうした言動をとったのではない。

それでも自分の選択に大きな影響を及ぼしていた。一体これはなぜだろう。神がサイコロをふったとはこういうことなのだろうか。偶然が私たちの人生にあまりにも大きな影響を及ぼしている。

自分も他人の人生を横切っている



同様に、自分の何気ない一言や行動が他人の人生に大きな影響を及ぼしていたこともあったかもしれません。自分も、他人の人生を横切っているのですから。

遠藤周作は数々の著作で、登場人物の独白という形でこのように語っています。

私はこの人生観から神の存在を信じるという気持ちにはなかなかなれませんが、何度も噛みしめたい考え方だと思っています。

凶悪な人、組織は存在する―北朝鮮、暴力団そして基督教にも殺戮の歴史



しかし、世の中にはどう考えても凶悪な人間、組織は実在するのです。北朝鮮、朝鮮労働党はその一つです。

朝鮮労働党が北朝鮮の人々に強制してきた世界観、人生観では民間航空機の爆破や韓国の要人殺害、日本人や韓国人の拉致・抑留こそ栄えある行為です。

暴力団も同様で、組長の命令ならどんな悪事でも断行することを○○組に入る際に誓う儀式があるそうです。

凶悪国家、組織と私たちが直面しているという現実を思うと、神の存在などなかなか信じられない。凶悪国家や組織は他人の人生を泥足で踏みにじっている。

基督教の歴史にも、凄惨な殺し合いがありました。

私には神に救いを求めて蛮行を座視するということはできませんから、様々な訴えを長年してきています。その行為により私は他人の人生を横切っているのかもしれませんね。

下記は遠藤前掲書よりの抜粋です。

遠藤周作「わたしのイエス」祥伝社黄金文庫p229より


ただし、まったくこういうことに気がつかないで、一生を終える人もいるわけです。

しかし、多少の感受性を持っている限り、われわれ人間というものは、自分の十年前、二十年前、あるいは四十年前に、自分の存在によって、歪めてしまった他人というものをたくさん持っているはずなのです。

なぜならば、そういうものが人生というものであり、そういうものが人間と人間の関係だからです。

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