日本共産党はあの戦争に反対し、自由と民主主義、平和のためにたたかった唯一の政党である、と日本共産党員の皆さんがよく宣伝しています。
例えば、斎藤まりこ都議のtwitterです。
この件、私はtwitterや本ブログで繰り返し指摘してきましたが、改めて論じておきます。
昔の日本共産党(国際共産党日本支部)は君主制の廃止、日本のソ連化を目指した
第一に、昔の日本共産党(国際共産党日本支部)が最も強く主張したのは君主制の廃止、日本のソ連化でした。
昔の日本共産党(国際共産党日本支部)はソ連から資金と拳銃を受取り、武装していました。
今の日本共産党も高く評価する32年テーゼ(ソ連共産党幹部のクーシネンが主に作成)には、プロレタリア赤衛軍創設、議会と権力機関の解散、帝国主義戦争を内乱に転化せよ、労働者農民兵士ソビエト樹立などが記されています。
内戦になれば、日本人同士が殺しあうのですから、平和は徹底的に破壊されます。戦争に反対したというより、戦争をやろうとしたのです。
プロレタリア赤衛軍とやらが結成され、内戦に勝利し、日本がソ連化すれば自由と民主主義、言論の自由や、結社の自由もなくなります。
武装集団の逮捕、投獄は当然です。
日本共産党員が庶民に内乱を起こそう、と訴えても、常識のある人なら相手にしない
昭和7年(1932年)頃は世界恐慌の時期ですから、庶民の暮らしは厳しかった。
内橋克人「ドキュメント恐慌」(現代教養文庫、p36)によれば、昭和5年は米が大豊作で米価が下落。昭和6年は冷害凶作で、東北を中心に娘の身売り激増。昭和7年、農漁村で欠食児童20万人。都市ではストライキが勃発したそうです。
しかしいくら庶民の暮らしが厳しいと言っても、プロレタリア赤衛軍を作って内乱を起こし、君主制を廃止しようなどという訴えにはいそうしましょう、と同意する人がどれだけいたでしょうか。
誰だって殺し合いは嫌ですよ。くるみわりさん(日本共産党員の方)だけではありません。くるみわりさんには32年テーゼを読んで頂きたいですね。
内乱は人が殺し殺される世の中、です。ソ連共産党はこれを各国、特に日本でやらせたかったのです。
多少の常識のある方なら、内乱を起こして君主制を廃止しようなどという宣伝に同調しないでしょう。
野呂栄太郎は32年テーゼに感銘していたらしいですが、内乱の実施方法について真剣に検討したのでしょうか。
いつの時代でも、内乱を起こそうなどという非常識な主張と宣伝をすれば、社会から浮き上がっていくだけです。
日本共産党幹部は日中戦争の頃、獄中にいたから反対運動などできない
第二に、あの戦争、あの戦時中、とはどの戦争の話なのでしょうか。昭和10年3月4日(1935年)に袴田里見さんが逮捕されて、日本共産党中央は壊滅しました(袴田里見「党と共に歩んで」新日本選書p251、昭和48年刊行)。
その後、昭和12年12月に関西で春日庄次郎さん、竹中恒三郎さん、安賀君子さんらにより日本共産主義団、という日本共産党の再建を目指す団体がつくられました。
大阪の共産党の中村正男さんによる、「時代をつないで」にこれが出ています。
時代をつないで大阪の日本共産党物語第12話 人民戦線運動/日本共産党大阪府委員会 (jcp-osaka.jp)
昭和13年9月頃にはこの方々は検挙されました。
春日庄次郎さんは、昭和3年(1928年)3月15日の共産主義者一斉検挙で逮捕されたのですが、満期で釈放されていたのですね。安賀君子さんは春日さんの奥さんです。
この方が、日本共産党第七、八回大会の頃に構造改革論、日本革命の平和的移行唯一論を唱えて除名になった方です。
私見では、革命とは漸次的な改革の積み重ねだという考え方になっている今の日本共産党の綱領は、構造改革派そのものです。
日本共産主義者団、に参加した方々は、日中戦争(昭和12年7月より。7月7日の盧溝橋事件が発端)に文書を多少配布するなどして反対したでしょうが、八か月程度しか活動していません。
過激な武装集団だった日本共産党は、日中戦争反対運動など殆どできなかったのです。監獄で幹部が戦争反対、と呟いても反対したことにはならないでしょう。
昔の日本共産党員が戦争断固反対、を第一の目標とするなら、君主制の廃止、帝国主義戦争の内乱への転化、日本のソ連化などを目標とすべきでなかったのです。
ソ連盲信者には、何を言っても無理でしょうけれど。
歴史にもしも、ですがソ連と無関係で戦争反対、だけを主張する団体なら、過酷な弾圧を受けることもなかったでしょう。逮捕されてもそう長く投獄されなかった。
真珠湾攻撃の頃は、日本共産党の国内での活動は皆無と考えられます。
野坂参三さんは中国で反戦運動を実行
日本共産党中央が壊滅した後ですが、世界共産党(コミンテルン)第七回大会(昭和10年7,8月)が統一戦線戦術を提起します。勿論これはソ連の指令です。
この方針転換に沿って野坂参三さんと山本懸蔵さんは「日本の共産主義者への手紙」を日本に届けました(昭和11年2月)。
野坂参三さんはこの後、ソ連の指令で中国に行って反戦活動をやりましたから、日中戦争に反対したといえるでしょう。
日本共産党員の皆さんが想定する、あの戦争に反対して自由と民主主義、平和のために戦ったとは野坂参三さん、春日庄次郎さんのことなのでしょうか。
あの戦争、が日中戦争や太平洋戦争を意味しているならそんな話になります。
野坂参三さん、春日庄次郎さんは除名されました。今の日本共産党としては、このお二人がやったことを再評価したら厄介ですから、可能な限り内緒にしていると考えられます。
労農党が対支非干渉運動を主導した
労農党(労働農民党。大山郁夫委員長)が主導した対支非干渉運動(昭和2,3年頃。1927~28年)は反戦運動ですが、日中戦争より約10年前です。
中村政則「昭和の恐慌」(昭和の歴史2。小学館ライブラリー)によれば昭和3年2月20日(1928年)の普通選挙に日本共産党は党員を労農党から立候補させています。
労農党からの40名の立候補者のうち、共産党員は徳田球一、山本懸蔵、南喜一ら11人が含まれていました。
日本共産党も対支非干渉運動に賛成して、多少の反戦運動をしています。阪口喜一郎の「聳ゆるマスト」配布は対支非干渉運動のもう少し後ですね。
時代をつないで大阪の日本共産党物語 第7話 侵略戦争反対のたたかい/日本共産党大阪府委員会 (jcp-osaka.jp)
日中戦争より前の、対支非干渉運動に関連する反戦運動を根拠にあの戦争に反対した、と主張するなら、これを主導した労農党や、労農党に入って反戦運動に参加した徳田球一さんらを高く評価すべきですね。
昔の日本共産党(国際共産党日本支部)がいかなる反戦運動もしていない、とまでは主張しませんが、大正から昭和初期にかけての反戦運動の主な担い手は労農党だったと考えます。
0 件のコメント:
コメントを投稿