日本共産党員で暴力革命など考えている人はいない。田村智子議員が先日このようにtwitterで主張していました。
田村智子議員は、第八回大会中央委員会報告で宮本顕治氏が定式化した「敵の出方論」を御存知ないようです。
宮本顕治氏の著作「日本革命の展望」は読んでいるのでしょうけれど、内容を忘却なさっているのでしょう。
「敵の出方論」によれば、日本革命の最終的な形態は敵の出方により決まる。これを宮本氏は第七回、第八回大会で繰り返し主張しました。
敵の出方により、暴力革命もあり得るという結論です。
物騒な話ですが、日本共産党は第七回、第八回大会決定をその後否定していませんから、今でも日本共産党は暴力革命もあり得るという路線を維持している。
安倍総理の国会答弁は適切です。
「敵の出方論」の背景―「51年綱領」(暴力革命論)と宮本顕治氏の暴力革命論
日本共産党の第七回(昭和33年7月)、第八回党大会(昭和36年7月)は昭和26年10月の第五回全国協議会で採択された「51年綱領」をどう修正するかを大きな課題としていました。
「51年綱領」には「日本の解放と民主的変革を、平和の手段によって達成しるうと考えるのは間違いである」(日本共産党の51年綱領の中の記述)という記述があります。
本ブログで何度か論じてきましたが、この見解は昭和25年5月に宮本顕治氏が雑誌「前衛」に発表した論考と基本的に同じです。
宮本顕治氏は日本革命の平和的発展の可能性を否定し、議会を通じての政権獲得の理論も誤りと断言しました。
51年綱領はスターリンとソ連共産党、中国共産党により日本共産党に提起されました。多少の混乱後、昭和26年当時の日本共産党中央はこれを受け入れました。
宮本顕治氏ら「国際派」は当時の日本共産党中央の中心だった徳田球一、野坂参三両氏と対立したので、分派扱いされました。
ソ連と中国が徳田、野坂氏の側を正しいと認めたのですから、宮本顕治氏ら「国際派」に勝ち目はない。
宮本顕治氏らはまもなく徳田、野坂両氏の側に復帰します。
日本共産党の分裂状態は、昭和26年秋ごろには解消されています。
分裂解消の際、宮本顕治らは分派活動を自己批判し、51年綱領を承認しています。
宮本顕治氏は元来、暴力革命論者だったのですから、この時点で51年綱領の内容に大きな違和感はなかったでしょう。
この後徳田、野坂両氏、志田重男氏らが日本共産党中央として武装闘争を指導しました。
宮本顕治氏は直接武装闘争に参加していないでしょうが、暴力革命論者だったのですから責任を免れるはずがない。
党の経験は、綱領に示されているすべての規定が完全に正しいことを実際に証明している(第六回全国協議会決定の冒頭より抜粋)
宮本顕治氏、志田重男氏が主導した昭和30年7月の第六回全国協議会決定には51年の新綱領に示されているすべての規定が完全に正しいと明記されています。
最近の日本共産党は、51年綱領は日本共産党の綱領ではなかったと主張していますが、これは第六回全国協議会決定及び第七回大会決定を無視する暴論です。
宮本顕治氏は第七回大会「綱領問題についての中央委員会報告」で1951年綱領に変えて新しい綱領を作成することを提案しています。
宮本報告によれば、51年綱領は米帝国主義が日本を目下の同盟者として戦争に引き入れようとしている事、米日反動の利害が一致している事を指摘して正しく問題を提起しています。
51年綱領は日本共産党綱領ではなかった、という報告ではなかったのです。
51年綱領が完全に正しいと認めた第六回全国協議会から三年後の大会ですから、51年綱領が綱領ではなかったという報告ができるはずがない。
51年綱領には問題があるから変えねばならないと宮本氏は報告したのです。
第七回大会での宮本報告は「日本革命の展望」に掲載されています。
田村智子議員に、同書を再読なさることをお勧めします。
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