2014年9月21日日曜日

遠藤周作は「天正の少年使節」から何を思ったか―「日本史探訪11 キリシタン大名と鉄砲伝来」角川文庫所収より思う

本能寺の変の起こった1582年(天正十二年)の早春、長崎を発った少年たちは、ポルトガルの植民地マカオに渡り、順風を待って、マラッカから、さらにインドに入った。少年使節を乗せた南蛮船は、ザビエル以来の、日本に布教にやって来たキリシタン宣教師たちのコースを、ちょうど逆にたどって、ヨーロッパへ向かったわけである(前掲書p220-221)


天正の少年使節とは、九州のキリシタン大名らの名代として欧州にわたった13歳から14歳の4人の少年たち、伊東マンショ、千々石ミゲル、中浦ジュリアン、原マルチノのことです。

使節派遣を実際に立案し推進したのは、イエズス会巡察師ヴァリニャーノでした。「日本史探訪」とは、昔のNHKの番組です。「天正少年使節」は昭和47年度放送と記されています。

少年使節らはインドからアフリカ大陸の喜望峰を回ってアフリカ西海岸を北上し、リスボン港に1584年夏に着きました。当時の船でこれだけの距離を航海するのは命懸けの大事業です。

ポルトガルからスペイン、イタリアまで少年使節は貴族や大司教に各地で大歓迎されました。

戦後初めて、カトリックの留学生として欧州に行った遠藤周作


これに対し、遠藤周作は二次大戦後間もないころの自分の留学体験と重ね合わせて、次のように評します。

「背後に、少年たちが、何かつらい思いをしただろう、あるいは悲しかったろうとも思うのです。...歓迎されて行くということは、非常に少年たちにとってうれしいことであったかもしれないけれども、これは疲労することですよ、ぼくの昔の経験から言って」。

「善意を持たれるということは、同時にその善意の重荷を背負わなくちゃいけないわけで、これに旅の疲労が交って、かなり彼らはノイローゼ気味になったんではないか、というのがぼくの想像です」(前掲書p227)。

これらから私が注目したのは、「善意の重荷を背負わねばならない」という表現です。

他人のために良かれと思って何かを行っても、結果として他人の人生に悪い影響を及ぼしたり、重荷を背負わせることもあるのでしょう。

当時の日本人には欧州とはどんな土地なのか、全く想像もできなかったはずです。

欧州に関する文献など当時は何もなく、宣教師の言葉による説明でしか少年使節らには情報は得られなかったでしょう。不安と期待が心中を錯綜しつつ、少年使節は欧州に旅立ったのでしょう。

大海原を越えて二年後にようやくたどり着いた遥かなる異国の地で思いをよらぬ大歓迎を受ければ、少年でなくても心が乱れ、情緒不安のような状態になってしまってもおかしくない。

約二年半後、少年使節はローマで法王との謁見を許された


1585年春、少年使節らはローマに入り、バチカンでグレゴリウス13世と面会します。使節の一人、中浦ジュリアンは熱病にかかり、歩行も困難だったそうですが歯をくいしばって馬に乗りました。

中浦ジュリアンは特別に彼だけで法王に会えるよう、取り計らいを受けました。

無事に法王との謁見を終え、帰国する運びとなった少年使節らの心境について、遠藤周作は次のように語ります。

「大役を果たしていざ帰国ということになると、何年ぶりかの故国に帰ることはうれしかったに違いありませんが、同時にまた新たな不安も頭をもたげてきたと思うのです」。

「エリートとしてここへ連れてこられたのだから、帰ったら自分たちが何かをしなくてはいけないんだという重さ、これはぼくも留学生の時、非常に感じましたね」。

少年使節にはそういう気持ちはあったでしょうが、彼らは帰国後高い地位を保証されているわけでもない。喜びとともに不安を一杯抱えて彼らは帰国の途についたことでしょう。

少年使節を送り出してくれた九州の大名たちが、その時点でどうなっているのか彼らには全くわからなかったはずです。非力な自分たちに一体何ができるのだろう。そんな気持ちだったでしょう。

帰国時にはキリシタン大名は世を去っていた-千々石ミゲルの棄教-


一行は1590年7月21日、長崎に到着しますが、日本の基督教徒を取り巻く事情は様変わりしていました。

大友宗麟ら九州のキリシタン大名は世を去り、豊臣秀吉による伴天連追放令が出されていました。

詳しい事情はよくわかりませんが、帰国後3,4年もたたないうちに少年使節の一人だった千々石ミゲルが棄教します。

千々石ミゲルは大名に「キリスト教国家は、日本の侵略計画を持っています」と告げてしまいます。

当時のスペイン、ハプスブルク帝国の実態を千々ミゲルがよく認識したものだと私は思いますが、当時のイエズス会に対する裏切り行為、転向とも言えるのでしょう。

転向者にも魂があった-基督教国民でない者は人間にあらずという考え方についていけなかった


遠藤周作は千々石ミゲルの転向について次のように述べています。

「いわば基督教の中華思想というものが当時ありましたから、基督教国民でない者は人間にあらずという考え方について行けなかったのではないか。あるいは基督教文化の栄光と同時に、行く先々の基督教国の植民地の悲惨も同時に見たのではないか」。

「疲労感とか屈辱感とかも、彼の棄教の一つの原因に、というより、大きな原因になったかもしれません」。

転向したものは当時の基督教徒としては言語道断であっても人として当然の選択をしたのではないかと推し量るのが遠藤周作らしい。「沈黙」のフェレイラ像がそうでした。

日本人、日本国家が基督教布教を口実にして欧州の大帝国に蹂躙されるかもしれないのに、座視するのが基督教徒のとるべき態度なのでしょうか。

千々石ミゲルは心中でイエスに問いかけたのかもしれません。

他の三人はその後の生涯を布教に捧げます。他の三人は何らかの経路で千々石ミゲルの棄教を知ったことでしょうが、どんな思いだったでしょうか。

若い頃生死を共にした仲間の一人が棄教したのですから、衝撃を受けたでしょう。

基督教布教を推進しているのは欧州の大帝国であり、基督教徒でないものは人間でないという発想が彼らにあることをほかの三人も知っていたはずです。

長崎で殉教した中浦ジュリアン-われこそは、ローマを見た中浦ジュリアンである


少年使節の一人だった中浦ジュリアンは江戸幕府による基督教徒弾圧が吹き荒れる1633年に、長崎で殉教しました。

刑場に引き出されたとき、中浦ジュリアンは絶叫しました。

「われこそは、ローマを見た中浦ジュリアンである」。

拷問のとき、中浦ジュリアンの心中には48年前のローマでの法王との謁見時、熱病の苦しみを耐えて馬に乗ったこと、自分だけ別に許されて法王と会えた場面が何度も蘇っていたのかもしれません。

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