今度は大変残念ですが1週間、数日単位でしか考えないほうがいいように思う、という、つまりまあ「余命宣告」といってもあってないような状態になってしまったのだ(同書p300、2009年5月12日より抜粋)-
一昔前は、癌の告知をしなかったように思います。最近は、「数日単位」という「余命宣告」をするのですね。勿論これは、御家族と相談の上でのことでしょうけれど。
全国健康保険協会のHPによれば現代日本では、概ね二人に一人が癌になり、三人に一人が癌で亡くなります。私の周囲でも最近、51歳のある友人が食道癌で亡くなりました。
昨年夏に会った時は元気に見えたのですが、本人はこのとき既に死が遠くないことを覚悟していたはずです。抗ガン剤の副作用で苦しんでいたかもしれません。
生きとし生ける物は皆死ぬのですが、自らの生存期限がわかったとき人は何を思うのでしょうか。何をするべきなのでしょうか。常日頃からのこの問いかけが大事なのかもしれません。
あと数日という「余命宣告」を、中島梓は実際にはどのように受け止めたのでしょうか。この本では淡々と上述のように記載されています。
「闘病記兼、中島梓が最晩年に感じたり考えたことの記録」(同書p19より)
中島梓は、2009年5月17日に昏睡状態に入り、5月26日に亡くなりました。この本は前著「ガン病棟のピーターラビット」(ポプラ文庫)の続編ともいえるでしょう。
2007年10月末に体調を崩し、黄疸がひどくなって入院し、「下部胆管癌」の疑いあるので「すい頭十二指腸切除手術」をしたとあります。
その後CTスキャンで肝臓に転移が発見され、胆管癌ではなく膵臓を源とする膵臓癌だったことがわかったそうです。
著者がこの本のプロローグ(prologue)を記したのが2008年4月28日です。ジェムザールという抗ガン剤を使っていたが、副作用はあったが効いていなかったそうです(p10-11)。
その後1年1ヶ月ほどで亡くなられるのですが、プロローグ執筆時点では抗ガン剤でだるいだけでどこも痛くないと述べています(同書p20)。
しかし、膵臓癌は急速に体を悪化させてしまうのですね。およそ七か月後に中島梓は激痛に苦しむようになってしまいます。
「予定としては、私が文章を打てる限りは現状報告と遺書をかねて書いてゆくつもりです」(2009年2月12日、同書p23)
中島梓の他の著作や評論活動について私は存じませんが、膨大な著作を残した人気作家でした。
活力を常に全身にみなぎらせているような方だったのでしょう。
この手記の行間から、無念の思いと悲しみ、どうしようもないなら前を向いて死にたいというお気持ちを感じ取れます。
上記は亡くなる三ヶ月ほど前の文章ですが、余命がさほどないことを予感していたのではないでしょうか。
「腹痛や背中痛、腰痛がずっとあって、寝ていても起きていても辛い真夜中は辛い」(同書p111)
2008年11月25日の日記で中島梓は、次のように述べています。
「腹痛や背中痛、腰痛がずっとあって、寝ていても起きていても辛い真夜中は辛い。こんな日がずっと続くのだったら、もういっそ死んでしまったほうが楽だと思うくらい辛い」
「旦那が癌の雑誌を眺めていて、見せてくれたなかに『難病の癌と闘う」というような特集があって珍しく膵臓ガンが出ていたので、見てみたら、
手術しなければ生存率は0%、手術後が13%なんぼ、手術後に肝臓転移が出たケースで、最長に生きたのが15ヶ月、11ヶ月くらいなら相当ラッキー、というような話が延々と出ていたので、
気が滅入ってしまって、帰る途中から旦那と喧嘩になってしまった。...11ヶ月というと来年の3月まで生きていれば相当頑張った、ということになるのか」。
御本人の予想は、概ね当たってしまいましたが、「相当頑張った」と言えるのではないでしょうか。
「旦那と喧嘩になってしまった」という記述から私には、癌の激痛に苦しむ中島梓を御主人が優しくいたわっていらしたように思えます。癌患者をいたわるのは実に難しい。
「やはり死にたくはないし、家族を残して50代で逝ってしまいたくはない。久々に泣いてしまった」(同書p112より抜粋)。
中島梓の無念さがひしひしと伝わってきます。
激痛に苦しみつつも、仕事をし続けていたのですから並大抵の精神力ではない。「泣いたあとでグインをともかく完成した」とあります(p112)。
体調はこのあともあまり好転せず、腹水が貯まるようになっていきます。それでも、最後まで前向きな気持ちと生き方を貫いたようです。
2009年4月13日の日記によれば、前日に中島梓は「当分さいご」というふれこみの昼間ライブをやっています。4月14日の日記によれば、右足と下半身のむくみがひどくなっていました。
私は医師ではないので、末期ガン患者の足がなぜむくんでしまうのかわかりませんが、ほぼ共通した症状のようです。他の方の手記にも出てきます。
体がむくみ、時には激痛に苦しむ中島梓を傍で見ていた御家族もどれだけ辛かったでしょう。
「淡交」と「深く濃い交わりをする相手」、「これから先は何でもとにかくあせらずにやってゆこうと思う」
著作やHPを見た方から、励ましのメールが沢山きていたようですが、中島梓にはこれらのほとんどが重荷だったようです。
「ひとが『好意』だと思って見せてくれるものが、病人当人にとっては、好意でもなんでもなく、ただの押しつけであったり、共感の押し売りであったりすることも多い、ということは自戒しておくべきだろう」(p248)。
「世の中は『淡交』でいいのだ。濃く深い交わりをする相手、などというものはこの世にほんの数人いればいい」と述べています(p248-249)。
なるほど、と頷かせる人間観、人生観です。
中島梓には、御主人や息子、母親と他数名の「濃く深い交わりをする相手」がいたのでしょう。
その方々に見守られていたからこそ、苦しみつつも最期まで前向きな死に方ができたのではないでしょうか。
同時に「淡い付き合いの相手」、例えば読者の存在を、作家中島梓が忘れていたとは思えません。
5月12日の日記の「『余命宣告』といってもあってないような状態になってしまったわけだ」という記述は、読者へのメッセージとも言えそうです。
5月15日の日記の次の記述は、中島梓が最期まで作家として生き抜きたいという気持ちを持っていたことを思わせます。
「これから先は何でもとにかくあせらずにやってゆこうと思う」。
御冥福をお祈りします。
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