2017年1月30日月曜日

宮本顕治氏の暴力革命論より思う。

宮本顕治「そこで、ロシア革命のばあいを歴史的に類推して、日本革命の『平和的発展の可能性』を提起することは、根本的な誤りとなる。したがって、議会を通じての政権獲得の理論も、同じ誤りであることは論をまたない。」

(「共産党・労働者党情報局の『論評』の積極的意義」、前衛49号、1950年5月より抜粋。日本共産党50年問題資料集1所収)。


宮本顕治氏のこの論文は、野坂参三氏の「平和革命」理論、「愛される共産党」路線への徹底批判です。

宮本氏はコミンフォルムという世界中の共産党の上部組織から出された野坂批判に真っ先に迎合し、暴力革命論を提起しました。

勿論、暴力革命論それ自体は、「32年テーゼ」に銘記されていたレーニンの命題「帝国主義戦争を内乱に転化せよ」から必然的に導かれるものですから、宮本氏の専売特許ではありません。

市川正一氏は公判の最終陳述で武装闘争を呼びかけました。これは、「日本共産党闘争小史」(昭和29年大月書店刊行、p182)に明記されています。

市川正一氏によれば、労働者と農民は帝国主義戦争の悲惨さから逃れるためには、日本共産党の指導のもとに大衆的な武装蜂起をもって公然と資本家・地主の国家権力と武装闘争を行い、労働者・農民の日本ソヴェト権力を樹立せねばなりません。

宮本顕治氏は、同郷の先輩である市川正一氏を尊敬していました。暴力革命、武装闘争唯一論は当時の共産党員としては正論そのものです。

吉良よし子議員は宮本顕治氏の論文「共産党・労働者党情報局の『論評』の積極的意義」を読んでいないのか


吉良よし子議員、池内さおり議員ら若い共産党員は、宮本顕治氏の上記論文と宮本氏の暴力革命論を御存知ないのでしょうか。

吉良よし子議員、池内さおり議員は市川正一氏による武装闘争・労働者と農民の日本ソヴェト権力樹立論を御存知ないのでしょうか。

「日本共産党50年問題資料集」「日本共産党闘争小史」くらいは読んで頂きたいものです。

「50年問題」とは、日本共産党中央が分裂した時期に生じた諸問題の総称です。

「51年綱領」という文書が徳田球一氏らを中心とする側の主導で採択されました。

いろいろな経緯がありますが、結局当時の共産党員のほとんどがこの綱領を認めました。共産党・労働者党情報局、ソ連と中国には逆らえなかったのです。

宮本顕治氏は上記論文で、次のようにソ連を礼賛しています。

「同志スターリンによって指導され、マルクス・レーニン・スターリン主義で完全に武装されているソ同盟共産党が、共産党情報局の加盟者であることを、銘記しておく必要がある」

これを読むと在日本朝鮮人総連合会の皆さんによる金日成、金正日礼賛を思い起こすのは私だけでしょうか。

宮本百合子も熱烈なソ連信者でした。宮本百合子の「歌声よおこれ」とは、スターリンとソ連賛歌です。

宮本百合子のソ連礼賛文も、読書好きで早大文学部出身の吉良よし子議員は御存知ないのでしょうか。

聴濤弘氏(日本共産党の元参議院議員)なら、宮本夫妻のソ連礼賛をよく御存知のはずです。

「日本の解放と民主的変革を、平和の手段によって達成しうると考えるのはまちがいである」(51年綱領より)は野坂参三批判


「51年綱領」は、終わりの方で「日本の解放と民主的変革を、平和の手段によって達成しうると考えるのはまちがいである。」と明記しています。

これは「平和革命」と「愛される共産党」路線を提唱していた野坂参三氏の路線と大きく異なっています。

宮本顕治氏は51年綱領作成に直接参加していませんが、宮本氏の上記論文の主張と「51年綱領」の重要な命題は同じです。

宮本顕治氏は暴力革命論の先駆的存在として、「51年綱領」に理論的に貢献したのです。

現在の日本共産党員、吉良よし子議員や池内さおり議員は暴力革命や武装闘争など夢にも考えていないでしょう。

吉良よし子議員は「平和革命」、議会を通じての政権獲得を真剣に考えているのでしょうが、それを早くから主張したのは野坂参三氏です。

ソ連の諜報機関の指導を受けていたはずの野坂参三氏がなぜそんな「理論」を提起できたのか少し不思議です。

野坂参三氏は、天皇に対しても国民の尊敬感を考慮した政策を提起していました。これをずっと後に宮本顕治氏に批判され、野坂氏は自己批判をしました。

自衛のための軍事力の必要性を国会で主張したのも野坂参三氏です。

今日の日本共産党の路線の先駆者は、野坂参三氏です。

宮本顕治氏は、「51年綱領」が完全に正しいと認めた


宮本顕治氏は、「50年問題」を終結させる契機となった昭和30年7月28日の第六回全国協議会の立役者の一人でした。

第六回全国協議会決定の冒頭は次です。

「新しい綱領が採用されてからのちに起こったいろいろのできごと、党の経験は、綱領にしめされているすべての規定が、完全に正しいことを実際に証明している。」

そもそも、宮本顕治氏が「暴力革命」論者であり、「武装闘争唯一論」を野坂参三氏を暗に批判する論文で提起したのですから、「51年綱領」を完全に正しいと認めるのは当然です。

徳田球一氏により排除された宮本顕治氏は実際に武装闘争を断行したわけではありません。

武装闘争を実行したのは、今は80代後半以上になっている下部党員です。65年くらい前のことですから。

徳田球一氏、野坂参三氏は宮本顕治氏の「暴力革命」論の理論的正しさを認めた


今日の日本共産党の党史解釈では、「50年問題」当時の武装闘争は分裂した一方の側が勝手にやったことで、日本共産党の正規の方針ではない、ということになっています。

これは御都合主義的解釈でしかない。当時の日本共産党最高幹部は、革命とは暴力革命しかなく、武装闘争によってこそ社会主義日本を築けるという点では完全に一致していたのです。

徳田球一氏、野坂参三氏は、暴力革命、武装闘争唯一論を先駆的に主張した宮本顕治氏の「理論」の正しさを認めて、51年綱領を受け入れたのです。

派閥の枠を越えて、最高幹部らが正しいと主張し、普及した「理論」「方針」「政策」が実は日本共産党の正規の方針ではなかったというのなら、下部党員は何を信じたら良いのでしょうか。

徳田球一氏らを信じて、非合法手段で北京に渡り、中国共産党から暴力革命論、「鉄砲から政権が生まれる」理論を学んだ下部党員は少なくありません。

時効になっているでしょうが、出国手続きをせずに外国に行くのは1950年代でも不法行為です。武装闘争、暴力革命の為には不法行為の断行など当然という発想です。

「北京機関」の史実を工藤晃氏、立木洋は吉良よし子議員、池内さおり議員に語るべきだ


北京で当時の党員は中国共産党から、武装闘争のノウハウを一生懸命学びました。学ぶ場所を「招待所」と云います。旧ソ連の時代にはホテルをそういう語で呼びました。

北朝鮮工作員がテロの為の「理論」や「方針」を学ぶ場所も「招待所」と呼びます。同時期に朝鮮労働党も中国共産党からいろいろ学んだのでしょう。

工藤晃氏、立木洋氏に「北京機関」について御存知のことを語っていただきたいものですね。.

私見では、当時の日本共産党員と同様のことを、在日本朝鮮人総連合会関係者により構成されている朝鮮労働党の在日本非公然組織が行っています。

朝鮮労働党の在日本非公然組織の構成者、工作員の皆さんは、平壌の招待所で金日成、金正日の「南朝鮮革命理論」や、戦闘訓練、日本人や韓国人に成りすます方法などを学んでいます。

暴力団関係者と連携して、覚せい剤を売る「外貨稼ぎ」を行う工作員もいます。朝鮮学校関係者がその類の仕事をやる場合もあります。

朝鮮学校関係者は、金日成民族の一員ですから。

拉致された韓国人が、工作員に韓国人化教育を行っているようです。拉致された日本人は、北朝鮮生まれの工作員に日本人化教育を行います。

吉良よし子議員、池内さおり議員は「北京機関」について一切御存知ないかもしれません。

工藤晃氏、立木洋氏らから日本共産党の歴史の一コマとしてそれを学んだらいかがでしょうか。一昔前の革命家の現実を、今の若い共産党員は知らないで良いのでしょうか。

「50年問題」の頃の若い日本共産党員は、「鉄砲から政権が生まれる」と本気で信じ、中国共産党の「理論」、すなわち毛沢東思想を熱心に学びました。

今日の在日本朝鮮人総連合会の皆さんは、金日成、金正日の文献を熱心に学び、全社会の金日成・金正日主義化のために日夜奮闘しています。

革命運動とは、共産党の最高指導者を信奉し礼賛する妄動なのです。



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