2014年6月27日金曜日

匈奴に投降した武将李陵を武帝の前で擁護した男、司馬遷の心中を考える―中島敦「李陵」(新潮文庫)より―

その時、この男はハッキリと李陵を褒め上げた。(「李陵」新潮文庫p91より)-


自分に不利になることがわかっていても、正論を断固主張する人は尊敬されるべきでしょう。

凡人は生きていくために自分の保身をはからねばなりません。あるべき自分と、現実の自分の違いに気づいていながらも妥協を重ねて生きていくことも多いものです。

誰しも、心中に世界はどうなっているのか、その世界の中で自分はどんな役割を果たすべきなのか、その役割を果たしてきたことにより自分の今があり、今後どうなるだろうという「物語」を抱いているのではないでしょうか。

歴史上の人物が抱いていた心中の「物語」を想像することが史実を描く―司馬遷の「史記」-


現代人ならばそれぞれが心中に抱いている「物語」を少しずつBlogやTwitter、Facebookに書き込んで、他人と交流できます。

書き残す術を持っていなかった私たちの祖先、歴史上の人物も心中にそれぞれの「物語」を抱いていたはずです。

司馬遷の「史記」には事実の記録という面もありますが、登場人物はそれぞれの「物語」を抱き、夢の実現のために努力します。

登場人物は司馬遷が「史記」を書いたころにはすでに歴史上の人物となっていました。司馬遷にとっては「事実の記録」とは誰が誰と争ったなどという記録だけではなかったのでしょう。

歴史上の人物が心中に抱いていたであろう「物語」も、事実の一部だったのでしょう。そんな司馬遷や、同時代の漢の武将李陵が心中に抱いていたであろう「物語」を中島敦は描き出しました。

武将李陵に与えられた兵は少なく、矢の補給もできなかった


当時漢帝国は北方の遊牧民族匈奴と長年抗争を繰り広げていました。

漢の武将李陵は、「臣願わくは少を以て衆を撃たん」と武帝に進言し、自分に忠誠を誓う五千の兵とともに匈奴討伐に出ました。

当初は李陵の作戦が功を制し、匈奴との戦いを有利に進めましたが本拠地から遠く離れての戦いですから、最大の武器である矢の補給ができません。

李陵は匈奴に生け捕りにされてしまいます。李陵は当面は敵に従っておいて、そのうちに機を見て脱走する道を選択しました。
しかし漢の朝廷には李陵が投降し、匈奴に軍略を授けていると伝わってしまいます。

宮刑の辱めをこうむった司馬遷、胡地で生涯を終えた李陵


李陵の投降が漢の武帝と重臣たちに伝わったとき、重臣たちは口を極めて李陵の売国的行為を罵りました。

重臣たちは陵の如き変節漢と肩を比べて朝に仕えていたことを思うと今更ながらはずかしいと言い出しました(「李陵」p91)。司馬遷は浅はかな重臣たちに憤りました。

司馬遷は下位の身ながら下問を受けた時、ハッキリと李陵を褒め上げます。これにより司馬遷は「宮刑」(古代中国の五刑の一つで、生殖器を切除し去勢される)にされてしまいます。

生殖器を切除された司馬遷の苦しむ様子を描いた文章を引用します。

「茫然とした虚脱の状態で坐っていたかと思うと、突然飛上り、傷ついた獣の如くうめきながら暗く暖かい室の中を歩き廻る。そうした仕草を無意識に繰り返しつつ、彼の考えもまた、何時も同じ所をぐるぐる廻ってばかりいて帰結するところを知らないのである。」(同書p102)。

「独り居室にいる時でも、夜、床上に横になった時でも、不図この屈辱の思いが萌してくると、忽ちカーッと、焼鏝をあてられるような熱い疼くものが全身を駆けめぐる。

彼は思わず飛上り、奇声を発し、呻きつつ四辺を歩きまわり、さて暫くしてから歯をくいしばって己を落ちつけようと努めるのである。」(同書p104-105)。

中島敦による司馬遷のこの描写そのものが事実だったかどうかは確かめようもありませんが、宮刑後の司馬遷の心中をよく描いているように思えます。

歴史上の人物の心中そして心の「物語」は、文献や史実から想像力をめぐらせて考えていくしかないのです。
心中の「物語」を検証することは極めて困難ですが、検証できないからといってその探求を拒否するようでは、人間の心中が見えなくなってしまい、浅薄な人間把握しかできない。

司馬遷は「史記」という大著を後世に残すことができましたが、過酷な運命に翻弄された李陵は胡地で生涯を終えました。

李陵の心中では無念の思いが尽きなかったかもしれません。人は、大きな運命には逆らえない存在なのでしょう。

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