キリスト教の悪魔への接近は、かれらが奇蹟と神秘とを「事実」として設定し、そのうえに教権をきずいていったときにはじまった(同書p107)-
吉本隆明の文章は、私には難解です。時折、論理が飛躍しているような気もします。しかし、上の文章は面白い。
朝鮮労働党と金正日が金日成神話を用いて強大な独裁的権力を築きましたが、同じ手法ですから。
中世のキリスト教会、教皇の強大な権力は奇蹟と神秘を「事実」として認定し信者たちにそれを普及したことにより形成されたのでしょう。
マチウ書(福音書マタイ伝)は「人類最大のひょうせつ書」なのか
しかし、吉本のこの本には論証、実証を省略し想像力を膨らませて、読者に衝撃を与えるように記述している部分も少なくないのでは、と感じます。
「マチウ書試論」は、福音書マタイ伝をフランス語流にマチウ書と記述しています。
ジェジユとはジーザス、ジャンはジョン(John、ヨハネ)、ポオルはパウロです。吉本はこの評論の冒頭で、メシヤ・ジュジェはマチウ書の作者がヘブライ聖書の中の沢山の予約からつくりあげた人物であると主張しています。
吉本によれば、ポオルはメシヤ・ジェジュを実在の人物と考えていませんでした。マチウ書は「人類最大のひょうせつ書」です。
「マチウ書の作者が意識的にかんがえていたことは、ヘブライ聖書にあらわれている後期ユダヤ教のメシヤ観を、ひとりの人物の意味のなかに集成して、それによってユダヤ教の母屋に原始キリスト教をすえると言うことだった」と吉本は語ります(p62-63)。
これは史上最大の詐術であり、詐術を支えたのはユダヤ教にたいする敵意と憎悪感です。原始キリスト教の教義は、ヘブライ聖書と、ユダヤ教典からのひょうせつです(p63)。
ジェジユがマチウ書による想像の人物ですから、その十二人の弟子も架空の人物です(p119)。当然、ジェジュを裏切ったジュド(ユダ)も架空の人物です。
しかし、イエス・キリストやその弟子達がマタイ伝作者による空想上の人物だったのなら、原始キリスト教は誰によりどうやって布教されていったのでしょうか。
マタイ伝作者の語る「空想」を命がけで広めていく人々が、その当時相当数いたから原始キリスト教はローマ帝国内にも広まっていったのです。
「空想」というより何らかのモデルとなる人物が実在し、それが口頭で伝承されていたと考える方が自然ではないでしょうか。
私にはイエス・キリストによる奇蹟物語を信じることは難しいのですが、全てが空想とも思えない。
「無名の思想家の記録から、ジェジユはつくりあげられた」
「ひょうせつ書」という評論冒頭のやや衝撃的な表現は、読者をひきつけるための手法かもしれません。吉本も実際には、ジェジユのモデルとなる人物がいたと考えていたのでしょう。
「ジェジユはひとりの無名の思想家だったのではなく、無名の思想家の記録から、ジェジユはつくりあげられたのである」(p88)。
「ジェジユはマチウ書の作者の史観が凝集してつくりあげた象徴的人物に外ならないと言える」(p57)
p57の文章だけを読むと、ジェジユが史実と無縁の存在と吉本が主張しているように思い込んでしまいますが、そうではない。
ジュジエの根拠となる「無名に思想家」がいたということですから。
ユダヤ教の刷新を主張する無名の思想家の中には、弟子に裏切られて当時の官憲にとらえられた人物がいたでしょう。ゴルゴダの丘で十字架にかけられた人物もいたに相違ない。
無名の思想家や弟子の名前は大した問題ではない。ひょうせつ、架空という表現が大袈裟なのです。
「関係の絶対性」と秩序にたいする反逆
この評論の最後に提起されている「関係の絶対性」という概念は、秩序にたいする反逆、それへの加担を倫理に結び付けるという考え方のようです。
吉本によれば、原始キリスト教はそれがどのような発想であれ、ユダヤ教派をたおせばよかった(p139)。
マチウ書作者は、律法学者やパリサイ派へ激しい憎悪心を抱いていたという指摘は面白い。
しかし「関係の絶対性」という考え方は、秩序により形成されている現存権力を破壊することが、「人間の存在における矛盾を断ちきる」という結論を導きかねない。
何者かが心中の憎悪から破壊行為を「生存における矛盾を断ちきる」と正当化し、暴力組織を形成したとき、「悪魔への接近」がはじまるのかもしれません。
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