2015年1月8日木曜日

三浦綾子「イエス・キリストの生涯」(講談社文庫)から思う

三浦綾子「イエスを拝んだのは、イエスが神の子であったからだ」「もし、イエスが単に人の子であるとすれば、キリスト教は崩壊する」「もしイエスがキリストでなければ、迫害に耐え、殉教した信者たちは滑稽な道化師ということになる」(前掲書p14-15より抜粋)-


宇宙はどうやってできたのでしょうか。宇宙がない時には空間もないのでしょうか?ではなぜ無から宇宙が生まれてきたのでしょうか。

宇宙物理学者なら宇宙の始まりを説明できるのでしょうが、宇宙が無から生まれてくる理由を説明するのは難しいのではないでしょうか。

こんなふうに考えると、大宇宙を創生した神がいても良さそうに思えてきてしまいます。

三浦綾子の問いかけ―「あなたはイエスを神の子キリストと崇めるか、崇めないか」


しかし、大宇宙を創生した神がイエスとして人類のいる地球に現れることがありうるのでしょうか?三浦綾子は現れたと確信していたのでしょう。三浦綾子は私たちに問いかけます。

「あなたはイエスを神の子キリストと崇めるか、崇めないか。これこそは、私たち人類にとって最大の問題なのだ」。

三浦綾子は聖書に記されている物語や奇跡を全て真実と信じていたのでしょう。

聖書に、イエスがラザロという死後4日経った人を蘇生させたという記述があるそうです。

三浦綾子はイエスが行ったという数々の奇跡を信じていました。

イエスは盲人の目をあけ、足腰が立たぬ者を立たせ、癩病を癒し、中風の者を立ち上がらせたそうです。私はどうしても、これらの奇跡物語を信じられない。

私はキリスト教の文献を読んでいるわけではないのですが、三浦綾子の説くキリスト教には違和感を禁じえません。遠藤周作が説いた基督教と大きく異なっています。

「もしイエスがキリストでなければ、迫害に耐え、殉教した信者たちは、滑稽な道化師ということになる。キリスト教文学も、キリスト教音楽も、キリスト教美術も、その立ちどころを失って亡ぶ」(同書p15)


敬虔なキリスト教信者であれば、こうした結論が出るのも当然なのかもしれません。

しかし、キリスト教芸術が栄えていた中世の欧州では、キリスト教の名で「異端」「魔女」とされた人々を火炙りなどの極刑にしていたのではないでしょうか。

三浦綾子は、キリスト教史の暗黒面ともいうべき史実をどう捉えていたのでしょうか。教義を純粋に信じすぎると、その教義に疑問を呈する人が凶悪な人物に見えてきてしまいかねません。

キリスト教史の暗黒面は、当時のキリスト教徒の純粋さが生み出したという面もあったのではないでしょうか。

私には、イエスが人の子か、神の子かという問いかけはそれほど大きな問題とは思えないのです。

イエスが人の子であったとしても、迫害に耐え、殉教した信者たちの死には何かの意味があったはずです。

過酷な拷問、残虐な処刑により殉教した信者の姿が当時の人々の記憶に残り、歴史の記録に残されて後世に語り継がれたのですから。

「神の子」であるとはどういう意味なのでしょうか。神がイエスの姿を借りて人間世界に具現したということでしょうか。

神と聖霊、イエスは三位一体であるということなのでしょう。しかし、大宇宙を創成した存在がちっぽけな地球に具現するのでしょうか。疑問はつきません。

私には、遠藤周作が説いた基督教のほうが三浦綾子のそれより、親しみやすい。

三浦綾子のこの書は、宗教画を作家がどう読み込んだかという視点から読まれるべきでしょう。

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