ゲオルギー・ディミトロフ(1882-1949。ブルガリア人)とは、コミンテルン(国際共産党)の書記長を務めた人物です。
国際共産党書記長だったのですから、世界中の共産党を指導していた人物と思われがちですが、実態は大きく異なっていました。
当たり前のことですがディミトロフを指導したのは、スターリンとソ連共産党です。
ヒトラーとナチスに勝るとも劣らぬ全体主義者、スターリンにディミトロフら国際共産党は隷属していました。
これは、当時国際共産党で活動していた人の手記などからすぐにわかります。
アイノ・クーシネン著「革命の堕天使たち」(平成四年平凡社刊行)によれば、コミンテルンの資金は全てソ連政府から来ていました(同書p93)。
ソ連共産党が国際共産党(コミンテルン)に資金と活動拠点、住居を提供していたのです。ソ連共産党に逆らえば強制収容所行です。
著者のアイノ・クーシネンの夫、オットー・クーシネンは1921年7月の第三回コミンテルン大会で承認されるべき組織方針の草案を作った人物です。
今の日本共産党も高く評価する、32年テーゼを作ったのはオットー・クーシネンです。
オットー・クーシネンはコミンテルンの影の指導者だった
この本によれば、書類上ではコミンテルンのメンバーたる各国共産党が正式代表を送り続けたモスクワでの大会が、コミンテルンの最高権威ということになっていました。
しかしコミンテルンが存続した24年間(1919-1943)に大会は七回しか開かれていません。
その間の指導は執行委員会に委ねられていましたが、これの本会議も十七回しか開かれていません。
執行委員会は参加しているすべての党の代表の中から大会で選ばれた約三十人の委員から構成されていました。
野坂参三さんは日本の代表でした。
コミンテルンの日常活動は執行委員会の政治書記局によって指導されていました。
その政治書記局の中に、内務委員会として知られる三名から成る組織がありました。
オットー・クーシネンはその一人で、組織の指導方針と、資本主義国の政治的・経済的発展の観察を担当していました。
組織の指導方針を担当していたのですから、オットー・クーシネンはコミンテルンの影の指導者と言えます。
ディミトロフの演説や論文の多くは、クーシネン作だった
ディミトロフはコミンテルンの執行委員会議長でしたが、名目上の指導者でした。
ディミトロフの演説や論文の多くは、オットー・クーシネンが書いたものだそうです。
ディミトロフは1935年にコミンテルン書記長になりましたが、重要な決定は皆、ソ連共産党の指導者たちによりなされていました。
ディミトロフのファシズムの定義、「金融資本の最も反動的、最も排外主義的、最も帝国主義的な分子の公然たるテロ独裁」は、左翼人士の間で良く知られています。
ディミトロフの著作The United Front, The Struggle Against Fascism and Warにはファシズムについて次の記述があります。
The open terrorist dictatorship of the most reactionary, most chauvinistic and most imperialist elements of finance capital
この部分が上記のように日本語になっているのでしょうね。
日本共産党員や左翼人士は、ディミトロフの反ファシズム統一戦線を作ろう、との呼びかけに共鳴した各国の共産主義者が社会民主主義者と協力してファシズムと戦ったと信じています。
上記の定義は、クーシネンの作った定義をディミトロフの名前で出しただけです。
銀行や証券会社が戦争を起こすというのかー左翼人士に問う
金融資本が戦争やテロ独裁を起こす根源であるという、レーニンの帝国主義論以来の見地がこの定義に貫かれています。
クーシネンの作文、定義を、今の日本共産党員や左翼人士は偉大な共産主義者ディミトロフによるファシズム定義と信じている。
日本共産党員や左翼人士には、安倍前総理が金融資本の委託を受けた帝国主義的な分子、のように見えているのです。
自民党幹部は皆、金融資本の反動的、排外主義的、帝国主義的分子という調子です。
この定義だと、日本政府は集団的自衛権を行使できる法を銀行や証券会社あるいはトヨタの要求で成立させたことになってしまいます。
銀行や証券会社、あるいはトヨタなどの大企業が金融資本、でしょうから。
ディミトロフが野坂参三さんを赤軍情報部門の工作者に推薦した
なお、不破哲三「北京の五日間」(新日本出版社、p102-103)によれば、ディミトロフはコミンテルン解散後国際情報部長としてソ連共産党の組織に組み込まれ、ソ連のために秘密工作者を選定する仕事をしました。
不破さんによれば野坂参三さんがソ連の赤軍情報部門につながる工作者となったのはディミトロフが人選してスターリンに推薦した結果です。
当時の共産党員がコミンテルン書記長の要請を受け入れるのは当然です。
野坂参三さんが赤軍情報部門の秘密工作者となることは、この時期のコミンテルンの規約とその精神に反していない。
スターリンの指導に従った野坂参三さんは、立派な共産主義者でした。
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