2014年5月18日日曜日

「クラーク」(暴力的穀物徴発に抵抗する農民総称)の血を求めるレーニン―「ソヴェト=ロシアにおける赤色テロル(1918-23) レーニン時代の弾圧システム」(メリグーノフ著、梶川伸一訳、社会評論社)より思う

「赤色テロル」の実行機関としてのチェー・カー(非常特別委員会)


左翼の皆さんのにとって、ロシア革命は人類史で初めて階級社会を廃絶する変革です。美しく素晴らしきロシア革命の指導者レーニンを崇拝する左翼人士は少なくありません。

30数年前、私は早大の左翼学生でした。私なりに、マルクス主義の本を一生懸命読みました。

当時、レーニンの「お言葉」を引用して論証にかえるという「論文」「著作」を執筆していたマルクス主義経済学者はいくらでもいました。

例えば岡本博之監修「科学的社会主義―その歴史と理論」(新日本出版社1977年刊)はその一つです。私は浅薄にも、その類の文献を信じていました。

当時の私に、もう少し幅広く文献を読むべきだと忠告してくれた米国帰りの年長の友人がいました。それもそうだなと思い、当時の私なりに近代政治学の文献を多少読みました。

その友人は数年前、肺癌で亡くなってしまいました。遠藤周作の言を借りれば、私の人生の重要な脇役だったのかもしれません。

今にして思うとロシア革命史の文献をもっと読めばよかったように思っています。

30数年前でも、仏のソ連史学者カレール・ダンコース(Hélène Carrère d'Encausse)の本を読んでいた学生はいたはずです。当時の私には思いもよりませんでした。

レーニンによる「穀物徴発」「食糧独裁」の現実は農民の徹底弾圧


今日では、レーニンの現実の言動を暴くような本はいくらでも出ています。

ソ連崩壊により、隠されていた古文書が公開され、レーニンとボリシェヴィキが「穀物徴発」「食糧独裁」と称して抵抗する農民を徹底弾圧していたことが明らかになりました。

「レーニン全集」掲載の1918年頃の文献を読めば、レーニンがかなりきつい表現でクラーク(富農)弾圧をレーニンが主張していることに気づきます。

これらが、レーニンによる農民殺戮指令だったのです。

30数年前の私は、映画「ドクトル・ジバゴ」(Doctor Zhivago)を見てロシア革命期の内戦とは単純な善悪の対立ではなかったようだなとは思いました。

ボリシェヴィキがジバゴの家屋を押収してしまうシーンも描かれていました。

30数年前の私はロシア革命に僅かな疑問を抱きましたが、さらに文献を調べて考えることはできませんでした。

マルクス主義経済学者の皆さんは、大量殺人を指令し断行したレーニンを未だに崇拝しているのでしょうか。

映画ドクトル・ジバゴの「ラーラのテーマ」とジバゴ一家の悲劇を思い出しました。ロシア革命期に、仏へ亡命したロシア貴族は少なくなかったはずです。

脱北者は「民族反逆者」、共産党を批判する人は「反共分子」


北朝鮮の現実を知るために、金日成、金正日の著作と「労働新聞」など北朝鮮の公式文献しか読まなかったら殆ど何もわかりません。

在日本朝鮮人総連合会の皆さんはそういう手法で北朝鮮の現実を「理解」しているつもりなので、脱北者の話など一切耳を傾けません。昔のマルクス主義経済学者と同じです。

在日本朝鮮人総連合会にとって脱北者は皆「民族反逆者」です。

不破哲三氏、志位和夫氏ら日本共産党幹部と在日本朝鮮人総連合会は、「反動勢力」「反共分子」「民族反逆者」の著作や論文について一切思考できないのです。

前掲書の最後に、翻訳者の梶川伸一氏による「本書に関する若干の解説 あとがきに替えて」が掲載されています。以下の記述はこの解説に依拠しています。

飢えの解消という名目で、ボリシェヴィキは農民から穀物を暴力的に徴発した


1917年11月7日にペトログラードで始まった「十月革命」により、ソヴェト臨時政府の樹立が宣言されました。

ボリシェヴィキと左翼エスエルの連立で始まった新政権は、飢えたペトログラード住民による食料品店や倉庫の略奪と、ボリシェヴィキ権力に反対する労働者による工場の操業停止に直面しました。

新政府は機能不全に陥りました。そこでレーニンを首班とする閣僚会議(人民委員会会議)は政府内のサボタージュを鎮圧するための非常特別委(チェー・カー)を設置しました。

チェー・カーは1922年初頭に内務人民委員部に移管され、ゲー・ペー・ウーと改称されます。それまでにチェー・カーは絶大な権力を持っていました。

これは、ボリシェヴィキの指導と統治に反対する民衆の抵抗を暴力的に抑え込む必要があったからです。民衆の弾圧は階級闘争として正当化されました。

民衆運動は白軍や外国列強とは無関係でした。反革命の脅威が去った後に、大規模な農民蜂起が生じました。

1918年に穀物生産地帯で農民蜂起が頻発、「赤色テロル」による血の弾圧


1918年夏に穀物生産地帯を中心にして農民蜂起が多発し、それらはこととごく「赤色テロル」による血の弾圧で終わりました。

1918年8月初めにペンザ県で発生した農民蜂起に対し、レーニンは8月9日付電報で次を指示しました。

「クラーク、坊主、白軍兵士に容赦のない大量テロルを行使して、疑わしい者を強制収容所に収監すること」

翌10日の電報でレーニンは次のように指令しました。

「最大限のエネルギー、速やかさ、無慈悲によってクラーク反乱を鎮圧し、決起したクラークの全ての財産とすべての穀物を没収すること」

穀物の確保がレーニンの第一の課題でしたから、暴力的穀物徴発に抵抗した農民は皆「クラーク」のレッテルを貼られてしまったのです。

現代の共産主義者による「反共主義者」「反党分子」「反動勢力」「民族反逆者」というレッテル貼りと同じです。

現代に生きているレーニン―中国国家安全部と北朝鮮国家安全保衛部はレーニンの継承者


レーニンの手法を、金日成、金正日、金正恩そして宮本顕冶、不破哲三、志位和夫と在日本朝鮮人総連合会は継承しました。

ゲー・ペー・ウーを模範として中国の国家安全部や、北朝鮮の社会安全部そして国家安全保衛部が形成されていったのです。

学生時代に読んだマルクス主義経済学者の文献は、「レーニンは現代にも生きている」と述べていました。

中国や北朝鮮での過酷な人権抑圧は、中国共産党、朝鮮労働党がレーニンの教えを継承していることを物語っています。

日本共産党が中国と北朝鮮による過酷な人権抑圧について完全に沈黙しているのも、レーニンの教えを守っているからなのです。マルクス主義経済学者の指摘は正しかったようです。


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